学校の図書室はいつも通り、ひどく寒々としていた。
保健室と並んで、校内に居場所の見つけにくい生徒の避難《ひなん》場所にふさわしいここは、しかし妙《みょう》な敷居《しきい》の高さもあってか、それほど利用されてはいなかった。
少なくとも、保健室《あちら》の養護の先生に比べて、図書室《ここ》の司書のやる気のないことだけは確実で、それはどう考えてもここ十年、いや、どうかすると二、三十年以上は変化のなさそうな本棚《ほんだな》にも表われていた。とにかく、新しい科学技術や時事問題についてのレポートを書くには、何の役にも立たないというのだから恐《おそ》れ入ってしまう。
何でも、見かねた卒業生から本の寄贈《きぞう》の申し込みがあったときも、「別にいらないです。どうせ誰も借りませんし、なまじいい本を入れても生徒に盗《ぬす》まれるだけですし」と答えて呆《あき》れ返らせたそうだ。要するに本棚の入れ替《か》えが面倒《めんどう》なのだろう。そんなぐらいだから、利用者などなるべく少ないに越《こ》したことがないと考えているに違《ちが》いなかった。
だが、それでも、ここがぼくにとって保健室より魅力的《みりょくてき》だったのは、時の止まったような雰囲気《ふんいき》と、もともと時代の変化とは無関係であるがゆえに、これ以上は古びようもない蔵書の数々だった。
とりわけ、そのときのぼくにはそれらが必要だった。もう誰の顔も見たくなかった。クラスメートの中に、ただ存在しているのすら苦痛だった。
そのあげく、昼休みになったとたん図書室に逃《に》げ込《こ》んだのは、そこしか行き先がなかったからだ。とうに読み慣れて中身もあらかた知れており、手あかのついたような活字群こそが、自分を癒《いや》してくれるような気がしたからだった。
だが、甘い期待に反して、古なじみの物語たちは、ぼくをちっとものめりこませてくれなかった。やや変色した紙に刷られた、今の印刷に比べると小っこく読みづらい活字の隊列《たいれつ》は、追うほどにイメージを喚起《かんき》し、ここではないどこかへ誘《さそ》ってくれるのに、今日ばかりは違っていた。
どんなに目を凝《こ》らしても、本の中に入ってゆこうとすればするほど、それは無味乾燥《むみかんそう》なただの文字、インクのしみであり続けた。わが愛する主人公も仲間たちも、ちっともイメージとなって現われてはくれず、まるで手がかりのない壁《かべ》をむなしく引っかいているような焦《あせ》りと、みじめさがぼくの心をむしばんだ。
と、そんなさなかのことだった。
同じテーブルの、ぼくのいる端《はし》っこの席の正反対に、スッと何者かの影《かげ》が腰掛《こしか》けるのが見えた気がした。
長い髪、たおやかなシルエット、最近になってあらためて認識させられたのだが、抜《ぬ》けるように白く端正《たんせい》な顔立ち——。それらの主《ぬし》が誰であるかは、ことさらに視線を投げかけてみるまでもなかった。
(…………!)
その名をつぶやきかけて、あやうくのどの奥に落とし込んだ。何があろうと断じて相手のことなど見てやるもんか。気づいたことさえ知られたくない。まして、言葉を交わすなどもってのほかだった。
そのあとに、何とも気まずい沈黙《ちんもく》が流れた。いや、気まずいのはぼくだけで、相手はたぶん何とも思ってはいなかったろう。そのことがまた、腹立たしいのだった。
だが、いくら無視しようとしても、視野の片隅《かたすみ》に映り込んだ彼女の姿を消すことはできなかった。ほんの少し視線をそらすか、首をねじ向ければすむことなのに、その簡単なことがどうしてもできなかったのだ。
それから、どれぐらいの時間が過ぎたろう。ひそかに恐れていたことが起きた。目にはまぶたがあっても、耳にはそれに当たるものがないという残念な事実を思い知らされる事態が。
「——暮林《くればやし》君は、よくここに来るの?」
彼女——行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》は、テーブルの反対側から屈託《くったく》もなく、ひとかけらの底意《そこい》もないようすでぼくに話しかけてきた。
