黄昏《たそがれ》どきのセピア色に染められた街角の向こうから、行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》が歩いてくる姿を認めたとき、ぼくは心臓が大きく高鳴るのを感じた。喜びと後ろめたさがないまぜになった、何とも複雑な気分だった。
工場の薄汚《うすよご》れた塀《へい》や営業してるのかいないのかわからない店屋、どうやら無人のようにも見える家々——そんな平凡《へいぼん》で退屈《たいくつ》きわまりない風景が、一瞬《いっしゅん》にして生き生きとしたものに変わった。
無性にその中に飛び込んで行きたい気がしたが、それは許されないことだった。身を乗り出して彼女を見つめることすらはばかられて、物陰《ものかげ》から見守ることしかできなかった。それが、|のぞき屋《ピーピング・トム》には分相応というものだった。
ぼくと夏川至《なつかわいたる》の探偵ごっこが始まって、三日目の夕方——。といっても、それは単純かつ単調なもので、ただひたすら行宮美羽子を見守り、彼女の身に何か起こればただちに駆《か》けつけるというものだった。
ぼくらは、通学路で彼女と遭遇《そうぐう》するよう登校時間を調整し、校内では絶えずその姿を視野の片隅《かたすみ》に入れておくようにした。下校時ともなれば、もちろん尾行開始だ。
ちょっと見方を変えれば、いや、変えなくても立派なストーカーといえた。だが、その点については立派な言い逃《のが》れがあって、ぼく一人ならともかく、二人連れのストーカーというのはあまり聞いたことがない。いや、いるのかもしれないが、相棒が夏川至であることは何よりの否定材料となった。
そういう�保険�がかけられていたおかげで、ぼくは安心してこのゲームに没頭《ぼっとう》することができた。
実際、これは楽しいゲームだった。あの、どこか近寄りがたい行宮美羽子を、当人の知らないままウォッチ対象とすることで、自分が優位に立ったような錯覚《さっかく》に陥《おちい》ることができた。手の中で踊《おど》らせることさえできるように思えた。
だが、そんなのんきな思い上がりがこなごなに粉砕《ふんさい》され、ぼくがたっぷりと報いを受けるときが、やってこようとしていた。それも、今この瞬間に……。
それは、まさにあっという間の出来事だった。黒塗《くろぬ》りで今どき見かけないようなスタイルの、いかにも高級そうな乗用車がふいに視野に割り込んできたかと思うと、美羽子を覆《おお》い隠《かく》すようにして急停車した。
(な、何だ?)
思わず二、三歩前へよろめき出し、真っ黒な車体の向こうに目を凝《こ》らした。天井越《てんじょうご》しに複数の人物の頭がのぞき、窓と車室を通して、美羽子のものと思われる黒髪や白い肌、制服の一部が、何やらめまぐるしい動きをともなってかいま見えた——そのとき、
「おい!」
びっくりするような声とともに、思いっきり背中をどやしつけられ、ぼくはあやうく悲鳴をあげそうになった。
「あ……夏川」
と振《ふ》り返りかけたぼくの首を、夏川至はグイと元の方向にねじ向けながら、
「『あ……』じゃないよ、あれを見ろ!」
そう言った語尾と、自動車がドアを荒々《あらあら》しく閉じ、と同時に走りだす音が折り重なった。黒塗りの車体は一気に視界をフレームアウトしようとし、あとにはがらんとした家並みだけが残された。
ということは、美羽子は——? 言うまでもなく、今の車に乗せられたのだ。だが、それが何を意味するのか、いったいどうすればいいのか、頭の中が白くなってしまって、とっさには判断がつかなかった。
それを教えてくれたのも、夏川だった。彼は「何してる!」と常になく乱暴《らんぼう》な、たたきつけるような口調《くちょう》で、
「行宮はあの車に押し込《こ》められて——そう、拉致《らち》されたんだ!」
ら、拉致? とぼくが聞き返すより早く、
「何してる、すぐ追っかけなきゃ……」
「で、でも、どうやって?」
