若い友人のマミコちゃんと一緒に歌舞伎を見に行った。
歌舞伎座に行くのは、久しぶりである。ちなみにテツオの勤めているマガジンハウスは、歌舞伎座の裏にある。もし上京の折にはどうぞ編集部を訪ねてください、というのはもちろんウソであるが、この会社の一階には誰でも行ける。オープンスペースになっていて、世界の雑誌が手にとって見られるのだ。
もしインテリアの雑誌なんかめくっていて、やたら濃い顔の、イタリアン風の男がエレベーターから降りてきたらそれがテツオです。
ところで歌舞伎座の前は、なぜかテレビのクルーが来ていてあたりを撮っていた。なんかワイドショーに使うみたい。
「そうか、八十助さんを見に来た近藤サトさんを撮ってんだ!」
と大きな声で言ったら、本当にきょろきょろするオバさんがいて面白かった。
いよいよ八十助さんと近藤サトさんが結婚するらしい。私はちょっとがっかりしている。私は八十助さんのファンだったし、実は梨園の妻というのにも憧《あこが》れていた。
梨園の妻というのは、とても楽しそう。もちろんいろんな苦労があるだろうけれども、こうして夫が舞台に立っている時は、着物を着てお客様をお迎えする。
ちょうど私がいる時も、ピンクの着物姿の三田寛子さんがお子さんを抱いて劇場を出てくるところであった。いいな、いいな、あんなこと一度してみたいな。私は着物をいっぱい持っているし、人に気を使ったりするのも大好き。
人間、というより女というのは、今までとまるで違った生活を結婚によって得たいという願望を持っている。結婚がきっかけとなり、百八十度変わってしまうような生活。夫が海外勤務なんていうのは、もう珍しくもないけれど、やっぱり梨園というのは心ひかれる。
近藤サトさんが羨《うらや》ましい。略奪愛とかいって週刊誌が騒いでいるが、そんなものは負けいくさしかしてこなかった男女が言うものだ。
略奪愛、すごいではないか。私のまわりでも不倫している女がいっぱいいるが、彼が奥さんと別れてくれないとみんなピイピイ文句を言っている。男性を奥さんと別れさせることは簡単だけれども、子どもと別れさせようとするのは至難の業だ。
「女房とは別れられるが、子どもとは別れられない」
よく男の人はこう言うらしいが、あたり前じゃないか。女房は他人であるが、子どもは自分の分身だもの。それを乗り越えて男に決心させるというのが、どんなに凄《すご》いことか。
略奪愛こそ究極の勝利である。略奪愛に成功した女性というのは、勲章をもらってキラキラ輝いている。
近藤サトさんのカッコよさに比べ、畑恵さんはちょっとみっともない。マスコミからもさんざん叩《たた》かれるし、なんか顔つきまで嫌な感じになってきた。
私は断言していいのであるが、畑さんの失敗は勝利宣言をあまりにも早くしたことではないだろうか。略奪愛は深く静かに潜行し、ちゃんと籍を入れるまでは極秘を守るのが鉄則である。そこが若い単純な恋愛と違うところだ。なにしろ奥さんという、非常にデリケートな存在が控えているのである。ところが畑さんの場合、
「もうじき入籍いたします」
などという手紙を関係者に送りつけたのだ。あれはかなりまずい作戦であった。もっとうまくやらなきゃね。
さてこれも二回めの断言であるが、皆さんも、もうちょっと年をとるとある大きな事実に気がつくことであろう。それは世の中にそんなにたくさんいい男はいない、そしていい男はほとんど他人《ひと》さまのものになっているという現実である。
十年前、二十年前ぐらいまで、まだ男女の市場は需要と供給のバランスをうまく保っていたのであるが、ここんとこ急に崩れてしまった。今、いい男はたいてい既婚者である。それで不倫という恋愛のシステムがはびこってくるわけであるが、そうなると後から出てきた若い女のコは損するばかりである。
君のことを愛しているとか言っても、結局は奥さんのところへ帰っていくというパターンが続くわけだ。が、中には雄々しく立ち上がり、勝利をつかむ女がいる。が、これはめったに出来ることではない。女性の方がものすごい魅力とエネルギーを持っていなくてはならないし、男性の方もそれに呼応出来るぐらいの情熱がなくては困る。だから略奪愛というのは、もっと讃《たた》えられてもいいのである。
ところでこの世には、こうした勝者を上まわるもっと驚くべき女性がいる。それはいわゆる�魔性の女�っていうやつですね。彼女たちはわりとエネルギーが持続しない。辛抱が足りない。離婚のごたつきが始まると、途中ですっかり飽きてしまうのだ(○月△△菜ちゃんを見よ)。そしてすべてが終ると、崩壊した家庭と、別の恋に走る彼女だけがいることになる。恋の勝者は実はつまらぬ。勝者になったとたんさまざまな義務が生まれ、自由が失くなることを彼女は知っているに違いない。