誰が返事なんかしてやるものか。そう決意しつつも、ぼくの口からもれ出たのは、世にもつまらない答えだった。
「ああ……まあね」
言ってからしまったと思った。何でこれぐらいの沈黙が守れないのか、まるでロボットみたいに美羽子の言葉に反応したのはなぜだと、情けなさに歯噛《はが》みするぼくをよそに、
「やっぱり、そうなんだ」
美羽子はどこまでも朗らかに、まるで仲間が見つかったことを喜んでいるみたいに言った。
「私もね、図書室にはよく入りびたってるのよ。だから、暮林君の姿を見かけたことも何度もあった。いつもそんな風に、古びた本を——もっとも、ここに新しい本はあんまりないけど——読んでいたよね」
「まあ、いろんな奴がいるからね、この図書館の中に限っても、まして学校全体となれば……」
あくまで視線を合わさず、ふてくされた調子で吐《は》き棄《す》てたとたん、胸の奥から真っ黒いものがこみ上げてきた。それは、あの工場跡《こうじょうあと》での会見以来、わだかまっていたものだった。
「そういえば、ある人が言っていたっけな。『世の中にはごくまれにだが、お前さんのような若造には想像もつかないようなとんでもない奴がいる。姿形はかわいい女の子のくせして、中身はモリアーティ教授みたいなのが』って」
黒河内《くろこうち》刑事のゆがんだ笑みと、嘲弄《ちょうろう》するような声音を思い出しながら、せいいっぱいの言葉の刃《やいば》を突《つ》きつけた。どうせなら、毒針でも投げつけてやりたいところだった。
だが美羽子は、ぼくが必死に放った告発を、羽毛の切れっぱしででもあるかのように軽く受け流して、
「へえっ、モリアーティ教授って、シャーロック・ホームズの宿敵のお爺《じい》さんでしょう? それって何だかいやなたとえだなぁ。……あ、わかった。それで暮林君、そんな本を読んでたのね」
「べ、別にそういうわけじゃないよ」
席からのびあがるようにして、こちらの手元をのぞきこもうとするのを、あわててさえぎりながら言った。実のところ、適当に選んでテーブルに積んだ本の中に、シャーロック・ホームズ・シリーズの一冊がまじっていることも、言われて気づいたほどだった。
「そういう君は、何を読んでるんだ。やっぱり犯罪事件を扱《あつか》った本かい。それも、ぼくみたいに他愛のないフィクションじゃなく——」
「ちょっと歴史の本をね」
彼女は、ぼくの言葉をさえぎって言った。ぼくは思わず美羽子の顔を見てしまいながら、
「歴史の本?」
見ると、彼女の手元には確かに分厚い書物が置かれていた。
「そう……そんなところがあったとさえ、とうに忘れられてしまった国の、全てから見捨てられた人たちの、誰も知らないお話をね。どう、興味ある?」
美羽子は、まるで歌うように言った。
そんなものに興味はないし、聞きたくもないね、と答えるべきところだった。でなければ、黙《だま》って席を立つか。
なのに、ぼくはそうしなかった。なぜだろうか。彼女の�歌声�に聞きほれた、とは死んでも認めたくないのだが。
ともあれ彼女は語り始めた——いつの時代、どこの国のものとも知れず、およそありそうになく、とても信じられぬ、だが美しい物語を。
「大海原《おおうなばら》に浮《う》かぶ大陸の、国と国の谷間のような場所に、そう呼ぶのもはばかられるような小さなお国がありました。その国の人々は、いわゆる文明とも繁栄《はんえい》とも無縁《むえん》だったけれど、彼らは彼らなりの文化と生活と、何より誇《ほこ》りを持って暮らしていました……。
けれど、その国のお伽噺《とぎばなし》のような美しさと清らかさ、ささやかではあるけれども実りの豊かさは、周囲の国々のあこがれであり、わけても最も強く大きな国のねたんでやまないところでした。
その強く大きな国は、自分たちこそが世界の中心であり、その小さな国もわが領土のうちであり、そこの富も美も一切合財が自分たちのものだと信じて、少しも疑っていませんでした。
そして、ある年ある月の、とある一日——悲劇は起きました。その強くて大きな国が、大軍をもって小さなお国に襲《おそ》いかかったのです。ほしいものを根こそぎ奪《うば》い取り、それだけではあきたらずに、自分たちが奉じる�主義�だの�思想�といった愚《ぐ》にもつかない代物を押しつけるために。
