その後、黒河内《くろこうち》刑事からは何度か連絡があったが、ぼくはいつも適当にあしらうか無視しておいた。
彼としては、ぼくをスパイか手下に使い、行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》の動きだの学園内の異変だのを報告させたかったのかもしれない。それとも、周囲からうとまれながらの孤独《こどく》な捜査《そうさ》に耐《た》えかね、ときにぼくをおちょくったり、愚痴《ぐち》をこぼしたりしたかったのかもしれない。
後の方だったとしたらお気の毒だが、とにかく彼に——というよりは、彼の追っているものにかかわりたくなかったのだ。第一、ぼくの方から捜査に協力したくとも、これといって報告するような情報などなかった。
なぜなら、何も起こりはしなかったからだ。退屈《たいくつ》な日常を突《つ》き破るような出来事は何一つ。だが、退屈な日常というものの、何と恐《おそ》ろしいことか!
モリアーティ教授の心を持つ少女が同じ教室にいて、先方はぼくがそうと知っていることをお見通しだ。彼女はこのままおとなしく一人の女子高校生のままでいるつもりはなさそうだし、そればかりかぼくに並々ならぬ関心を寄せているようだ。
そして——ぼくもまたそうなのだ! 正直に言ってしまおう。ぼくは美羽子から目も、それから心も離《はな》すことができない。ぼくから彼女へ向ける思いは、ただの卑小《ひしょう》な人間の感情に過ぎなくて、たぶん彼女からのものとはかなり違《ちが》っているはずだが、それでもぼくにすればいっぱいいっぱいだった。
いつ、この危うい均衡《きんこう》が崩《くず》れるのか。そのときいったい何が起こるというのか。これほど恐ろしい日常が、ジリジリと身を焼かれるような退屈さがあるだなんて、夢にも思わなかった。
教室にいても居場所はないし、いれば美羽子の澄《す》みきった瞳《ひとみ》と目が合い、奥底の知れない微笑と出会う確率はきわめて高い。それを避《さ》けるためもあって、ぼくは以前よりしばしば、そしてずっと長い時間を図書室で過ごすことが多くなった。
その目的の一つに、彼女が読んでいた書物の正体を突き止めたいという思いがあった。あのとき、ぼくはあの本をどこに戻《もど》していいかわからないまま、机の上に残したまま図書室をあとにしたのだが、誰か——まさか、あの司書ではあるまい——が後始末をしてくれたとみえ、あとで奥まった棚《たな》の一隅《いちぐう》から掘《ほ》り出すことができた。とはいえ、いくら中身とにらめっこをしても、内容はさっぱりわからなかった。
文章はもちろん、文字も見慣れないものばかり。時折|挿入《そうにゅう》される記号とも紋章《もんしょう》ともつかないものに興味を引かれ、これが解読の手がかりになるかと思ったが、そう簡単にいくはずはなかった。
ここに、彼女が言う�月蝕《げっしょく》の夜に、強大な軍勢によって理不尽《りふじん》にも攻め滅《ほろ》ぼされた国�のことが記してあるのか、それとも、読めない言葉で書かれているのを幸い、まるで関係のない本をそれらしい小道具に使ったのか。美羽子のことだから、おおかた後者だと思うのだが、しかし……。
それより、まだしも脈がありそうなのは、彼女が夢見るような調子で物語った「小さなお国」の話に、何らかのバックグラウンドがあるのかどうかについての調査だった。もとより美羽子と、その国なり〈姫〉なりの間にどんなつながりがあるとも思えないが、どうせ何か元ネタ——事実にせよフィクションであるにせよ——があるに違いなく、それを突き止めて、ギャフンと言わせてやりたかった。
だが、歴史の本を調べ始めてまもなく、ぼくは何ともいえない気分になった。実に多くの「小さなお国」が悲劇的な最期をとげていることを知ったからだ。
それも、何百年もさかのぼる必要はない。アジアに限っても、ビルマ王国では英国軍により国王や王妃《おうひ》が処刑《しょけい》され、王女たちはみな悲惨《ひさん》な境遇《きょうぐう》に落とされたし、アンナン国王でありベトナム皇帝《こうてい》ともなった人物は、祖国を追われたまま二十世紀末まで生きながらえていた。
