とうとう言ってしまった——そう思った。
あの黄昏《たそがれ》どきから数えて三日間、ものごとを考えて考え抜《ぬ》くというぼくの性癖《せいへき》が、こんなにも強く発揮《はっき》されたことはなかった。と同時に、そうしたやみがたい衝動《しょうどう》を、こんなにも呪《のろ》わしく思ったこともなかった。
これまでも、周囲の人々だけでなく自分自身までうんざりさせてしまうことは、たまに……いや、何度もあった。だが、それはもっぱら思考のプロセスそのもので、そこから導き出される解答ではなかった。
それが、今度ばかりは違《ちが》ったのだ。自分がこの目で見た事実と、その他のデータを正しい位置に並べ直し、何とか筋道の通ったものにしようとするうちに、ぼくには一つの答えが思い浮《う》かんできた。
マッチの火のたとえで言えば、真っ暗な道のりの行く手が、一瞬《いっしゅん》ながら明るく照らし出されたとでも言おうか。だが、ぼくがそこにかいま見たものは、何とも恐《おそ》ろしい怪物《かいぶつ》の輪郭《りんかく》——絶対にありえない、あってはいけない答えだった。
下校ルートを西から東へ進んでいたのが、当初考えられていたように、㈰的場長成《まとばおさなり》・京堂広子《きょうどうひろこ》、㈪ぼく、そして㈫行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》の順ではなく、㈰ぼく、㈪美羽子、㈫的場・京堂たちという並びだったとして、㈰の時点ではまだ傷ついていなかったあの男が、㈫の段階では致命傷《ちめいしょう》を負っていたとすると、凶行《きょうこう》は当然その㈰と㈫の間になされたのでなくてはならない。と、いうことは——?
こないだ読んだSF小説に、こんなのがあった。
ある若い科学者が、原子核《げんしかく》のかすかな揺《ゆ》らぎを計測することで、宇宙の誕生から現在までの時間、つまりこの世界の年齢《ねんれい》を算出できるのではないかと思いつく。やがて、その説に基づいた実験装置がはじき出した結果は、約六十万秒——何とたったの一週間でしかなかった!
科学者とその仲間たちは、あまりにもばかげた結果に笑いだし、だが念のため実験をやり直してみる。だが、その結果は、最初の実験からの経過時間がプラスされただけで、何度やっても同じだった。
やがて彼らは恐ろしい事実に気づく。本当にこの宇宙はほんの一週間前に生まれ出たのではないか、と。もし、そうだとしたら——これまで信じていた全てが崩壊《ほうかい》してしまうではないか。
そう長くもない短編小説だったが、ぼくには強い衝撃《しょうげき》を与えた。作者の奇想と、それを支えるべく念入りに組み立てられた背景に舌を巻くと同時に、自分が足元からエントロピーの大海にのみこまれてゆくような不安を覚えずにはいられなかった。
何より印象に残ったのは、実験を重ねれば重ねるほど、最も信じたくない、呪わしい真実を突《つ》きつけられてしまう主人公の恐怖《きょうふ》だった。宇宙的なスケールとは桁《けた》が違うものの、まさにぼく自身が同じ思いを味わうことになろうとは!
そうなのだ。ぼくの記憶《きおく》と、あの委員長コンビの目撃《もくげき》証言の喰《く》い違いを論理的に説明しようとすれば、時間的な前後関係を入れ替えるほかなく、となると殺された男がいったん西から東へ後|戻《もど》りをしたとしか考えられなかった。だが、その推理は当然に、殺人者はぼくの前方ではなく、背後からやってきていたという結論を導き出す。
ということは——? いや、そんなばかな!
