ぼくも何度か訪れたことのある市民病院は、この手の施設《しせつ》特有の冷たい光と、こもったようなざわめきと、それに薬品の臭《にお》いに満ちていた。案内係の人から目指す病室を教えてもらうと、これも病院独特の、やけに奥行きのあるエレベーターで指定の階まで上がっていった。
午後の授業をサボったのは、正解だったと思った。もし、律儀《りちぎ》に最後の科目まで受けていたら、見舞《みま》いにやってきた夏川《なつかわ》のクラスメートや部活仲間、それにファンの女の子たちと鉢合《はちあ》わせしていたかもしれない。そうなると何かと面倒《めんどう》だし、目的も果たせなくなるだろう。
もっとも、夏川のお母さんとか誰かが付き添《そ》っている可能性もある。肉親にしてみれば、事情はどうあれ、けがの原因を作ったぼくに思うところがないわけはない。だが、それならそれで真摯《しんし》に対応するまでだった。
病棟《びょうとう》の廊下《ろうか》は意外に明るく、寝間着姿の患者《かんじゃ》さんや白衣の医師、看護師《かんごし》、それに見舞い客らが行き交って、なかなかにぎやかだった。
ナースステーションで尋《たず》ねる必要もなく、すぐに目的の部屋の前にたどり着くことができた。そこに掲《かか》げられた「夏川至《なつかわいたる》様」の名札を見ながら、ちょっとの間、考えにふけった。
彼はもう意識を取り戻《もど》したろうか。一人でいるだろうか。どちらか一方でも満たされていなかったとしたら、ここへ来た意味はない。
なぜといって、ぼくは夏川に問いたださなくてはならないことがある。そのためには、ぜひとも回復した彼と一対一で話をしなければならなかった。
ぼくは軽く息をととのえると、病室のドアをノックし、おもむろに中に足を踏《ふ》み入れた。次の瞬間《しゅんかん》、ぼくは右に挙げた条件が、二つながらかなわなかったことを知った。にもかかわらず、この部屋を訪れた価値は十分にあったという事実をも。
——夏川至は、ベッドに横たわっていた。頭部には痛々しく包帯が巻かれ、点滴《てんてき》の管やら何だかよくわからない装置らしきものを結びつけられて、昏々《こんこん》と眠《ねむ》りこけているようだった。
まさか、無理に揺《ゆ》り起こすわけにはいかない。また揺すぶったところで、永久に目覚めないかもしれなかった。とにかく、現時点では彼に質問をぶつけることは不可能とあきらめざるを得なかった。
そして——夏川は一人ではなかった。
「————!」
ぼくは、思わず息をのまずにはいられなかった。
ベッドサイドの椅子《いす》に寄りかかるようにしながら、今ゆっくりとこちらを振《ふ》り向いた人影《ひとかげ》。ここにいようとは思いもしなかった、しかし心のどこかで予期していた気もする病室の先客は、ぼくに微笑《ほほえ》みかけると言った——。
「あら、暮林《くればやし》君」
あくまで落ち着いたその声音に対し、ぼくの返事はおかしいほどに上ずっていた。
「や、やあ、君もお見舞いに来てたのか。行宮《ゆくみや》……さん」
先客——行宮|美羽子《みわこ》は、黙《だま》ってうなずいてみせた。
それから、もう一つの椅子に腰掛《こしか》けたぼくは、彼女と当たりさわりのない会話を交わした。どれぐらい当たりさわりがなかったかというと、美羽子が今日学校を休み、直接この病院にやってきたということさえ、当人に確かめられなかったほどだった。
ましてや、彼女がなぜ警察で一切を黙《もく》して語ろうとしなかったのか、そもそもあの中年男女は何者で、どんなかかわりがあるのか、あの部屋でいったい何が起き、どんなことが話されていたのかについて切り出すことなどできはしなかった。
そんなわけで、ぼくらの会話は早々に途切《とぎ》れてしまった。他人《ひと》が見たら、傷ついた親友のかたわらで、分不相応な相手に恋の告白をしようとしてモジモジしている三枚目——といったシーンに見えたかもしれない。
そう、確かにぼくは一つの重大な�告白�を抱《かか》えていた。それは本来、夏川にぶつけるつもりで抱えてきたものだったが、考えてみれば美羽子にこそ向けられるべきものだった。だが、それはあまりに恐《おそ》ろしい部分をはらんでいて、躊躇《ちゅうちょ》せずにはいられなかったのだ。
