一一二 土淵村の若者共が同勢二十人ほどこぞって、西内山付近にある隣村の刈草場へ、刈草を盗みに行った時のことである。こういう時には、どうかすると山で格闘をしなければならぬことがあるので、それぞれその準備をして行った。一行のうち宇野崎の某が一人、群れから離れて谷の古沼の方へ下りて行くのを、たぶん水を飲みに行ったのだろうくらいに思っていたが、盗んだ草を馬に荷なって帰り仕度をしてしまった後になっても、その男一人帰って来ない。ぐずぐずしていて隣村の手合いに見つけられてはと、皆谷に下って尋ね歩くと、その男が帯を解き小川を溯って獣のように速く走って行くのが見えた。皆で呼んでもいっこう見向きもせず、聞こえないふうであったから、しかたなしに皆して取り巻いて捉まえると、その男はぼんやりと気の抜けた顔をしている。どうしたのだと尋ねると、初めて夢からさめたように、実はさっき俺が沢に水を飲みに下りて行くと三角(若い女が頭に冠る三角形の布《きれ》)を冠った女がいて笑いかけるので、今までいっしょに話をしていたのだが、お前たちが見えると、女は兎かなんどのように向こうへ飛んで行ってしまったのだと語った。皆して叱りとばして連れ帰ったが、二、三日の間なんとなくぼんやりしていたそうである。その男はすなおな、物静かな性質の若者であったという。明治の末頃の話である。