情けなくも、おろおろと訊《き》くぼくの肩《かた》を、夏川はやにわにひっつかむと、
「いいから、これに乗れ!」
叫《さけ》びざま、ぼくを何やら古びた自転車の荷台に引きずり上げるのと、路面を一蹴《ひとけ》りしてそいつを発進させるのとがほぼ同時だった。
数秒後、われに返ったぼくは、座り心地最悪の座席に必死にしがみつきながら、目の前に突進《とっしん》してくる街並みや足元を流れ去るアスファルトを茫然《ぼうぜん》とながめ、容赦《ようしゃ》なく吹《ふ》きつける風を感じていた。
その、まるで魔法みたいに現われた自転車が、もともと夏川の所有物だったのか、それとも不運な持ち主がたまたま鍵《かぎ》をかけずにいたものか、考える余裕も問いただす勇気もなかった。せめて、誰かが道端《みちばた》に捨てていった不用品(それでも、占有離脱物横領罪《せんゆうりだつぶつおうりょうざい》というのには当たるのだそうだ)であることを祈《いの》るばかりだった。
自転車で自動車を追う、しかも二人乗りで? バカげたことだと笑う人もいるだろう。だが、それ以外に方法はなかったし、今さら降りるわけにもいかなかった。
さすがはスポーツ万能の夏川で、ぼくを荷台に乗せていながら、そんな重みなどまるで感じていないみたいに軽やかにペダルをこぎまくり、街路を風のように疾駆《しっく》した。実際、ぼくの存在を半分以上忘れ去っていたみたいで、急なコーナリングの折など、荷台から何度こぼれ落ちそうになったか知れなかった。
だが、それだけの甲斐《かい》はあって、ぼくらはほどなく黒塗りの高級車の影《かげ》をとらえることができ、そのかなり間近まで肉薄《にくはく》しさえした。ぼくらにとって有利だったのは、車がすぐに住宅街に入り、昔の農道のあとでもとどめているのか、舗装《ほそう》されていても割合に道幅《みちはば》が狭《せま》く、しかもうねうねと屈曲《くっきょく》の多いために、ろくにスピードが出せないことだった。
そのおかげで、リアウィンドウ越しに、まぎれもない行宮美羽子の後ろ姿を見出すことはできた。ぼくらの気配《けはい》を察したのか、ほんのわずか振り返った刹那《せつな》があったが、その横顔はまぎれもない彼女のものだった。
(彼女が気づいてくれた……ぼくらに?)
そう思うと胸がカッと熱くなったが、たぶん単なる願望の産物だったろう。せめて、彼女が恐《おそ》れているのかおびえているのか、いま何を思っているのかを読み取りたかったが、それはかなわぬまま、次の瞬間には一気に引き離《はな》されてしまった。
そのあとも、そんなチャンスがあった。もっとも、それ以上は何とすることもできず、結局はツルリと取り逃《に》がし、ついには見失ってしまうのだったが。それでも、夏川は倦《う》むことなくペダルをこぎ続け、再び三たび黒い車体を視野に取り戻《もど》すのだった。
いつしかぼくらは、いまだかつて見たこともない、住宅街の奥にひそむ未知なる一角へ入り込んでいた。道はますます狭く、小刻《こきざ》みに曲がりくねって、おかげでターゲットの速度がぐんと落ちて追跡《ついせき》には好都合だったものの、果たして帰り道をたどれるのか心もとなかった。
だが、そんな心配をせせら笑うかのように、
「うわあああぁっ」
けたたましいブレーキ音に素《す》っ頓狂《とんきょう》な叫びを重ねながら、ぼくは大きく傾《かし》いだ自転車の荷台から放り出された。ぼくのまわりで世界が一回転し、その中で夏川が鮮《あざ》やかなターンを決めて自転車を停止させるのが見えた。
だが、幸いけがはなく、そんな暇《ひま》もなかった。オットットと珍妙《ちんみょう》なステップを踏《ふ》んだあげく、ぶざまに尻《しり》もちをつくかつかないかのうちに、ぼくは夏川にグイと腕《うで》をつかまれ、引きずり上げられていた。
「……見ろ」
ささやきにしては大きすぎる声が耳の穴に吹き込まれ、ぼくは目を見開いた。次いで、息をのまずにはいられなかった。
