長いことケイタイを嫌悪していた私である。私の住んでいる原宿では、三メートルごとにみんなケイタイを耳にあてている。交差点で信号待ちすれば、最低五人はケイタイで話している。
「ふん、たいした用事もないくせに」
レストランへ入ってもピーピー、映画館でもピーピー、私はその都度使用者を睨《にら》みつけたものである。
が、ひょんなことからケイタイを持つ身となった。読者プレゼントで何個か余ったからといって、編集者の人がくれたのである。
「悪いから使おうかナー」
とオットに言ったら、
「いまケイタイは百円とか五十円で売られてるんだぞ。タダでバラまいているところもあるんだから、そんなに義理に感じることはない」
ということであった。
結局こちらからかける時だけ使い、後は電源を切るようにした。が、これがものすごく便利なのである。タクシーの中でもゆっくりお喋《しやべ》り出来る。公衆電話のないところでも安心だ。特に初めての待ち合わせの場所へ行く時なんて最高。歩きながら店の人に指示してもらうことも出来るのである。
が、そのうちにやっぱりかけるだけじゃ飽き足りなくなってきた私。人の話によると、
「ケイタイは不倫の一里塚」
というんだそうだ。夫や妻がケイタイを持ったら、まず怪しんだ方がいいという。
私にはほんのりと甘やかな気持ちを持つ男性が何人かいるのであるが、誰とも進展しない。私の魅力が足らないということもあるであろうが、秘書の存在も大きいと思う。電話はすべて秘書に取り次がれる結果、私の異性関係は彼女の把握するところとなる。
誰かと食事の約束をしても、彼女は手帳に、誰と会っていて何時に終るか、などをはっきりと明記する。
「○○さんは、この頃電話ないですね」
「この食事は、××さんですね」
などといろいろ言われると、なんかイヤな感じ。
もちろんプライベートの電話もあるにはあるのであるが、これは夫が受話器をとることがある。とられてもいい相手ばかりであるが、それでもたび重なるとみんな遠慮してしまうようだ。
が、見よ。私のバッグの中のケイタイ。これは未来の恋人と私とをつなぐホットラインではないか。かけるばかりというのは、いかにも惜しい。
さて、このあいだの誕生日のこと、私はグッチのメモ帳をもらった。黒革で小さくてすごくおしゃれなの。気に入った男性が現れたら、このメモに私のケイタイの番号を書いて渡すことにしよーっと。
当然のことながら、仕事関係、編集者の人たちなんかには絶対に教えないつもり。テツオも例外ではない。
純粋におつき合いしている人にだけ、ケイタイの番号を教えよう。
「あのね、私、やっとケイタイを持ったの」
いろんな人に言った。
「へぇー、そうなの」
とみんな、それがどうした、という感じなのが悲しかった。
が、中には、
「じゃ、教えてよ」
という人もいて、私はさっそくグッチのメモ用紙に書いてあげた。ところが何ということであろう。あれから十日もたつのに、私のケイタイは、ピーともチーとも鳴らないのである。
今の時代、ケイタイの鳴り具合は人気のバロメーターである。
私はつらく暗い過去をふと思い出す。大学生の時に、友人のアパートで遊んでいた。金曜日のこととて、彼女の電話は鳴りっぱなしなのである。それも私が憧《あこが》れていたサッカー部の先輩とか、同じクラスのハンサムな男の子とか、次々にかかってくる。
彼女が美人というのなら、まだ我慢出来る。が、彼女は全然どうっていうことのない野暮《やぼ》ったいコじゃないか。頭にきた記憶がある。
あれから歳月が流れ、私は思う。
この世には、電話をかけやすい女のコというのが、確かに存在しているのだ。それはどういう女のコかというと、こちらが電話をかけても決して負担にならないコである。過大にものごとをとらない、先まわりして人の心を考えない女のコといってもよい。昔の私のように、たまに電話がかかってくると、
「私に気があるのね。私とデイトしたいんだわ」
とすぐに上ずった声が出たり、警戒心から声が固くなる、というのは論外である。
親戚《しんせき》のOLのコが、よくうちに遊びに来る。彼女のケイタイもものすごい確率で鳴り響く。
「何よ、それ、カレシ?」
「違うよー、みんな友だちだよー」
とあくまでもさりげなく、自然に話をしている。そうね、ケイタイを持つだけで身構えている私のところへは、みんな電話しづらいはずだよねー。が、見ているがよい。いつか週末には、秋のコオロギのように、私のケイタイ、鳴りっぱなしにしてみせよう。
不倫の必需品なんて悪ふざけ言わないから、みんな気軽にかけてね。そう、気軽にね。