——ねえ、暮林《くればやし》君……暮林一樹《くればやしかずき》君。
闇《やみ》の中で語りかける声がした。透《す》きとおったような響《ひび》きの、少女のものらしいささやきだった。
——やっぱり、来てしまったのね。ううん、来てくれたというべきかな。
(誰だ……その声は——もしかして行宮《ゆくみや》?)
夢うつつの状態だったぼくは、そう問いかけながら飛び起きようとしたが、体は少しも動いてくれず、声も出はしなかった。
いや、自分で自分の動きが実感できず、声が聞こえなかったのかもしれない。それが証拠《しょうこ》に、相手にはぼくの言葉がちゃんと届いたらしく、
——そうよ。最近は、あまり話せなくって残念だったけど、ちょうどよかったかも。
(ちょうどよかった……どういうことなんだ)
ぼくが呆《あき》れて言うと、行宮|美羽子《みわこ》は小さく笑ったが、そこにはいつもと違《ちが》う響きが含《ふく》まれていた。
——だって、ひょっとしたら、今夜でもうお別れなのかもしれないんだもの。
(今夜で……ということは、まさか)
ぼくは——夢うつつの中にしてはおかしな話だが——ハッとせずにはいられなかった。
(君は、何かやらかすつもりなのか、この月蝕《げっしょく》の晩に?)
——おやおや、お別れだと言ったら、もうすこし名残《なごり》でも惜《お》しんでくれるかと思ったら、そんな話?
(いや、その……)
——いいの、いいの。暮林君の言う通り、確かに今夜あることを決行するつもりなんだから。
(いったい何をしようというんだ。それは、どこかのホテルで開かれるパーティーに対してか?)
——さあね。でも、世の中には自分たちがどんなに恐《おそ》ろしい、そして浅ましい悪事をはたらいて、どんなに多くの人たちから恨《うら》まれているかも知らない人たちが、のんきに乾杯《かんぱい》! なんてやってるのかもしれないね。たった今、この瞬間《しゅんかん》にも。
予期されたことだが、返ってきたのは意味ありげなはぐらかしと、いたずらっぽいクスクス笑いだけだった。
(じゃあ、一つだけ教えてくれ。君は……君こそが〈姫〉なのか、あの物語の中の?)
——そうでもあるし、そうではないとも言えるってとこかしら。第一、暮林君の探し出したどの〈姫〉が、私だっていうの?
(そ、それは……)
ぼくは返答に詰《つ》まってしまった。すると、美羽子はさもおかしそうに、
——じゃあ、せっかくだから〈姫〉の話をしてあげる。〈姫〉のお国には、大昔からあるものが伝わっていてね。それは天の運行を受け、地上に善悪を問わず絶大な力をもたらすんだけど、あいにくそのお国が攻《せ》められたときには、裏切り者の手で効力を封《ふう》じられていてね。で、あっけなく滅《ほろ》び去ってしまったわけ。で、その�あるもの�はめぐりめぐって、遠くの国に渡《わた》ってきたんだけど、たまたまそのことを知った連中が争奪戦《そうだつせん》を繰《く》り広げてしまって、それが実は暮林君を巻き込んだあの三つの事件にも発展したのよ。
(三つの事件というと……あの通学路のとコインロッカー・コーナーのと、それにこの屋敷の二階で起きたやつか)
——そう、もちろん。あのときあの中年男が落としたキーを暮林君が拾い、それを夏川《なつかわ》君に取り返してもらったのを、二人目の男に渡したらああいうことになったんだけど、もともと彼らは、いろいろと切羽詰《せっぱつ》まってたり、追い込《こ》まれたりしててね、それで一攫千金《いっかくせんきん》を狙《ねら》ったり、寝返ろうとしたりと欲をかいたりしたあげく、ああいう最期をとげることになってしまったの。
まるで他人《ひと》事《ごと》みたいに言っているが、ああいう最期をとげさせたのは、彼女自身ではないのか。いや、それ以前に切羽詰まらせたり、追い込まれたりするように仕向けたのも、ひょっとして……? そう思ったから、
(たとえば、こんなようなことかい。彼らは彼らなりの思惑《おもわく》や事情があって、その�あるもの�とやらにかかわり、たぶんそういう自覚はないまま、君の計画の部分品となって働き始めた。だが、ついついよけいなことまで知り過ぎたか、あるいは恐ろしさに逃《に》げ出したくなってとか、あるいはよそに寝返ろうとして、行きがけの駄賃《だちん》につかんだのが、例のコインロッカーのキーだった。実はそれこそ罠《わな》であって、そこにとんでもない殺人装置がひそんでいた。