そこにあったものは、西洋館——といっては、あんまり大ざっぱで、パターン通りでもあるけれど、確かにその名を冠《かん》してもおかしくなさそうな古風な邸宅《ていたく》だった。
二階建てで、傾斜《けいしゃ》のきつい屋根から三角形の破風が突《つ》き出している。壁面《へきめん》はテラコッタというのか、一見石かレンガのようなつや消しのタイル張り。そんなお屋敷《やしき》が、こんなところにあるとは知らなかった。
たぶん、もとは広々とした原っぱにでも建っていたものが、しだいに宅地開発の波に取り囲まれ、庭も切り売りしたりして、ますますありふれた住宅群にうずもれていったのだろう。
ぼくらのいるのは、その間にかろうじて残された私道らしい路地で、目の前には球形の門灯《もんとう》をのっけた一対の積石柱が立っていた。幸い門扉《もんぴ》は開け放たれており、そこからやけに立派な玄関と、その前の車寄せまでがよく見通せた。
そこに長々と横付けになっていたのは——言うまでもなく、あの黒塗りの高級車だった。
「じゃ、じゃあ、彼女はあの屋敷の中に?」
ぼくは息をはずませながら、夏川の方を振り向いた。
「そういうことだ」
彼は硬《かた》い表情で、ろくにぼくを見もせずに答えた。同じぶっきらぼうな調子で続けて、
「ということは……助け出さなくちゃな」
ああ、と反射的にうなずいてしまったあとで、ぼくはぎょっと夏川の方を見た。そこには、このうえもなくいい笑顔を浮《う》かべた彼がいて、いきなりぼくの肩をたたいた——いや、より正確には思いっきり突きを喰《く》らわせてきた。
「そう、それでこそお前だ!」
(な、何だ?)
思わず二、三歩前へよろめき出し、真っ黒な車体の向こうに目を凝《こ》らした。天井越《てんじょうご》しに複数の人物の頭がのぞき、窓と車室を通して、美羽子のものと思われる黒髪や白い肌、制服の一部が、何やらめまぐるしい動きをともなってかいま見えた——そのとき、
「おい!」
びっくりするような声とともに、思いっきり背中をどやしつけられ、ぼくはあやうく悲鳴をあげそうになった。
「あ……夏川」
と振《ふ》り返りかけたぼくの首を、夏川至はグイと元の方向にねじ向けながら、
「『あ……』じゃないよ、あれを見ろ!」
そう言った語尾と、自動車がドアを荒々《あらあら》しく閉じ、と同時に走りだす音が折り重なった。黒塗りの車体は一気に視界をフレームアウトしようとし、あとにはがらんとした家並みだけが残された。
ということは、美羽子は——? 言うまでもなく、今の車に乗せられたのだ。だが、それが何を意味するのか、いったいどうすればいいのか、頭の中が白くなってしまって、とっさには判断がつかなかった。
それを教えてくれたのも、夏川だった。彼は「何してる!」と常になく乱暴《らんぼう》な、たたきつけるような口調《くちょう》で、
「行宮はあの車に押し込《こ》められて——そう、拉致《らち》されたんだ!」
ら、拉致? とぼくが聞き返すより早く、
「何してる、すぐ追っかけなきゃ……」
「で、でも、どうやって?」
情けなくも、おろおろと訊《き》くぼくの肩《かた》を、夏川はやにわにひっつかむと、
「いいから、これに乗れ!」
叫《さけ》びざま、ぼくを何やら古びた自転車の荷台に引きずり上げるのと、路面を一蹴《ひとけ》りしてそいつを発進させるのとがほぼ同時だった。
数秒後、われに返ったぼくは、座り心地最悪の座席に必死にしがみつきながら、目の前に突進《とっしん》してくる街並みや足元を流れ去るアスファルトを茫然《ぼうぜん》とながめ、容赦《ようしゃ》なく吹《ふ》きつける風を感じていた。
その、まるで魔法みたいに現われた自転車が、もともと夏川の所有物だったのか、それとも不運な持ち主がたまたま鍵《かぎ》をかけずにいたものか、考える余裕も問いただす勇気もなかった。せめて、誰かが道端《みちばた》に捨てていった不用品(それでも、占有離脱物横領罪《せんゆうりだつぶつおうりょうざい》というのには当たるのだそうだ)であることを祈《いの》るばかりだった。
