病院を出ると、いつのまにか雨が降っていた。
もちろん傘《かさ》など持ってはいない。たとえ持っていたにしても、考えられる限り最悪のシチュエーションであることは同じだったろう。それだけに、おあつらえ向けの雨といえなくもなかったが。
ぼくは肩《かた》を怒《いか》らせ、目を伏《ふ》せたまま街を歩いた。悲しくてさびしくて、しようがなかった。これほど自分がみじめで、一人ぼっちだと思い知らされたことはなかった。
いったんは罪なきものと信じた美羽子《みわこ》が、実はやはり恐《おそ》るべき元凶《げんきょう》であったことがショックだったのはもちろんだ。だが、それ以上に、ひとかけらの疑いも抱《いだ》いていないどころか、誰よりも信頼《しんらい》していた夏川《なつかわ》が彼女の同類であり、ひょっとしたら忠実なしもべだったかもしれないという事実は、深くぼくの心を傷つけた。
たった一人の親友に裏切られた、というならまだいい(それだって、耐《た》えがたいことではあるが)。最初から友達でも何でもなかったものを、ぼくが勝手にそう思っていただけというのは、あまりにも残酷《ざんこく》ではないだろうか。
友達が多いとはいえないぼくにとって、夏川|至《いたる》はとても大事な存在だったし、彼がいることでぼくに向けられる目もずいぶん違《ちが》ったような気がする。もし彼がいなければ、とりわけ女子からの視線は、もっと厳しいものになっていただろう。
だが、よく思い出してみれば、ぼくが彼に好感を抱いていたのはだいぶ以前からのことでも、彼からぼくへのリアクションは、常に| one of them《ワンノヴゼム》 ——その他大勢に対するお愛想でしかなく、本当に一対一のつきあいになったのはつい最近のような気がする。
そんなことはない! と否定しても、証明するものは何もない、いや、ぼくと彼はずっと友達だったんだと思い込《こ》もうとすればするほど、どうしようもなくみじめったらしい気分に打ちひしがれてゆくのだった。
最初は霧《きり》のようだった雨は、しだいに勢いを強め、やがて大ぶりな水滴《すいてき》となって容赦《ようしゃ》なく打ちつけてきた。それでも、あえて雨宿りもせず歩き続けたのは、自棄《ヤケ》になっていたこともあるが、一つにはあふれる涙《なみだ》を雨粒《あまつぶ》で洗い落とし、泣いてなんかいないんだぞと自分に言い聞かせるためでもあった。
だが、そんなあさはかな目論見《もくろみ》はあっさりと外れてしまった。雨はこのうえなく冷たかったのに、涙はいやになるほど温かく、とうていごまかしはきかなかった。
身も心も冷え切り、びしょ濡《ぬ》れだというのに、顔面の一部だけが生温かいというのは、服を着たまま風呂に入るのに似た感じがあった。その気持ち悪さが、ぼくに感傷にひたり、孤独《こどく》に酔《よ》うことを許さなかった。
それがよかったのかどうかは別にして、ぼくの脳内では、ついさっき夏川の病室での美羽子との対話が、傷だらけの古いフィルムのような感じで再生されていた——。
「さあ、何から話したらいいかな。たぶん信じられないとは思うけど、できたらばかばかしいって笑わないでほしいな。いや、むしろ笑ってくれちゃった方がいいかもしれないね。一つお願いできるとしたら、さっさと忘れてほしいってこと。なぜって、それが暮林《くればやし》君のためだから……」
彼女はあくまでも明るく、微笑《ほほえ》みを絶やさずに言った。だが、そんな前置きのあと、いきなり切り出したことには、
「私と夏川君はね、一つの目的で結ばれているの。いっそ、使命といってしまってもいいかもしれないけれど、そんなにきれいなもんじゃないから——そう、復讐《ふくしゅう》という名の目的によってね」
言い放った内容の衝撃《しょうげき》に、とっさには声も出なかった。そんなぼくをしりめに、美羽子はちらとベッドの夏川の方をかえりみてから、
