一一〇 前に言った遠野の村兵という家では、胡瓜《きゆうり》を作らぬ。そのわけは、昔この家の厩《まや》別《べつ》家《け》に美しい女房がいたが、ある日裏の畠へ胡瓜を取りに行ったまま行方不明になった。そうしてその後に上《かみ》郷《ごう》村の旗屋の縫が六角牛山に狩りに行き、ある沢辺に下りたところが、その流れに一人の女が洗濯をしていた。よく見るとそれは先年いなくなった厩《まや》別《べつ》家《け》の女房だったので、立ち寄って言葉を掛け、話をした。その話に、あの時自分は山男に攫《さら》われて来てここに棲んでいる。夫はいたって気の優しい親切な男だが、きわめて嫉妬深いので、そればかりが苦の種である。今は気仙沼の浜に魚を買いに行って留守だが、あそこまではいつも半刻ほどの道のりであるから、今にも帰って来よう。けっしてよい事はないから、どうぞ早くここを立ち去ってくだされ。そうして家に帰ったら、私はこんな山の中に無事にいるからと両親に伝えてくれと頼んだという。それからこの家では胡瓜を植えぬのだそうである。