その翌日、打って変わって晴れ渡《わた》った午後の空の下、ぼくはこれまで一度も降りたことのない駅で下車した。
幼稚園か小学校低学年のころにタイムスリップしたみたいな、せせっこましい店屋の並ぶ道をうねうねと抜《ぬ》けて行く。かすかに漂《ただよ》ってくるのは、汚水《おすい》らしき臭気《しゅうき》だ。そんな中、火花を散らし、轟音《ごうおん》をあげる機械の陰《かげ》で黙々《もくもく》と働く人たちに後ろめたい思いをしながら歩くこと数分、ふいに視界が開けた。
近くに来てみると、あらためてかなり大きな建物だとわかった。
赤|錆《さ》びてはいるが、まだまだどっしりした鉄骨や、破れ目だらけで魚のウロコのようにも見える大屋根は、かつての規模を想像させるに十分だった。
(これが、かつての悲劇の舞台か……)
そう考えると、ただの工場跡《こうじょうあと》とは違《ちが》う気がして、何とも重たい気分に包まれた。それも、自分がよく知っている人物——正確にはその父親だが——が巻き込まれた悲劇だときては、なおさらだった。
腕《うで》時計に視線を落とす。少し早く来すぎてしまったようで、約束の時間にはだいぶ間があった。
しかたなく、何となく周辺をうろうろと歩いているうち、針金で簡単に仕切りをしてあるだけで、しかもあちこちが切れているのに気づいた。加えて人目がないのを幸い、中に入り込んだ。
過去と現在の死をつなぐその場を踏《ふ》むことで、ますます心がどんよりとなるのは覚悟《かくご》の上だった、のだが……。
(————?)
ぼくは、あることに気づき、それまで漠然《ばくぜん》とめぐらしていた視線に注意深さを加えた。もしぼくが信じた通りであったとするなら、当然なくてはならないはずの痕跡《こんせき》を探し求めた。
だが、見つからない……探し方が悪いせいだろうか。それとも、年月がたちすぎたせいで、雨風に流されたり地面にうずもれてしまったのか。いや、そんな見苦しいものをそのままにはしておけないと、誰かの手で始末されてしまったのかもしれない。うん、きっとそうだ……。
ぼくはしかし、そうした結論では自分を納得させられずに、再び敷地《しきち》の外に出ていた。一番手近にあって、一番このあたりの昔のことを知っていそうな和菓子屋さんに入って行くと、そんなにほしくもない饅頭《まんじゅう》を買うついでを装って訊《き》いてみた。軽く息をととのえると、極力さりげなく、
「ねえ、あそこの工場跡地って、いつごろからあんな風になってるんですか?」
と。
「へえっ!?」
見なれない客からの、いきなりな質問に、店番のおばあちゃんは当然ながら、うさん臭《くさ》そうな視線を返してきた。一瞬《いっしゅん》ひるんで引き下がりそうになったのをグッとこらえ、この近くを走る電車の中からよくあの建物を見かけて不思議《ふしぎ》に思ったこと、今日たまたまここのお店にお使いを頼《たの》まれたので、立ち寄ったついでに訊いてみたくなったこと——などと言い訳してみた。
すると、おばあちゃんは「ああ、そうなの」とあっさり納得してくれて、
「あそこ、確か服地か何かの工場じゃなかったかしらね。それより前も、入れかわり立ちかわりいろんな会社が入ってたみたいだから、いちいち覚えちゃいないけど……あんな風になったのはいつごろからって、少なくとも三十年は前のことだねえ。ちょうどうちの娘が高校生でアルバイトをしたがってて、あそこがまだあればすぐ近くで都合がよかったのにって残念がってたから間違《まちが》いありませんよ」
(さ、三十年……?)
