「なるほど、クラスメートの女の子が、下校途中に怪《あや》しい車にさらわれて、それで後を追っかけていったら、変な屋敷《やしき》に入り込《こ》んでしまって、何やかんやあったあげく、彼女を助け出そうと中に飛び込んだ——そういうわけか」
再びの訪問となった警察署で、取り調べに当たった制服警官は、どこか小馬鹿《こばか》にしたような態度で、ぼくが話した内容を繰《く》り返してみせた。
——あのあと、ただもう夢中で、竹ざおオカッパ女あらためガラス片|突《つ》き刺《さ》さり化け物女にぶつかっていったぼくは、何とか相手に尻《しり》もちをつかせ、とっさに行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》の手をつかむのに成功した。
生まれて初めて触《ふ》れた彼女の指はびっくりするほど冷たく、ぼくはハッとしながらも叫《さけ》んだ。
「逃《に》げるんだ、行宮!」
彼女の名を一対一で、しかもこんなに強い口調《くちょう》で呼び捨てにしたのも初めてだったが、それらの行動を躊躇《ちゅうちょ》なくさせたのは、自分がこの場の主役だという思いだった。いったんはあっさりその座を明け渡《わた》した夏川至《なつかわいたる》が、目の前でのびてしまっているという事実が、ぼくの尻を思いっきり蹴飛《けと》ばした、といってもいい。
その夏川の体を抱《だ》き起こすと、何とかこの場から救い出すべくありったけの力で持ち上げようとした。だが、その意気込みもつかの間、
(ぐっ……お、重い!)
体格がいいだけあって、予想以上の重さに早くも挫折《ざせつ》しかけたときだった。肩《かた》にのしかかる力がスッと軽くなった。
見ると、かすかにうなり声をあげながらも、いまだ目を閉じたままの夏川の頭をはさんだ向こう側に、行宮美羽子の横顔があった。彼女が華奢《きゃしゃ》な肩を貸してくれていたのだ。
さ、暮林《くればやし》君、早く——確かにそう告げている彼女の瞳《ひとみ》に励《はげ》まされて、ぼくは力を込め直した。いくらぼくが非力でも、彼女に半分も負担をかけるわけにはいかない。今度はかなり軽く持ち上げることのできた夏川をエイヤッとかつぐと、ぼくは苦労しいしい階段を下り、半ば彼を引きずるようにして、ようやくこの屋敷の外に逃《のが》れ出たのだった……。
「——で、そのあと」
警官は、手にした鉛筆をもてあそびながら続けるのだった。
「救急車を呼ぶとともに、一一〇番にも通報したというわけか。ま、死人が二人も出たんじゃ、知らぬ顔もできないだろうがね」
どこか学校の教師を思わせる、何もかもわかっているよと言いたげな口調が、いやに気に障った。それはどういう意味ですか、と聞き返したかったが、警察官相手にそこまでする度胸《どきょう》はなかった。
「とにかく、君の言うんじゃ、一つの部屋に中年の男が二人、同じく女が一人いて、男の一人がこっそり隣《となり》の部屋に移ったところ、もう一人があとを追っかけてドアの陰《かげ》からピストルでズドンと一発発射。そのあと女もそっちに駆《か》けつけたところ、またもどこかに隠れていた男と争いになって、あげく女は男を玄関に面した窓から突き落として——と、ざっと、そんなようなことだったな」
警官は、机上の走り書きに視線を落としてから、
「だが、警察《われわれ》が駆けつけたときには、その女もどこへトンズラしたのか、行方《ゆくえ》知れずになってたから、確かめようもない。せめて君らも、もうちょっと何とかしようがなかったもんかねぇ」
とがめるような目を向けてきた。あのときは、竹ざおオカッパ女がとにかく怖《こわ》くてならず、あとを追っかけてくるのではと気が気ではなかったが、奴は奴で自分のしでかしたことが恐《おそ》ろしかったらしく、そのままどこかへ逃げてしまったらしい。
それを何とかしておけばよかっただなんて、とんでもない無いものねだりというしかなかったが、それに対してぼくができた反抗《はんこう》は、
「それは……そんなの無理でした」
と弱々しく反駁《はんばく》することだけだった。だが、警官は別にどう答えようとよかったようで、
「まあ、それはともかくとして……そもそも、君たちがあの屋敷に忍《しの》び込んだ理由はいったい何だったんだね。ただの探偵ごっこにしちゃ、度が過ぎてると思うんだが」
「え」
あまりのことに、ぼくは一言、いや一音口にしたきり絶句してしまった。まさか、この人はぼくがこれまで長々としゃべってきたことを何一つ聞いていなかったとでもいうのか。ぼくは何とか気を取り直すと、
「いや、だから、それはぼくと夏川——って、けがをした友達ですけど、彼とぼくとでクラスメートの女の子がむりやり車に乗せられるところに出くわして、それであとを追いかけたんです。そしたら、あそこに……」
「ほう、盗《ぬす》んだ自転車でかね?」
警官は腰《こし》を折るように口をはさんだ。
「それは夏川が……」
「友達のせいにするつもりか?」
ぼくはぐっと返答に詰《つ》まりながらも、必死に続けた。
