この本が出る頃には、古いニュースになっているかもしれないが、今私を夢中にさせているのはマリアンの離婚である。毎朝、夢中でワイドショーに見入っている。
思えば十一年前、結婚した時から、私はずうっと彼女に興味を持っていたといってもいい。お人形みたいに可愛いタレントと、大金持ちのボンボンとの結婚は、当時絵に描いたようなバブリーな組み合わせであった。
東京の人は知っていると思うが、東京は西麻布に「キャンティ」の支店がある。私なんか敷居が高くてめったに行ったことはないが、テーブルの半分は芸能人という派手な店だ。ここの店の前を歩いていたら、誰かが、
「ほら、ここの上にマリアンのダンナの会社があるんだよ」
と教えてくれ、私が次から皆に教えてあげている。ゴルフ場や不動産会社を経営する会社で結構大きい。こんな東京の一等地に会社を持つぐらいだから、たいしたもんである。
ずうっと前、六本木に「ヴェルファーレ」がオープンした時、秋元康さんが見学に連れていってくれた。秋元さんと一緒だから、通されるところはもちろんVIPルームである。業界の有名人っぽい人たちと、それはそれはキレイな女のコたちがいちゃついている。私と柴門《さいもん》ふみさんは、興味津々であたりを見渡した。
「やっぱりこういう時、マリアン夫婦なんか見たいよねー」
などと二人で言い合っていたら、本当にあちらからやってきて私たちは大喜びした。つまり何を言いたいかというとですね、あの頃、大金持ちと美人の組み合わせのマリアン夫婦は、東京の華やかな夜に欠かせない人たちだったということである。幸せそうに見えたし、カッコよかった。それなのに、ワイドショーで彼女は涙ながらに語る。
「淋しい結婚だった」
「彼の女性関係はひどい。親の言いなりの男だった」
言いたい気持ちはよくわかるが、おそらくテレビを見ている人たちは誰も彼女に同情しないはずだ。ましてや慰謝料が五億円、月々の養育費百五十万円を要求しているとあっては、シラけてしまう。
それに、彼女のダンナさんは、いかにも女性にモテそうである。大金持ちでまだ若く、甘い風貌《ふうぼう》をしていたら女性にモテないわけがない。タレントさんと結婚するぐらいだからそういう人脈も持っているだろうし、そういう世界が嫌いなはずはない。どうしてそういうことがわからなかったのかなあ……などというのは赤の他人の見解で、本人は夫やその家族を自分の力で変えられることが出来ると思っていたのであろう。
まあ、そういうことは別にして、私は別れた男の悪口を言う女が嫌いである。
あれは、もの凄《すご》く女の値打ちを下げるものだ。私の若い友人の中には、
「彼にお金をさんざん貢がされた」
「私の友人とデキちゃった」
なんて得々と話すのがいて、私はびっくりしてしまう。あんたって、そんなヤクザまがいのレベルの低い男とつき合っていたのかと、叱りたくなってくるのである。
私なんか、男性に対して感謝の気持ちしかない。今でこそ多少チヤホヤしてくれる人もいるが、昔はただの田舎出のデブのネエちゃん。着るものだって、そりゃあひどかったはずだ。そんな私にとにかく愛情を与えてくれた人たちを、どうして恨むことが出来ようか。浮気されたり手ひどいフラれ方をしたとしても、今となってはいい思い出。
風のたよりで、彼のことを聞き、人に尋ねられれば、
「本当にいい人だったわ。本当にあの頃、私は好きだったの。でも私がフラれたんだけど」
と答える私は、何と大人の女なのでありましょう。すると友人がこう言う。
「あら、あっちの方は自分がハヤシさんにフラれたって言ってるけど」
まっ、何ていい男なんだろうと、私は目がしらが熱くなる。私はそういうところにミエを張らない女なのではっきり言うが、フラれたのは私の方なのだ。それなのに歳月がたつと彼は私のことを庇《かば》い、私を立ててくれる。私の男選びは間違っていなかったと、確信をさらに強くしたのである。
とまあ、こんなエラそうなことを言う私であるが、事件当時は猛《たけ》り狂った。泣いて泣いて女友だちに電話をかけまくった。「サイテーの男」とののしったかもしれない。けれども若い女が別れた男の悪口を言うのは、まだ許される。かなり大目に見てもらえるはずだ。
私が嫌いなのは、結婚した男、しかも自分の生んだ子どもの父親を悪く言うというその根性である。結婚という選択は重い。恋人としてちょっとつき合う、などというのとはレベルが違う。女がそれまで生きてきた年月、知恵やありったけの美意識、その人の今までの金銭観や人生観が問われる作業である。夫の悪口を言いまくることは、そんな男を選んだ自分がいかに馬鹿か、天下に公表しているようなものだ。
「家族として自分が選んだ男は、自分自身である」
お金がなくても、エリートでなくても、誠実でやさしい男を夫にしたら、それは自分自身が誠実でやさしい人間だということだ、と思いたい。