ぼくは何度も首を振《ふ》り、とうてい受け入れられない�真実�を振り払《はら》おうとした。だが、考えれば考えるほど、それは疑いのないものとなり、加えてぼくの因果な性格は、考えやむことを許してはくれなかった。
ぼくは、あのとき自分の後方に見た美羽子の姿を何とか否定しようとした。誰かの人違い、いや、いっそ幻覚《げんかく》だったと思い込《こ》もうとした。だが、それができるぐらいだったら、これまで悩《なや》みはしないのだった。
だから、ぼくは信頼《しんらい》できる誰かに話を聞いてもらいたかった。ぼくを悩ませ、苦しめている思考のプロセスを吐《は》き出してしまいたかったのだ——できることなら、結論は抜きにして。
だが、そうはいかず、ぼくはついに彼女の名を口にし、次いで固唾《かたず》をのみながら夏川至《なつかわいたる》の反応を待つことになった。
こちらは真剣そのもの。だからこそ、いつもの彼らしくアッハッハと笑い飛ばしてほしかった。否定されても、いっそ侮蔑《ぶべつ》されても、それでぼくを絞《し》めつけている論理の呪縛《じゅばく》から解き放ってくれるなら、その方がよかった。
だが、彼が示した反応は、そのどれでもなかった。
「おいおい、お前正気か? そりゃつまり、行宮美羽子が、あのオッサン殺しの犯人ってことか」
という問いかけこそ、冗談《じょうだん》めかしてはいたものの、頭ごなしに否定するような態度はみじんも感じられなかった。
「そういうことに……なるな」
ぼくは、夏川の真摯《しんし》さにたじたじとなりながらも、うなずいてみせた。
「そういうことになるって、お前」夏川は一瞬絶句した。「いくら何でも、そんな……あくまでも理屈《りくつ》の上のことだろ、それは?」
「ああ」ぼくは答えた。「だからこそ困ってるんだ。理屈の上では、どうしてもそうなってしまうんだから」
「そうか、なるほどな」
夏川は妙《みょう》に納得したように言い、「いかん、おれまで調子が狂《くる》っちまったじゃないか」と苦笑まじりに付け加えた。それから、やや気を取り直したようすで、
「要するに、お前が言いたいのは、あの男が刺《さ》されたのは、お前とすれ違ったあとで、的場・京堂の委員長コンビの前。そして、お前の後ろにいたのは、行宮美羽子——ということか。だが、彼女だけとは限らないんじゃないか、間にいたのは?」
「それはむろん考えたし、検討もしてみたよ」ぼくは答えた。「だけど、ぼくと彼らの間に、そう何人もの人間がサンドイッチになっていたとは考えにくいんだ。かりに、そんな人間がいたとして、そいつは行宮美羽子の後から来たことになる。なぜって、ぼくと彼女の間には誰もいなかったことは確実だからね」
ぼくは、あのとき振り返りざま美羽子の姿を見かけたことを説明し、そのときの情景を脳裡《のうり》によみがえらせた。続けて、
「だとすると、彼女はまだ無傷な状態の中年男とすれ違っていたはずだが、ぼくが警察の連中に絞《しぼ》られた限りでは、そんな証言が彼女の口からされた形跡《けいせき》はない。おかしいじゃないか、あの頭脳明晰《ずのうめいせき》にして品行方正な行宮にしては?」
「ま、そりゃそうかもしれないが……」
夏川は不承不承答え、だがやっぱり納得できなさそうに、
「だけど証言しなかったのは、単に警察から訊《き》かれなかったからじゃないのか? 彼らだって、あそこを通った全員を呼び出したわけじゃないだろうし……」
夏川は、納得できなさそうに問いを投げ返してきた。ぼくはその言葉をおうむ返しに、
「警察から訊かれなかったから、か……。そう、彼女はまさにその通りのことを言ったよ」
「その通りのことをって」夏川は目をパチつかせた。「お前、行宮に直接|尋《たず》ねたのか?」
「ああ」
ぼくはうなずいてみせた。そのとたん、美羽子が見せたアルカイック・スマイルが、ふいに脳内スクリーンいっぱいに映し出された。そう……あのとき、彼女の笑みに圧倒《あっとう》されつつも、ぼくはいくつかの質問を投げかけたのだった。
「ぼくは、思い切って彼女に訊いてみた——あのとき、君は殺されたあの男とすれ違ってたんじゃなかったかい、ってね。そしたら……」
「そしたら?」
夏川が先をうながす。
「彼女は答えた——『ええ、そういえば、そんなことがあったかな』と、こともなげにね。だもんで、『そのときの、男のようすはどうだった? 何か重い傷を負っているように見えたか、それともそんなようすはなかったかい』とさらに突っ込んでみた」
「で……行宮はどう答えた」
夏川の声は、心なしかかすれているように聞こえた。ぼくはといえば、何だか息苦しい思いで、
