翌朝の登校時は、うっとうしいほどの晴天だった。ちょっとおかしな言い方もしれないが……。
昨日の夕方とは逆に、東から西へ進むいつもの通学路。立て続けに出るあくびも、退屈《たいくつ》で死にそうになる授業の合間に(いや、ほんとは真っ最中にもだけど)生き返るため、詰《つ》め込《こ》んだ本の分だけ重たいカバンも、何もかもいつもと同じだった。
いや、重さについてはちょっとばかり変動があったのだが、それも大したことではなかった。まして、道すがらに見る風景に何一つ変わりがあるはずは——いや、それがあったのだ。
いつもだったら、同じルートを使っている連中がちらほらと見えるぐらいの道のそこここに、見なれぬ人たちが行ったり来たりしていた。
あちらに制服姿のお巡りさんが立っているかと思えば、こちらには作業衣《さぎょうい》のようなものを着、同色の帽子《ぼうし》をかぶった人がうずくまって何かしている。加えて、背広やジャンパー姿の勤め人風だが、どうもそうとは見えない男たちが通りかかるものに鋭《するど》い一瞥《いちべつ》を投げかけ、呼び止めて話しかけたりしていた。
むろん、ぼくも例外ではなく、生徒証の提示を求められ、名前とクラスなんかを聞き取られた。
いったいここで何があったというのか——だが、そのことよりぼくの心を占《し》めていたのは、テレビドラマや小説ではあれほどおなじみなのに、現実にはお目にかかったことのない「刑事」なるものの、それも本物に遭遇《そうぐう》したという事実だった。
だが、ことは、そんなのんきなことでは収まらなかった。教室に入ると、誰も彼もが一つの話題でわきたっていた。あるとき、団体で乗車した新幹線にアイドルタレントが乗り合わせているという噂《うわさ》が広まって、みんなが大はしゃぎしたことがあったが、あれにちょっと似た騒《さわ》ぎだった。
実のところ、この朝の評判の主体はアイドルでもなければ、何かその手の有名人でもなかった。では、何だったかといえば——
「死体だよ、死体!」
教室に入ろうとしたとたん、同級生の誰かれ——いまだかつてダルそうな姿しか見たことのない連中までもが、興奮気味に話していた。
「死体って、猫か何かの?」
「違《ちが》うよ、人間のだよ。何でも昨日の夕方、あっちの通学路で……」
「あっちってどこさ」
「ほら、ずーっと塀にはさまれた一帯があんだろ。あそこで……」
雰囲気《ふんいき》を盛り上げるつもりか、タメるような間を置いてから、
「人殺しがあったんだってさ!」
死体? しかも、それだけじゃなくて人殺しだって?
その瞬間《しゅんかん》、何の根拠《こんきょ》も脈絡《みゃくらく》もなく、ぼくの中で一つの光景が鮮《あざ》やかによみがえった。ひょっとして、あのときの……いや、まさかと打ち消しかけたとき、大げさな身振《みぶ》り手振りで盛り上がる奴らの向こうに、かいま見えた人影《ひとかげ》があった。
行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》だった。騒ぎとはまるで無縁《むえん》なようすで、きちんと自席についた彼女は、カバーを掛《か》けた文庫本に読みふけっていた。ときおり髪をかき上げるしぐさに、なぜか見とれかけた折も折、
「よう、どしたい」
陽気な声とともに、背中を思いきりどやしつけられた。ぼくはその勢いもあって振り返りざま、
「ああ、夏川《なつかわ》か」
すぐ間近にあった屈託《くったく》のない笑顔に向かって言った。背後にいたのは夏川|至《いたる》といって、向こうはともかく、こっちからは唯一《ゆいいつ》の親友といっていい存在だ。一年のときに知り合って、大いに気が合ったのだが、あいにく今年は別々のクラスになり、しかも彼の方ははるかに活発な行動派なので、話のできる機会がめっきり少なくなってしまった。
「お前んとこも、例の話題でもちきりみたいだな。全く、みんなしょうがないというか——」
「え、例の話題って……死体とか、そのぅ、人殺しとかいう?」
ぼくは後半ちょっと声をひそめながら、訊《き》いた。声のついでに、胸のうちでにわかに頭をもたげた�もしかして……�という思いも抑《おさ》えつけた。
