二一 金沢村の字長《なが》谷《や》は、土淵村字栃《とち》内《ない》の琴畑と、背中合わせになった部落である。その長谷に曲《まがり》栃《とち》という家があり、その家の後に滝明神という祠があって、その境内に昔大きな栃の木があった。ある時大槌浜の人たちが船にしようと思って、この木を所望して伐りにかかったが、いくら伐っても翌日行って見ると、切り屑が元木についていてどうしても伐り倒すことはできなかった。皆が困りきっているところへ、ちょうど来合わせた旅の乞《こ》食《じき》があった。そういうことはよく古木にはあるものだが、それは焼き伐りにすれば難なく伐り倒すことができるものだと教えてくれた。それでようやくのことでこの栃の木を伐り倒して、金沢川に流し下すと、流れて川下の壷桐の淵まで行って倒《さか》さに落ち沈んで再び浮かび揚がらず、その淵のぬしになってしまったそうな。この曲栃の家には美しい一人の娘があった。いつも夕方になると家の後の大栃の樹の下に行き、幹にもたれて居り居りしたものであったが、その木が大槌の人に買われてゆくということを聞いてから、斫《き》らせたくないといって毎日毎夜泣いていた。それがとうとう金沢川へ、伐って流して下すのを見ると、気狂いのようになって泣きながらその木の後についてゆき、いきなり壷桐の淵に飛び込んで沈んでいる木に抱きついて死んでしまった。そうして娘の亡骸はついに浮かび出でなかった。天気のよい日には今でも水の底に、羽の生えたような大木の姿が見えるということである。