そして、何の罪もなく中国の侵略《しんりゃく》を受けたチベットの、同じくアメリカに攻《せ》め込《こ》まれたカンボジアの悲劇——。ヨーロッパでは、チェコスロバキアにポーランド、バルト三国と呼ばれるエストニア・ラトビア・リトアニアといった国々が、ソビエト連邦《れんぽう》のため蹂躙《じゅうりん》された。
誰にも止められはしなかったし、止めようともしなかった。情けない話だが、日本のインテリと呼ばれる連中は、当然の自由を求めた人たちが、社会主義の美名のもとに弾圧《だんあつ》されるのをむしろ歓迎《かんげい》し、「せっかく理想の政治体制の下にいるのに、なぜ逆らうのか」と抵抗《ていこう》をあざ笑ったという。まさに美羽子の話そのままだが、聞くだけでも胸のむかつくような気がした。
ともあれ、痛ましい悲劇は数え切れないほど起きてきたわけだが、そこでぼくはふと考えずにはいられなかった——おそらくは、おのおのの舞台に、それぞれ〈姫〉と呼ばれる存在がいたのではないだろうか、と。
何も、王族とか高貴な身分とは限らない。その名にふさわしい、周囲から愛された美しく賢《かしこ》い少女は、きっとどこの国にもいたことだろう。そして、殺戮《さつりく》や略奪《りゃくだつ》のただなかで、彼女らがどんな凄惨《せいさん》な体験をしなくてはならなかったか……ぼんやりと想像ぐらいはできるが、その真の痛みや心の深傷《ふかで》がどんなものであったかは、しょせん理解できるわけもなかった。
そう、〈姫〉といえば、こんな人もいた。二十世紀の始まる少し前に、白人たちの卑劣《ひれつ》な陰謀《いんぼう》のため滅亡《めつぼう》したハワイ王国のカイウラニ王女——�|妖精の姫君《フェアリー・プリンセス》�という呼び名がぴったりの、美しく可憐《かれん》な容姿とはかなくも哀《かな》しい生涯《しょうがい》は、本当にこのような人がいたのかと怪《あや》しまれるほどだった。
そうした驚《おどろ》きや感動はともかくとして、あの物語がいったいどのあたりからネタを引っ張ってこられたものなのかについては、ついに手がかりを得られなかった。むろん、美羽子が何のつもりであんな話をしたのか、思い入れたっぷりに語られた〈姫〉とは何者なのかについても。
あてのない、やればやるほど取りとめのなくなる資料調べに、いいかげんあきてきた放課後だった。図書室を出てグラウンドに下り、ほこりっぽいけれど新鮮《しんせん》な空気を吸っているところへ、それぞれ制服と体操着姿の男子二人組が通りかかって、
「何だ、するとお前ら、今夜は学校に泊まり込みか。大変だな」
いかにも運動部っぽい、色浅黒く筋肉質な方が、やや色白で眼鏡《めがね》をかけた連れに声をかけた。どちらもぼくとクラスは違うが同じ学年で、前者は確か陸上部の選手、もう一人の方は確か……。
「ああ、地学部の宿命だよ。こういう天文学的イベントのあるときは、必ずといっていいほどな。で、これからちょっと食料の買い出しに出かけようと思ってさ」
すると、陸上選手は首をかしげて、
「イベント……? 今晩あたり、流星群でも降るってのか」
「あいにく、そんな派手なのじゃない。といっても、そうしょっちゅうあるもんでもないけどな」
「何なんだ、そりゃあ」
「月蝕だよ」
眼鏡をかけた地学部員は、あっさりと答えた。陸上選手は目を丸くしながら、
「月蝕って、あの月の欠ける月蝕か」
「その月蝕だよ。ほかに月蝕はなかったと思うが」
わざわざしなくてもよさそうな質問に、これまた同様な答えが返された。だが、ぼくはその単語に凍《こお》りつき、その場に立ちつくしてしまった。
「今夜は、月蝕——?」
心の中でつぶやいただけのつもりが、ひょっとしたら声に出して叫《さけ》んでいたかもしれない。というのは、地学部員と陸上選手の二人組が、一瞬《いっしゅん》立ち止まってこちらをけげんそうに見た気がしたからだが、ぼくの中でグルグルとめぐり始めた想念に比べれば、そんなお体裁《ていさい》なんかもうどうでもよかった。
——いつの時、どこの地かも知れず起きた悲劇。そのヒロインである〈姫〉の名も、今となっては調べようもない。唯一《ゆいいつ》はっきりしていることは、それがとある月蝕の夜に起きたということ。ということは、まさか——?