夏川はむろん、ぼくの内心の動揺《どうよう》など知るはずもない。「ああ」とうなずくと、うれしそうに騒いでいる連中に、気が知れないなと言わんばかりの表情を投げてから、
「ま、くわしいことは知らんけどな。何でも、あの屋敷町《やしきまち》を抜《ぬ》けて行く通学路の途中で人が一人、死んでるのが見つかったんだってさ。西寄りの、もう少しで学校ってあたりのブロックに一軒《いっけん》だけ家の建ってないとこがあるだろう?」
「ああ、あの草ぼうぼうの?」
そこのことなら知っていた。先に、たった一か所を除いてと述べたのがそこで、人間はもちろん猫でも通り抜けるのに苦労しそうなほど、隣《となり》同士の塀《へい》がくっつき合った中にあって、そこだけが歯の抜けたように空き地になっており、何の管理もされないまま荒《あ》れ放題となっていた。
「そう、あそこだ」夏川至はうなずいた。「今朝、あそこの草むらの中で、サラリーマンだかホームレスだか、とにかくうらぶれた感じの中年男が倒《たお》れているのが見つかったんだ。本当かうそかは知らないが、噂じゃあ心臓を何かで一突《ひとつ》きにされてね」
そう聞いたとたん、ぼくの中でにわかに昨夕目にした光景がプレイバックされた。ひょっとして、あのときの……いや、そんな、まさか!
「そういえば、お前もあの道が通学ルートだったっけ。え、さっき警察の人に名前を訊かれた? じゃあ、覚悟《かくご》しといた方がいいかもな」
「覚悟って何の?」
すると夏川はあきれたような苦笑いを浮《う》かべて、
「決まってるじゃないか。警察の事情|聴取《ちょうしゅ》だよ。何でも死んだのが昨日の夕方で、その時間帯にあの道を通った人間に話を聞きたいってことらしいぜ」
「え……」
戸惑《とまど》うぼくの背中を、夏川は思いっきりどやしつけると、
「いいじゃないか。お前の大好きなミステリを実体験できるんだから。おまけに、授業をサボれるかもしれないしさ。——じゃな、あとで話を聞かせてくれよ」
言うだけ言って、自分のクラスの方に戻《もど》って行ってしまった。ぼくは、しかたなく自分の席につきながら、
(やれやれ、変なことになっちゃったな……)
何だかひどくいやな胸騒《むなさわ》ぎを打ち消そうと、ことさらに心の中でつぶやいた。
と、それとタイミングを合わせたように、京堂広子《きょうどうひろこ》がいつもにも増して肩《かた》をそびやかし、何だか自慢《じまん》げなようすで、的場長成《まとばおさなり》ともども教室に入ってきた。
そのとき初めて、ぼくは仕切り屋のクラス委員コンビの姿が、珍《めずら》しく教室内に見えなかったことに気づいた。すぐあとから一限目の担当教師が到着《とうちゃく》し、殺人事件(?)という非日常な出来事にわきたっていた空気は、たちまちにいつもと同じ退屈さの中に吸い込まれて消えてしまった。だが、そうなる直前、ふと頭の中でひらめいた疑問があった。
「待てよ」ぼくは独りつぶやいていた。「あの二人も確か、同じ通学路を使っていたんじゃなかったっけ。ひょっとして、彼らも警察から話を——?」
案《あん》の定《じょう》だった。次の休み時間に、的場長成と京堂広子は何かとてつもない冒険でもしてのけたかのように、自慢たらしく自分たちの経験談を語り始めた。
「そうなの、今朝空き地で見つかったっていう死体ね、実はそれが私と的場君が昨日の帰り道ですれ違った男だったのよ。そりゃもう、びっくりしちゃった。死体の写真見せられて気持ち悪いわでもう大変! でもね、私たちの証言で犯人が捕《つか》まるかもしれないし、これも国民の義務っていうか、しかたないよね——ねっ、的場君?」
「え? あ、まぁ、そういったところかな」
京堂広子に水を向けられ、的場はぼそぼそと答えた。めったにない体験を話したくてうずうずしているらしい彼女の方とは対照的に、彼は漫才《まんざい》の下手なツッコミ担当みたいな相づちを打つばかり。しまいには「そのへんでいいんじゃない?」などと牽制《けんせい》して無視されたあげく、自分たちをとりまく輪の外に逃《のが》れようとして、彼女に引っ張り戻されたりした。
野暮《やぼ》なぼくには今いちわからなかったが、クラスメートの一人が半笑いで、