自転車で自動車を追う、しかも二人乗りで? バカげたことだと笑う人もいるだろう。だが、それ以外に方法はなかったし、今さら降りるわけにもいかなかった。
さすがはスポーツ万能の夏川で、ぼくを荷台に乗せていながら、そんな重みなどまるで感じていないみたいに軽やかにペダルをこぎまくり、街路を風のように疾駆《しっく》した。実際、ぼくの存在を半分以上忘れ去っていたみたいで、急なコーナリングの折など、荷台から何度こぼれ落ちそうになったか知れなかった。
だが、それだけの甲斐《かい》はあって、ぼくらはほどなく黒塗りの高級車の影《かげ》をとらえることができ、そのかなり間近まで肉薄《にくはく》しさえした。ぼくらにとって有利だったのは、車がすぐに住宅街に入り、昔の農道のあとでもとどめているのか、舗装《ほそう》されていても割合に道幅《みちはば》が狭《せま》く、しかもうねうねと屈曲《くっきょく》の多いために、ろくにスピードが出せないことだった。
そのおかげで、リアウィンドウ越しに、まぎれもない行宮美羽子の後ろ姿を見出すことはできた。ぼくらの気配《けはい》を察したのか、ほんのわずか振り返った刹那《せつな》があったが、その横顔はまぎれもない彼女のものだった。
(彼女が気づいてくれた……ぼくらに?)
そう思うと胸がカッと熱くなったが、たぶん単なる願望の産物だったろう。せめて、彼女が恐《おそ》れているのかおびえているのか、いま何を思っているのかを読み取りたかったが、それはかなわぬまま、次の瞬間には一気に引き離《はな》されてしまった。
そのあとも、そんなチャンスがあった。もっとも、それ以上は何とすることもできず、結局はツルリと取り逃《に》がし、ついには見失ってしまうのだったが。それでも、夏川は倦《う》むことなくペダルをこぎ続け、再び三たび黒い車体を視野に取り戻《もど》すのだった。
いつしかぼくらは、いまだかつて見たこともない、住宅街の奥にひそむ未知なる一角へ入り込んでいた。道はますます狭く、小刻《こきざ》みに曲がりくねって、おかげでターゲットの速度がぐんと落ちて追跡《ついせき》には好都合だったものの、果たして帰り道をたどれるのか心もとなかった。
だが、そんな心配をせせら笑うかのように、
「うわあああぁっ」
けたたましいブレーキ音に素《す》っ頓狂《とんきょう》な叫びを重ねながら、ぼくは大きく傾《かし》いだ自転車の荷台から放り出された。ぼくのまわりで世界が一回転し、その中で夏川が鮮《あざ》やかなターンを決めて自転車を停止させるのが見えた。
だが、幸いけがはなく、そんな暇《ひま》もなかった。オットットと珍妙《ちんみょう》なステップを踏《ふ》んだあげく、ぶざまに尻《しり》もちをつくかつかないかのうちに、ぼくは夏川にグイと腕《うで》をつかまれ、引きずり上げられていた。
「……見ろ」
ささやきにしては大きすぎる声が耳の穴に吹き込まれ、ぼくは目を見開いた。次いで、息をのまずにはいられなかった。
そこにあったものは、西洋館——といっては、あんまり大ざっぱで、パターン通りでもあるけれど、確かにその名を冠《かん》してもおかしくなさそうな古風な邸宅《ていたく》だった。
二階建てで、傾斜《けいしゃ》のきつい屋根から三角形の破風が突《つ》き出している。壁面《へきめん》はテラコッタというのか、一見石かレンガのようなつや消しのタイル張り。そんなお屋敷《やしき》が、こんなところにあるとは知らなかった。
たぶん、もとは広々とした原っぱにでも建っていたものが、しだいに宅地開発の波に取り囲まれ、庭も切り売りしたりして、ますますありふれた住宅群にうずもれていったのだろう。
ぼくらのいるのは、その間にかろうじて残された私道らしい路地で、目の前には球形の門灯《もんとう》をのっけた一対の積石柱が立っていた。幸い門扉《もんぴ》は開け放たれており、そこからやけに立派な玄関と、その前の車寄せまでがよく見通せた。
そこに長々と横付けになっていたのは——言うまでもなく、あの黒塗りの高級車だった。