「私の父は……といっても、学校に保護者として届けてあるのとは別の、本当の父親だけど、彼は大学の理工学部の教授で、小さいけれどもほかにない高度な技術を売りにした工場を経営していた夏川君のお父さんといっしょに、画期的な製品の開発に取り組んでいた。大げさに言えば、世界を一変させてしまうかもしれないほどの新発明にね。で、それがうまくいってれば、お父さんたちも私たちもお金持ちになり、ほかの人たちも便利になり幸せにもなってめでたしめでたしとなるんだけど、あいにくそううまくは運ばなかった。お話は、感動のドキュメンタリーになりかかったところで、三流の犯罪ドラマに切り替《か》わっちゃったの。呆《あき》れるぐらいありきたりで、でも残酷さだけは一流のサスペンス物に」
「と、いうと——?」
ぼくには、そう訊《き》くのがせいいっぱいだった。彼女は、たぶん深刻そのものだったろうご面相を笑い飛ばすような陽気さで、
「要するに、とんでもない奴らに目をつけられちゃったのよ。名を出せば誰でも知ってるような大企業《だいきぎょう》なんだけど、彼らがいざとなったらどれほど汚《きたな》く、恐ろしいことをするかを知ったら、もうのんきにテレビCMなんか見ていられなくなるでしょうね」
「それは……たとえば、その新発明を横取りして、自分たちが作って売り出そうとしたとか、そういうこと?」
ぼくは、やっとのことで口をはさんだ。自分から言いたいことがあるというより、美羽子の、底知れない恐ろしさをはらみつつもあくまで明るい口調《くちょう》のおしゃべりに、ところどころで休止符《きゅうしふ》を打ちたかったのだ。
「ううん、それならまだよかったんだけど」彼女はかぶりを振《ふ》った。「横取りなら、その新発明は世に出るわけでしょ。たとえ、私や夏川君のお父さんたちの努力はふいになるとしても。でも、その大企業の連中が考えたこと、そして現実に行なったことは、それより何倍もひどいことだった……」
「横取りよりひどいこと?」
ぼくは、驚《おどろ》きのあまり聞き返さずにはいられなかった。
美羽子は「そうなの」とうなずいてみせると、
「つまり、発明自体はもちろん、それにかかわった人や事実そのものを抹殺《まっさつ》しよう、初めからなかったことにしようとたくらんだの。自分たちが業界に占《し》めるシェアや、莫大《ばくだい》な設備投資の結果できた生産ラインをフイにしないためにね」
「そ、そんなことが……」
ぼくはかすれた声をあげた。
すると、美羽子は「あったんだな、これが」とつぶやくように言い、ちらっと天井《てんじょう》の照明に視線を投げてから、
「蛍光灯《けいこうとう》にまつわるこんな伝説を知ってる? ガラス管の中に封入《ふうにゅう》されたガスを放電によって発光させるというアイデアそのものは、かなり早くから知られていて、それを応用したネオンサインも第二次大戦の始まるずっと前から都会の夜景を彩ってきた。なのに、同じような原理に基づく蛍光灯の普及《ふきゅう》は、ずっとあとのことという感じがしない? 実際、蛍光灯が広く使われるようになったのは、日本では戦後になってから——でも、赤や青といった色とりどりの屋外広告がめざましく発達したのに、白くプレーンな光を放つだけの灯りが発明できないわけがなかった。消費電力も少なければ、寿命もはるかに長い蛍光灯がね。どうしてこんなことになったかわかる?」
「さあ、確か……」
そのエピソードは、どこかで聞いたことがあったが、そのときのぼくはかすれ声でそう答えることができただけだった。
「ある国の世界的大企業が、白熱電球を作るための巨大な工場施設を完成させたばかりで、そこへ蛍光灯なんて発明が明るみに出たら大変な損害になる。そこでその会社は蛍光灯の特許を買い取って、自分たちのほかには作ることを不可能にしておいて握《にぎ》りつぶしたの。ほかにもあの国には、ごくわずかな量のガソリンや、それ以外のタダ同然の燃料で動く自動車を発明したりすると、その人は必ず行方《ゆくえ》不明になるって伝説があるらしいけど、この国も大して変わりはないみたい。それが証拠《しょうこ》に、まさにそういった災難が父やほかの人たちに降りかかったのよ。それも、放火殺人というダイレクトなやり方で」