服地か何かの工場というのからして、こちらの予期とはだいぶ違っていたが、その数字は思ってもみないものだった。
「そんなに前のことなんですか、あそこが火事になったのは?」
訊いたとたん、おばあちゃんはびっくり仰天《ぎょうてん》した顔になって、
「火事!? いえ、あそこは火事なんてことになってませんよ。ただ、公害だ何だとうるさくなってきたのと、会社の方が業務を拡大するとかでよそへ移転してしまっただけですよ。いったんは取り壊《こわ》しかけたんだけど、それも費用がかかるのか途中でやめちゃって……それっきりですよ」
「火事にはなってないんですね、本当に」
炎がなめた焦《こ》げ跡や、炭化した残骸《ざんがい》といったものがまるで見当たらなかった、ついさっきの探索《たんさく》結果を思い起こしながら、念を押した。そのしつっこさのせいだろう、おばあちゃんはにわかに不審《ふしん》顔になりながらも、答えてくれた。
「ええ、確かですとも。あれほどの工場が火事になったら、うちだってただではすみませんもの。そのあとどうなったっかって? さあ、資材置き場とか駐車場とかに使われてたみたいだけど、ご近所とはいいながら、今は誰の持ち物でどうなっているのやら、よくは知らないねぇ」
「そうですか……」
答えながら、ぼくは少しずつ後ずさりした。おばあちゃんの視線が、再びうさん臭いものを見る目に戻《もど》ったばかりではなく、みるみる険しいものとなり、家族を呼ぶためか「ああ、ちょっと……」と背後を振《ふ》り返ろうとしたからだった。
「ありがとうございました!」
ペコリと一礼すると、買ったばかりの菓子包みを抱《かか》え直し、猛《もう》ダッシュでその場を逃《に》げ出した。
もとの工場跡地まで取って返しながら、ぼくの中ではいくつもの疑問符《ぎもんふ》が泡《あわ》のようにはじけていた。それもシャボン玉のようなお手軽なものではなく、沸々《ふつふつ》と煮《に》えたぎる溶岩《ようがん》の泡のように。
——あの工場は火事になどあってはおらず、廃業《はいぎょう》したのは三十年も前? しかもおばあちゃんの記憶《きおく》が確かなら、服地か何かを作っていただと? これはいったいどういうことなんだ?
行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》、それに夏川至《なつかわいたる》の�本当の父親�たちを焼き殺したという火事が、もし本当にあったとしたら、それはどう考えてもぼくが生まれたのより以前ではあり得ない。だって、彼らはぼくと同い年なのだから。それとも、ああ見えて実は三十過ぎだとでもいうのだろうか?
第一、ここで操業していたのが服地関係の工場だというのは、世界を一変させかねないほどの画期的発明を研究開発していたという話と、どうにも結びつかない気がする。電子工業だとか化学関係の分野とでもいうなら、いざ知らず……。
ということは——いったい、どういうことなんだ?
考えられる可能性は二つ。あのとき美羽子が言った「ぽっかりと空き地みたい」になった場所に「とても大きな屋根の骨組みだけが残ってる」工場跡というのは、こことはまるで別物で、彼女らが生まれたあとに火事となり、多くの人たちの命をのみこんだ本物はほかにあるというのが一つ。そして、もう一つは——。
(違う、そっちじゃない!)