「……確かにそれも、他人の家に入り込んだのも、よくないことかもしれません。だけどそれは、とにかく彼女が何者かに——たぶんあいつらにさらわれたのを見て、何とか助けなくちゃと考えたからで……」
「あいつらにさらわれる? あいつらってのは、君が窓|越《ご》しに見たっていう中年男女のことか」
「もちろん、そうです」
何を当たり前のことを訊《き》くのか、と怒鳴《どな》りたくなるのをこらえながら答えた。
「ふーん……で、そのさらわれたというのは、いったい誰のことかね?」
今度という今度は、唖然《あぜん》となってしまった。とっさには返す言葉も見つからないまま、それでも何とか、
「それは……そんなの決まってるじゃないですか。クラスメートの行宮美羽子君が——」
初対面の相手に彼女のことをどう呼んでいいかわからず、とっさに君づけなどしてみたが、なんだか妙《みょう》な感じだった。
「確かに見たのかね」
もちろん! と答えかけて、疑念とも違和感《いわかん》ともつかないものが頭をもたげた。それを振《ふ》り切ろうとして、
「それは、彼女に訊けばわかることじゃないですか」
「彼女にねえ」
警官が何を思ったか妙な笑いをもらしたときだった。この小部屋のドアが開いて、私服の若い男が入ってきて何ごとか耳打ちし始めた。
警官は「そうか、うん……わかった」などと受け答えしていたが、やがてぼくに向き直ると、
「君の言う、彼女のことだけどな。どうも君の話とは一致しないようなんだ。というより、そもそも何も話してくれないんだよ。自分の身に何が起きたのかについて何一つね。かたくなというか、よっぽど怖いことがあったのかはわからないが、ついさっき帰らされるまで、とうとう一言もしゃべらなかったらしい」
「!」
ぼくは今度こそ言葉を失ってしまった。彼女が自身を巻き込んだ大事件について、何も証言しなかったとは、いったいどういうことだ。いや、そのわけもさることながら、大事なのはそれがどんな結果をぼくにもたらすか、だった。
「つまり、だね」
警官は気の毒そうに、だがその一方でぼくをいたぶるかのような優しい口調で言うのだった。
「君の話を証明するものは、何もないということなんだ。そこで質問なんだが、何であの屋敷に忍び込んだ? ひょっとして、君らがあの女の子を連れ込んだんじゃないのか? 死んだ二人の男のことは、本当に何も知らないのか。それに……何だかさらに疑うようで悪いんだが、そのオカッパ頭で竹ざおみたいに細長い女ってのは実在したのかね?」
警官は、手にした鉛筆をもてあそびながら続けるのだった。
「救急車を呼ぶとともに、一一〇番にも通報したというわけか。ま、死人が二人も出たんじゃ、知らぬ顔もできないだろうがね」
どこか学校の教師を思わせる、何もかもわかっているよと言いたげな口調が、いやに気に障った。それはどういう意味ですか、と聞き返したかったが、警察官相手にそこまでする度胸《どきょう》はなかった。
「とにかく、君の言うんじゃ、一つの部屋に中年の男が二人、同じく女が一人いて、男の一人がこっそり隣《となり》の部屋に移ったところ、もう一人があとを追っかけてドアの陰《かげ》からピストルでズドンと一発発射。そのあと女もそっちに駆《か》けつけたところ、またもどこかに隠れていた男と争いになって、あげく女は男を玄関に面した窓から突き落として——と、ざっと、そんなようなことだったな」
警官は、机上の走り書きに視線を落としてから、
「だが、警察《われわれ》が駆けつけたときには、その女もどこへトンズラしたのか、行方《ゆくえ》知れずになってたから、確かめようもない。せめて君らも、もうちょっと何とかしようがなかったもんかねぇ」
とがめるような目を向けてきた。あのときは、竹ざおオカッパ女がとにかく怖《こわ》くてならず、あとを追っかけてくるのではと気が気ではなかったが、奴は奴で自分のしでかしたことが恐《おそ》ろしかったらしく、そのままどこかへ逃げてしまったらしい。
それを何とかしておけばよかっただなんて、とんでもない無いものねだりというしかなかったが、それに対してぼくができた反抗《はんこう》は、
「それは……そんなの無理でした」
と弱々しく反駁《はんばく》することだけだった。だが、警官は別にどう答えようとよかったようで、
「まあ、それはともかくとして……そもそも、君たちがあの屋敷に忍《しの》び込んだ理由はいったい何だったんだね。ただの探偵ごっこにしちゃ、度が過ぎてると思うんだが」
「え」
あまりのことに、ぼくは一言、いや一音口にしたきり絶句してしまった。まさか、この人はぼくがこれまで長々としゃべってきたことを何一つ聞いていなかったとでもいうのか。ぼくは何とか気を取り直すと、
「いや、だから、それはぼくと夏川——って、けがをした友達ですけど、彼とぼくとでクラスメートの女の子がむりやり車に乗せられるところに出くわして、それであとを追いかけたんです。そしたら、あそこに……」
「ほう、盗《ぬす》んだ自転車でかね?」
警官は腰《こし》を折るように口をはさんだ。
「それは夏川が……」