「!」
「その日、夏川君のお父さんの工場には、私の父をはじめとする研究開発スタッフがそろって、発明の完成を祝うささやかなパーティーが開かれていた。でも、そのとき建物の一角に火の手が上がり、それは資材や燃料に次々引火して、あっという間に人も物も何もかも一切が猛火《もうか》に包まれてしまった。ここに不思議《ふしぎ》なのは、一人や二人、現場を逃《のが》れ出て助かった人がいてもよさそうなのに、誰もそんな幸運児がいなかったこと……まるで、火の手が上がる前に全員が殺されていたか、何者かが逃《に》げ出してきた人たちを始末していたみたいに。
それどころか、当日工場にいなかった人たちや焼け死んだ人たちの遺族《いぞく》、たまたま出火を目撃《もくげき》したり、通報してくれた人たちまでもが、不慮《ふりょ》の事故にあったり、飛び降り自殺をとげたりした。なのに、全ては失火、もしくは原因不明の事故として処理され、警察も消防も放火としての捜査《そうさ》はおろか、何一つ解明のために動いてはくれなかった……」
「まさか、そんなことが……」
疑いを差しはさむつもりはなかったが、あまりといえばあまりな内容に、そうとしか言いようがなかった。
「信じられない? かもしれないよね、暮林君みたいな平和な人には」
美羽子はキッとぼくをにらみすえ、だが次の瞬間には哀《あわ》れむような視線になりながら、
「暮林君は、この病院へはどうやって来たの?」
「え……電車でだけど」
それは、ぼくがよく利用する路線だった。
「その途中、ちょうどドブ川が流れてるあたりに、ぽっかりと空き地みたいなのがあって、とても大きな屋根の骨組みだけが残ってるのが見えなかった?」
「え……」
彼女が言う空き地、いや、むしろ廃墟《はいきょ》のことなら、何度も見たことがあった。背の低いビルや瓦《かわら》屋根の住宅がひしめく一帯に、まさにぽっかりという感じで残された空白が存在しているのだ。
大きさは校庭ぐらいか。黄土色っぽい地面は、季節によっては青々と生い茂《しげ》った雑草に覆《おお》われていることもあるが、全体の印象としては不毛の一語に尽《つ》きる。あちこちにガラクタや瓦礫《がれき》のようなものが積み上げられているのも、いっそう荒涼《こうりょう》とした印象をかきたてないではおかない。
ただの更地《さらち》ではなく、土地の半分以上は建物が占めているのだが、実のところはそう呼ぶのがはばかられるような残骸《ざんがい》でしかない。かつては巨大な屋根だったと思われる部分は、大半が欠け落ちて枠組《わくぐ》みだけといっても過言ではないし、柱もかろうじてそれを支える程度しか残っておらず、壁《かべ》に至っては一面もありはしない。あえてたとえるなら、恐竜《きょうりゅう》の骨格標本というところだが、それにしては部品が足りなさ過ぎる感じだった。
これまで何度となく車窓から見かけた街中の廃墟。どんな由来を持ち、何でまたあんな姿をさらしているのかと想像をめぐらしてみたことも一度や二度ではない。火事にあった工場跡《こうじょうあと》だと言われれば、まさにそれ以外の何ものでもないが、まさかあそこがそんな悲劇の舞台だったとは……。
「そう、あそこが夏川君のお父さんが経営し、私の父が長年の夢を実現しようとしていた場所だったのよ。その夢を完全に抹殺するためには、あんなになるほど一切を焼きつくし、破壊《はかい》しつくす必要があったというわけね」
美羽子はぼくの心の中を見透《みす》かしたように言い、さらに続けるのだった。
「そして……それから何年もの歳月が過ぎて、ほとんど唯一《ゆいいつ》の生き残りだった私も夏川君も、その後預けられた養育先で大きくなった。全てはいまわしい過去の悲劇として封印《ふういん》され、私たちは何も知らされないままだったし、それは今後ずっと変わらないはずだった。ところが、ここに来て絶対のタブーであったことに変化が生じたの。父たちが心血を注ぎ、そのせいで命まで奪《うば》われた発明が、にわかに脚光《きゃっこう》を浴びだしたの。この国ではいつでもそうであるように、海外での技術革新やそれにともなう変化に追いつくために、国内では一度抹殺されたものが必要になったというわけ。