「じゃ、じゃあ、彼女はあの屋敷の中に?」
ぼくは息をはずませながら、夏川の方を振り向いた。
「そういうことだ」
彼は硬《かた》い表情で、ろくにぼくを見もせずに答えた。同じぶっきらぼうな調子で続けて、
「ということは……助け出さなくちゃな」
ああ、と反射的にうなずいてしまったあとで、ぼくはぎょっと夏川の方を見た。そこには、このうえもなくいい笑顔を浮《う》かべた彼がいて、いきなりぼくの肩をたたいた——いや、より正確には思いっきり突きを喰《く》らわせてきた。
「そう、それでこそお前だ!」
ぼくの記憶《きおく》に間違《まちが》いがなければ、この国の法律には住居侵入罪《じゅうきょしんにゅうざい》というものがあるはずだった。住居といっても普通の家屋に限ったことではなく、たとえ建物そのものに忍《しの》び込まなくとも、敷地内《しきちない》に入った段階で罪が成立する——とまぁ、確かそんなようなことだったと思う。
(だとすると、もうこの時点で十分にヤバいわけだな)
夏川至のあとについて屋敷の裏庭に回り込みながら、ぼくはつぶやいていた。
門柱には表札がないから誰の家とも知れないが、しかし誰かのものであることは間違いないわけで、だからそうあっさりと中に立ち入るのは……などという、確かに正論ではあるけれど、何でこの非常事態にそんなつまらないことをと、自分ながら嫌気のさす言葉が口をつくより早く、夏川は門の内側へと足を踏み入れていた。そのまま、ズカズカと玄関に向かいかけるのを、
「お、おい、まさか、真正面から入ってくつもりか?」
と肩をつかんで押しとどめると、彼は「そうだな」と少し考えてから、
「いきなりインタホンを鳴らしたって、行宮の居場所を教えてくれるわけないもんな。よし、こっちだ」
そのまま方向を右九〇度に転回させると、今度は建物の外壁《がいへき》に沿って歩き始めた。内部からの視線を避《さ》けるつもりだろう、身をかがめながら押し殺した声で、
「何してる、こっちこっち!」
彼の言葉に反して踵《きびす》を返し、その場から退散するという選択肢《せんたくし》もむろんあったろうし、賢明な人はたぶんそっちを採るのだろう。だが、そうしようにも、ぼくには数少ない友である夏川を裏切るような度胸はなく、それに劣《おと》らず行宮美羽子の安否を心配していた。
——かくして、ぼくの不法侵入行為は、ますます深みにはまっていくことになったのだった。
ぼくらは、まず何らかの手がかりと、できることならば潜入《せんにゅう》経路を求めて、西洋館の右側面に回り込んだ。左側は塀《へい》が迫《せま》っていて、大げさに言えば猫ぐらいしか通れそうになかったからで、上空から見れば反時計回りに建物を迂回したことになる。
こちらも大して広くもない、路地みたいな狭い空間を抜けると、意外に広い裏庭に出た。そこはおせじにも手入れが行き届いているとはいえず、雑草が生え放題の枯《か》れ放題になっていた。
だが、注目しなければならないのは足元ではなく、頭上だった。
ぼくらが建物の角を曲がり、裏手に足を踏み入れてまもなく、二階の窓に灯りがともったのが見えた。ほかはどれも暗いままで、ということは今その部屋に誰かが入ってきたのに違いなかった。そして、それがおそらくは美羽子ら一行であることも。
明るくなったのは、向かって左側の窓二つで、それらが部屋一つ分に当たることは見当がついたものの、中のようすは何一つわからなかった。夏川は大胆《だいたん》にも、雨樋《あまどい》だとか壁のわずかな出っ張りを頼《たよ》りによじのぼろうとしたが、やがて裏庭の真ん中あたりに目をやると、
「あれだ」
と、ささやきかけた。
あれ[#「あれ」に傍点]とは、おそらく樫《かし》と思われる樹木だった。高さは優に屋根に達し、幹周りは二抱えほどもあって、節くれだった太い腕を四方に張り出している。しかも、それらが枝分かれする股《また》の部分は、ちょうど二階の窓とほぼ同じ高さにあるように見受けられた。
(…………!)