ちなみに、彼らの考えでは、自分たちの教えを広め、それに基づいて国の仕組みを作りかえるためには、どんな暴力《ぼうりょく》や不正も許されるし、またどんな悪事もそうした口実のもとでは名目が立つのでした。
むろん攻《せ》められる側からすればたまったものではありません。小さなお国は、むろん必死に抵抗《ていこう》しましたが、強くて大きな国の兵力の前ではしょせん敵ではありませんでした。
かろうじて守られてきた国ざかいは、いともあっさり破られ、兵たちの足の下に、田畑も道ばたに咲いた花もむざんに踏《ふ》みにじられてしまいました。
たちまち繰《く》り広げられた破壊《はかい》、略奪《りゃくだつ》——。けれど、そのこと自体のいまわしさもさることながら、なおおぞましく憎むべきだったのは、強くて大きな国に阿諛追従《あゆついしょう》し、あるいはことを荒立《あらだ》てたくない国々が、この恐ろしい不正に見て見ぬふりをしたことでした。
そうした手助けもあって、孤立無援《こりつむえん》となった小さなお国の、それに見合って小さいけれども美しい都は、たちまち敵の手に落ちてしまいました。
そして、とうとう——恐ろしい殺戮《さつりく》が始まったのです。それは、奇《く》しくも何年かに一度の月蝕《げっしょく》の夜のことでした」
「月蝕……の?」
ぼくは思わず口をはさんだ。何かしら、その単語が心に引っかかってしようがなかったのだ。
美羽子は、妖《あや》しいとしか表現しようのない微笑を浮かべると、うなずいた。
「そう、地球が自ら太陽を覆《おお》い隠《かく》し、おのが影で満月の輝《かがや》きを消してしまう、ね。……お話を続けてかまわない?」
「あ? ああ」
問われてぼくは、答えていた。このモリアーティ教授の心を持つ少女の話など、これ以上は一言だって聞きたくもなかったはずなのに。いや、最初から聞いてなどいなかったはずなのに。
「さて……その都の中心に一軒《いっけん》の家があり、一組の家族が住んでいました。そこには、たわむれにつけたものか、それとも本気の呼び名だったのかはさて置くとして、〈姫〉と呼ばれる娘がいて、このうえなく幸せに暮らしていたのですが、強くて大きな国の凶手《きょうしゅ》は当然その家族に——そして〈姫〉の身にも及《およ》びました」
そう言い切った瞬間《しゅんかん》、美羽子の顔がかすかにこわばり、声も震《ふる》えたような気がしたのは、錯覚《さっかく》ではなかった。
効果を狙《ねら》った演出、つまらない小芝居《こしばい》さ——ぼくはひそかに吐《は》き棄《す》てた。だが、彼女には、そんな思いが通じるわけもなく、
「ところで」
なおも臭《くさ》い小芝居を引きずりながら、続けた。だが、その一語のあとは、瞬時に氷の刃のような冷たさと鋭《するど》さを発散させながら、
「この悲劇は、はるばると大陸を渡《わた》り、海の向こうにある島国にまで伝わりましたが、はるかに遠い無縁の地のことであり、血なまぐさい惨劇《さんげき》も、そのために振《ふ》り絞《しぼ》られた叫《さけ》びも涙《なみだ》も、何やらぼんやりしたものとしか受け取られることはありませんでした。もとより、その島国の為政者《いせいしゃ》たちに救いの手をさしのべるつもりなど毛頭なく、かかわることさえほとんどなかったのでした。
にもかかわらず、小さなお国からの救いを求める声は、わらをもつかもうとする思いゆえに、その島国にも届きました。それは、あの〈姫〉と呼ばれる少女とその一家からのものでした。というのも、彼らはそちらの国において、それなりの地位や名声を持ち、知識にも恵まれた人たちに知り合いがいたからです。
彼らから一縷《いちる》の望みを託《たく》されたものたちは、求められ、しかしあっさりと救いを求める声を無視し、握《にぎ》りつぶしました。それどころか、強く大きな国の側に、そのことを内通し、みすみす彼らが捕《つか》まるように仕向けさえしたのです。実際、そのせいで何人もがむごい刑罰《けいばつ》を受け、命を奪われてしまいました。
いったい、どうしてまたそんな卑劣《ひれつ》なまねを——保身のため? 損得を考えたから? それとも、いつのまにか敵方についていたから?