だが、そのチャンスはふいに向こうからやってきた。
「ね」
行宮美羽子は、さしずめ三枚目ボーイの恋心にいっこう気づかず、無邪気《むじゃき》に微笑むヒロインといった感じで、ぼくに言いかけた。
「ひょっとして暮林君、夏川君に何か話があってきたんじゃない?」
「え? ああ、まぁね。でも、彼がこんな状態じゃあ……」
ぼくはどぎまぎしながら、答えた。美羽子はぼくをじっと見つめると、
「よかったら、かわりに聞かせてくれないかな、私に」
「え……」
ぼくは思わず相手を見返していた。これほど間近に美羽子の顔を凝視《ぎょうし》したことはなく、またこれほど彼女のことをきれいだと思ったことはなかった。
思わずその魅力《みりょく》に引き込《こ》まれそうになったのを、ぼくはあわてて踏みとどまった。何とか心臓と脳《のう》味噌《みそ》をクールダウンさせると、極力冷静に淡々《たんたん》と、いっそ非情といっていいほどの態度で話し始めた。
「あのときの、洋館みたいな建物でのことなんだけど、ちょっと気づいたことがあってね」
「そう、どんな?」
美羽子はちょっと目をみはり、少なからぬ興味を示した。——ぼくは軽く咳払《せきばら》いし、彼女からやや視線をそらしてから、
「うん……結局のところ、あそこでは何があったのか。ぼくが見たものは、見えたままに解釈《かいしゃく》していればいいのか、それとも——ということさ」
美羽子の笑みが濃《こ》くなった。その唇《くちびる》から、甘やかな言葉がこぼれる。
「面白いわ、とても。よかったら、もっと聞かせて」
美羽子は、心持ちぼくに身を寄せた。ぼくは彼女の匂《にお》いを、息遣《いきづか》いをさえ感じながら、
「ああ。あの部屋で、君を取り囲んでいた三人のうち、まず一人目の男が隣《となり》の部屋にこっそりと移動し、そこの隠《かく》し金庫みたいなものをいじくり始めた。そのことは、この目ではっきり見届けたから間違いない。続いて、二人目の男がそのあとを追って部屋を出、隣室《りんしつ》の戸口から一人目の男を狙《ねら》い撃《う》った。
けど、ぼくは二人目の男が君のいた部屋から出て行くのを確かに見はしたけれど、一人目の男のようにはっきりと隣室に移ったと確認したわけではない。ぼくが見たのは、彼の特徴《とくちょう》のある髪形と色|眼鏡《めがね》、それに派手な衣装の一部だけで、しかも銃声《じゅうせい》を殺すために使われたクッションのせいで顔のかなりの部分が隠されてしまっていた」
「そのことが、何か?」
美羽子が絶妙《ぜつみょう》の間合いで、先をうながす。
「そう」ぼくは唾《つば》をのみこんだ。「特徴のある眼鏡が見えたからといって、それが必ず持ち主の顔にのっかっていたとは限らない。服装もまたしかり。そして、ことによったら髪の毛もまた」
「髪の毛も?」
彼女はさもおかしそうに笑った。ぼくは「そう」とうなずいて、
「ぼくがあの男を次に見たのは、玄関前に停めてあった車の屋根に落下したとき。そのとき、彼の個性的といったらいいのか、あのマッシュルームカットまがいの髪は、おかしな具合にずれてしまっていた。あれはおそらくカツラだったんだ。それも、おつむがさびしくなった対策のためとかいうんじゃなく、玉虫色の衣装や色眼鏡と同様に本来の自分を覆《おお》い隠し、別のキャラづけをするためのね。つまり、それらは着脱《ちゃくだつ》可能のパーツであり、ある程度の条件さえととのえば、誰にでも利用できるものだった。
ということは——一人目の男をピストルで撃ったのが、本当に二人目の男だったという確証はどこにもない。いま思うと、彼が君のいた部屋を出てから、隣室に現われるまでずいぶん間が空いた記憶《きおく》がある。あれは、一人目の男に気取られないように中のようすをうかがうためではなく、人間の入れかわりのために必要な時間だったんだ」
「人間の入れかわり?」
「そう。二人目の男が部屋を出たあと、壁《かべ》の向こうで行なわれたことだ。一人目の男を追って廊下に出た直後、彼は何者かに襲《おそ》われ、衣装と眼鏡と、それからカツラを奪《うば》われた。そうして、まんまと彼になりかわったその何者かは、一人目の男を射殺し、何ごとかとやってきた女と争いになった。本来なら、あっさりとやっつけてしまえるところ、そうしなかったのは、とっくみあいが廊下にまで持ち越《こ》されたかのように、間抜《まぬ》けな目撃者《もくげきしゃ》のぼくに見せかけるため——現実には、そこまで見届けるまでもなく、木を下りてしまったんだけれどね」