ぼくは息をのんだ。ことここに至っては、木登りが苦手というより、ほとんど経験がないことなど問題にはならなかった。
(だとすると、もうこの時点で十分にヤバいわけだな)
夏川至のあとについて屋敷の裏庭に回り込みながら、ぼくはつぶやいていた。
門柱には表札がないから誰の家とも知れないが、しかし誰かのものであることは間違いないわけで、だからそうあっさりと中に立ち入るのは……などという、確かに正論ではあるけれど、何でこの非常事態にそんなつまらないことをと、自分ながら嫌気のさす言葉が口をつくより早く、夏川は門の内側へと足を踏み入れていた。そのまま、ズカズカと玄関に向かいかけるのを、
「お、おい、まさか、真正面から入ってくつもりか?」
と肩をつかんで押しとどめると、彼は「そうだな」と少し考えてから、
「いきなりインタホンを鳴らしたって、行宮の居場所を教えてくれるわけないもんな。よし、こっちだ」
そのまま方向を右九〇度に転回させると、今度は建物の外壁《がいへき》に沿って歩き始めた。内部からの視線を避《さ》けるつもりだろう、身をかがめながら押し殺した声で、
「何してる、こっちこっち!」
彼の言葉に反して踵《きびす》を返し、その場から退散するという選択肢《せんたくし》もむろんあったろうし、賢明な人はたぶんそっちを採るのだろう。だが、そうしようにも、ぼくには数少ない友である夏川を裏切るような度胸はなく、それに劣《おと》らず行宮美羽子の安否を心配していた。
——かくして、ぼくの不法侵入行為は、ますます深みにはまっていくことになったのだった。
ぼくらは、まず何らかの手がかりと、できることならば潜入《せんにゅう》経路を求めて、西洋館の右側面に回り込んだ。左側は塀《へい》が迫《せま》っていて、大げさに言えば猫ぐらいしか通れそうになかったからで、上空から見れば反時計回りに建物を迂回したことになる。
こちらも大して広くもない、路地みたいな狭い空間を抜けると、意外に広い裏庭に出た。そこはおせじにも手入れが行き届いているとはいえず、雑草が生え放題の枯《か》れ放題になっていた。
だが、注目しなければならないのは足元ではなく、頭上だった。
ぼくらが建物の角を曲がり、裏手に足を踏み入れてまもなく、二階の窓に灯りがともったのが見えた。ほかはどれも暗いままで、ということは今その部屋に誰かが入ってきたのに違いなかった。そして、それがおそらくは美羽子ら一行であることも。
明るくなったのは、向かって左側の窓二つで、それらが部屋一つ分に当たることは見当がついたものの、中のようすは何一つわからなかった。夏川は大胆《だいたん》にも、雨樋《あまどい》だとか壁のわずかな出っ張りを頼《たよ》りによじのぼろうとしたが、やがて裏庭の真ん中あたりに目をやると、
「あれだ」
と、ささやきかけた。
あれ[#「あれ」に傍点]とは、おそらく樫《かし》と思われる樹木だった。高さは優に屋根に達し、幹周りは二抱えほどもあって、節くれだった太い腕を四方に張り出している。しかも、それらが枝分かれする股《また》の部分は、ちょうど二階の窓とほぼ同じ高さにあるように見受けられた。
(…………!)
ぼくは息をのんだ。ことここに至っては、木登りが苦手というより、ほとんど経験がないことなど問題にはならなかった。