で、奴らは私たちに目をつけた。失われた発明の秘密を、ひょっとしたらそのパテントを、哀れな遺児たちが握っているのではないかとね。こうして、私たちの身辺にうさん臭《くさ》い連中が見え隠れし始め、そいつらの口から父たちの凄惨《せいさん》な最期と、それをもたらしたものたちの正体が見えてきた——。
幸い彼らは一枚岩ではなく、主犯格の企業やその手先となった殺人・放火の実行犯、それをかぎつけた強請《ゆすり》屋たちなどが入り乱れ、互いに出し抜《ぬ》きあいながら接近してきた。おためごかしに秘密を明かし、恩に着せ、なだめすかし、ときにはドスをきかせ、暴力《ぼうりょく》に訴《うった》えようとしたりしながら……。私たちはその裏をかき、発明のディテールやら権利やらをエサにちらつかせて、逆に彼らを一人ずつ罠《わな》にはめ、滅《ほろ》ぼしていったのよ。当然の権利であり、義務でもある復讐のために!」
「それが……」
言いかけて、絶句してしまった。ぼくの中で、いくつかの〈死〉に直結した光景がフラッシュバックされた。
それが、あの真相だったのか。黄昏《たそがれ》どきに出くわした中年男性も、コインロッカー・コーナーの青年も、それからあの屋敷《やしき》にいた連中も、その名目のもとに操られ、抹殺されていったというのか。
むろん、それらは犯罪であり、しかもよりにもよって殺人だ。そんな罪を犯したからには、法によって罰《ばっ》せられなければならない。たまたま網《あみ》の目を逃れたものを見つけたとしたら、それを通報し告発しなければならない——はずなのだが。
だが、ぼくにはもうそうするだけの気力が失われていた。今から警察に駆《か》け込んで、実はクラスメートが犯人でしたと主張して、信じてもらえるだろうか。信じてもらえたとして、それがいったい何になるというのだろうか。
行宮《ゆくみや》美羽子に、そして夏川至にまであざむかれ、手のひらの上で踊《おど》らされた事実に変わりはない。彼らが首尾よく逮捕《たいほ》でもされれば、仕返しぐらいにはなるかもしれないが、そのあとぼくはどうしたらいいのだろう。
彼らがいなくなってしまった学園生活は、今よりずっとむなしく、孤独なものになるに違いなかった。周囲はぼくをもてはやすどころか、うさん臭い奴として白眼視することだろう。といって、ぼくの目の前でのうのうと、次の犯罪計画でも練られた日には、いっそう耐えられないかもしれなかった。なお、きわめつけに、
「暮林君の推理は、なかなかみごとだったけど」
おためごかしに前置きしてから、彼女は明かした——ぼくにとって、ある意味最も恐ろしい事実を。
「一つだけ大きく実際と異なる点があったわ。あなたの言うのだと、一連のプランで重要な役割を果たした夏川君を、こんな風になるほどひどく殴《なぐ》りつけたのは私だということらしいけど、それは全然違うの。夏川君はね、自分で自分の頭部を思い切り打ちつけたの。私は凶器となった品を始末しただけ。そのことだけは信じてくれる?」
にこやかに問いかける彼女の前で、首を縦にも横にも振ることができなかった。どうしようもない敗北感と疎外感《そがいかん》が、ぼくを石人形と化さしめていた。もし人間の心の何分の一かが死ぬなんてことがあり得るとしたら、そのときぼくの中の大事な部分が亡くなっていったのは確実だった。
どのみち、ぼくのことなど美羽子たちにすれば眼中にないのだ。ぼくに真相をつかまれたことが、自分たちにとって不利に働くとは考えてもいないらしい。だからこそ、進んで秘密を明かしたりもしたのだろう。
そして……それ以上に、美羽子が言う「復讐」に、ぼくが口をはさむ余地はなかった。語られた動機の深刻さ、そのきっかけとなった過去の悲劇の酷烈《こくれつ》さの前では、何一つ批判することなど不可能だ。正義の味方面して告発したり非難したりといったことはもちろん、いさめたり忠告することさえ、おこがましくてできそうにはなかった。
