二八 松崎村の字矢崎に、母也堂(ぼなりどう)という小さな祠《ほこら》がある。昔この地に綾織村字宮ノ目から来ていた巫女があった。一人娘に婿を取ったが気に入らず、さりとて夫婦仲はよいので、ひそかに何とかしたいものだと思って機会を待っていた。その頃猿が石川から引いていた用水の取入れ口が、毎年三、四間がほど必ず崩れるので、村の人は困り抜いていろいろ評定したが分別もなく、結局物知りの巫女に伺いを立てると、明後日の夜明け頃に、白い衣物を着て白い馬に乗って通る者があるべから、その人をつかまえて堰口に沈め、堰の主になってもらうより他にはしようもないと教えてくれた。そこで村じゅうの男女が総出で要所要所に番をして、その白衣白馬の者の来るのを待っていた。一方巫女の方では気に入らぬ婿をなき者にするはこの時だと思って、その朝早く婿に白い衣物をきせ白い馬に乗せて、隣村の附《つく》馬《も》牛《うし》へ使いに出した。それがちょうど託宣の時刻にここを通ったので、一同がこの白衣の婿をつかまえて、堰の主になってくれと頼んだ。神の御告げならばと婿は快く承知したが、昔から人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》は男《お》蝶《ちよう》女《め》蝶《ちよう》の揃うべきものであるから、私の妻も一緒に沈もうと言って、そこに来合わせている妻を呼ぶと、妻もそれでは私も共にと夫と同じ白装束になり、二人でその白い馬に乗って、川に駆け込んで水の底に沈んでしまった。そうするとにわかに空が曇り雷が鳴り轟《とどろ》き、大雨が三日三夜降り続いた。四日目にようやく川の出水が引いてから行ってみると、淵が瀬に変わって堰口に大きな岩が現われていた。その岩を足場にして新たに堰を築き上げたので、もうそれからは幾百年でも安全となった。それで人柱の夫婦と馬とを、新堰のほとりに堰《せき》神《がみ》様《さま》と崇《あが》めて、今でも毎年の祭りを営んでいる。母の巫女はせっかくの計らいがくいちがって、かわいい娘までも殺してしまうことになったので、自分も悲しんで同じ処に入水して死んだ。母《ぼ》也《なり》明神というのはすなわちこの母巫女の霊を祀った祠であるという。