「おいおい、今さら隠《かく》さなくたっていいだろうがよ。お前がいつも京堂といっしょに帰ってることをさ」
と的場に言ったことで、やっと理解できた。ひょろりとした的場と、ちんちくりんの京堂の凸凹《でこぼこ》コンビは、底意地の悪そうなところも含《ふく》めてお似合いのカップルだったが、どうやら委員長の仕事をきっかけに、いつのまにかつきあい始めてもいたらしい。だが、的場の方は彼女とそうなったことを自慢するどころか、あまり知られたくないと思っているようで……。
京堂広子にとっては聞き捨てならない一言だった。そのとたん、彼女は関係のないぼくまでビクッとさせられるほど、ものすごい勢いで茶々を入れた奴をにらみつけ、だがすぐに何ごともなかったように話を続けた。
「でね、何で私たちの証言が重要かと言うと、私とカレが(彼女はそこで的場のことをいとおしそうに見上げた)すれ違ったとき、その男の人はすでに犯人にやられていたらしかったからなのよ。今にして思えば、の話なんだけどね」
これには聞いている側もエエッとなって、二人の交際問題などどうでもいいとばかりに身を乗り出した。むろん、ぼくも例外ではなかった。
「そう、きっとそうに違いないわ。だって、あのときもうようすがおかしかったもの」
京堂広子は、小柄《こがら》な体をせいいっぱいそびやかすと、芝居《しばい》がかった調子で、
「あの男の人は照りつける西日を受けて、前かがみになりながらやってきた。胸のあたりをこんな風に押えながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、まるで酔《よ》っ払《ぱら》いみたいにね。場所はちょうど、あの高い木の塀があるお屋敷のあたりで……」
(えっ?)
その一言に、ぼくは耳をそばだてた。思わずこう問いかけていた。
「高い木の塀って、通学路の東寄りの家にあるやつのこと? 片っぽが何も塗《ぬ》ってない白木で、向かい側が黒板塀の……」
あんまりこういう場で口をはさむ方ではないので、自分でも驚《おどろ》いたが、まわりの連中もちょっと変な顔をしていた。このとき、ぼくの脳内には彼女の話に基づいて現場の情景——むしろ一つの図が思い浮かび、そのせいでそんな質問をしたくなったらしかった。
「そうだけど、それがどうかしたか?」
妙《みょう》につっけんどんに答えたのは、京堂広子ではなく的場長成の方だった。とんだ事件のせいで彼女との仲が公認のものになってしまったことにヤケ半分だったのか——いや、相手がぼくと見て威丈高《いたけだか》になった可能性の方が大きかった。
「いや、その」ぼくは口ごもった。「ちょっと、訊いてみたかっただけだよ。その人とすれ違ったのは、あの道のどこなのかなと思ってさ」
またこいつが、よけいな詮索《せんさく》で話の腰《こし》を折りやがって……という気まずい空気が漂《ただよ》いかけたとき、思いがけず救いの手を差しのべたのは、何と京堂広子だった。
「そういえば、暮林《くればやし》君もあそこが通学路だったのよね」
彼女は、あまりゾッとしない笑顔をぼくに振り向けて、
「そう、私たち[#「私たち」に傍点]が最初にその人の姿に気づいたのは、いま言ったお屋敷の手前にあるおうちに差しかかったときのこと……こっちが木の塀にさしかかったあたりですれ違って、そのまま東と西に別れたの。あんまり危なっかしい感じだったから、すれ違ってしばらくしてから振り返ってみたら、まだ後ろ姿が見えたのを覚えてる。あの足のノロさじゃ、この道を抜けるまでだいぶかかりそうだなって、思ったこともね。でも、いま思えば、それどころじゃなかったのね。だって、あのとき私たちが見たのは……」
「おい、そのことは……だろ」
ふいに的場長成が、いつになく強い口調《くちょう》で京堂広子をひじで突っついた。とたんに彼女はこびるように彼を見上げ、
「あ、そうだったね」
二人だけの秘密を確認するかのように言った。それから、何ごともなかったかのように、再びぼくに向かって、
「ま、それはともかくとして……私たちの話が、どうかした?」
意味もなく勝ち誇《ほこ》ったような表情で言った。