(いや、そんなばかなことが……ハハハ、いくら何でもこじつけだ、妄想《もうそう》もいいとこだよ。いくら月蝕に因縁《いんねん》めいたものがあるにしたって、そして今夜たまたま太陽と月の間に、地球がうまくはまり込むからって、何か起きると限ったもんじゃない。だが、もし万一、今の均衡状態が破れるとしたら、何かが起きるとしたら、それは……)
今夜、なのではないか?
ぼくは思わず、そうつぶやいていた。
これでも、本当は「今夜だ!」と叫びたかったのを、やっとのことでこらえたのだ。そのうえで、念のため心の中でこう付け加えるのを忘れなかった。
(まさか、そんなことがあるわけがない——美羽子が今夜、何か行動を起こすだなんて!)
と。
いつかそのときは来るとしても、それは今ではないはずだ。今であるわけがない。今であってほしくはない。どうか、せめて今では……
同じ言葉を、むなしい予測というよりはただの願望を、何度頭の中でリピートさせたことだろう。
そのまま放課後を迎《むか》え、日は翳《かげ》り、家路に着き、やがて月の出を迎えたころおいのことだった。その不毛なループを断ち切るものが、心臓をドキつかせるような電子音(それは、いつもの何倍ものけたたましさで鳴り響《ひび》いたような気がした)とともに現われたのは……。
「もしもし、暮林《くればやし》君だな? おれだ、黒河内だよ! 悪いが今晩出てこられるか。いや、何としても出てきてもらわなくちゃ困るんだ。奴が、あのモリアーティの心を持つ小娘がとんでもないことをやらかそうとしてるんだ……そうとも、どういう意味があるのかは知らないが、何年かに一度のこの月蝕の夜に!」
むろん、行くつもりなど毛頭なかった。断じて、絶対に、たとえ欠けた月が頭の上に降ってこようとも、自分の家の自分だけの部屋でぬくぬくと過ごすつもりだった。
——数時間後、月はかけらとなって落ちてくることもなく、ぶじに天空に浮《う》かんでいた。
にもかかわらず、ぼくは迷路みたいに入り組んだ屋敷町《やしきまち》のただ中にいて、夜風を肌《はだ》に感じていた。
(やっぱり、来てしまったか)
ぼくは憂鬱《ゆううつ》さと不安のいりまじった気分で、何とはなく視線をもたげた。ふうぅ……と思わずため息が口をつきかけた次の瞬間、ぼくはハッと息をのまずにはいられなかった。
すでに蝕は始まっているとみえ、満月の左側のかなりの部分が黒く塗《ぬ》りつぶされていた。そうだ、太陽と月の見かけの大きさがほぼ同じである日蝕《にっしょく》とは違い、月はたとえ部分月蝕であっても、はるかに大きな地球の影《かげ》に、まるでのみこまれるように覆《おお》われてしまうのだ。まして、確か今夜は……。
気がつくと、ぼくは一軒《いっけん》の屋敷の前に立っていた。それは、あの西洋館——ぼくが文字通りの殺人劇の観客になることを強いられた場所だった。
�いいか�
ふいに、黒河内刑事の声が耳の奥によみがえった。
�もし、お前さんがこれまでのいろんな厄介《やっかい》ごとにケリをつけたいのなら、今からあそこの敷地《しきち》内に入り込め。正面の門からでも塀《へい》を越《こ》えるんでも、壁《かべ》の破れを捜《さが》すんでも何でも、やり方は自由……ただし誰にも見つからず、とっ捕《つか》まりもしないという条件つきだがな�
そんな危険なんか冒せるもんかい——そう吐《は》き棄《す》てつつも、ぼくは灯り一つない西洋館に向かって歩を進めた。苦々しさと一抹《いちまつ》のスリルと、あとの九割はやけくそな気分だった。
�あの建物の向かって左側に回り込むと、塀にはさまれた小道がのびている。少々|狭《せま》っ苦しいが辛抱《しんぼう》するんだな。すると……�
そのコースは、屋敷を反時計回りに迂回《うかい》したあのときとは逆方向だった。そのまま進めば、樫《かし》の木の生えた裏庭に抜《ぬ》けるが、目的地はそちらではなかった。
�すると、その先に、建物の壁面《へきめん》に沿って階段が設けてある。そこを下りると、ほんの何段かで半地下って感じの入り口に行き着くから、そこのドアを……�
(それが、このドアか。引き返すなら今のうちだが……)
ぼくは、古びて黒っぽく変色したノブをつかむと、いつしかドキつき始めた心臓をなだめながら、手にグッとひねりをくれた。
ドアはかすかなきしみ音を立て、おかげでこちらの背中に冷や汗《あせ》を垂らさせながら、ゆっくりと開いた。そのとき、何か白いものがハラリと落ちたのに、いっそう肝《きも》を冷やしたが、目を凝《こ》らせばそれは何の変哲もなさそうな紙切れだった。
手帳のページをちぎって折ったらしいそれを開いてみて、そこに何行かの走り書きとともに「クロ」という署名を見つけたとき、ぼくはほんのちょっとだけ安堵《あんど》した。
少なくとも、この薄気味《うすきみ》の悪い廃屋《はいおく》にぼく一人ぼっちという状況《じょうきょう》ではないことがわかったからだ。あとになってみれば、その方がどんなによかったか知れないのだが……。
そこに記されたメモには、ぼくがこのあと落ちるべき地獄《じごく》——もとい、向かうべき道筋が示してあった。
ドアの向こうには、外と同様な暗がりが広がっていた。だが濃密《のうみつ》さにおいては、屋内の方がはるかにまさっている気がした。
さきほどより欠けを増したように思われる月の光に、紙切れの文面を照らし、内容を頭にたたきこむ。次いでぼくは第一歩を踏《ふ》み出した——自分でも意外なほど躊躇《ちゅうちょ》なく、そして無謀《むぼう》に。
(まずは前方へ約五メートルか。次に右に折れて、それから……)
手足をからめ取られてしまいそうなほどに、ドロリとよどんだ闇《やみ》だった。その中に身を投じたぼくは、ひたすら神経をとぎすまし、用心深く、けれどとどまることなく進んでいった。
(えーっと、その次は壁沿いに……おっと、こんなところに段差が! ちゃんと書いといてくれよ、そういうのは)
勇敢《ゆうかん》とか大胆《だいたん》とか、そんなのじゃない、ちょっとでも逡巡《しゅんじゅん》して立ち止まったりしたら、それきりすくんで動けなくなるような気がしたからだ。そして、そのまま自分自身が黒一色に塗りつぶされた中に溶《と》けていってしまいそうな、そんな恐怖《きょうふ》さえ感じずにはいられなかった。
あの紙切れに記されたルートは、ほんの一度目を通しただけにもかかわらず、しっかりと脳裡《のうり》に刻まれていたし、それに従って手足もテキパキと動いてくれた。
まったく、学校の勉強、それから体育の時間もこうあってほしいもんだ——そう自嘲《じちょう》っぽく嘆息《たんそく》しかけて、発想のアホらしさに気づいた。人間の知恵とかいろんな能力って、こういう生死をかけた闘《たたか》い、サバイバルのためにこそ与えられたものだろう。
なのに、ぼくらは試験でいい点を取ったり、スポーツでいい格好《かっこう》をしてみせたり、場の空気を読んで仲間はずれにされないといったことのために、それらを最優先に使うように教えられてきた。全くバカだ、バカばっかりだ。
じゃあ、ぼくはどうしてまた、こんな闘いなりサバイバルに身を投じているんだろう。好奇心《こうきしん》? 意地? どれも違う。
もしかして、それは——相手が行宮美羽子だから? ぼくが、彼女にどうしようもなく魅《ひ》かれているから?