「彼女の答えはこうだった。『さあ、覚えてないな。でも、強いてどうだったかって言われたら、特別何かあった風には見えなかったと答えるほかないかも』」
そう聞いたとたん、夏川は「ということは、だ」と勢い込んで、
「彼女がすれ違ったときには、まだオッサンは襲《おそ》われてなかったってことになる。つまり、何かあったとしたらそのあとで、つまり彼女と委員長コンビの間にいた何者かのしわざってことになる。彼女の言葉を信じる限りはな。——暮林《くればやし》、行宮が嘘《うそ》をついてたように見えたか?」
「いや……そうは見えなかった」
ぼくは、ゆっくりと首を振ってみせた。すかさず「それみろ」と言いかける夏川を手で制して、
「だけど、彼女はこうも言ったんだよ。『でも、通り過ぎてしばらくたってから振り返ったときには、何だかようすが変わっていたの。ひどくフラフラして、苦しそうな後ろ姿に見えて、どうしたのかとも思ったんだけど、そのときにはすぐ見失っちゃった』——そして、そのときも嘘をついているとは思えなかった」
「つまり、行宮美羽子とすれ違う前は無傷で、その直後には何らかの異変が——って、おい!」
夏川は、数少ない店内の客たちが振り返るほどの大声をあげた。あわてて声をひそめたものの、それとは裏腹なえらい剣幕《けんまく》で、
「まさか、彼女が自分の犯行だと認めたとかいうんじゃないだろうな。本気でそんなことを信じてるのか。答えろ、答えるんだ暮林!」
ぼくの胸倉をつかまんばかりにしながら、詰《つ》め寄った。
「そ、それは……」ぼくはやっとのことで答えた。「ぼくにもわからないんだ。自分が立てた推理というかロジックが、とんでもない人物を名指ししてしまったこと、しかも当の本人がそれを裏付けかねない言葉を放ったのを、どう考えたらいいのか。いったいどうしたらいいのか、さっぱりわかんないんだよ!」
言うほどに、ぼくは頭をかきむしり、ついにはテーブルの上に突っ伏《ぷ》してしまった。
それから、どれほどの時間が過ぎただろう。ふいに、何かが肩《かた》の上に置かれるのを感じて、はっと顔を上げた。
それは夏川至の手だった。彼の温かい手のひら、力強い指先が優しく、ぼくを励《はげ》ますかのようにたたいた……かと思うと、えらい力でぼくの首根っこを引っ張った。
(え、いったい何!?)
惑乱《わくらん》するぼくの間近に、夏川は真剣そのものの顔を寄せ、これまた同様な声音で、
「どうしたらいいか、わからないだと? 決まってるじゃないか。ことの真相を確かめるんだよ。お前の推理だかロジックだかが間違ってるってことをな。お前だって、内心そのことを望んでるんだろ? それでいて、怖《こわ》くて手も足も出せずにいるんじゃないのか?」
ズバリと、こちらの本心を突いてきた。
「で、でも、どうやって……」
「どうやってだと? そんなもん、ただ行動あるのみだよ!」
夏川は、ぼくの体を激しく揺すぶった。続けて、やや感情を抑《おさ》え気味にしながら、
「がっかりしたよ、暮林。ほかの奴らはどうか知らないが、おれはこれまで、お前のものごとを考えて考え抜く癖《くせ》というか、能力についちゃ敬意を払ってたんだぞ。さっきまでのお前の話は、いつもにも増してみごとだった。だが、一つとてつもなく重要な可能性を忘れちゃいませんかてんだ」
「重要な可能性?」
「そうだとも。確かにお前は、自分を含《ふく》めた目撃証人とあのオッサンの遭遇《そうぐう》順序が、これまで考えられていたのとは違っていたのではないかと指摘《してき》し、犯行が行なわれた時間と空間に、ほかの誰より近くにいたのは行宮美羽子じゃないかという結論を導き出した。だからといって、なぜ彼女が犯人じゃないかってとこまで短絡《たんらく》しちまうんだ」
「え、どういうこと……」
問い返しかけて、ぼくはドキッと心臓が高鳴るのを感じた。時を同じくして、脳内の奥深くで小さな火花が散った気がした。
「それは、つまり……」
言いかけたぼくに、夏川は大きくうなずいてみせた。
「おう、さすがにわかりが早いな。だが、ここはおれに言わせてくれ。——もし、あのオッサンに加えられた致命傷が、出合い頭に切りつけるといった単純なものではなく、もっと未知な、そして巧妙《こうみょう》な手口の結果だとしたらどうだ。推理もののトリックとしちゃアンフェアかもしれないが、何かこう特殊《とくしゅ》なやり方で、遠くから人目につかず狙《ねら》い撃《う》ちにしたのなら、疑いをかけるのは何も行宮美羽子に限った話じゃなくなるぜ」
そうか! と思った。と同時に、あのコインロッカーにひそんでいた自動発射装置が思い出される。もし、あれより少しばかり複雑巧妙な仕掛《しか》けが使われていたとしたら——そうとも、どうしてそんな風に考えてはいけないんだ?