この期に及《およ》んで、ぼくは往生際《おうじょうぎわ》悪くかぶりを振った。
今さら彼女の言葉を嘘《うそ》ではなかった、悲しい真実の告白だと信じたかったからではない。またしても、うまうまとだまされてしまい、心をもてあそばれたことを認めたくなかったのだ。
ふいに、コインロッカー事件のあと、警察署を去りぎわに聞かされた言葉が耳の奥によみがえった。
——いいか、くれぐれも……女には気をつけろよ。
あのときは、わざわざそんな忠告——それも、えらく一般的な処世訓《しょせいくん》めいたものをしてくれた意図を解しかねてしまった。何か欠け落ちた個所があるような気がしつつも、それきりになっていたのだが、今ははっきりとわかった。
ぼくが聞き逃《のが》したのは、たった二文字。それを補えば意味は、たちまち明らかとなる。すなわち、
——いいか、くれぐれもあの[#「あの」に傍点]女には気をつけろよ。
そして、それが誰を指していたかといえば、むろん言うまでもなかった。そのことに気づいたのと同時に、
「よう、待たせたな」
あのときと全く同じ声が、同じ調子で背後からかけられた。あまりのタイミングのよさに、暗合めいたものさえ感じながら振り返ると、ぼくは声の主の名を呼んだ。
「あ、黒河内《くろこうち》さん……」
「おう」
黒河内刑事は、やや赤みをまじえたものの、まだまだ明るい空を見上げた。次いでぼくの顔を無遠慮《ぶえんりょ》にのぞきこみながら、
「ふん、雨も涙《なみだ》も、もう品切れになったようだな。けっこうなこった。で、どうだい。実際に現場を踏んでみての感想は何かあったか?」
——あのあと、ぼくは近くのうらぶれた、これまで入ったこともない喫茶店《きっさてん》に連れ込《こ》まれ、彼としばらくの時間を過ごした。そのとき何を話したのか、細かいところは覚えていない。ただ、そこは商売というのか、その日の�対決�のあらましについて聞き出されてしまったようだ。
進んで警察に対し、美羽子を告発するつもりはなかったものの、彼という格好《かっこう》の聞き手を得たことで、たまりにたまった思いが一気にあふれ出したのかもしれない。どっちみち、自慢《じまん》できるような話ではなかった。
「ええ、まあ」ぼくは答えた。「少なくとも、ここが火事になったという事実はないみたいですね」
「ほほう……こりゃ、遅刻《ちこく》したおかげで一つ手間が省けたかな」
黒河内刑事は、感心したのか小馬鹿《こばか》にしたのかわからない調子で言った。ぼくは、そのあとに付け加えて、
「もっとも、ほかに該当《がいとう》しそうな工場があれば、また話は別かもしれませんけど」
「念の入ったことだ」刑事は皮肉に笑った。「だが、幸いというか、お気の毒にというべきかはわからんが、この沿線一帯に工場跡が空き地のまま残されているようなところはほかにない。つまり、お前さんはまんまと……というわけさ」
「そういうことらしいですね。じゃあ、わざわざこんなとこへ呼び出した用事はこれでおしまいですか」
ぼくが硬《かた》い表情で言うと、黒河内刑事は「いやいや」と首を振って、
「それだけじゃあないとも。せっかくだから、警察官の職権を利用して面白いものを見せてやろうと思ってね。ほら、これをさ」
言いながら、ジャケットの内ポケットから鮮《あざ》やかな手つきで、細長く折りたたまれた書類のようなものを差し出した。
(…………?)
戸惑《とまど》いながら開いた書類——二通あった——の文面に、ぼくはハッとせずにはいられなかった。
淡々《たんたん》と、何の説明もなく書き並べられた人名、地名、それに年月日は、どこをどう見たらいいかもわからない。にもかかわらず、そこに含《ふく》まれた「行宮」「夏川」という苗字《みょうじ》、「美羽子」「至」という名には引きつけられないわけにはいかなかった。
「こ、これは……?」と顔を上げて訊いたぼくに、
「そうとも、お前さんが昨日言った二人の戸籍《こせき》の写しだよ」
黒河内刑事は答えると、ぼくの肩越《かたご》しに書類をのぞきこむようにして、
「さあ、よく見てみろ。行宮美羽子に、それに夏川至だったっけか。その二人が現在とは別の家に生まれ、今の両親に引き取られたのかどうか、数奇な運命のもとで育ったという話が本当かどうかを確かめてみるんだな」