これまでのぼくなら、「違う!」と激しく首を振《ふ》っていたかもしれない。だが、今のぼくは、あえて否定しなかった。そうだとも、それで何が悪い!
……いけない、よけいなところで力を込めたものだから、ちょっと感覚が鈍《にぶ》ってしまった。といっても、方向を見失ったわけではないが、それでもちょっと立ち止まって考える必要があった。
(黒河内さんの指定では、このあたりでいったん待てということだったが……)
実のところ、開け放たれた戸口と壁に囲まれているらしい�このあたり�が、小部屋なのか物置なのか、それとももっと別のものなのかはよくわからなかったが、あの紙片にそこまでの指示しか書いてなかったからにはしかたがない。
そのとき、ふと思った。黒河内刑事も、ひょっとして美羽子に特別な思いを……?
ぼくは、思わず息をのまずにはいられなかった。
そのことが、あのいい大人を果てのない追跡《ついせき》に追い込み、自称敏腕《じしょうびんわん》刑事だった男を組織の中でのはぐれ者にしてしまったのではないか。だとしたら、それはぼく自身の運命でもあるのではないだろうか?
そのことに気づき、これまでで最も強い戦慄《せんりつ》を覚えた、そのときだった。間近で荒《あら》い息づかいとともに、ささやきかけてきた声があった。
——暮林……君。
ぼくは仰天《ぎょうてん》するとともに、ただちに状況を理解した。飛び出しかけた叫びを、あわててのみこむと、
「黒河内さんですか? ひょっとして、さっきからここに?」
——そんなことは……どうでもいい。やっぱり来てくれたんだな。
黒河内刑事の返事はかすれて低く、しかし聞き取りにくくはなかった。単に、誰かに聞かれるのをはばかっての小声か、ほかに何か理由があったのか訊《き》きたかったが、なぜかそうさせない迫力《はくりょく》のようなものがあった。
——ついに、あいつ……行宮美羽子がやらかしやがったんだよ。電話でも話したが、とてつもないことをな。
「それは——いったい、どんなことを?」
ぼくの質問に、黒河内刑事は直接には答えず、
——今夜、こっから少し離れたところにある、どでかい超一流ホテルでパーティーが開かれる。××××ってとこで、そこの国の政府と協力して大々的な開発事業を進行中の企業《きぎょう》関係者、その国と縁《えん》の深い政治家や学者、文化人を招いての一大イベントだ……。
伏字《ふせじ》で記した個所には、固有名詞——それも地名らしきものが入るのだが、ひどく早口で、しかもくぐもった調子だったため正確には聞き取れなかった。にもかかわらず、その瞬間、ぼくが電気を浴びせられたようになったのは、その地名をごく最近目にしたような気がしたからだ。
そう、あの図書館で、美羽子が話した「小さなお国」と〈姫〉の元ネタを暴《あば》いてやろうと読みあさった本の中に、確かそれと似た名前が……何といったっけ、何だか不思議《ふしぎ》な響きを持つ地名だった気がするのだが。
いや、そんな記憶《きおく》を掘り返している場合ではない。ぼくはあわてて訊いた。
「で、そのイベントだかパーティーで、行宮が何をするっていうんです」
——…………。
返ってきたのは、言葉ではなく、いっそう荒く小刻みな呼吸だった。気をもませるような間を置いてから、
——あいつがやろうとしてること、それは……。
「それは?」
そう問いかけたのと、フーッと生温かい息がぼくの横っ面に吹《ふ》きかかるのが同時だった。その息にのせるようにして、
——み・な・ご・ろ……。