「じゃあ、窓から車の屋根に突《つ》き落とされて死んでいたのは?」
美羽子は、このうえなく明るい声で言った。
「むろん、本物の方さ。かわいそうに、殴《なぐ》られるかどうかして気絶させられたあと、まだ朦朧《もうろう》とした状態のまま窓を破って突き落とされたんだ。その直前、トレードマークの眼鏡とカツラは返してもらえたんだろうけどね」
「なるほどね。でも……」
美羽子は考え深げに、あごに白い指をあてた。
「確かに、そんなことが行なわれたって証拠《しょうこ》はあるの?」
「証拠ってほどでもないが」ぼくは答えた。「ぼくは、あのとき彼のキンキラした服が、持ち主を追うように落下してきたのを見ている。あれは、窓を破って墜落《ついらく》するまでの格闘《かくとう》で脱《ぬ》げてしまったのではなく、あとから投げ落とされたのだとした方が自然じゃないか。眼鏡やカツラよりは、装着させるのに手間がかかったろうしね」
「じゃあ、あの女の人が襲われ、あべこべに投げ落とすまでの間に、また人間が入れかわったというの?」
彼女はますます興味深そうに訊《き》いた。ぼくは首を振って、
「違うよ。本物の二人目の男を突き落としたのは、あの竹ざおオカッパ女じゃない」
竹ざおオカッパ女? つい口に出たぼくだけの呼び名がおかしかったと見え、美羽子が噴《ふ》き出した。だが、ぼくはかまわずに、
「それをやったのは、二人目の男を襲い、髪の毛も含《ふく》めた彼のコスチュームを横取りしたのと同一人物——」
気がつくと、美羽子がぼくの視線の向かう先を追おうとしていた。あわてて目をそらすと、彼女はいたずらっぽい表情でのぞきこんできて、
「それは、誰?」
「それは」
言いかけて、ぼくはぶざまなことに軽く咳き込んだ。やっと一息つくと、あえて目を閉じてから続けた。
「それは、あのときあの屋敷《やしき》内にいた、君と中年男女三人組以外の人物。そして、それに当てはまるのはたった一人……」
言いながら、なぜか悲しみがこみあげてきた。そのことを言ってしまったが最後、何かが永久に失われることはわかっていた。だが、それでも言わないわけにはいかなかった。今のぼくを、かろうじてぼくでいさせている「推理」の結果を。
「そいつは、ぼくの身近にいて、ぼくが何を考え、何をしようとしているかを知っていた。いや、むしろそのためにぼくに近づいてきたのかもしれない。何者かの手先となってね。そうなったのは、せめて彼とぼくが親友——彼の方からすればそれほどではなかったかもしれないが、とにかく気の合う友達になった方が先だったと信じたいんだが……。
彼は、このところ立て続けに事件に巻き込まれ、やがて一つの疑惑《ぎわく》にたどり着いていたぼくに急接近し、相談に乗るふりをして、その疑惑をみごとに消し去ってしまった。そのうえで、むしろ自分主導で探偵ごっこに駆《か》り出し、木の上にまで引っ張り上げて、一場のお芝居《しばい》の目撃者に仕立てたというわけだ。今にして思えば、何と都合よく君が怪《あや》しい連中に拉致《らち》されて自動車に乗せられるシーンを目撃したことだろう!
警察で指摘《してき》されて気づいたことだけど、ぼくは君がむりやり車に押し込まれるシーンを見たわけじゃない。車体の陰《かげ》に隠れて見えなかったからね。なのに、そうだと思い込んでしまったのは、その人物がそんな風に決めつけて、ぼくを暗示にかけたからだ。
全ては織り込みずみだった。でなければ、いかに住宅街で細い道が入り組んでいたにせよ、自転車でああもうまく追尾《ついび》できるはずはなかったんだ。
そうとも、ぼくはまんまとだまされていたんだ。そこに横たわっている夏川至に、まるで赤子の手をねじるみたいにあっさりとね!」
言い切った瞬間、ぼくは目を開き、と同時に愕然《がくぜん》とした。ベッドの上の夏川至が、いつのまにか目覚めて、奇妙《きみょう》にゆがんだ笑みを浮《う》かべながらこちらを認めているような気がしたのだ。
(な、夏川、お前、意識を取り戻していたのか——!)
