一〇九 遠野町の某という若い女が、夫と夫婦喧嘩をして、夕方門辺に出てあちこちを眺めていたが、そのままいなくなった。神隠しに遭ったのだといわれていたが、その後ある男が千《せん》磐《ばん》が岳へ草刈りに行くと、大岩の間からぼろぼろになった著物に木の葉を綴り合わせたものを著た、山姥のような婆様が出て来たのに行き逢った。お前はどこの者だというので、町の者だと答えると、それでは何町の某はまだ達者でいるか、俺はその女房であったが、山男にさらわれて来てここにこうして棲んでいる。お前が家に帰ったら、これこれの処にこんな婆様がいたっけということを言《こと》伝《づて》してけろ。俺も遠目からでもよいから、夫や子供に一度逢って死にたいと言ったそうである。この話を聞いて、その息子に当たる人が多勢の人たちを頼んで千磐が岳に山母を尋ねて行ったが、どういうものかいっこう姿を見せなかったということである。