「く、黒河内さん……!?」
思わずそちらを振り向いたぼくは、闇の中から現われ出た顔の輪郭《りんかく》にぎょっとし、次いでかろうじて判別できそうな目鼻立ちを目の当たりにした。まるで、暗くて冷たい水面にぽっかりと浮かび上がった溺死体《できしたい》のようだった。
むろん、本当に水につかっていたわけではないのだから、少しもぬれてはいない。だが、よける間もなくぼくにズシリと寄りかかった刑事の体は、凍りついた水底に沈《しず》んでいたかのように冷たかった。
「!」
あまりのことに声も出ず、のしかかる黒河内刑事をよけることもできないまま、ぼくはみるみる体勢を崩していった。その果てに、恐怖のあまりか、それとも何らかの人為的な手段によってか、急速《きゅうそく》に意識を失っていったのだった——。
にもかかわらず、ぼくは迷路みたいに入り組んだ屋敷町《やしきまち》のただ中にいて、夜風を肌《はだ》に感じていた。
(やっぱり、来てしまったか)
ぼくは憂鬱《ゆううつ》さと不安のいりまじった気分で、何とはなく視線をもたげた。ふうぅ……と思わずため息が口をつきかけた次の瞬間、ぼくはハッと息をのまずにはいられなかった。
すでに蝕は始まっているとみえ、満月の左側のかなりの部分が黒く塗《ぬ》りつぶされていた。そうだ、太陽と月の見かけの大きさがほぼ同じである日蝕《にっしょく》とは違い、月はたとえ部分月蝕であっても、はるかに大きな地球の影《かげ》に、まるでのみこまれるように覆《おお》われてしまうのだ。まして、確か今夜は……。
気がつくと、ぼくは一軒《いっけん》の屋敷の前に立っていた。それは、あの西洋館——ぼくが文字通りの殺人劇の観客になることを強いられた場所だった。
�いいか�
ふいに、黒河内刑事の声が耳の奥によみがえった。
�もし、お前さんがこれまでのいろんな厄介《やっかい》ごとにケリをつけたいのなら、今からあそこの敷地《しきち》内に入り込め。正面の門からでも塀《へい》を越《こ》えるんでも、壁《かべ》の破れを捜《さが》すんでも何でも、やり方は自由……ただし誰にも見つからず、とっ捕《つか》まりもしないという条件つきだがな�
そんな危険なんか冒せるもんかい——そう吐《は》き棄《す》てつつも、ぼくは灯り一つない西洋館に向かって歩を進めた。苦々しさと一抹《いちまつ》のスリルと、あとの九割はやけくそな気分だった。
�あの建物の向かって左側に回り込むと、塀にはさまれた小道がのびている。少々|狭《せま》っ苦しいが辛抱《しんぼう》するんだな。すると……�
そのコースは、屋敷を反時計回りに迂回《うかい》したあのときとは逆方向だった。そのまま進めば、樫《かし》の木の生えた裏庭に抜《ぬ》けるが、目的地はそちらではなかった。
�すると、その先に、建物の壁面《へきめん》に沿って階段が設けてある。そこを下りると、ほんの何段かで半地下って感じの入り口に行き着くから、そこのドアを……�
(それが、このドアか。引き返すなら今のうちだが……)
ぼくは、古びて黒っぽく変色したノブをつかむと、いつしかドキつき始めた心臓をなだめながら、手にグッとひねりをくれた。
ドアはかすかなきしみ音を立て、おかげでこちらの背中に冷や汗《あせ》を垂らさせながら、ゆっくりと開いた。そのとき、何か白いものがハラリと落ちたのに、いっそう肝《きも》を冷やしたが、目を凝《こ》らせばそれは何の変哲もなさそうな紙切れだった。