的場が何を押しとどめたのかはしらないが、彼女にすれば、めったになさそうな出来事、それも的場といっしょのときの体験について、くわしく訊いてくれるものは大歓迎《だいかんげい》だったのだろう。だが、ぼくはせっかくの期待を裏切り、いつもの調子で言った。
「いや、別に……あぁいや、ちょっとね」
すでにそのとき、ぼくの頭は別のことで占められていた。ぼくが昨日すれ違ったのが、的場と京堂が目撃《もくげき》したという男と同一人物だったとして、東から西へ向かって歩いていたその男と、逆方向に進んでいたぼくは西寄りのレンガ塀の前で、的場と京堂の二人組は東寄りの木の塀のあたりですれ違ったということは、彼らがぼくの前方を歩いていたということにほかならない。さっきの脳内図面にそれらのデータを書き込めば、こんな感じになるだろうか。
[#挿絵(img/01_038.png)入る]
と、いうことは——ぼくはいつもの癖《くせ》で、考えをめぐらし始めていた。こうなると、まわりの状況《じょうきょう》など目にも耳にも入らず、誰がどんな視線を向けていようといまいとどうでもよくなってしまう。こうなると楽は楽なのだが、といって、ずっとそのままというのも困りものではある。
だが、そのときはそんな心配の必要はなかった。
「おい、暮林」
ふいの声にわれに返ると、クラス担任の、ヒゲそりあとも青々とした顔がすぐ近くにあった。受け持ちの科目でもないのに、何でまた教室に現われたのかといぶかる間もなく、
「あとでちょっと生徒指導室に来てくれ。警察の人がお前からも話が聞きたいんだとさ」
と言った。
「そうなの、今朝空き地で見つかったっていう死体ね、実はそれが私と的場君が昨日の帰り道ですれ違った男だったのよ。そりゃもう、びっくりしちゃった。死体の写真見せられて気持ち悪いわでもう大変! でもね、私たちの証言で犯人が捕《つか》まるかもしれないし、これも国民の義務っていうか、しかたないよね——ねっ、的場君?」
「え? あ、まぁ、そういったところかな」
京堂広子に水を向けられ、的場はぼそぼそと答えた。めったにない体験を話したくてうずうずしているらしい彼女の方とは対照的に、彼は漫才《まんざい》の下手なツッコミ担当みたいな相づちを打つばかり。しまいには「そのへんでいいんじゃない?」などと牽制《けんせい》して無視されたあげく、自分たちをとりまく輪の外に逃《のが》れようとして、彼女に引っ張り戻されたりした。
野暮《やぼ》なぼくには今いちわからなかったが、クラスメートの一人が半笑いで、
「おいおい、今さら隠《かく》さなくたっていいだろうがよ。お前がいつも京堂といっしょに帰ってることをさ」
と的場に言ったことで、やっと理解できた。ひょろりとした的場と、ちんちくりんの京堂の凸凹《でこぼこ》コンビは、底意地の悪そうなところも含《ふく》めてお似合いのカップルだったが、どうやら委員長の仕事をきっかけに、いつのまにかつきあい始めてもいたらしい。だが、的場の方は彼女とそうなったことを自慢するどころか、あまり知られたくないと思っているようで……。
京堂広子にとっては聞き捨てならない一言だった。そのとたん、彼女は関係のないぼくまでビクッとさせられるほど、ものすごい勢いで茶々を入れた奴をにらみつけ、だがすぐに何ごともなかったように話を続けた。
「でね、何で私たちの証言が重要かと言うと、私とカレが(彼女はそこで的場のことをいとおしそうに見上げた)すれ違ったとき、その男の人はすでに犯人にやられていたらしかったからなのよ。今にして思えば、の話なんだけどね」
これには聞いている側もエエッとなって、二人の交際問題などどうでもいいとばかりに身を乗り出した。むろん、ぼくも例外ではなかった。
「そう、きっとそうに違いないわ。だって、あのときもうようすがおかしかったもの」
京堂広子は、小柄《こがら》な体をせいいっぱいそびやかすと、芝居《しばい》がかった調子で、
「あの男の人は照りつける西日を受けて、前かがみになりながらやってきた。胸のあたりをこんな風に押えながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、まるで酔《よ》っ払《ぱら》いみたいにね。場所はちょうど、あの高い木の塀があるお屋敷のあたりで……」
(えっ?)