(どうしたらいいんだろう、いったいどうしたら……)
という身を焼かれるような思いと、
(どうしようもないんだ、ぼくなんかにはどうしようも……)
との、らせん階段を果てしなく下りてゆくような気分が、堂々めぐりのように交錯《こうさく》し続ける。そんな中で、ぼくにできたことといえば、雨の中をひたすらさまよい続けることだけだった。
そして、それからどれほどの時間が流れただろう。どこをどう歩いたのか、当然乗るべき電車を利用した記憶《きおく》すらない——いや、雨にけぶる景色の奥にあの廃墟を見た覚えだけはあるから、乗ることは乗ったのだろう——というありさまで、気がついたときにはすでに自宅近くまで来てしまっていた。
もし、そのままの状態だったら、玄関をくぐり、自分の部屋に逃げ込むまで、夢遊病同然に何も覚えていないということだってあり得たかもしれない。
そうならなかったのには理由があった。いよいよ降りしきる雨の中、ふいに巨大なコウモリでも飛び来《きた》ったみたいに、黒い傘が頭上にさしかけられたかと思うと、やにわにぼくの肩をつかんだ手があったのだ。
「よう、しばらくだな」
黒ずくめの服の上に、いっそう黒い笑いを浮かべた男の顔があった。
「聞いたぜ、聞いたぜ。また何か面倒《めんどう》なことを引き起こし……もとい、巻き込まれたんだってな。つくづく運のない少年だな、お前さんも」
強烈《きょうれつ》なまでに特徴《とくちょう》のある声音、表情。にもかかわらず、その男が誰であるかを思い出すのに時間がかかった。思い出して、その名を口にするまでさらに数秒を要したあと、
「黒河内《くろこうち》……刑事さん?」
彼女はあくまでも明るく、微笑《ほほえ》みを絶やさずに言った。だが、そんな前置きのあと、いきなり切り出したことには、
「私と夏川君はね、一つの目的で結ばれているの。いっそ、使命といってしまってもいいかもしれないけれど、そんなにきれいなもんじゃないから——そう、復讐《ふくしゅう》という名の目的によってね」
言い放った内容の衝撃《しょうげき》に、とっさには声も出なかった。そんなぼくをしりめに、美羽子はちらとベッドの夏川の方をかえりみてから、
「私の父は……といっても、学校に保護者として届けてあるのとは別の、本当の父親だけど、彼は大学の理工学部の教授で、小さいけれどもほかにない高度な技術を売りにした工場を経営していた夏川君のお父さんといっしょに、画期的な製品の開発に取り組んでいた。大げさに言えば、世界を一変させてしまうかもしれないほどの新発明にね。で、それがうまくいってれば、お父さんたちも私たちもお金持ちになり、ほかの人たちも便利になり幸せにもなってめでたしめでたしとなるんだけど、あいにくそううまくは運ばなかった。お話は、感動のドキュメンタリーになりかかったところで、三流の犯罪ドラマに切り替《か》わっちゃったの。呆《あき》れるぐらいありきたりで、でも残酷さだけは一流のサスペンス物に」
「と、いうと——?」
ぼくには、そう訊《き》くのがせいいっぱいだった。彼女は、たぶん深刻そのものだったろうご面相を笑い飛ばすような陽気さで、
「要するに、とんでもない奴らに目をつけられちゃったのよ。名を出せば誰でも知ってるような大企業《だいきぎょう》なんだけど、彼らがいざとなったらどれほど汚《きたな》く、恐ろしいことをするかを知ったら、もうのんきにテレビCMなんか見ていられなくなるでしょうね」
「それは……たとえば、その新発明を横取りして、自分たちが作って売り出そうとしたとか、そういうこと?」
ぼくは、やっとのことで口をはさんだ。自分から言いたいことがあるというより、美羽子の、底知れない恐ろしさをはらみつつもあくまで明るい口調《くちょう》のおしゃべりに、ところどころで休止符《きゅうしふ》を打ちたかったのだ。
「ううん、それならまだよかったんだけど」彼女はかぶりを振《ふ》った。「横取りなら、その新発明は世に出るわけでしょ。たとえ、私や夏川君のお父さんたちの努力はふいになるとしても。でも、その大企業の連中が考えたこと、そして現実に行なったことは、それより何倍もひどいことだった……」