いや……あの中年男はそのことを百も承知で、動かぬ証拠となるキーを持ち出したのかもしれない。で、そのことを知って追ってきた殺人者の手にかかってしまったという方が理屈《りくつ》が通るな。そのあと、ちょっとした紆余曲折《うよきょくせつ》を経て戻《もど》ってきたキーを、こちらも始末される予定だった若い方の男に渡し、本来の処刑《しょけい》目的に使った——そんなところじゃなかったか)
考え考えしながら、喝破《かっぱ》してやると、美羽子は喜びに満ちた声で、
——すてき、すてき! 何てみごとな推理なの。初めて私のことをわかってくれる人が現われたことに感謝しなくっちゃ。最初こそ偶然だったけど、そのあとことさら暮林君を一連の事件に巻き込んでいったのは間違いじゃなかったみたいね。
(何だって? すると君はぼくをまるでゲームの駒扱いにして……)
聞き捨てならない言葉に、ぼくは口調を荒《あら》らげたが、美羽子はほがらかな笑いで、あっさりとそれを押し返して、
——いいじゃない、今さらそんなこと。それより、この屋敷《やしき》での一幕劇については?
(あれこそ、君の言う�あるもの�をめぐっての駆《か》け引きであり、彼らはそのことに乗じた君にマリオネットのように操られて殺し殺される関係となった。男の一人が金庫の中から取り出そうとしたのは、その�あるもの�につながる何かで、もっともそれは君が投げ与えたガセネタ、ただの疑似餌《ぎじえ》に過ぎなかった……)
そこまで話して、ぼくは絶句し、胸が早鐘《はやがね》のように打つのを感じた。
……美羽子がそこにいた。
それは最初、漆黒《しっこく》の闇に白糸で刺繍《ししゅう》された少女像のようだった。それがゆらりとゆらめいて、白くにじんだような光に包まれた彼女の姿となった。
と見る間に、ひどく現実感を欠いたそれが、ふぅわりと滑《すべ》るように近づいてきたではないか。それに対し、ぼくは身じろぎもできず、まっすぐにこちらへ向けられた相手の瞳《ひとみ》を見返すことしかできなかった。
ほどなく、ぼくは漆黒の中に姿を浮《う》かび上がらせた美羽子と向き合っていた。ただの幻覚《げんかく》にもかかわらず、体温や息づかい、甘やかな香りまでが感じられたのは妙《みょう》だったが、そのことを怪《あや》しんでいる余裕はなかった。
——やっぱり、私のことを見ていてくれてるのは、暮林君だけね。たとえ、それがまるで怪物《かいぶつ》を見る目でもあったとしても。それに……。
彼女の唇《くちびる》から、いつもとは違うニュアンスの言葉がこぼれ落ちた。
(え……?)
——ううん、何でもない。そうだ、私の数少ない理解者へのささやかなお礼として、いいことを一つ教えてあげる。さっきから話してる�あるもの�についてなんだけど、それが動きだしたが最後、もう容易なことでは止めることはできない。ひとたび特別な光を浴び、天の動きとシンクロし始めたら、どんな方法で�あるもの�とのつながりを断とうとしても、もう駄目《だめ》。そうなったら、とにかくできるだけ遠くへ逃げること。天と�あるもの�の中で再現される現象が、ともに頂点に達するときに解き放たれる力は、遠くの標的を焼きつくし、消滅《しょうめつ》させてしまうだけでなく、間近にあるものにどんな力を及《およ》ぼすかわからないからね。でも、そうはできない、そうしたくないというなら……。
(なら、どうしろというんだ?)
——死か、パズルを解くか、その二択《にたく》ね。
あっさりと言ってのけたのには、絶句せずにはいられなかった。そのせいで、ぼくは死と天秤《てんびん》にかけられた「パズル」について訊《き》く機会を失《しっ》してしまった。
——さてと……じゃ、私、行くね。やらなければならない使命が、果たさなければならない望みがあるから。
言いながら、彼女はゆっくりと身を退《しりぞ》かせていった。今にもくるりと背を向け、そのまま闇の奥に溶《と》け消えるかと思われたとき、
(おい、待てっ、待つんだ!)
