一五九 これは佐々木君の友人某という人の妻が語った直話である。この人は初産の時に、産が重くて死にきれた。自分ではたいへん心持がさっぱりとしていて、どこかへ急いで行かねばならぬような気がした。よく憶えていないが、どこかの道をさっさと歩いて行くと、自分は広い明るい座敷の中にはいっていた。早く次の間に通ろうと思って、襖《ふすま》を開けにかかると、部屋の中には数え切れぬほど大勢の幼児が自分を取り巻いていて、行く手を塞いで通さない。しかし後に戻ろうとする時は、その児らもさっと両側に分かれて路を開けてくれる。こんなことを幾度か繰り返しているうちに、誰かが遠くから自分を呼んでいる声が微かに聞こえたので、いやいや後戻りをした。そうして気がついてみると、自分は近所の人に抱きかかえられており、皆は大騒ぎの最中であった。この時に最初に感じたものは、母親が酢の中に燠《おき》を入れて自分に嗅《か》がしていた烈しい匂いで、その後一月近くもの間、この匂いが鼻に沁み込んだままで痛かったという。産をする者には、この酢の匂いがいちばん効き目のあるものだそうで、それも造り酢でなければ効かぬといわれている。