その日私は、ものすごく疲れていた。
肉体的疲労に嫌なことが重なり、もうぐったりして吐き気がしそう。が、一刻も早く家に帰って原稿を書かなくてはならない。
が、どうしてこのままで家に帰れるだろうか。私はタクシーの運転手さんに言った。
「駅前のクエストビルで停めてください」
ここは私がよく行く「ザ・ギンザ」があるところなのだ。何しろ家から歩いて五分という距離にあるため、明日の対談に着ていく服が欲しい時などは、ピューッと走って買いに行くぐらい。
ここは私の大好きなブランドがいっぱい置いてある。プラダ、ダナ・キャラン、アナ・スイ、マックス・マーラがずらりだ。私はざっとひととおり見る。そしてプラダのコーナーで、とても可愛いジャケットを見つけた。
プラダというのは、
「いったい誰がこんなものを買うんだ。中学生か!」
と怒鳴りたいほどサイズが小さく細い。が、そのフラノのジャケットときたら、私のためにあると思うぐらいぴったりじゃないの。これにピンクのシルクのブラウスと合わせたら、今年注目のスクール・ガール風よ。
さっそくカードで払い、紙袋を持って店を出た。すると、どうしたことであろうか、さっきの吐き気も頭痛もすっかり消えているではないか。
「買い物こそ私の元気の素、買い物こそ私のドリンク剤」
つくづく思った。もう買ってはいけない、ものの置き場所がない、服やバッグなら充分にあるじゃないかと理性は叫んでいても、体って正直なもんすね。まるで水を与えた花のように、いきいきとしてくるのね。
私は我と我が身がつくづくいとおしくなった。
私は買い物が大好き。欲しいものを手に入れるためにお金を使う、そしてまたうんと働かなくてはならないという繰り返しである。こんなに買い物をしなければ、もっとましなマンションに住めることであろう。が、私はやっぱり買い物が好きなのさ。はっきり言ってブランドにも目がない。
私が嫌いなのは、徹底的にブランド品を嫌悪する女である。ブランド品が好きな女・イコール・見栄《みえ》っぱり、アホ、センスがないという考え方である。
私もそりゃあ、キンキラキンのイタリアものとか、悪ふざけとしか思えないような頭文字入りのパンツ、デザイナーのサインを見せびらかしているベルトや傘なんかは大嫌いである。が、プラダのバッグの可愛らしさや、ジル・スチュアートのワンピースの素敵《すてき》さには文句のつけようがないではないか。
ブランド品にもいいブランド品と悪いブランド品とがある。私のいいブランド品の基準の第一に挙がるのは、マークが小さいことだ。目立つマークほど下品なものはない。さりげなく小さく主張しているものを私は選ぶ。
そして次は、矛盾するようであるが、マークこそ小さいものの、そのブランドとわかる特徴を持っていることね。
いちいち、
「これさ、どうってことなく見えるけどドルガバなのよ、ドルガバ、ドルガバ」
と言わなくてはならないのは、こちらの方もつらい。その点エルメスのケリーバッグなどはまことに理想的である。
昨年のことだ。私はプラダのショップで、ずっと長いこと考え込んだ。白いバッグを買おうか買うまいか、私にしては珍しく本当に真剣に悩んだのだ。そのバッグは透きとおる白い生地に、革でつくった同色の造花がついている。それはそれはかわゆい。が、値段がかわゆくない。七万円もするのだ。が、私は思い切って買いました。この値段のことは、他人《ひと》に自慢するにはあまりにも嫌味《いやみ》。それで夫の前で見せびらかした。
「ね、ね、これ見てよ。プラダの新作で七万円もしたのよ」
「けっ」
夫は言った。
「そんなもん、竹下通りで三千円ぐらいで売ってるのと、どこが違うっていうんだよ」
私は悲しかった。ブランド品というのは人にけなされると魔力が半減するのだ。
私は今度はそのバッグを、おしゃれな友人に見せ、夫の暴言を訴えた。
「ひどいわねえ、この造花の手の込んでること……。こんなの竹下通りで売ってるはずないわよねえ」
そうでしょう、そうでしょうと私はすっかり嬉《うれ》しくなったのであるが、最後に彼女はこう言う。
「でも七万円はひどいんじゃないかしらね」
私はそのバッグのことがあまり好きじゃなくなって、今年は一度もとり出さなかった。
ブランド品というのは男に似ている。ハンサムでエリートでと、皆が羨《うらや》ましがる条件を持っていればやっぱり嬉しい。けれども、彼の本当のよさがわかるのは自分だけ。彼と釣り合うのも私だけ。私は彼にふさわしい女なのよという自惚《うぬぼ》れが、彼に対しての愛情をますます深くする。
ところがある日、女友だちにけなされるとすっごく気持ちがさめていく。
「そんな価値ないわよ。なんでそこまで尽くさなきゃならないの」
と言われるとだんだんそんな気になっていく。でも、他人にこんなに左右される私って何なのさ。