最近、トチ狂ったように洋服を買いまくっている私である。
そりゃあ、仕方ありませんわ。今まで無縁だったブランドのものが、何でも着られるようになった喜びって、ふつうの人にはわかりますまい。
丸の内へ行けばプラダに、青山へ行けばジル・サンダー、このあいだはコムデギャルソンでもたくさん買った。コムデの服は、私のようなもんでも着られるふつうっぽいものがたくさんあり、それがとても可愛い。店員さんのような、最近のアヴァンギャルドのものはとても無理であるが、今年の白のブラウスやニットなんか、とてもいい感じ。黒のジャケットも、とてもラインが綺麗《きれい》なの。
けれども、うんとコムデっぽいものを着たくなるのも人情である。水玉やチェックの生地が重なっている、オーガンジーのワンピースを見つけた。「ギンザ」の表紙になりそうなやつね。これを着るからには、髪型も工夫しなきゃならないし、靴もそれっぽいものでなくてはダメだろう。が、私は試着したら、どうしても欲しくなった。時代の空気をまとっている感じなのである。私は思う。
やはりこういう仕事をしているからには、コムデを着る気概を持たなくっちゃあね。無難なもんばっかり着てると、おばさんになっちゃうよ。この夏は、うんと頑張ってこれを着よう。私はそう決心したのである。
ところが、こんな風に冒険心にとむ私であるが、絶対に行かないお店がある。結構人気のある、あのブティックよ。
あれは五年前、私がうんとデブだった頃、ここのお洋服を時々買っていた。サイズが合うのを探すのは大変だったし、ボタンもぴちぴちになっていた。でも私は何とか必死で、サイズの大きいものを見つけて買っていたのである。
しかし私は、ある日女性週刊誌の小さいコラムにこんな文章を見つけたのだ。あの有名ブティックの店員の内緒話ということで、
「女流作家のM・Hさんが、よくうちの服を買ってくださるけど、あの豊満な肉体に合うものはなかなかなくて……うちのデザイナーもかわいそう。自分の意図と全然別のものになっちゃうんですもの」
私はむっとしましたね。誰が読んだって私のことだってわかるじゃん。もうこんな店、二度と行かないと決めた。どんなにスリムになり、どんなにお金持ちになっても、絶対に無視する。それが私の復讐《ふくしゆう》よ。
そう、『プリティ・ウーマン』の中で、自分にイジワルしたブティックの定員に、ジュリア・ロバーツが仕返しするシーンがある。あの心境を思ってくださればいい。
ところで、うちのクローゼットが満杯になり、クレジットカードが限界になって、私はふと考えるようになった。
「ちょっと着物の方も、思い出してやらないといけないかも」
私がひと頃、着物に凝っていたことはご存知だと思う。遣ったお金もハンパじゃない。当時の稼ぎはすべて呉服屋さんにつぎ込んでいた。
芸者さんでもホステスさんでもなく、料亭のおかみさんでもない私が、とても着こなせる数ではなく、大半がしつけ糸をしたまま眠っているのだ。あれだけお金を遣った着物が、袖《そで》を通さないまま、私を恨むでもなく忘れ去られようとしている。
「そうだ、あれに日の目を見せてやろう」
気になっていた一枚がある。それは加賀友禅の作家に描いてもらったもので、モダンに梅を染め出したものである。お茶を習っていた頃、初釜《はつがま》に着ていったことがある。一枚の写真が残っている。体重が記録的にあった頃で、白い着物をまとった私は、まるで女相撲のようである。あまりのひどさに、二度と着ていないが、あれは着物自体は素敵だった。あさってのパーティにぴったりじゃないだろうか。
マスコミの人も来て、私が取材されるパーティだったので、ヘアメイクの人も頼んだ。彼女は私の髪をモダンなボブに仕上げてくれた。これに着物を着て、白い帯を締め、帯締めと帯揚げでアクセントをつけた。
自分で言うのもナンであるが、すごく決まっていたのである。あの頃を知っている秘書も驚いていた。
「ハヤシさん……。同じ着物だとは思えませんね。すっごく似合ってステキです。痩《や》せるってこういうことなんですね……」
パーティに来ていたテツオも言う。
「おっ、カッコいいじゃん。すごくいいよ」
口の悪いテツオが、ここまで誉めるなんて奇跡に近い。パーティでも、キレイ、キレイとちやほやされた。
私はしみじみと思ったわ。そうよね、あのブティックの店員さんを恨んじゃいけないわ。デブの私がいけなかったのね。誰だって自分のところの洋服を、キレイに着こなしてもらいたいと思うのは当然の話だ。デザイナーを誇りに思えば思うほど、似合わない人に着てもらいたくはないわよね。
これからは、どこのお店からも歓迎される人になろう。リバウンドから立ち直るいちばんいい方法は、洋服をどっさり買うことだ。また明日から頑張るワと、私は握りこぶしをふるわせたのである……。