「横取りよりひどいこと?」
ぼくは、驚《おどろ》きのあまり聞き返さずにはいられなかった。
美羽子は「そうなの」とうなずいてみせると、
「つまり、発明自体はもちろん、それにかかわった人や事実そのものを抹殺《まっさつ》しよう、初めからなかったことにしようとたくらんだの。自分たちが業界に占《し》めるシェアや、莫大《ばくだい》な設備投資の結果できた生産ラインをフイにしないためにね」
「そ、そんなことが……」
ぼくはかすれた声をあげた。
すると、美羽子は「あったんだな、これが」とつぶやくように言い、ちらっと天井《てんじょう》の照明に視線を投げてから、
「蛍光灯《けいこうとう》にまつわるこんな伝説を知ってる? ガラス管の中に封入《ふうにゅう》されたガスを放電によって発光させるというアイデアそのものは、かなり早くから知られていて、それを応用したネオンサインも第二次大戦の始まるずっと前から都会の夜景を彩ってきた。なのに、同じような原理に基づく蛍光灯の普及《ふきゅう》は、ずっとあとのことという感じがしない? 実際、蛍光灯が広く使われるようになったのは、日本では戦後になってから——でも、赤や青といった色とりどりの屋外広告がめざましく発達したのに、白くプレーンな光を放つだけの灯りが発明できないわけがなかった。消費電力も少なければ、寿命もはるかに長い蛍光灯がね。どうしてこんなことになったかわかる?」
「さあ、確か……」
そのエピソードは、どこかで聞いたことがあったが、そのときのぼくはかすれ声でそう答えることができただけだった。
「ある国の世界的大企業が、白熱電球を作るための巨大な工場施設を完成させたばかりで、そこへ蛍光灯なんて発明が明るみに出たら大変な損害になる。そこでその会社は蛍光灯の特許を買い取って、自分たちのほかには作ることを不可能にしておいて握《にぎ》りつぶしたの。ほかにもあの国には、ごくわずかな量のガソリンや、それ以外のタダ同然の燃料で動く自動車を発明したりすると、その人は必ず行方《ゆくえ》不明になるって伝説があるらしいけど、この国も大して変わりはないみたい。それが証拠《しょうこ》に、まさにそういった災難が父やほかの人たちに降りかかったのよ。それも、放火殺人というダイレクトなやり方で」
「!」
「その日、夏川君のお父さんの工場には、私の父をはじめとする研究開発スタッフがそろって、発明の完成を祝うささやかなパーティーが開かれていた。でも、そのとき建物の一角に火の手が上がり、それは資材や燃料に次々引火して、あっという間に人も物も何もかも一切が猛火《もうか》に包まれてしまった。ここに不思議《ふしぎ》なのは、一人や二人、現場を逃《のが》れ出て助かった人がいてもよさそうなのに、誰もそんな幸運児がいなかったこと……まるで、火の手が上がる前に全員が殺されていたか、何者かが逃《に》げ出してきた人たちを始末していたみたいに。
それどころか、当日工場にいなかった人たちや焼け死んだ人たちの遺族《いぞく》、たまたま出火を目撃《もくげき》したり、通報してくれた人たちまでもが、不慮《ふりょ》の事故にあったり、飛び降り自殺をとげたりした。なのに、全ては失火、もしくは原因不明の事故として処理され、警察も消防も放火としての捜査《そうさ》はおろか、何一つ解明のために動いてはくれなかった……」
「まさか、そんなことが……」
疑いを差しはさむつもりはなかったが、あまりといえばあまりな内容に、そうとしか言いようがなかった。
「信じられない? かもしれないよね、暮林君みたいな平和な人には」
美羽子はキッとぼくをにらみすえ、だが次の瞬間には哀《あわ》れむような視線になりながら、
「暮林君は、この病院へはどうやって来たの?」
「え……電車でだけど」
それは、ぼくがよく利用する路線だった。
「その途中、ちょうどドブ川が流れてるあたりに、ぽっかりと空き地みたいなのがあって、とても大きな屋根の骨組みだけが残ってるのが見えなかった?」
