八九 山口より柏崎へ行くには愛宕山の裾《すそ》を廻るなり。田圃に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木の林となる。愛宕山の頂には小さき祠《ほこら》ありて、参詣の路は林の中にあり。登口に鳥居立ち、二、三十本の杉の古木あり。その旁《かたはら》にはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山《*》神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言ひ伝ふる所なり。和野の何某といふ若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降り来たる丈高き人あり。誰ならんと思ひ林の樹木越しにその人の顔の所を目がけて歩み寄りしに、道の角にてはたと行き逢ひぬ。先方は思ひがけざりしにや大いに驚きてこちらを見たる顔は非常に赤く、眼は耀《かがや》きてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後をも見ずに柏崎の村に走り付きたり。(注 遠野郷には山神塔多く立てり、その処はかつて山神に逢ひまたは山神の祟りを受けたる場所にて、神をなだむるために建てたる石なり)