「友達のせいにするつもりか?」
ぼくはぐっと返答に詰《つ》まりながらも、必死に続けた。
「……確かにそれも、他人の家に入り込んだのも、よくないことかもしれません。だけどそれは、とにかく彼女が何者かに——たぶんあいつらにさらわれたのを見て、何とか助けなくちゃと考えたからで……」
「あいつらにさらわれる? あいつらってのは、君が窓|越《ご》しに見たっていう中年男女のことか」
「もちろん、そうです」
何を当たり前のことを訊《き》くのか、と怒鳴《どな》りたくなるのをこらえながら答えた。
「ふーん……で、そのさらわれたというのは、いったい誰のことかね?」
今度という今度は、唖然《あぜん》となってしまった。とっさには返す言葉も見つからないまま、それでも何とか、
「それは……そんなの決まってるじゃないですか。クラスメートの行宮美羽子君が——」
初対面の相手に彼女のことをどう呼んでいいかわからず、とっさに君づけなどしてみたが、なんだか妙《みょう》な感じだった。
「確かに見たのかね」
もちろん! と答えかけて、疑念とも違和感《いわかん》ともつかないものが頭をもたげた。それを振《ふ》り切ろうとして、
「それは、彼女に訊けばわかることじゃないですか」
「彼女にねえ」
警官が何を思ったか妙な笑いをもらしたときだった。この小部屋のドアが開いて、私服の若い男が入ってきて何ごとか耳打ちし始めた。
警官は「そうか、うん……わかった」などと受け答えしていたが、やがてぼくに向き直ると、
「君の言う、彼女のことだけどな。どうも君の話とは一致しないようなんだ。というより、そもそも何も話してくれないんだよ。自分の身に何が起きたのかについて何一つね。かたくなというか、よっぽど怖いことがあったのかはわからないが、ついさっき帰らされるまで、とうとう一言もしゃべらなかったらしい」
「!」
ぼくは今度こそ言葉を失ってしまった。彼女が自身を巻き込んだ大事件について、何も証言しなかったとは、いったいどういうことだ。いや、そのわけもさることながら、大事なのはそれがどんな結果をぼくにもたらすか、だった。
「つまり、だね」
警官は気の毒そうに、だがその一方でぼくをいたぶるかのような優しい口調で言うのだった。
「君の話を証明するものは、何もないということなんだ。そこで質問なんだが、何であの屋敷に忍び込んだ? ひょっとして、君らがあの女の子を連れ込んだんじゃないのか? 死んだ二人の男のことは、本当に何も知らないのか。それに……何だかさらに疑うようで悪いんだが、そのオカッパ頭で竹ざおみたいに細長い女ってのは実在したのかね?」
——朝の登校時というのは、いつだって憂鬱《ゆううつ》なものだと思っていた。
前の晩は一日の|毒抜き《デトックス》のために、いつも遅《おそ》くまで本を読んだりラジオを聴《き》いたりするせいで、慢性的寝不足《まんせいてきねぶそく》の頭はガンガンし、したがって朝食もおいしいと感じたことがあまりない。そのあと向かう場所が場所、過ごさねばならない時間が時間だけに、楽しく愉快《ゆかい》に鼻歌まじりでというわけにはいかなかった。
だが、この日——住宅街の奥にある洋館での大冒険(なんて呼びたくなるようなご陽気なものではなかったが)の次に迎《むか》えた登校時の気の重いことときては、これまでのブルーさを全部合わせたよりもひどかった。これに比べれば、ふだんの通学路なんてスキップスキップで行きたいぐらいなものだ。
家を出がけに見た新聞によると、あの屋敷に残されていた時代遅れの二枚目スター風とキンキラ衣装の色|眼鏡《めがね》男の死体の身元は、まだ不明とのことだった。ぼくらが現場を脱出《だっしゅつ》するのと前後して逃走《とうそう》したと思われる女については、存在すら触《ふ》れられていない。
記事そのものの扱《あつか》いもあまり大きくはなく、おかげでぼくらのことについてもくわしくは載《の》っていなかった。
とはいうものの、こうして公になったからには、あの騒《さわ》ぎがどんな風に学校に伝わっているのかは気になるところだった。何らかの形で伝わっているには違《ちが》いないとして、相当な好奇《こうき》の目で見られ、しつっこく詮索《せんさく》されることは覚悟《かくご》しなくてはならなかった。
警察での冷ややかな反応から類推《るいすい》してみても、それが決してポジティブなものであり得ないことは想像がつく。そして、何かはみ出した行動をとったものに対しては、ことの善悪にかかわらず、ネガティブな扱いしかしないのが、ぼくらの暮らす社会——とりわけその縮図というか出荷前の養魚池に相当するスクールライフの掟《おきて》ってものだ。
夏川至ならそんなことは気にしなかったろうし、彼さえいればはるかに気が楽だったろう。だが、彼はあのとき病院にかつぎこまれて以来、頭部の打撲が予想以上に深刻だったせいで、ずっとベッドに横たわったままでいる。そのことはぼくの気持ちをたまらなく重くしていたし、状況《じょうきょう》をよりうっとうしいものにするに違いなかった。
(よ、よし、行くぞ……!)