どれも正しく、しかしそれが全てではありませんでした。最も正しく、最も下劣で醜悪《しゅうあく》きわまるその理由というのは、次のようなものでした。
その人たちは、強くて大きな国が掲《かか》げる�主義�ないし�思想�に強いあこがれを抱《いだ》き、それが実現されているその国を訪れたこともなく、実態を見たこともないくせに、勝手に理想郷《りそうきょう》のように信じ込み、決めつけていたのです。そこをこの世の楽園のように言いなす以外の言葉は何一つ心に響《ひび》かず、それとは正反対の現実を突きつけられるような情報は、断じて認めようとしなかったのです。
そう……その人たちは、愚《おろ》かしくも甘やかな夢をいつまでも破られたくないために、いつかは自分たちもユートピアの住人となると信じ続けるために、それとは正反対な血みどろの現実に目をつぶったのです。生身の人間の苦悶《くもん》や悲鳴から耳をふさいだのです、いや、それどころか、自分たちの身勝手な幻想《げんそう》にとって不都合な私たちを抹殺《まっさつ》させようとさえした……」
「私たち?」
ぼくは驚《おどろ》いて聞き返した。
まさか、今の話に出てきた〈姫〉というのは——? だが、美羽子は意味ありげな微笑をたたえたまま、答えようとはしなかった。
「とにかく」
長い間《ま》のあと、彼女は真偽《しんぎ》も定かでない歴史物語の語り手から、もとの彼女自身——それが何かは見当もつかなかったが、とりあえずさっきまでの美羽子に戻《もど》ると、言葉を継《つ》いだ。
「これほど恥《はじ》知らずな、自らは手を汚《よご》していないとはいえ、汚《きたな》らしく穢《けが》らわしい罪悪があるとはね。しかも、これがほんとにあったことだっていうんだものね。——暮林君はどう思う?」
いきなり話を振られ、ぼくは答えに詰《つ》まった。だが、そんなことではいけないと、必死に皮肉のスパイスを利かせて、
「どう思うって……何とも大時代というか、『モンテ・クリスト伯』に出てくるエデ姫の話をちょっと思い出したよ。裏切り者のフランス軍人のせいで父親であるジャニナ太守を殺され、奴隷《どれい》に売られる、ね。まあ、およそあり得そうになくて共感しにくいという点では、あの話とおっつかっつかな。ほら、火事になってない工場で、ありもしない新発明のために、いもしない肉親を焼き殺されたってのと」
せいいっぱいの口撃《こうげき》の矢は、しかし少女の白い手のひらの中に簡単につかみ取られてしまった。
「面白いこと言うのね、暮林君って」
「…………」
ひょいっとばかりに投げ返された言葉は、ぼくの唇《くちびる》を封《ふう》じるに十分だった。
「ところでね、暮林君」
くやしさに再びそっぽを向いたぼくにかまわず、美羽子はひどく楽しそうに話し続けるのだった。
「知ってた? 私はずっと君に注目してたのよ。暮林君の考え深さ、誰もがどうでもいいと流してしまうことにこだわって、最善の解答を得ようとする。それも単なる理屈《りくつ》のための理屈じゃなく、みんなにとっての最良の結果を導くために、ひたすら考えに考えて考え抜く——どこまでも誠実に、そして愚直《ぐちょく》にね。そう、探偵でいうとホームズよりはむしろエラリー・クイーンかな」
「愚直で悪かったね」
憤然《ふんぜん》と言いはしたものの、ぼくのひそかな英雄であるエラリー・クイーン——探偵役も数ある中で、徹底した論理《ロジック》の積み重ねと、その華麗《かれい》なアクロバットでもって謎を解く推理の達人——のようだなどと、彼女にほめられて悪い気持ちがしなかったのも事実だった。
だが、それで感激するには、ぼくの心は傷つきすぎていた。
「夏川《なつかわ》にもそんな風に言ったのか」
ぼくは、かろうじて感情を抑《おさ》えながら言った。すると、美羽子は心底びっくりしたみたいに、目をまん丸に見開いて、
「夏川君に? 彼と君とは違うのに、何で同じ接し方をしなくちゃいけないの?」
逆に聞き返してきたではないか。予想外の反応に、ぼくはぼくでとっさには何のことだかわからずに、
「どういうことだ?」
「どういうことって……」
美羽子はなおも戸惑《とまど》ったように言ったが、ふいにぼくの目の中をのぞきむように、こちらを見すえると続けた。
「たとえば、暮林君は私に味方してくれる? やろうとしてることを手伝ってくれる気があるかしら?」
「そんな……そんなわけがないじゃないか!」
ぼくは一瞬、震えのようなものを感じながら、激しく首を振った。きっと、見られたものではない形相《ぎょうそう》になっていたことだろう。
「君を手伝うなんて……人殺しの片棒をかつぐなんて、できるわけがないだろう」
ぼくはかすれた声で、とりわけ�人殺し�という単語は、自分でも聞こえないほどに押し殺しながら続けた。
「でしょう? だったら、そんな君に、夏川君と同じように言うわけがないじゃない。彼と暮林君は、全然違う存在なんだから。とりわけ、私にとってはね」
にっこりと言う美羽子に、ぼくはぶざまにも言葉を詰まらせてしまった。
では、夏川|至《いたる》は、彼女にとってどういう存在であり、どのようなプロセスを経て積極的に共犯者、いや、むしろ手下となったのか。どういう口先と手管《てくだ》で彼女にたらしこまれて、他人を殺《あや》め、自ら鈍器《どんき》で頭を一撃するに至ったのだろうか。
具体的にはさっぱり見当もつかないが、きっと相当に巧妙《こうみょう》で魅力的な手口であり、見返りもまた大きかったに違いない。何しろ、ぼくなんかと親友ごっこを演じる苦痛を耐《た》え忍《しの》べたのだから!