言われるまでもなく、ぼくはその痕跡を求めて書類に目を通した。だが、それらしい記述は何一つ見つからなかった。
「念のために教えといてやるが」黒河内刑事は言い添《そ》えた。「痕跡を残さずに戸籍を操作する方法はないではないが、おれが戸籍をさかのぼって目を通した範囲《はんい》では、それらしいほころびは見つからなかったな。あと、ついでに調べておいてやったが、そこに記されている夏川至の父親は、いわゆるエンジニアではあるが、ごく普通の勤め人で、もちろん工場など持っちゃいない。世界的発明にかかわっているかどうかは、そりゃ人間どこでどう転がるかはわからないから何とも言えないが、少なくともこれまではそういうことはなかったようだな」
「そう……ですか」
ぼくはかすれた声で、やっとそれだけ答えた。
とにかくこれではっきりした。ぼくが行宮美羽子から聞かされた話は、一から十まで嘘だったということだ。工場の火災という事実が存在せず、実の親を失ったあとの他家への入籍も認められなかった以上、復讐《ふくしゅう》という動機もまた全くのフィクションでしかなかったわけだ。
全ては、砂上の楼閣《ろうかく》よりもなお虚《むな》しい幻《まぼろし》——。だが、そうだからといって、これまでぼくをも巻き込んで起きた惨劇《さんげき》、ばらまかれた死の数々までが架空《かくう》の存在となるわけではない。何一つ謎が解けたわけではないのだ。それどころか、それらの中心に君臨《くんりん》する行宮美羽子という少女の正体は、いよいよ不可解なものとなり、よりいっそう恐怖《きょうふ》に満ちた存在となりつつある……。
そんなぼくの思いを察してか、黒河内刑事は自嘲《じちょう》めいた笑みを口元にはりつけたまま、さらに言葉を続けた。
「ま、夏川至についちゃ、ここに記した通りの人物——ごく普通の家庭に生まれ育った高校生で、だがどうしたわけかおかしな道に誘《さそ》い込まれたということで説明がつくんだが、あいにくもう一人の方はそう簡単にはいかないんだな、これが」
行宮美羽子に関する方の書類を、スッとぼくの手から抜き取ると、
「こっちに関しては、戸籍に記された情報そのものの真偽《しんぎ》が定かじゃない。家族やら、そこからさかのぼったご先祖様やらが真実その通り存在したのかどうかさえ、知れたもんじゃないんだ。何とも底知れぬものを抱えた、とんでもない人間なんだよ。いや、いっそ人間以外のものと考えた方が筋が通るぐらいなんだ……」
人間以外のもの? その言葉の異様さに、ぼくは思わず彼の顔を見直した。相変わらず皮肉っぽく、自分を含めた全てを嘲弄《ちょうろう》しているような態度は変わらないものの、そこに一抹《いちまつ》の畏怖《いふ》のようなものがまじっているような気がしたのは、単なる錯覚《さっかく》だったか、それとも——。
そのあとに、一種異様な沈黙《ちんもく》があった。
にわかに廃墟《はいきょ》を吹《ふ》き渡った風の中で、ぼくは何十秒間、ことによったら何分間も黒河内刑事と向かい合っていた。
その間、ぼくは何とも奇妙《きみょう》な感覚に襲《おそ》われていた。目の前の、年齢《ねんれい》もずっと上なら体格・体力にも開きがあり、人生経験や手にしている権力に至っては天と地以上の差のある相手が、だんだんと対等な存在に思えてきたのだ。いや、むしろ同類[#「同類」に傍点]とでもいうべきものに。
「刑事さん、あなたはひょっとして」
ぼくは、一語一語区切るようにしながら尋《たず》ねた。
「以前から、行宮美羽子のことを追っていた——?」
風はいよいよ強く、不毛の地面に砂塵《さじん》をまきあげ、秩序《ちつじょ》なく積み上げられたガラクタをさえ揺《ゆ》るがせた。そのままどれぐらいの時間、ぼくらはそんな風にして向かい合っていただろう。
黒河内刑事は一瞬真顔になり、次いでフッと自嘲めいた笑いを浮《う》かべると、その笑みにゆがめたままの口をおもむろに開いた。