ぼくは校門の前で大きく息を吸い込み、そのままズカズカと校舎に足を踏《ふ》み入れ、階段を駆け上がった。その時点で、誰もが自分のことを見、こそこそと噂《うわさ》をしあっているような気がして体がカッと熱くなったが、今さら逃げ出すわけにはいかなかった。
いつもは開けっ放しなのに、今日に限って意地悪く閉じられていた教室の扉《とびら》を開く。思いがけず大きな音がして、中にいた連中がいっせいにこちらを見たが、それ以上これといった反応もなく、ぼくから視線をそらした。
その、とてつもなく長く感じられた数秒間のあと、ぼくは全身の力が抜《ぬ》けてゆくような気がした。
なぁんだ、誰も気にしてなんかいない、というより知りもしないのだ。ぼくのことはもとより、ひょっとしたら事件そのものさえも。だが、そんなことがあり得るだろうか?
大ありだ。警察がぼくの名を学校に告げなかったとは考えにくいが、だとしてもベラベラと生徒に明かす理由はない。そして、うちの学校の連中が、見知らぬ町での事件と生徒仲間を結びつけることができるほど、豊かな想像力を持ち合わせていないことは、ぼくが一番よく知っている。
ああ、心配して損した! そうとも、別に悪いことをしたわけじゃなし、ほかのみんなとちょっとばかり違う体験をしたからといって、何を後ろめたがることがあるもんか。
決して軽くないけがを負った夏川のことを考えるとチクリと胸が痛んだが、とりあえずぼくはいつものように、いてもいなくてもいい存在に甘んじることにした。それがこんなに快適なものだとは、今日初めて知ったことだった。
(それにしても、行宮は——?)
ぼくはあらためて教室内を見回した。だが、美羽子の姿は彼女の席にも、ほかのどこにもなかった。
要するに、ぼくは一人ぼっちだった。あの非日常どころか異常そのものだが、今も胸を高鳴らせるものがある記憶《きおく》を分かち合う仲間はどこにもいなかったのだ。
誰もあのことを知らない、誰もぼくが特別な体験をしたなどとは、想像さえしようとしない。ついさっきまでの卑屈《ひくつ》な安堵《あんど》はどこへやら、そのことに一抹《いちまつ》のさびしさといら立ちさえ覚え始めたころだった。ぼくは、ぼくを取り巻く連中の奇妙《きみょう》な反応に気づかされた。
それは、授業中ぼくを指名した教師の、妙に思わせぶりな態度と薄《うす》ら笑いとも何ともつかない表情だった。
どうにかこうにか質問への答えを述べるぼくに、教師は「ふーん」とか「へーぇ」などと、こちらの調子を狂《くる》わせるような合いの手を入れ、やがて「ふん、そんなもんでよろしい」と評したあとに、ボソリとこう付け加えたのだ。
「ま、お前もいろいろあるみたいだからな」
え? と思わず声に出して聞き返しそうになった。だが、そのときには教師は何喰わぬ顔で背を向け、板書を始めていた。
だが、今のが聞き違いではなかった証拠《しょうこ》に、茫然《ぼうぜん》と立ちつくすぼくの周囲には、見世物《みせもの》でもながめるような視線がまつわりついていた。そういえば、最初に名を呼ばれて立ったときにも教室内がザワッと波立ったようで、気のせいだと思い込もうとしたのだが……。
ぼくは、学校に着いて早々に感じたカッとした熱さを総身《そうみ》に満たしながら、ゆっくりと席に着いた。まるで、いやらしい藻《も》だらけの湖底《こてい》に沈《しず》んでいくような気がした。
そのあとは、もう針のむしろだった。休み時間になっても教室の外に出るなど思いもよらず、といって自分の席に張り付いていてもいたたまれない。誰もがぼくのことを噂しているようで、問いただせば藪蛇《やぶへび》になりかねない。
人が聞けばおかしく思うかもしれない。何一つ悪いことをしたわけではないのに、なぜそんなみじめな気持ちにならなければならないのかと。実際、ヒーローたちが冒険のたび、学校なり職場なりで小さくなっている物語など見たことがなかった。
ゆるやかな拷問《ごうもん》のような何時間かが過ぎ、やっと昼休みになった。さまざまな理由から、あいにく今日は弁当を持ってきていない。持ってきていたところで、教室で食べる気にはなれなかった。
といって、どこへ行けばいいのか。やっとのことで、客の途切《とぎ》れた隙《すき》にパンと牛乳を手に入れて——売店のおばちゃんにまで面《メン》が割れてはいないだろうと信じたかった——うろうろと場所を探すうち、
「おい、暮林」
人気《ひとけ》のない階段口で、ふいに声をかけられ、ビクッと立ち止まった。だが、すぐにどこかで聞いたような声だと気づいて振り向くと、