(そう……そうなんだ!)
ぼくは、心の中で何度もうなずいていた。ぼくは間違っていた。行宮美羽子もまた犯人であり得るという、間違った前提でものを考えていたことに気づいたのだ。
そうとも、シャーロック・ホームズも言っているではないか。不可能なこと全てを取り除いたあとに残ったものが、それがどんなに奇妙に見えたとしても真実なのだ——と。そのことを忘れ、小理屈をこね回した結果、たどり着いたのが、真っ先に取り除くべき�不可能�だったとは、何というお笑いぐさだろう!
そしてまた、間違うことは、というより間違いを認めることは、何と楽しいのだろう。温かい安堵《あんど》が胸いっぱいに広がって、何て晴れ晴れした気持ちになれるんだろう……そう思い込もうとする一方で、ズキッと痛みが心を駆《か》け抜けた気がしたが、無視しておいた。
思えば、それまで自分も周囲も悩ませてきたぼくの性癖は、一種の呪いのようなものだった。それが、あっさりと解けたというか、無意味なものになってしまったのには、拍子《ひょうし》抜けする思いだった。
要は、それだけぼくは、今回たどり着いた結論をもてあまし、うとましく思い、恐怖さえしていたということだ——これまでの自分を否定されても平気なぐらいに。
「あの、ところで」
ぼくは、ふと気づいたことがあって、夏川に尋ねた。
「さっき『行動あるのみ』って言ったよね。あれはいったい……」
「何だ、お前ともあろうものが、まだわかんないのか」彼は呆《あき》れたように、「いいか、お前の推理は肝心《かんじん》のところで間違っていたとしても、行宮美羽子があのオッサンの死の一番近くにいたことは確かだ。ということは、何か重大なことを目撃してしまったとしてもおかしくない」
「でも、彼女はそんなことを言ってなかったよ。潔白《けっぱく》である以上、嘘をつく必要はないと思うけど」
ぼくが反駁《はんばく》すると、夏川は首を振りながら、
「さあ、犯人がそう考えてくれるといいんだが……」
「えっ、それって、どういうこと?」
「いいか、あのオッサンを殺した真犯人にとって、彼女は何かと厄介《やっかい》な存在のはずだ。何か不都合な事実を目撃していた場合はもちろん、何も見ていなけりゃいないでね」
「あ、そうか……」
ぼくは思わず声をあげてしまった。そのあとに、独り言なのか彼に聞かせたいのか、自分でもはっきりしないまま、
「被害者が何らかのトリックにより、通学路から離《はな》れた場所から致命傷を負わせられたのだとしても、犯人としてはそう思われたくなかったに違いない。一番いいのは、時間的にも空間的にも被害者の間近にいた誰かに罪をかぶってもらうことだけど、それが可能な相手とそうでない相手がいる……」
行宮美羽子が、どちらに当てはまるかは言うまでもない。今さらながら、ぼくは自分の推理もどきの恥《は》ずかしさに、カッと顔が火照《ほて》るのを感じた。
「とうてい、その人物には犯行不可能だと思われてしまえば、当然、捜査側の目は犯人が用いた手段を見破ろうとする方向に……え、ということは、まさか!?」
ぼくはハッと夏川の顔を見上げた。
「そういうことだ」
彼は、小さくうなずいてみせた。それまでにも増して真剣そのものの面持《おもも》ちで、一つの決意さえ浮《う》かべながら、
「行宮美羽子が危ない——」
短く放った言葉に、ぼくは心臓が跳《は》ね上がる思いだった。彼は続けて、