「じゃあ、行宮は、ぼくにいったいどんな役割を期待してるっていうんだ。徹底的《てっていてき》にコケにされる道化《どうけ》か、バッサリ斬《き》られる役か、それとも通行人Aか? どれも願い下げだけどね」
ふつふつと煮《に》えたぎる思いを感じながら、挑《いど》むように訊《き》いてやった。すると——
美羽子は、再びぼくを見つめた。こちらの眼球の奥まで見通すかのような視線を向けながら、ゆっくりと口元の微笑を深めてゆく。催眠術《さいみんじゅつ》にかけられてしまいそうな危うさを感じながらも、ぼくはなぜだか視線をそらすことができなかった。
「——あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば」
ふいに彼女はぼくに横顔を向けた。次いで、その唇からこぼれ落ちた言葉があった。
「えっ、何だって?」
あわてて聞き返したぼくを無視して、美羽子は続けた。
「——あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか」
「いきなり、何を言ってるんだ?」
「——そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣《けもの》たちは、人間の匂《にお》ひをよく知つてゐる」
「おい、行宮?」
「——人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火《たきび》のあと、あの靴《くつ》の足跡《あしあと》が私の中に」
どうやら、彼女は何かの引用文をそらんじているようだった。
「——法律が私の恋文《こいぶみ》になり」
そのあとに、美羽子は再びぼくを見すえた。そんなことがあるわけもないが、まるで恋しているかのような微笑を向けると、
「——そして最後に……」
その続きは、ほとんど口の動きだけのささやきとなって聞こえなかった。何とかそれを読み取ろうと目を閉じ、神経を研《と》ぎすます。だが、次いで鼓膜《こまく》に届いたのは、ガタリという椅子の音だった。
「おい、どこへ行くんだ?」
あわてて目を開け、呼びかけた。だが、そのとき見えたものは、つかつかと靴音も軽やかに遠ざかってゆく行宮美羽子の後ろ姿だった。さっきまでとは打って変わり、まさに取りつく島もないそっけなさだった。
最初から最後まで、あまりにも人を小馬鹿にしたふるまいに、追っかけて行って引き戻そうかと思った。だが、考えてみれば、ぼくと行宮美羽子の間に交わすべき言葉など、もはやないのだった。
ぼくは力なく椅子に腰掛けた。
たった今まで彼女のいた席に、気抜けしたような視線を投げかける。と、そこに二冊の分厚い本が残されているのが目に入った。
この後始末をしろというのか、あいつはどこまでもぼくのことを……と舌打ちしながらも、さっきのたわごとのような歴史物語の本とはいったいどんなものかと、自席を立って歩み寄り、手に取ってみた。
一冊目は、こんな書物がこの図書室にあったのかと怪《あや》しまれるほど、古びて珍奇《ちんき》なものだった。本革らしい装幀《そうてい》には金色の文様《もんよう》が細かく施《ほどこ》されており、本文はといえば日本語はおろか、ぼくにはどこの国のものか見当さえつきかねる、およそ見たこともない文字と言語でもって綴《つづ》られていた。
これはいったい何の本なのか——と、ためつすがめつページを繰ってみたが、まるっきり見当もつかない。しかたなくもう一冊の方を見ると、それは三島由紀夫《みしまゆきお》全集の戯曲《ぎきょく》編で、こちらは一読してすぐ正体がわかったものの、貧弱とはいえ数多くある図書室の蔵書から、なぜこれを選んだのかという意図のわからなさでは、ほぼ同様だった。