「そうだ、おれは二年前……もっと以前のような気がしてならないんだが、ある事件で行宮美羽子と遭遇《そうぐう》した。いや、そのときは奴のこととは気づかなかった情報の断片《だんぺん》としてなら、さらにずっとさかのぼりはするな。とにかく、そのときのおれは、清楚《せいそ》の一語に尽《つ》きちまうような女の子を疑うことなんて、思いもよらなかった。ましてや、その後もいくつもの事件にちらつく影《かげ》として、その存在に接することになろうなんて予想もしちゃいなかった。あるときは現場に居合わせた人物のリストに、あるときは目撃証言に含まれた特徴《とくちょう》との一致《いっち》として、またときには防犯カメラに残された一瞬の映像として——といった具合に。
そうこうするうち、だんだん……だんだんと行宮美羽子という女の存在は、おれの中で真っ黒い雲みたいに大きくなっていった。もっとも、大きくなればなるほど、いよいよ奴の正体はわけのわからないものになるばかりだったがな。そんなものにこだわり、上司の指示や周囲の忠告を無視して追っかけ続けたおかげで、おれはしだいに孤立《こりつ》し、ついにはつまはじきにされるようになっちまった。信じられんだろうが、これでも敏腕《びんわん》刑事とうたわれ、将来を期待されてもいたんだぜ。
だが、そうやっていろんなものを失ったかわりに、一つだけはっきりと見えてきたもの、この手にしっかりとつかめたものがあった。あの女がかわいらしい見かけによらない、どころか、人間の皮の中には収まりきれないぐらいの悪念の塊《かたまり》であり、言うなれば犯罪の天才児だという信念がな!」
そのあとも黒河内刑事は、ぼくなんかにしゃべっていいのかと怪《あや》しまれるような事件の裏事情や捜査の内幕を長々と語って聞かせた。その全ては、美羽子の真の姿を白日《はくじつ》のもとにさらすことはできないまでも、浮かび上がらせるには十分だった。
その内容は、ぼくの中でゆっくりと生成され、今や急速にふくらみつつある彼女のまがまがしい幻像《イメージ》とぴったり重なり合うものだった。
にもかかわらず、ぼくは彼の話を一切、これっぱかりも信じはしなかったし、そのつもりもなかった。
だってそうだろう。美羽子の言葉を信じてあんなにもみじめな思いをしたぼくが、彼のことを嘘つきと考えずにいられるわけがないではないか。そうとも、ぼくがどれほどバカにもせよ、あんなあやまちを二度と繰《く》り返してたまるものか!
[#改ページ]
「ぼくはこの秘密のベールを暴こうと、ずっと苦労してきたんだが、とうとう手がかりをつかんだ。それをたぐって、巧みにはりめぐらされた網の目をいくつもくぐり抜けた末にとうとうたどりついたのが、高名なもと数学教授、モリアーティという人物だった。
ワトスン、あの男はいわば犯罪界のナポレオンだよ。この大都会の悪事の半分と迷宮入り事件のほとんどの、黒幕だ。しかも天才で、哲学者で、理論家で、第一級の頭脳の持ち主といえる。あの男は、巣の中心にじっとしているクモみたいなものだ。その巣は、放射線のかたちに広がる無数の糸の網目になっていて、どの糸のどんなにわずかな震えでも、すぐにあの男に伝わる……」
——アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの回想』より「最後の事件」
[#地付き](日暮雅通・訳)
ワトスン、あの男はいわば犯罪界のナポレオンだよ。この大都会の悪事の半分と迷宮入り事件のほとんどの、黒幕だ。しかも天才で、哲学者で、理論家で、第一級の頭脳の持ち主といえる。あの男は、巣の中心にじっとしているクモみたいなものだ。その巣は、放射線のかたちに広がる無数の糸の網目になっていて、どの糸のどんなにわずかな震えでも、すぐにあの男に伝わる……」
——アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの回想』より「最後の事件」
[#地付き](日暮雅通・訳)
「だがね、モリアーティを犯罪者よばわりしたら、名誉毀損で訴えられるぞ。それこそが、みごとであり驚嘆すべきことなんだ! 古今東西随一の陰謀家にして、ありとあらゆる悪事の首謀者。暗黒街を牛耳る頭脳。国の運命を左右してもおかしくないほどの頭脳。それがあの男だ。
なのに、世間から疑いをかけられることもないし、非難も受けない。うまく身を処しておもてに出ないようにすることにかけては、あっぱれとしか言いようがないんだ……」
[#地付き]——同『恐怖の谷』(同・訳)