ぼくは叫《さけ》び、手をさしのべようとした。だが、まるで金縛《かなしば》りにでもあったように——いや、むしろ体そのものがなくなってしまったかのようで、指一本|触《ふ》れることもできなかった。
だが、ふと気がつくと、いったん遠ざかったはずの美羽子の顔が間近にあり、そればかりか彼女の手がぼくの両頬《りょうほお》に触れ、優しく包み込んでいた。
その思いがけない冷たさに、あっと思ったときだった。全く予期しないことに、美羽子の唇がぼくのそれに重ね合わされた。
キス……あろうことか、行宮美羽子とキス! その行為が、彼女の内心の何かを吐露《とろ》したものであったとしても、徹頭徹尾《てっとうてつび》ぼくをコケにするためであったとしても、あるいは何か魔術的な意味があったとしても、その効果はてきめんだった。
次の刹那《せつな》、美羽子を含めた世界の全てが消え失せ、ぼくは暗闇の世界から放り出されたからだ。まるで、かみ捨てられたガムも同然に……。
(待ってくれ! お願いだ、美、羽……)
それは、ぼくが初めて彼女に面と向かって口にした、ファーストネームでの呼びかけだった。
「美羽子!」
自分の叫びに自分でたたき起こされて、ぼくはガバッと身を起こした。やみくもに腕《うで》を振《ふ》り回し、行宮美羽子の衣服のすそでもつかみ取ろうとむなしい試みたあと、ハッとわれに返った。
(今のは夢、だったのか……?)
そう認識したとたん、何ともいえない失望と自嘲《じちょう》が胸の中にひたひたと流れ込んできた。心地よい眠《ねむ》りの中で願いがかなえられ、そのあと迎《むか》えた目覚めのときに感じるむなしさ、恥《は》ずかしさ。そのとびきりむごくて身にこたえるやつが、ぼくを責めさいなんだ。
だが、待てよ。だとしたら、この唇に今も残る感触《かんしょく》は、五感に残された彼女の記憶《きおく》はいったい——?
(そうだ、美羽子はやはりここにいたんだ!)
ぼくは心の中で叫んだ。
だが、それはそれとして、ここはいったいどこなのだろう。たぶん、あの屋敷と一つ屋根の下なのだろうが……。
ぼくがいるのは、電灯もないのになぜかほの明るい光に照らされた部屋の端《はし》っこで、目を覚ましたときには、そこに積み上げられた木箱やら正体不明のガラクタやらに寄っかかってへたりこんでいた。
壁《かべ》も柱も天井《てんじょう》も時を経て小汚《こぎたな》く、どこもかしこもほこりっぽい部屋だった。特に汚らしいのは床《ゆか》だったが、ふと視線をめぐらした片隅《かたすみ》にボロ切れみたいに倒《たお》れている人物が目に入った。それが誰かは、もはや言うまでもなかった。
「黒河内《くろこうち》さん! 大丈夫ですか?」
すっ飛んでいって抱《だ》き起こしたが、幸い息はしていたものの、いくら叫んでも揺《ゆ》すぶっても白目をむくばかりで、それ以上何の反応もない。よかった、とりあえず死んではいないという安堵《あんど》と同時に、もしかして生ける屍《しかばね》に? という最悪の想像までしてしまったりもした。
とにかく、このままこんなところにいてはと、脱出口《だっしゅつこう》を求めて立ち上がったときだった。背後でカチコチ、チクタクと刻まれる金属質のリズムを耳にした。いや、さっきから気づいていたのだが、それどころではなかったのだ。
一度意識したが最後、もう無視はできなかった。心なしか、よりいっそう大きく鳴り響き始めた音源を確かめるべく、思い切って後方を振り返った。
次の瞬間、ぼくは今まで視野をさえぎっていた木箱その他の山越《やまご》しに、とんでもないものを見た——いや、むしろ見てしまったというべきか。
「な、な、何なんだ、これは……?」
この部屋は、全体としてはちょっとしたダンスパーティーぐらい開けそうな広さなのだが、その中央に鎮座《ちんざ》ましましていたそれを、さていったいどんな風に表現したらいいだろう。ぼくをして思わず目を疑わせ、次いで噴《ふ》き出させ、すぐそのあとに笑いを引っ込めさせてしまった代物を。
一言で表わせば、金色燦然《こんじきさんぜん》として巨大なからくり[#「からくり」に傍点]仕掛《じか》けといったところか。あるいはファンタジーに出てくる|魔 法 陣《マジック・サークル》——数学|遊戯《ゆうぎ》の|魔 方 陣《マジック・スクエア》ではなく——を立体化したとでも言った方が、イメージしやすいかもしれない。