「よう、どうした」
クラス委員の的場長成《まとばおさなり》が、相変わらずのとぼけた表情と頼《たよ》りなげな風情《ふぜい》で立っていた。となれば、その相方はと探すと、小柄《こがら》な体を彼にへばりつかせるようにしながら、こちらをにらみつけている京堂広子《きょうどうひろこ》が目に入った。
「いや、別にどうもしてないけど……」
ぼくは、パンと牛乳入りの袋を彼らの鼻先に示してみせながら、
「どこかで昼メシにしようと思ってさ。そういう君らこそどうしたんだ?」
「われわれか?」
的場はそう答えかけ、だが京堂広子に脇腹《わきばら》をつつかれて「いや、まぁ」とか何とか咳払《せきばら》いまじりにごまかした。続けて、
「その何だ……いろいろあったみたいだが、実のところはどうなんだい」
訳知り顔で、その実何もわかっちゃいないことを暴露《ばくろ》しながら、探りを入れてきた。瞬間《しゅんかん》、苦《にが》いものが胸にこみ上げてきたが、この際むしろ強気に出てやれと、
「実のところって、何が?」
ぶっきらぼうに聞き返してやった。
的場は、とたんにひるんだようすを見せたが、またしても京堂にうながされて、
「いや、何か警察《けいさつ》沙汰《ざた》を起こしたとか何とか……」
「へえ、警察沙汰ね。で、そっちにはどんな風に伝わってるんだ?」
どうせロクな答えは返ってこないだろうとは承知の上で、訊いてみた。みんなの間に広がっている噂の実態について、この際知っておこうと思った。
「いや、そのぅ……まあ、お前が夏川と行宮美羽子を追っかけて、どこかの屋敷に迷い込んで——」
的場はへらへらと妙な笑みを浮かべながら、言った。言外に、いろいろくだらない臆測《おくそく》を含《ふく》んでいるのに違いなかった。と、そこへ、
「違うでしょ」
京堂広子がピシャリと口をはさんだ。彼女は、自分は恋人だと考えているらしい相棒を押しのけると、
「夏川君は、行宮さんを助けようとして、悪い奴らにやられちゃったのよ。あんた? あんたはどうせ卑怯《ひきょう》なまねをして自分だけ助かろうとしたに決まってるわ。何しろ、そんなストーカーごっこをするぐらいだものね。そのせいで、夏川君がけがをすることになっちゃって……」
言うほどに憎々《にくにく》しく、ぼくをにらみつけながら、まくしたてた。
なるほど、そういうことか。どうせ正しい姿が伝わっているわけがないし、そうだとしてもうさん臭《くさ》い扱いを受けるに決まっていると覚悟していたが、そこまでゆがめられていたとは。ほかに流布《るふ》しているであろう、別バージョンの�真相�も想像できないことはなかったが、気分が悪くなるのでやめておいた。
白状すると、ぼくは自分が踏み込んだ非日常の体験について、賛辞《さんじ》や羨望《せんぼう》までとは言わないまでも、ちょっとぐらいは感心してくれるものもいるのではないかと期待していなくはなかった。だが、それはあまりに甘い考えだった。
とりわけ、女性陣の評価は相当に辛辣《しんらつ》なものがあると推察された。彼女らにとっては、自分たちの好悪こそが全てであって、夏川の方こそ無謀《むぼう》だったとか、実はぼくが彼を救い出したのだという事実などはどうでもいい——いや、それどころか、書き換《か》えなければならない事実であるらしかった。
やれやれ……と嘆息《たんそく》しつつ、ぼくは女子たちに大人気の、とある運動部の選手を、彼女らにはなぜか嫌《きら》われている奴(その理由が、同性からはさっぱりわからないのだが)が打ち負かし、栄冠《えいかん》を勝ち取ってしまったときのことを思い出した。かわいそうに、彼女らの歓声《かんせい》と拍手《はくしゅ》はもっぱら人気者の方に向けられて、真の勝者はもののみごとに無視されてしまったどころか、まるでよけいなことをしでかしたとばかりのブーイングを浴びせられたという。
つくづくモテないというのはつらいものである。まして、ぼくなど、そいつより女子に不人気の点では、はるかに上回るのだから。
それにしても——と悔《く》やまれるのは、夏川が暴走《ぼうそう》ともいえる行動に出、あんなことになっていなければ、状況はまるで違っていたろうということだ。だが、そうなったのも、そもそもはぼくが巻き込んだせいだと思うと、ひしひしと罪の意識にさいなまれる。いったい誰が、あんなことを——。
(待てよ)
そのとたん、ぼくの中で何かが激しく頭をもたげた。そうだ、そういえば——何でこんな当然のことを疑問に思わなかったんだ?
