ボディは語る
暑い日はだらだら横になり、冷たーいペリエを片手に雑誌を読むのがいちばんだ。私はこういう時は、本を読まない。本を読むのは夜にする。なぜなら本は面白《おもしろ》いとあっという間に二、三時間たってしまうからだ。
そこへいくと雑誌は、どんなに長くても一時間あると読めるから、時間の切り替えも出来る。私がベッドに横になると必ず寄ってくる猫たちを片足で追っぱらい、時にはナデナデしながら雑誌をめくっていく。
某女性誌(注・「アンアン」ではない)を読んでいたら、
「タレントの私服拝見」
というのがあった。お買い物姿でも盗写したのかと思ったら、新番組の製作発表であった。ふんと私は思う。製作発表の時のものが、どうして私服なんだろう。スタイリストがついてるなんて常識じゃん。人気のあるタレントさんが出る新番組となると、それこそ二、三十社マスコミが来て、頭のてっぺんから爪先《つまさき》までパシャパシャ撮る。今の季節だったら、どういうサンダルを履いて、どういうペディキュアをしてるかまでちゃんとアップで撮っていく。だからタレントさんもスタイリストも張り切って、最新のおしゃれをするわけだ。
誰が買っていくんだろうと思っていたプラダやドルガバの三、四十万するドレスを見るのも、この時である。すごく楽しみ。そして私はあることに気づいた。
旬の女優さんとかタレントさんというのは、何を着ていても似合うしサマになっている。雛形あきこちゃんがロングワンピースを着ていればそれはそれでカッコいいし、高島礼子さんがオーソドックスなパンツスーツでもそれはそれできまっているのである。観月ありさちゃんにいたっては、カジュアルなパンツルックであったが、あの脚の長さが強調されていかにも�いま�といった感じ。
そこへいくと少々トウがたったといおうか、盛りを過ぎた女優さんというのは、ちょっとズレているぞ。扱いもぐっと小さくなって女性週刊誌のグラビアに出てたりするのだが、精彩にぐっと欠ける。
女らしさを強調しようとロングドレスを着ても、バランスに欠ける。二の腕を隠そうとしてかストールを羽織ったりするのも、ちょっとオバさんくさい。
そうかと思うと最新のファッションに身を固めている人もいるのであるが、そういうものを着こなすオーラが、もはや薄くなっているのだ。
私はつくづくある編集者の言葉を思い出す。おしゃれなタレントさんランキングで、いつも上位にいるコに私がケチをつけたことがある。
「このコ、いつのまにかおしゃれのリーダーになっちゃったけど、私に言わせればただ借りてきた服を着てるだけじゃん」
「そう言うけど、パワーと才能がなければ、お洋服は着こなせないのよ」
とその編集者は言った。
「彼女はプロポーションがとにかくいいけど、服を着こなすことにかけては天才よ。どんな過激なものも、ブランドものも、すぐに自分のものにする。それでモデルっぽくならない」
当時はそういうもんかと思ったもんであるが、この頃、素直にそういう天才に敬意を表することが出来るようになった。
さて十年ぐらい前、一世を風靡《ふうび》した女優さんがいた。若い女のコは、みんな彼女のファッションを真似したものである。ところがある日、表参道で彼女を見かけた私は、本当に驚いたものだ。
「○○××子がいる」
と何人かが騒いでいるので、私もそれとなく近寄ってみたところ、なんかすごくビンボーったらしい格好をしてるじゃないか。ぺったんこ靴にでれっとしたスカート、Tシャツ。どうひいき目に見ても、その頃|流行《はや》り始めた「自然体」とか「ナチュラル」という感じでもなかった。
この後、彼女のインタビュー記事を読んでいたら、こんな発言があった。
「私は三千円以上のものは買わない。衣服にお金を使うのは、私のポリシーに反するから」
ひぇー、稼いでいる女優のくせにと私はのけぞったが、当時彼女は人気絶頂であったため、こういう発言もとても好意的に見られたようだ。
あれから歳月が流れ、彼女は昔ほどじゃないけれども、それなりの立場を保っている。そして久しぶりに主演のドラマ製作発表のグラビアで彼女を見た。かなり大胆なドレスに、髪も凝っていた。けれども服がカッコよくない。着ている彼女もカッコよくない。
「ずうっとケチをしていた報いが、体に出ちゃったんだ」
と私は思った。貧しいOLならともかく、高額なギャラ貰《もら》ってて、三千円以上のものは買わないという奇矯さが、全身からにじみ出ていた。
女のボディは歴史である。最初からおしゃれな人なんていない。失敗しながら気を使い、頭も使い、お金だってもちろん使って、服を自分のものにしていく気概がなけりゃ。私たちに夢を与えてくれる芸能人ならば、年がら年中借り物ばっかりじゃなく、本当の私服でも素敵なとこ見せてほしい。お願いしますよ。グラビア見るの好きなミーハー女より。