手帳のページをちぎって折ったらしいそれを開いてみて、そこに何行かの走り書きとともに「クロ」という署名を見つけたとき、ぼくはほんのちょっとだけ安堵《あんど》した。
少なくとも、この薄気味《うすきみ》の悪い廃屋《はいおく》にぼく一人ぼっちという状況《じょうきょう》ではないことがわかったからだ。あとになってみれば、その方がどんなによかったか知れないのだが……。
そこに記されたメモには、ぼくがこのあと落ちるべき地獄《じごく》——もとい、向かうべき道筋が示してあった。
ドアの向こうには、外と同様な暗がりが広がっていた。だが濃密《のうみつ》さにおいては、屋内の方がはるかにまさっている気がした。
さきほどより欠けを増したように思われる月の光に、紙切れの文面を照らし、内容を頭にたたきこむ。次いでぼくは第一歩を踏《ふ》み出した——自分でも意外なほど躊躇《ちゅうちょ》なく、そして無謀《むぼう》に。
(まずは前方へ約五メートルか。次に右に折れて、それから……)
手足をからめ取られてしまいそうなほどに、ドロリとよどんだ闇《やみ》だった。その中に身を投じたぼくは、ひたすら神経をとぎすまし、用心深く、けれどとどまることなく進んでいった。
(えーっと、その次は壁沿いに……おっと、こんなところに段差が! ちゃんと書いといてくれよ、そういうのは)
勇敢《ゆうかん》とか大胆《だいたん》とか、そんなのじゃない、ちょっとでも逡巡《しゅんじゅん》して立ち止まったりしたら、それきりすくんで動けなくなるような気がしたからだ。そして、そのまま自分自身が黒一色に塗りつぶされた中に溶《と》けていってしまいそうな、そんな恐怖《きょうふ》さえ感じずにはいられなかった。
あの紙切れに記されたルートは、ほんの一度目を通しただけにもかかわらず、しっかりと脳裡《のうり》に刻まれていたし、それに従って手足もテキパキと動いてくれた。
まったく、学校の勉強、それから体育の時間もこうあってほしいもんだ——そう自嘲《じちょう》っぽく嘆息《たんそく》しかけて、発想のアホらしさに気づいた。人間の知恵とかいろんな能力って、こういう生死をかけた闘《たたか》い、サバイバルのためにこそ与えられたものだろう。
なのに、ぼくらは試験でいい点を取ったり、スポーツでいい格好《かっこう》をしてみせたり、場の空気を読んで仲間はずれにされないといったことのために、それらを最優先に使うように教えられてきた。全くバカだ、バカばっかりだ。
じゃあ、ぼくはどうしてまた、こんな闘いなりサバイバルに身を投じているんだろう。好奇心《こうきしん》? 意地? どれも違う。
もしかして、それは——相手が行宮美羽子だから? ぼくが、彼女にどうしようもなく魅《ひ》かれているから?
これまでのぼくなら、「違う!」と激しく首を振《ふ》っていたかもしれない。だが、今のぼくは、あえて否定しなかった。そうだとも、それで何が悪い!
……いけない、よけいなところで力を込めたものだから、ちょっと感覚が鈍《にぶ》ってしまった。といっても、方向を見失ったわけではないが、それでもちょっと立ち止まって考える必要があった。
(黒河内さんの指定では、このあたりでいったん待てということだったが……)
実のところ、開け放たれた戸口と壁に囲まれているらしい�このあたり�が、小部屋なのか物置なのか、それとももっと別のものなのかはよくわからなかったが、あの紙片にそこまでの指示しか書いてなかったからにはしかたがない。
そのとき、ふと思った。黒河内刑事も、ひょっとして美羽子に特別な思いを……?