その一言に、ぼくは耳をそばだてた。思わずこう問いかけていた。
「高い木の塀って、通学路の東寄りの家にあるやつのこと? 片っぽが何も塗《ぬ》ってない白木で、向かい側が黒板塀の……」
あんまりこういう場で口をはさむ方ではないので、自分でも驚《おどろ》いたが、まわりの連中もちょっと変な顔をしていた。このとき、ぼくの脳内には彼女の話に基づいて現場の情景——むしろ一つの図が思い浮かび、そのせいでそんな質問をしたくなったらしかった。
「そうだけど、それがどうかしたか?」
妙《みょう》につっけんどんに答えたのは、京堂広子ではなく的場長成の方だった。とんだ事件のせいで彼女との仲が公認のものになってしまったことにヤケ半分だったのか——いや、相手がぼくと見て威丈高《いたけだか》になった可能性の方が大きかった。
「いや、その」ぼくは口ごもった。「ちょっと、訊いてみたかっただけだよ。その人とすれ違ったのは、あの道のどこなのかなと思ってさ」
またこいつが、よけいな詮索《せんさく》で話の腰《こし》を折りやがって……という気まずい空気が漂《ただよ》いかけたとき、思いがけず救いの手を差しのべたのは、何と京堂広子だった。
「そういえば、暮林《くればやし》君もあそこが通学路だったのよね」
彼女は、あまりゾッとしない笑顔をぼくに振り向けて、
「そう、私たち[#「私たち」に傍点]が最初にその人の姿に気づいたのは、いま言ったお屋敷の手前にあるおうちに差しかかったときのこと……こっちが木の塀にさしかかったあたりですれ違って、そのまま東と西に別れたの。あんまり危なっかしい感じだったから、すれ違ってしばらくしてから振り返ってみたら、まだ後ろ姿が見えたのを覚えてる。あの足のノロさじゃ、この道を抜けるまでだいぶかかりそうだなって、思ったこともね。でも、いま思えば、それどころじゃなかったのね。だって、あのとき私たちが見たのは……」
「おい、そのことは……だろ」
ふいに的場長成が、いつになく強い口調《くちょう》で京堂広子をひじで突っついた。とたんに彼女はこびるように彼を見上げ、
「あ、そうだったね」
二人だけの秘密を確認するかのように言った。それから、何ごともなかったかのように、再びぼくに向かって、
「ま、それはともかくとして……私たちの話が、どうかした?」
意味もなく勝ち誇《ほこ》ったような表情で言った。
的場が何を押しとどめたのかはしらないが、彼女にすれば、めったになさそうな出来事、それも的場といっしょのときの体験について、くわしく訊いてくれるものは大歓迎《だいかんげい》だったのだろう。だが、ぼくはせっかくの期待を裏切り、いつもの調子で言った。
「いや、別に……あぁいや、ちょっとね」
すでにそのとき、ぼくの頭は別のことで占められていた。ぼくが昨日すれ違ったのが、的場と京堂が目撃《もくげき》したという男と同一人物だったとして、東から西へ向かって歩いていたその男と、逆方向に進んでいたぼくは西寄りのレンガ塀の前で、的場と京堂の二人組は東寄りの木の塀のあたりですれ違ったということは、彼らがぼくの前方を歩いていたということにほかならない。さっきの脳内図面にそれらのデータを書き込めば、こんな感じになるだろうか。
[#挿絵(img/01_038.png)入る]
と、いうことは——ぼくはいつもの癖《くせ》で、考えをめぐらし始めていた。こうなると、まわりの状況《じょうきょう》など目にも耳にも入らず、誰がどんな視線を向けていようといまいとどうでもよくなってしまう。こうなると楽は楽なのだが、といって、ずっとそのままというのも困りものではある。
だが、そのときはそんな心配の必要はなかった。
「おい、暮林」
ふいの声にわれに返ると、クラス担任の、ヒゲそりあとも青々とした顔がすぐ近くにあった。受け持ちの科目でもないのに、何でまた教室に現われたのかといぶかる間もなく、
「あとでちょっと生徒指導室に来てくれ。警察の人がお前からも話が聞きたいんだとさ」
と言った。