五四 閉《へ》伊《い》川《がは》の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近き所に、川井といふ村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取り落としたり。主人の物なれば淵に入りてこれを探りしに、水の底に入るままに物音聞こゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りてゐたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまはらんといふ時、振り返りたる女の顔を見れば、二、三年前に身まかりたるわが主人の娘なり。斧は返すべければわれがここにあることを人に言ふな。その礼としてはその方身《しん》上《しやう》良くなり、奉公をせずともすむやうにしてやらんと言ひたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴《どう》引《びき》などいふ博奕《ばくち》に不思議に勝ち続けて金たまり、ほどなく奉公をやめ家に引込みて中位の農民になりたれど、この男は疾《と》くに物忘れして、この娘の言ひしことも心付かずしてありしに、ある日同じ淵の辺を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴へる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂は近郷に伝はりぬ。その頃より男は家産再び傾き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何《なん》荷《が》ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。