西麻布に、突然巨大なレストランが出現した。このあいだまで駐車場だったところに、SF的な速さで八百五十席のチャイニーズレストランが出来たのである。
さっそくテツオと出かけることにした。中に入る。とにかく広い。体育館のような店内である。お昼のこととて、ギョーザや炒《いた》め物をのっけた飲茶《ヤムチヤ》のワゴンが行ったり来たりしている。ニューヨークのチャイナタウンに、これとそっくりのところがあるのを思い出した。
私たちは店の隅のテーブルに座ったのであるが、ここはワゴンの通行量がいちばん少ないところである。
「すいませーん、こっちお願いしまーす」
結構大きな声を上げて呼び止めなければならない。そして大根モチを頼もうかどうか考えながら、ワゴンの行方を見つめていた時だ。そこへ篠山紀信さんが、ロケの帰りらしくスタッフを連れて入っていらした。私はご挨拶《あいさつ》する。
篠山さんはサングラスをかけていて、とてもカッコよかった。芸能人とはまた違う目立ち方である。
そして私はわかった。
「そうか、サングラスというのは必然性ということが何よりも大切なんだ」
私は毎年夏になると、サングラスをひとつかふたつ買う。一度もしないことの方が多い。それでサングラスはたまるのみである。うちにはサングラスがごろごろしている。
それでは昨年のものでいいかというと、やはり流行は微妙に違う。水着と同じで、古いものだとなんだか悲しい。サングラスや水着を買うということは、夏を買うのと同じことだものね。
私はサングラスが好きであるが、似合うものを選ぶのに苦労する。顔の幅が広いためにジョン・レノン型だと全く駄目だ。
「そんなことないよ。ちょっとボクのをやってみなよ」
はずしてかけさせてくれた男の人がいた。かけてみる。目がはみ出す。あの時はその場にいた人たちも、一瞬シーンと黙り込んでしまった。
が、私はそれでもけなげに、毎年新しい型のグラスに挑戦するのである。今年はもちろん中田がやっているのと同じカラーグラスである。いきつけのショップで、黄色いグラスを見つけた。かけてみる。どう見ても似合うとは思えない。
「そんなことないですよ。ハヤシさんはいろんなタイプをひととおり持っているんだから、今年はやっぱり中田グラスじゃなきゃ」
と店員さんが言うので買ってしまった。うちに帰ってかけてみる。秘書のハタケヤマがはっきりとした口調で、
「やめた方がいいと思います」
と言った。やっぱりやめておくか。
さて、私は街を歩いていて、サングラスがサマになる人が本当に少ないなあとつくづく思う。ひと頃に比べれば、ケタ違いによくなったけれども、それでもお手本にしたいなあ、と思うような人はほとんどいない。
私はサングラスが似合うには、ある程度の背丈がなければならないと思っている。それと顔の迫力であろうか。もちろん服のセンスがよくなければ、サングラスが浮いて見える。それよりも何よりも、サングラスをする時に照れは禁物だ。私などはいつはずそうか、などとびくびくしているので、ますます似合わなくなっているのである。
サングラスをかける時に重要なことは、さりげなさということである。篠山さんの着こなしのように、「たまたまかけていた」という姿勢を持つことだ。陽射しが強いんだもん、素顔を見せたくないんだもん、人に顔をさらしたくないんだもん……等、考えていくとやはり芸能人にサングラスはよく似合う。演歌を歌っているオバさん歌手だって、芸能人はサングラスのかけ方がうまい。なぜなら必然性に満ち満ちているからである。
芸能人とサングラスというのは面白い関係で、あれで顔を隠せるものではない。それどころか目印になることだってある。空港でちょっと目立ってサングラスをかけている人がいたら、芸能人と思ってもよいであろう。が、サングラスをかけることによって、彼らは一般人と自分とを遮断しようともする。
「わずらわしいから近づかないでちょうだいね」
という暗黙の了解が出来る。もっとも私なんか近づいてじろじろ見たりするけれどもね。芸能人の自己顕示欲とプライド、おしゃれ心がミックスされたのがサングラスだ。似合うわけである。
最近私が見ていていちばんサマになっていた人は、中田クンを別にすると、離婚直後にマスコミ陣の前に姿を現した、ヒロミ・ゴーである。髪の毛なんかわざとらしくかき上げて、ナルシスト丸見え。ストライプのスーツとサングラスはお約束みたいにいい取り合わせであるが、それにしてもよく似合っていた。そう、サングラスをかけている時は決してニコニコしてはいけない。いくらか不機嫌そうに唇を閉じていることが大切だ。おーし、中田グラス、絶対に根性でモノにしてみせよう。