あとはいつものパターンで、周囲の音も光も急速に遠ざかっていった。ひたすら考えに考える。脳内を記憶《きおく》の断片《だんぺん》が駆け巡《めぐ》り、論理がそれを次々とっつかまえては組み立て、それにしくじっては四散させ、またかき集めにかかる——そんなイメージがくっきりと見えた気がした。
だが、いつもと違っていたのは、純粋《じゅんすい》な知的作業であるはずのそこに、何ともいえない痛みと苦みがともなっていたことだった……。
「お、おい……急にどうした?」
的場長成がぼくの異変に気づいたか、あわてたようすで訊いた。そばから京堂広子が、
「ほっときなさいよ」
と毒づいたが、どちらの言葉もぼくの心にはろくすっぽ届いてはいなかった。そのまま踵《きびす》を返し、彼らに背を向けると機械人形のようにスタスタと歩き始めた。
「おい、どこへ行くんだ?」
的場の面喰《めんく》らったような問いに、ぼくはほんの少しだけ首を後ろにねじ向けると答えてやった。
「決まってるだろ、教室だよ。もっとも、そのあとは早退するから、適当に処理しといてくれないかな、委員長さんの権限でさ」
これまで風邪《かぜ》でも何でも、めったに学校を休んだことのないクソ真面目人間としては、なかなか上出来のセリフだった。これには、クラス委員コンビも毒気を抜かれた格好《かっこう》で、
「早退って……どこへ行こうっていうんだ?」
半ば茫然と訊いた的場長成に、ぼくは投げキッスするみたいに軽く手を振りながら言ってやった。
「ちょっと、お見舞《みま》いにね」
前の晩は一日の|毒抜き《デトックス》のために、いつも遅《おそ》くまで本を読んだりラジオを聴《き》いたりするせいで、慢性的寝不足《まんせいてきねぶそく》の頭はガンガンし、したがって朝食もおいしいと感じたことがあまりない。そのあと向かう場所が場所、過ごさねばならない時間が時間だけに、楽しく愉快《ゆかい》に鼻歌まじりでというわけにはいかなかった。
だが、この日——住宅街の奥にある洋館での大冒険(なんて呼びたくなるようなご陽気なものではなかったが)の次に迎《むか》えた登校時の気の重いことときては、これまでのブルーさを全部合わせたよりもひどかった。これに比べれば、ふだんの通学路なんてスキップスキップで行きたいぐらいなものだ。
家を出がけに見た新聞によると、あの屋敷に残されていた時代遅れの二枚目スター風とキンキラ衣装の色|眼鏡《めがね》男の死体の身元は、まだ不明とのことだった。ぼくらが現場を脱出《だっしゅつ》するのと前後して逃走《とうそう》したと思われる女については、存在すら触《ふ》れられていない。
記事そのものの扱《あつか》いもあまり大きくはなく、おかげでぼくらのことについてもくわしくは載《の》っていなかった。
とはいうものの、こうして公になったからには、あの騒《さわ》ぎがどんな風に学校に伝わっているのかは気になるところだった。何らかの形で伝わっているには違《ちが》いないとして、相当な好奇《こうき》の目で見られ、しつっこく詮索《せんさく》されることは覚悟《かくご》しなくてはならなかった。
警察での冷ややかな反応から類推《るいすい》してみても、それが決してポジティブなものであり得ないことは想像がつく。そして、何かはみ出した行動をとったものに対しては、ことの善悪にかかわらず、ネガティブな扱いしかしないのが、ぼくらの暮らす社会——とりわけその縮図というか出荷前の養魚池に相当するスクールライフの掟《おきて》ってものだ。
夏川至ならそんなことは気にしなかったろうし、彼さえいればはるかに気が楽だったろう。だが、彼はあのとき病院にかつぎこまれて以来、頭部の打撲が予想以上に深刻だったせいで、ずっとベッドに横たわったままでいる。そのことはぼくの気持ちをたまらなく重くしていたし、状況《じょうきょう》をよりうっとうしいものにするに違いなかった。
(よ、よし、行くぞ……!)
ぼくは校門の前で大きく息を吸い込み、そのままズカズカと校舎に足を踏《ふ》み入れ、階段を駆け上がった。その時点で、誰もが自分のことを見、こそこそと噂《うわさ》をしあっているような気がして体がカッと熱くなったが、今さら逃げ出すわけにはいかなかった。
いつもは開けっ放しなのに、今日に限って意地悪く閉じられていた教室の扉《とびら》を開く。思いがけず大きな音がして、中にいた連中がいっせいにこちらを見たが、それ以上これといった反応もなく、ぼくから視線をそらした。
その、とてつもなく長く感じられた数秒間のあと、ぼくは全身の力が抜《ぬ》けてゆくような気がした。
なぁんだ、誰も気にしてなんかいない、というより知りもしないのだ。ぼくのことはもとより、ひょっとしたら事件そのものさえも。だが、そんなことがあり得るだろうか?