驚《おどろ》きとともに、大いなる喜びをも感じ、と同時に今の告発を聞かれてしまったのかという悔恨《かいこん》もからみ合って、ぼくの心は乱れた。
だが……それきり、夏川の表情に変化はなく、開いたと思ったまぶたもまもなく閉じられてしまった。彼が目覚めてぼくの方を見たというのは錯覚《さっかく》で、そう思えたのは、一種の顔面の痙攣《けいれん》みたいなものに過ぎないことを、ぼくは知らなければならなかった。
「すると……こういうことね」
ややしばらくして、行宮美羽子が口を開いた。
「夏川君は、暮林君を残してあの建物の中に入り込み、一人目の男の人が私のいた部屋を出て行くのをやり過ごし、二人目の男の人がそれに続いたところを襲い、素早く彼にすりかわって一人目の男の人にピストルを発射した。そのあと女の人と争いながら廊下に出たあと、本物の二人目の男の人を突き落とした——というわけね。そして、そのあと、飛ばっちりを受けるかしてガラスまみれになった女の人はどこかに逃《に》げて行ってしまった、と」
「そういうことだ」
ぼくはひときわ深く、うなずいてみせた。美羽子はすっかり感心しきった面持《おもも》ちで、
「すごい、すごいわ、暮林君。……あれ、でもそれだとおかしなことになりはしない? もしそうだったとしたら、夏川君はいったい誰に大けがを負わされ、こんなことになったのかしら。やっぱり、あの女の人——あなたの言う『竹ざおオカッパ女』のしわざということになるのかしら」
「いや」
ぼくはきっぱりと言った、絶対の自信と名状しがたい痛みをともないながら。
「あの女にそんな余裕はなかった。やったのは——君だよ。夏川を操り、あの殺人劇をほぼ即興《そっきょう》で企画《きかく》演出し、その他いろいろな策謀《さくぼう》をめぐらし、このぼくをいいようにコケにしたのと同様にね」
そのあとに、長い間があった。行宮美羽子は花のようにあくまで明るく、かつ清楚《せいそ》に。片やぼくはといえば、自分で自分は見られなかったものの、彼女が「どうしたの、お腹でも痛いの?」と真顔で訊いたところを見ると、よっぽど情けなくも痛苦に満ちた表情をしていたのだろう。
「違う、そんなんじゃないよ」
「そうなの、ごめんね」
知らず知らず顔を伏《ふ》せ気味にしながら、かろうじて答えたぼくに、彼女はいやに素直に謝った。そのあとぼくの心を見抜いたかのように、
「一つ訊きたいんだけど……あなたがよりによって夏川君に疑いの目を向けたのは、何からだったの? やっぱり、彼がいつ誰に気絶させられたのかを、きちんと考えたのがきっかけ?」
それに関しては、できれば口に出したくなかった。唯一の友といってよかった夏川への信頼《しんらい》を、いまわしい病変のように猜疑心《さいぎしん》が塗《ぬ》りつぶしていった過程は、それ自体消し去りたいものだった。
「それもある。だけど、そもそものきっかけは、夏川の奇妙な発言だった。あの下校ルートでの件を、ぼくが『例の殺人事件』と呼んだとき、彼は『殺人事件? それって、どっちの』と訊いてきた。ぼくは自分がかかわるはめになったもう一つの殺人事件、すなわちコインロッカーの一件を含めての質問だと考えた。だけど、これはとてもおかしな話だった。どっちのも何も、ぼくがロッカーの方の事件にかかわったことは警察そのほかのわずかな人間以外知らないはずで、夏川がそんなことを口走るはずはなかったんだ……」
「なるほどね」
美羽子はあながち嘘《うそ》でも皮肉でもなく、感心したようすで言った。
「もう一つ」ぼくは続けた。「ぼくは『例の殺人事件』のときに拾い、あとでコインロッカー・コーナーでの悲劇につながったキーを、確かにカバンに入れてきたはずなのに失くしてしまった。いったい誰にそんなことが可能だったのか見当もつかなかったけど——君だってぼくの席には近づかなかったんだからね——一人だけ心当たりがいることを思い出した。あの朝、わざわざぼくのクラスにまでやってきた夏川至だよ。彼になら、ぼくのカバンを探り、キーを盗《ぬす》み取ることができたという事実にね……」
やり切れぬ思いでその事実を明かしたあと、ぼくはふいに顔を上げた。記憶にある限り、初めて彼女を強く見すえながら続けた——。
「何にせよ、全ての中心にいたのは行宮——君だ。君はあの黄昏《たそがれ》どきの下校ルートで、あの男を刺《さ》し、その人がキーを持っていたコインロッカーのからくりで青年を射殺した。そして今度は、隠し持った携帯電話か何かの通信手段で夏川を傀儡《くぐつ》に使い、逃げたのを加えれば男女三人の生き死にを操って一場の芝居を打たせた。——いったい君は何者なんだ? なぜあんなことをした? いったい何のためなんだ? いや、そんなことより、君は夏川に——ぼくの友達にとって君はいったい何なんだ? そして……君はこのあと何をしようというんだ!?」