「ただの考え過ぎ……むしろ妄想《もうそう》なのかもしれない。だが、可能性はゼロじゃない。そうだろ、暮林?」
ぼくは思わず立ち上がっていた。「おい、どうした?」と問いかける夏川の言葉をさえぎるように、口をついて出た言葉があった。
「彼女を守らなくっちゃ。何ができるかはわからないけど、とにかく守らなくっちゃ、真犯人の手から!」
無謀《むぼう》というか、滑稽《こっけい》でさえあるヒーロー気取りの言葉だった。ふだんなら、口が裂《さ》けたって口にしないセリフを恥ずかしげもなく吐いたのは、あらぬ疑いをかけた行宮美羽子への贖罪《しょくざい》の気持ちがあったのかもしれない。
だが、それ以上の意味がぼくにはあったのだ。ここしばらく自分を苦しめてきたロジックだか推理だかが、まるきり間違っていたことを立証するのに、これほど確かな方法はなかったからだ。そのうえで、これまでの自分と訣別《けつべつ》し、ぼくにかけられた呪いから解放されるなら、願ったりかなったりだった。
「しょうがないな、全く」
フッと吹《ふ》きかけられた言葉に見直すと、夏川が苦笑まじりに腕を組み、ぼくをながめていた。
「その話、おれも乗らせてもらうよ。お前だけじゃ危なっかしいからな」
「で、でも、何で君が——?」
「決まってるだろう」夏川は、さもおかしそうに、「今のところ、行宮が狙われてるかもしれないなんて妄想し、それをほんのちょっとでも信じることができてるのは、おれたちだけだからさ。それに暮林、おれが自分のことを棚《たな》に上げて『行動あるのみ』なんてことを言うとでも思ったか?」
ぼくは無言で首を振ることしかできなかった。そのあとにやっと一言、
「ムチャクチャだな、相変わらず」
「ああ、ムチャクチャだとも」夏川は答えた。「だが、別にそれでいいんじゃないか?」
「まぁ……ね」
答えながら、ぼくは胸に温かいものが広がり、心臓がさっきまでとは別の意味でワクワクと高鳴るのを感じていた。
全くもってムチャクチャな、論理のかけらもない話だった。だが、そのときしみじみと感じていた。非論理的であることは、こんなにも楽しいものかと。
と同時に、一抹《いちまつ》の哀愁《あいしゅう》とともに自覚せずにはいられなかった。つくづくとぼくは主役には向かない人間だと。ミステリでいえば決して名探偵ではなく、よくてワトスン役、せいぜい助手がふさわしいのだと。だが、夏川至を目前にその事実を認めることは、半面とても楽であり、快適ですらあるのもまた事実だった——とりわけ主役を譲《ゆず》る相手が、目の前にいる夏川至である場合には。
こうして——ぼくらの探偵ごっこが始まった。
探偵ごっこというからには、相手となる悪漢が必要だが、それはなるべく正体不明であるのに越したことはなかった。それも、できるだけ時代離れした、現実の犯罪者などではない奴で、それでいて狙いをつけた美少女をあっさり引き渡《わた》してくれそうな……。
[#改ページ]
「ある人物を想像してみてくれ——長身で、痩せていて、いかり肩で、シェイクスピアのような額で、悪魔のような顔をしている。きれいに剃りあげた頭、猫を思わせる緑色の瞳、磁力のように視線をひきつける切れ長の目。東洋人の狡猾さと英知を一身に集めた、偉大なる頭脳。天才なみの知性、過去および現在の科学知識、豊かな政府の資力を備えている——もっともかの政府は彼の存在そのものをいっさい否定しているが。ともかく、これが黄色い悪魔の化身ともいうべき、フー・マンチュー博士の実像なのだ」