あいにくぼくは、異国の言葉に通じていないと同時に、三島のいい読者ではない。だが、何気なくパラパラとめくっているうちに、ある個所でハッとして指を止めずにはいられなかった。そこには、ついさっき彼女が口走った奇妙なセリフがそのまま記されてあったからだ。
それは、この芝居の主役をつとめる男女二人が、それぞれ舞台の上手と下手に分かれ、片や自分のオフィス、片や隠れ家と、互いに遠く離《はな》れた場所にいながら、時を同じくしてセリフのかけ合いを繰り広げるという場面らしかった。
美羽子が言った「あいつの影が私を包む」うんぬんというのは、女主人公《ヒロイン》のセリフで、その前には男主人公《ヒーロー》が、
「この部屋にひろがる黒い闇のやうに」
と言う。さらに彼女の先のセリフを受けて、
「あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾燈《びとう》のやうに」
次いで「あいつの光りが……追はれてゐるつもりで追つてゐるのか」のあとに、
「追つてゐるつもりで追はれてゐるのか」
と絶妙な一対をなす言葉が放たれる。あとも美羽子が言ったのと寸分違わぬセリフをはさんで、
「人間たちも獣の匂ひを知つてゐる」
「いつまでも残るのはふしぎなことだ」
とヒーローが語り、ヒロインの「法律が私の恋文になり」を受けて、
「牢屋《ろうや》が私の贈物《おくりもの》になる」
というセリフとなる。そして、そのあとに二人の主人公が声をそろえて、
「そして最後に勝つのはこつちさ」
と言い放つのに合わせて、舞台は暗転となる——。
あのとき美羽子が言いかけ、あえて声に出さなかったのはこのセリフだったのだ。そして、この戯曲の指定によれば、男女が同時にこの言葉を発することになっている。と、いうことは——?
ひょっとして、行宮美羽子は自分をヒロインに、そしてあろうことかぼくをヒーローに擬《ぎ》し、勝手にセリフのかけ合いを演じていたとでもいうのか。
(まさか)
ぼくは、あることに気づき、ぎょっとせずにはいられなかった。
まさか、これがぼくがさっき放った「行宮は、ぼくにいったいどんな役割を期待してるっていうんだ」への答えだというのだろうか?
ぼくはあわててこの戯曲のページをさかのぼり、震える指先はほどなく扉《とびら》ページに達した。そこには、このように記されていた。
江戸川乱歩原作に據《よ》る
黒《くろ》 |蜥 蜴《とかげ》 三幕
黒《くろ》 |蜥 蜴《とかげ》 三幕
そう、これは乱歩の探偵小説『黒蜥蜴』を三島由紀夫が、彼独自の耽美《たんび》と逆説の世界に取り込んで脚色《きゃくしょく》した、あまりにも有名なお芝居であった。言うまでもないことだが、ここにいうヒロインとは稀代《きたい》の女賊《じょぞく》・黒蜥蜴であり、ヒーローとは日本一の名探偵・明智小五郎《あけちこごろう》にほかならなかった。
(ぼ、ぼくが明智? こ、このぼくが……?)
いつしかぼくは低く笑いだしていた。それは、まばらな図書室の利用者たちが薄気味《うすきみ》悪そうに身を引き、あるいは席を立ち、例のやる気のない学校司書がカウンター裏の準備室から、「だから、ここにはなるべく人が集まらないようにしたいんだ」とばかり、あからさまな嫌悪《けんお》の表情をのぞかせても、容易にやむことはなかった。
(ぼ、ぼくが明智? こ、このぼくが……?)
いつしかぼくは低く笑いだしていた。それは、まばらな図書室の利用者たちが薄気味《うすきみ》悪そうに身を引き、あるいは席を立ち、例のやる気のない学校司書がカウンター裏の準備室から、「だから、ここにはなるべく人が集まらないようにしたいんだ」とばかり、あからさまな嫌悪《けんお》の表情をのぞかせても、容易にやむことはなかった。