大ありだ。警察がぼくの名を学校に告げなかったとは考えにくいが、だとしてもベラベラと生徒に明かす理由はない。そして、うちの学校の連中が、見知らぬ町での事件と生徒仲間を結びつけることができるほど、豊かな想像力を持ち合わせていないことは、ぼくが一番よく知っている。
ああ、心配して損した! そうとも、別に悪いことをしたわけじゃなし、ほかのみんなとちょっとばかり違う体験をしたからといって、何を後ろめたがることがあるもんか。
決して軽くないけがを負った夏川のことを考えるとチクリと胸が痛んだが、とりあえずぼくはいつものように、いてもいなくてもいい存在に甘んじることにした。それがこんなに快適なものだとは、今日初めて知ったことだった。
(それにしても、行宮は——?)
ぼくはあらためて教室内を見回した。だが、美羽子の姿は彼女の席にも、ほかのどこにもなかった。
要するに、ぼくは一人ぼっちだった。あの非日常どころか異常そのものだが、今も胸を高鳴らせるものがある記憶《きおく》を分かち合う仲間はどこにもいなかったのだ。
誰もあのことを知らない、誰もぼくが特別な体験をしたなどとは、想像さえしようとしない。ついさっきまでの卑屈《ひくつ》な安堵《あんど》はどこへやら、そのことに一抹《いちまつ》のさびしさといら立ちさえ覚え始めたころだった。ぼくは、ぼくを取り巻く連中の奇妙《きみょう》な反応に気づかされた。
それは、授業中ぼくを指名した教師の、妙に思わせぶりな態度と薄《うす》ら笑いとも何ともつかない表情だった。
どうにかこうにか質問への答えを述べるぼくに、教師は「ふーん」とか「へーぇ」などと、こちらの調子を狂《くる》わせるような合いの手を入れ、やがて「ふん、そんなもんでよろしい」と評したあとに、ボソリとこう付け加えたのだ。
「ま、お前もいろいろあるみたいだからな」
え? と思わず声に出して聞き返しそうになった。だが、そのときには教師は何喰わぬ顔で背を向け、板書を始めていた。
だが、今のが聞き違いではなかった証拠《しょうこ》に、茫然《ぼうぜん》と立ちつくすぼくの周囲には、見世物《みせもの》でもながめるような視線がまつわりついていた。そういえば、最初に名を呼ばれて立ったときにも教室内がザワッと波立ったようで、気のせいだと思い込もうとしたのだが……。
ぼくは、学校に着いて早々に感じたカッとした熱さを総身《そうみ》に満たしながら、ゆっくりと席に着いた。まるで、いやらしい藻《も》だらけの湖底《こてい》に沈《しず》んでいくような気がした。
そのあとは、もう針のむしろだった。休み時間になっても教室の外に出るなど思いもよらず、といって自分の席に張り付いていてもいたたまれない。誰もがぼくのことを噂しているようで、問いただせば藪蛇《やぶへび》になりかねない。
人が聞けばおかしく思うかもしれない。何一つ悪いことをしたわけではないのに、なぜそんなみじめな気持ちにならなければならないのかと。実際、ヒーローたちが冒険のたび、学校なり職場なりで小さくなっている物語など見たことがなかった。
ゆるやかな拷問《ごうもん》のような何時間かが過ぎ、やっと昼休みになった。さまざまな理由から、あいにく今日は弁当を持ってきていない。持ってきていたところで、教室で食べる気にはなれなかった。
といって、どこへ行けばいいのか。やっとのことで、客の途切《とぎ》れた隙《すき》にパンと牛乳を手に入れて——売店のおばちゃんにまで面《メン》が割れてはいないだろうと信じたかった——うろうろと場所を探すうち、
「おい、暮林」
人気《ひとけ》のない階段口で、ふいに声をかけられ、ビクッと立ち止まった。だが、すぐにどこかで聞いたような声だと気づいて振り向くと、
「よう、どうした」
クラス委員の的場長成《まとばおさなり》が、相変わらずのとぼけた表情と頼《たよ》りなげな風情《ふぜい》で立っていた。となれば、その相方はと探すと、小柄《こがら》な体を彼にへばりつかせるようにしながら、こちらをにらみつけている京堂広子《きょうどうひろこ》が目に入った。
「いや、別にどうもしてないけど……」
ぼくは、パンと牛乳入りの袋を彼らの鼻先に示してみせながら、
「どこかで昼メシにしようと思ってさ。そういう君らこそどうしたんだ?」
「われわれか?」
的場はそう答えかけ、だが京堂広子に脇腹《わきばら》をつつかれて「いや、まぁ」とか何とか咳払《せきばら》いまじりにごまかした。続けて、
「その何だ……いろいろあったみたいだが、実のところはどうなんだい」
訳知り顔で、その実何もわかっちゃいないことを暴露《ばくろ》しながら、探りを入れてきた。瞬間《しゅんかん》、苦《にが》いものが胸にこみ上げてきたが、この際むしろ強気に出てやれと、
「実のところって、何が?」
ぶっきらぼうに聞き返してやった。
的場は、とたんにひるんだようすを見せたが、またしても京堂にうながされて、