「え……」
彼女が言う空き地、いや、むしろ廃墟《はいきょ》のことなら、何度も見たことがあった。背の低いビルや瓦《かわら》屋根の住宅がひしめく一帯に、まさにぽっかりという感じで残された空白が存在しているのだ。
大きさは校庭ぐらいか。黄土色っぽい地面は、季節によっては青々と生い茂《しげ》った雑草に覆《おお》われていることもあるが、全体の印象としては不毛の一語に尽《つ》きる。あちこちにガラクタや瓦礫《がれき》のようなものが積み上げられているのも、いっそう荒涼《こうりょう》とした印象をかきたてないではおかない。
ただの更地《さらち》ではなく、土地の半分以上は建物が占めているのだが、実のところはそう呼ぶのがはばかられるような残骸《ざんがい》でしかない。かつては巨大な屋根だったと思われる部分は、大半が欠け落ちて枠組《わくぐ》みだけといっても過言ではないし、柱もかろうじてそれを支える程度しか残っておらず、壁《かべ》に至っては一面もありはしない。あえてたとえるなら、恐竜《きょうりゅう》の骨格標本というところだが、それにしては部品が足りなさ過ぎる感じだった。
これまで何度となく車窓から見かけた街中の廃墟。どんな由来を持ち、何でまたあんな姿をさらしているのかと想像をめぐらしてみたことも一度や二度ではない。火事にあった工場跡《こうじょうあと》だと言われれば、まさにそれ以外の何ものでもないが、まさかあそこがそんな悲劇の舞台だったとは……。
「そう、あそこが夏川君のお父さんが経営し、私の父が長年の夢を実現しようとしていた場所だったのよ。その夢を完全に抹殺するためには、あんなになるほど一切を焼きつくし、破壊《はかい》しつくす必要があったというわけね」
美羽子はぼくの心の中を見透《みす》かしたように言い、さらに続けるのだった。
「そして……それから何年もの歳月が過ぎて、ほとんど唯一《ゆいいつ》の生き残りだった私も夏川君も、その後預けられた養育先で大きくなった。全てはいまわしい過去の悲劇として封印《ふういん》され、私たちは何も知らされないままだったし、それは今後ずっと変わらないはずだった。ところが、ここに来て絶対のタブーであったことに変化が生じたの。父たちが心血を注ぎ、そのせいで命まで奪《うば》われた発明が、にわかに脚光《きゃっこう》を浴びだしたの。この国ではいつでもそうであるように、海外での技術革新やそれにともなう変化に追いつくために、国内では一度抹殺されたものが必要になったというわけ。
で、奴らは私たちに目をつけた。失われた発明の秘密を、ひょっとしたらそのパテントを、哀れな遺児たちが握っているのではないかとね。こうして、私たちの身辺にうさん臭《くさ》い連中が見え隠れし始め、そいつらの口から父たちの凄惨《せいさん》な最期と、それをもたらしたものたちの正体が見えてきた——。
幸い彼らは一枚岩ではなく、主犯格の企業やその手先となった殺人・放火の実行犯、それをかぎつけた強請《ゆすり》屋たちなどが入り乱れ、互いに出し抜《ぬ》きあいながら接近してきた。おためごかしに秘密を明かし、恩に着せ、なだめすかし、ときにはドスをきかせ、暴力《ぼうりょく》に訴《うった》えようとしたりしながら……。私たちはその裏をかき、発明のディテールやら権利やらをエサにちらつかせて、逆に彼らを一人ずつ罠《わな》にはめ、滅《ほろ》ぼしていったのよ。当然の権利であり、義務でもある復讐のために!」
「それが……」
言いかけて、絶句してしまった。ぼくの中で、いくつかの〈死〉に直結した光景がフラッシュバックされた。
それが、あの真相だったのか。黄昏《たそがれ》どきに出くわした中年男性も、コインロッカー・コーナーの青年も、それからあの屋敷《やしき》にいた連中も、その名目のもとに操られ、抹殺されていったというのか。
むろん、それらは犯罪であり、しかもよりにもよって殺人だ。そんな罪を犯したからには、法によって罰《ばっ》せられなければならない。たまたま網《あみ》の目を逃れたものを見つけたとしたら、それを通報し告発しなければならない——はずなのだが。