ぼくは、思わず息をのまずにはいられなかった。
そのことが、あのいい大人を果てのない追跡《ついせき》に追い込み、自称敏腕《じしょうびんわん》刑事だった男を組織の中でのはぐれ者にしてしまったのではないか。だとしたら、それはぼく自身の運命でもあるのではないだろうか?
そのことに気づき、これまでで最も強い戦慄《せんりつ》を覚えた、そのときだった。間近で荒《あら》い息づかいとともに、ささやきかけてきた声があった。
——暮林……君。
ぼくは仰天《ぎょうてん》するとともに、ただちに状況を理解した。飛び出しかけた叫びを、あわててのみこむと、
「黒河内さんですか? ひょっとして、さっきからここに?」
——そんなことは……どうでもいい。やっぱり来てくれたんだな。
黒河内刑事の返事はかすれて低く、しかし聞き取りにくくはなかった。単に、誰かに聞かれるのをはばかっての小声か、ほかに何か理由があったのか訊《き》きたかったが、なぜかそうさせない迫力《はくりょく》のようなものがあった。
——ついに、あいつ……行宮美羽子がやらかしやがったんだよ。電話でも話したが、とてつもないことをな。
「それは——いったい、どんなことを?」
ぼくの質問に、黒河内刑事は直接には答えず、
——今夜、こっから少し離れたところにある、どでかい超一流ホテルでパーティーが開かれる。××××ってとこで、そこの国の政府と協力して大々的な開発事業を進行中の企業《きぎょう》関係者、その国と縁《えん》の深い政治家や学者、文化人を招いての一大イベントだ……。
伏字《ふせじ》で記した個所には、固有名詞——それも地名らしきものが入るのだが、ひどく早口で、しかもくぐもった調子だったため正確には聞き取れなかった。にもかかわらず、その瞬間、ぼくが電気を浴びせられたようになったのは、その地名をごく最近目にしたような気がしたからだ。
そう、あの図書館で、美羽子が話した「小さなお国」と〈姫〉の元ネタを暴《あば》いてやろうと読みあさった本の中に、確かそれと似た名前が……何といったっけ、何だか不思議《ふしぎ》な響きを持つ地名だった気がするのだが。
いや、そんな記憶《きおく》を掘り返している場合ではない。ぼくはあわてて訊いた。
「で、そのイベントだかパーティーで、行宮が何をするっていうんです」
——…………。
返ってきたのは、言葉ではなく、いっそう荒く小刻みな呼吸だった。気をもませるような間を置いてから、
——あいつがやろうとしてること、それは……。
「それは?」
そう問いかけたのと、フーッと生温かい息がぼくの横っ面に吹《ふ》きかかるのが同時だった。その息にのせるようにして、
——み・な・ご・ろ……。
「く、黒河内さん……!?」
思わずそちらを振り向いたぼくは、闇の中から現われ出た顔の輪郭《りんかく》にぎょっとし、次いでかろうじて判別できそうな目鼻立ちを目の当たりにした。まるで、暗くて冷たい水面にぽっかりと浮かび上がった溺死体《できしたい》のようだった。
むろん、本当に水につかっていたわけではないのだから、少しもぬれてはいない。だが、よける間もなくぼくにズシリと寄りかかった刑事の体は、凍りついた水底に沈《しず》んでいたかのように冷たかった。
「!」
あまりのことに声も出ず、のしかかる黒河内刑事をよけることもできないまま、ぼくはみるみる体勢を崩していった。その果てに、恐怖のあまりか、それとも何らかの人為的な手段によってか、急速《きゅうそく》に意識を失っていったのだった——。