さて故郷山梨での、長い夏休みの最中、昼寝からさめたら、テツオからのファクシミリが入っていた。
「そろそろカントリー・ホルモンにやられている頃じゃないですか。ジャージー着て、タオル首からかけて、桃にかぶりついている姿が目に見えるようです」
私は青ざめた。まさにこのとおりの日々をおくっていたからである。
これ以上いると、私はしんからカントリー・ホルモンに冒されてしまいそう。ちょうどテツオのファクシミリが届いた日は、東京へ帰る日であった。私は小さなボストンバッグを手に駅に向かう。ところが故障続きの中央線は、その日もアクシデントがあり大幅の遅れだというではないか。結局一時間近くもずれて、列車は新宿駅に到着した。これで私の予定はすべて狂ってしまった。夕方から国立劇場で踊りの会があり、それに招待されている。いったん家に帰り、荷物を置いてから着替えるつもりだったのだが、直行せざるを得ない。おかげで私はカントリー・ホルモンにひどく汚染されたままの姿で、国立劇場の席に座ったのである。
あーあと、悲しくなってしまう。美容院にずっと行っていないので髪はボサボサ、ネイルはとっくの昔に全部|剥《は》がれてしまっている。早く美容院とネイルサロンを予約して、何とか立ち直らないと……。
客席が暗くなってから、私の隣の席にすべり込んでくる女性がいた。香水のにおいがぷんとしたその横顔を見て、私は息が止まるほど驚いた。
「ナオミさまではないか」
シロウトさんではあり得ない美しい横顔は、まさしく女優の川島なお美さんではないか。
私はさりげなく足元を見た。グレイと黒のワンピースに、アクセントとして赤い靴を履いていらっしゃる。時々それを脱がれるのであるが、素足にシルバーのペディキュアがまぶしい。間違いない、やっぱり、
「ナオミさまだ!」
私は初対面なのであるが、共通の知人が多く何だか親しいような気分。幕あいに思い切って挨拶《あいさつ》した。
「川島さん、こんにちは」
「あら、こんにちは。初めてって感じしませんね」
顔が信じられないぐらい小さい。私の四分の一ぐらいの大きさだ。やっぱりすごくキレイで色っぽい。これが世に名高いナオミ・フェロモンか。よりにもよって、山梨から直行して、カントリー・ホルモンに冒されたままで、こんな強烈なものに会うなんて。もちろん勝負しようなんて気は毛頭ないけれど、これじゃ私があまりにもみじめ過ぎるわ、悲しいわ……。
一緒にいた私の友人も、ナオミさまにすっかり圧倒されたようだ。
「やっぱり本物はすごいわ。カッコいいわ」
とやたら興奮していた。
ナオミさまはひとりでいらしていたようだったので、私は思い切って声をかけた。
「よかったらロビーでお茶でもいかがですか」
私たちは招待客だったので、お茶券をいただいていたのである。ナオミさまはにっこり笑って、
「じゃ、ご一緒します」
とおっしゃった。こういう美人と一緒に歩くのって、すごぉく緊張する。みんながこちらを見ているわ。そりゃ差があり過ぎるけど、今日は仕方ないのよ……。
ロビーのレストランに三人で入った。が、私たちのいただいていたのは、お茶券じゃなくてお食事券であった。松花堂弁当が既に用意されていた。私と友人はガツガツ食べ始めたが、ナオミさまは、
「私はまだお腹いっぱいだから」
といっさい手をつけようとしなかった。やっぱり私ら並の女とは、心がけが違うのである。が、とても感じのよい彼女は、そこのヤカンで私たちみんなにお茶をついでくれようとするではないか。
「あー、やめて、やめて」
私が手を出すより先に、友人が悲鳴を上げてひったくった。
「川島さんに、そんなことは似合わないわ。私がします」
私もそう思った。私らがデカいヤカンを持つのはよいが、ナオミさまが持ってはいけない。やはりワインのグラスしか似合わない方である。ナオミさまが言うには、ほとんど毎日のようにワインを召し上がっているとか。それでこのスリムさは、いったいどういうことであろうか。
ナオミさまは「名刺代わりに」とおっしゃって、脂取り紙をくださった。すごく使いやすいんだそうだ。
次の日、私はすっかり反省して、すぐに美容院へ行った。ネイルサロンも予約した。二日後そこへ行き、ペディキュアもしっかりしてもらった。私は今回のことで教訓を得た。
カントリー・ホルモンに冒されている時ほど、なぜか美人に会いやすいものである。気をつけよう、手抜き一分、イメージ一生。
そして美人に会っても決してめげない。少しでも得るものをもらい、明日への糧とする反省こそ、向上心につながるものである。