「いや、何か警察《けいさつ》沙汰《ざた》を起こしたとか何とか……」
「へえ、警察沙汰ね。で、そっちにはどんな風に伝わってるんだ?」
どうせロクな答えは返ってこないだろうとは承知の上で、訊いてみた。みんなの間に広がっている噂の実態について、この際知っておこうと思った。
「いや、そのぅ……まあ、お前が夏川と行宮美羽子を追っかけて、どこかの屋敷に迷い込んで——」
的場はへらへらと妙な笑みを浮かべながら、言った。言外に、いろいろくだらない臆測《おくそく》を含《ふく》んでいるのに違いなかった。と、そこへ、
「違うでしょ」
京堂広子がピシャリと口をはさんだ。彼女は、自分は恋人だと考えているらしい相棒を押しのけると、
「夏川君は、行宮さんを助けようとして、悪い奴らにやられちゃったのよ。あんた? あんたはどうせ卑怯《ひきょう》なまねをして自分だけ助かろうとしたに決まってるわ。何しろ、そんなストーカーごっこをするぐらいだものね。そのせいで、夏川君がけがをすることになっちゃって……」
言うほどに憎々《にくにく》しく、ぼくをにらみつけながら、まくしたてた。
なるほど、そういうことか。どうせ正しい姿が伝わっているわけがないし、そうだとしてもうさん臭《くさ》い扱いを受けるに決まっていると覚悟していたが、そこまでゆがめられていたとは。ほかに流布《るふ》しているであろう、別バージョンの�真相�も想像できないことはなかったが、気分が悪くなるのでやめておいた。
白状すると、ぼくは自分が踏み込んだ非日常の体験について、賛辞《さんじ》や羨望《せんぼう》までとは言わないまでも、ちょっとぐらいは感心してくれるものもいるのではないかと期待していなくはなかった。だが、それはあまりに甘い考えだった。
とりわけ、女性陣の評価は相当に辛辣《しんらつ》なものがあると推察された。彼女らにとっては、自分たちの好悪こそが全てであって、夏川の方こそ無謀《むぼう》だったとか、実はぼくが彼を救い出したのだという事実などはどうでもいい——いや、それどころか、書き換《か》えなければならない事実であるらしかった。
やれやれ……と嘆息《たんそく》しつつ、ぼくは女子たちに大人気の、とある運動部の選手を、彼女らにはなぜか嫌《きら》われている奴(その理由が、同性からはさっぱりわからないのだが)が打ち負かし、栄冠《えいかん》を勝ち取ってしまったときのことを思い出した。かわいそうに、彼女らの歓声《かんせい》と拍手《はくしゅ》はもっぱら人気者の方に向けられて、真の勝者はもののみごとに無視されてしまったどころか、まるでよけいなことをしでかしたとばかりのブーイングを浴びせられたという。
つくづくモテないというのはつらいものである。まして、ぼくなど、そいつより女子に不人気の点では、はるかに上回るのだから。
それにしても——と悔《く》やまれるのは、夏川が暴走《ぼうそう》ともいえる行動に出、あんなことになっていなければ、状況はまるで違っていたろうということだ。だが、そうなったのも、そもそもはぼくが巻き込んだせいだと思うと、ひしひしと罪の意識にさいなまれる。いったい誰が、あんなことを——。
(待てよ)
そのとたん、ぼくの中で何かが激しく頭をもたげた。そうだ、そういえば——何でこんな当然のことを疑問に思わなかったんだ?
あとはいつものパターンで、周囲の音も光も急速に遠ざかっていった。ひたすら考えに考える。脳内を記憶《きおく》の断片《だんぺん》が駆け巡《めぐ》り、論理がそれを次々とっつかまえては組み立て、それにしくじっては四散させ、またかき集めにかかる——そんなイメージがくっきりと見えた気がした。
だが、いつもと違っていたのは、純粋《じゅんすい》な知的作業であるはずのそこに、何ともいえない痛みと苦みがともなっていたことだった……。
「お、おい……急にどうした?」
的場長成がぼくの異変に気づいたか、あわてたようすで訊いた。そばから京堂広子が、
「ほっときなさいよ」
と毒づいたが、どちらの言葉もぼくの心にはろくすっぽ届いてはいなかった。そのまま踵《きびす》を返し、彼らに背を向けると機械人形のようにスタスタと歩き始めた。
「おい、どこへ行くんだ?」
的場の面喰《めんく》らったような問いに、ぼくはほんの少しだけ首を後ろにねじ向けると答えてやった。
「決まってるだろ、教室だよ。もっとも、そのあとは早退するから、適当に処理しといてくれないかな、委員長さんの権限でさ」
これまで風邪《かぜ》でも何でも、めったに学校を休んだことのないクソ真面目人間としては、なかなか上出来のセリフだった。これには、クラス委員コンビも毒気を抜かれた格好《かっこう》で、
「早退って……どこへ行こうっていうんだ?」
半ば茫然と訊いた的場長成に、ぼくは投げキッスするみたいに軽く手を振りながら言ってやった。
「ちょっと、お見舞《みま》いにね」