いつものようにテツオとお茶を飲んでいた。話が共通の知り合いのことになった。
「本当にあの人ってキレイよね」
意地が悪いように思われている私であるが、好きな人のことはちゃんと誉める。
「洋服のセンスもすっごくいいしさあ。あのブランドの服を、あんなにうまく着こなせるのはあの人ぐらいよね」
するとテツオは鋭く言った。
「だけどあの人、インランが入ってるよね」
「そうかなぁ、でもあの人、見かけは派手だけど純情だよ。ひとりの男の人をずうっと大切にするし」
「だけど絶対にインラン、入ってる」
きっぱりと言う。確かに彼女のモテ方というのは普通ではない。ちゃんとした彼がいるというのに、私のまわりの男の人はみんな彼女のことを狙っている。このあいだお酒が入った時にアンケートをとったら、五人のうち二人が彼女を口説いていたということがわかった。
「そりゃモテるのは、インランが入ってるからだよ」
それからテツオは唇に嫌な笑いをうかべ、私のことを顎《あご》でしゃくった。
「あんたって、インランがまるっきり入ってない人だよね」
失礼ね、と私は激怒した。
「インランがまるっきりない私が、どうして人を感動させる、すんばらしい官能小説を書けるのよッ!」
テツオの言い分はこうだ。インランが入っていない人は、インランの入っている人のことを冷静に観察することが出来る。だから文章が書けるんだそうだ。
「ハヤシさんとかサイモンさん(ごめんね。テツオが言ったんだヨ)って、その典型だね」
「じゃー、○○さんはどうなのよ」
○○さんというのは、やはり物を書いている女性であるが、男関係が華やかだ。はっきり言ってモテるタイプとは思えないのであるが、男性関係のこととか、セックスのことをあけすけに口にする。
「ああいうのは、インランじゃない。単にセックスが好きなんだ」
さすがダテに女遊びをしていない男である。インランというのは、自然に奥からにじみ出るもの、セックスが好きというのは単純に体の外側につく習癖と定義づけたのだ。
私が思うに最近の女のコは「セックスが好き」という方に分けられると思う。インランと呼べるほど奥深いものは身につけていない。ずっと以前のことになるが、マツモトキヨシのCMが、世の中の非難を受けてすぐに変えられてしまった。
「朝、目が覚めたら知らない男の部屋にいた」
というあれですね。出てくる女のコは結構可愛くって清純っぽい。知り合ったばかりの男とベッドを共にするようには見えない。こんな女のコまで、即ベッドインするような風潮は許せないと、おじさんやおばさんは怒ったわけだ。
が、世の中の女のコにしてみれば「どうして」という感じであったろう。知り合って三十分後であろうと、五分後であろうと、感じがよい男の子とセックスするのは当然じゃないか。何が悪いという感じであったろう。私らの時代まで、セックスというのは�好きな男�とするものであった。けれどもこの十年ぐらいで、セックスは�感じのよい�男とするものに変わったらしい。�感じのよい��話が合う�男が、ちょっと時間がたてば�好きな男�になるということはいくらでもある。もしならなかったら、その時にやめればいいのだ。セックスは誰としてもそうアタリハズレがないしさ……。
いずれにしても、十代の終わりか、あるいは二十代の頃に、セックスがめちゃくちゃ好きになるという経験は誰にでもある。彼のことが好きなのか、それともセックスが好きなのか、わけがわからないままにごちゃごちゃになり、彼とするそのことしか考えられなくなる。あの甘くせつない気分を経て、女のコは大人になっていくのだ。
そして三十代になると、ちょっと飽きる時期が来る。飽きるというよりも�もの憂い�という感じでありましょうか。ああいう風に口説かれて、ああいう手順を踏んで、ああいうことをするのね、もう、わかりきっちゃってかったるいわー、という非常に贅沢《ぜいたく》な気分である。が、この時期を乗り越えると、また男の人とごちゃごちゃするのがとても楽しくなってくる。しかし、たいていの女の人はここでリタイアとなる。なぜなら大半の人が、普通の奥さんになったり、お母さんになって、そういう機会がなくなってくるからだ。
が、それでも男の人が寄ってきて、自分でも応じてしまう女の人がいる。ちょっと年をくっても、フェロモンが分泌されていく女の人たちですね。彼女は自分でもわけのわからぬ衝動に駆られて、男の人としょっちゅうそういうことをしてしまう。ここで初めて、セックスは、インドアスポーツから、すごくイヤらしい人間の営みへと昇華していくのだ。が、これを味わえる女の人はほんのひと握りで、インランの称号をもらえるのである。
若かったら男に言い寄られることも多く、セックスが好きになりやすい。しかし、これに関してはもっと奥深い世界がある。詳しくは林真理子の本を読んで欲しい。