だが、ぼくにはもうそうするだけの気力が失われていた。今から警察に駆《か》け込んで、実はクラスメートが犯人でしたと主張して、信じてもらえるだろうか。信じてもらえたとして、それがいったい何になるというのだろうか。
行宮《ゆくみや》美羽子に、そして夏川至にまであざむかれ、手のひらの上で踊《おど》らされた事実に変わりはない。彼らが首尾よく逮捕《たいほ》でもされれば、仕返しぐらいにはなるかもしれないが、そのあとぼくはどうしたらいいのだろう。
彼らがいなくなってしまった学園生活は、今よりずっとむなしく、孤独なものになるに違いなかった。周囲はぼくをもてはやすどころか、うさん臭い奴として白眼視することだろう。といって、ぼくの目の前でのうのうと、次の犯罪計画でも練られた日には、いっそう耐えられないかもしれなかった。なお、きわめつけに、
「暮林君の推理は、なかなかみごとだったけど」
おためごかしに前置きしてから、彼女は明かした——ぼくにとって、ある意味最も恐ろしい事実を。
「一つだけ大きく実際と異なる点があったわ。あなたの言うのだと、一連のプランで重要な役割を果たした夏川君を、こんな風になるほどひどく殴《なぐ》りつけたのは私だということらしいけど、それは全然違うの。夏川君はね、自分で自分の頭部を思い切り打ちつけたの。私は凶器となった品を始末しただけ。そのことだけは信じてくれる?」
にこやかに問いかける彼女の前で、首を縦にも横にも振ることができなかった。どうしようもない敗北感と疎外感《そがいかん》が、ぼくを石人形と化さしめていた。もし人間の心の何分の一かが死ぬなんてことがあり得るとしたら、そのときぼくの中の大事な部分が亡くなっていったのは確実だった。
どのみち、ぼくのことなど美羽子たちにすれば眼中にないのだ。ぼくに真相をつかまれたことが、自分たちにとって不利に働くとは考えてもいないらしい。だからこそ、進んで秘密を明かしたりもしたのだろう。
そして……それ以上に、美羽子が言う「復讐」に、ぼくが口をはさむ余地はなかった。語られた動機の深刻さ、そのきっかけとなった過去の悲劇の酷烈《こくれつ》さの前では、何一つ批判することなど不可能だ。正義の味方面して告発したり非難したりといったことはもちろん、いさめたり忠告することさえ、おこがましくてできそうにはなかった。
(どうしたらいいんだろう、いったいどうしたら……)
という身を焼かれるような思いと、
(どうしようもないんだ、ぼくなんかにはどうしようも……)
との、らせん階段を果てしなく下りてゆくような気分が、堂々めぐりのように交錯《こうさく》し続ける。そんな中で、ぼくにできたことといえば、雨の中をひたすらさまよい続けることだけだった。
そして、それからどれほどの時間が流れただろう。どこをどう歩いたのか、当然乗るべき電車を利用した記憶《きおく》すらない——いや、雨にけぶる景色の奥にあの廃墟を見た覚えだけはあるから、乗ることは乗ったのだろう——というありさまで、気がついたときにはすでに自宅近くまで来てしまっていた。
もし、そのままの状態だったら、玄関をくぐり、自分の部屋に逃げ込むまで、夢遊病同然に何も覚えていないということだってあり得たかもしれない。
そうならなかったのには理由があった。いよいよ降りしきる雨の中、ふいに巨大なコウモリでも飛び来《きた》ったみたいに、黒い傘が頭上にさしかけられたかと思うと、やにわにぼくの肩をつかんだ手があったのだ。
「よう、しばらくだな」
黒ずくめの服の上に、いっそう黒い笑いを浮かべた男の顔があった。
「聞いたぜ、聞いたぜ。また何か面倒《めんどう》なことを引き起こし……もとい、巻き込まれたんだってな。つくづく運のない少年だな、お前さんも」
強烈《きょうれつ》なまでに特徴《とくちょう》のある声音、表情。にもかかわらず、その男が誰であるかを思い出すのに時間がかかった。思い出して、その名を口にするまでさらに数秒を要したあと、
「黒河内《くろこうち》……刑事さん?」