だが、ぼくがそのとき連想したのとは、それとは全く別のもの、別のエピソードだった。
それは、まだ幼かった昔、母親にタンスの奥から取り出した「おじいさんの持ち物だった」という懐中《かいちゅう》時計を見せてもらったときのことだ。何でも銀製だそうで、外側は黒っぽく薄汚《うすぎたな》くなっていたが、布でこすってみると、たちまちピカピカの地肌《じはだ》が輝《かがや》きだしてびっくりさせられたものだ。
古いものだし、もう壊《こわ》れて動かないだろうと思っていたが、竜頭《りゅうず》と呼ばれるネジの部分を回すと、たちまちチクタクと音を立てて時を刻み始めた。まるで長い眠りから覚めたみたいだった。
もっと驚《おどろ》いたのは、母親がパチンと音をたてて、裏ぶたを開いたときだった。そこには外側からは想像もつかない、まるで新品のようにピカピカの金色や銀色をした大小の歯車、さまざまな形をした名も知れない部品が、規則正しく動いていた。
全てが冷たい金属製で、刻むリズムも正確そのもの。なのに、まるで生き物のように息づき、脈打っているように見えたのはなぜだろう。ともあれ、ぼくはその時計の機械仕掛け——ムーヴメントというらしい——にすっかり魅了《みりょう》されてしまったのだった。
だからといって、機械いじりに興味を持って、それが得意になったりはしなかったが(何しろ、不器用なもので)、ぼくが妙に理屈っぽく、ロジックの美しさみたいなものを求めるようになった一因は、ここらあたりにあるのかもしれない。
で……何が言いたかったかというと、ぼくの目の前にあったのは、その懐中時計の中身を何十倍にも拡大したような代物だったということだ。
——部屋いっぱいを占《し》めそうなほど巨大な黄金の円盤《えんばん》が、腰《こし》の高さほどに据《す》えられていた。よく見ると、それは一枚板ではなく、十個ほどの同心円が重なり合うことで成り立っていた。
中央の球体と、それをとりまく細いリング群という構成だった、それらのすき間からは複雑精妙な機械仕掛けがめまぐるしく作動し、駆け回っているのが見てとれた。どうやら、一つひとつの環《わ》は異なった動きをしているらしいが、唯一《ゆいいつ》中心にある、美しく彩色された円盤のみは不動だった。
いっそう不思議《ふしぎ》なのは、からくり全体がきらきらと輝き、金色に照り映えていることで、この部屋には灯りもないはずなのにと怪しまれた。どうやら自ら光を発しているらしく、さっき目覚めたとき、まわりがほの明るく感じられたのもそのせいだった。
各パーツには、細かく刻印が施《ほどこ》されていたが、絵とも文字ともつかないそれらを見たとたん、ぼくはあるものを思い出した。あのとき図書室で、美羽子が読んでいた異国語の本、あの中に書かれていたのと同じではないか。文字も、文章の間に挿入《そうにゅう》されていた記号のような紋章《もんしょう》のようなものも、何もかもが。
だからといって、このからくりの正体が割れるわけでないのは本と同じことだったが、その場を去ることも、そもそも逃げ出さねばいけないことも忘れて見入るうち、ふとあることに気づいた。これはひょっとして、天体の運行を表わしたものではないかということだ。
よく見ると、個々のリングには(全てではなかったが)ややふくらんだ円形のコブのような部分があり、それ自体が細かく震《ふる》えながら動いているようだ。だとすると、黄金のリングは各天体の軌道《きどう》であり、それに付属する小さな円が星そのものなのではないか。それ自体が回転しているのは、もちろん自転にほかならない。
そう気づいた瞬間、ぼくはとっさに頭上を見上げた。そこに空などないことははっきりしているのに、ましてここは半地下のはずなのに、そうせずにはいられなかったのだ。
「!」
次の瞬間、ぼくは息をのんでいた。ベタ一面に真っ平らだとばかり思っていた天井は、そこだけ吹《ふ》き抜《ぬ》けのように高くなっていた。内壁《うちかべ》に沿って階段がめぐらされており、てっぺんには天窓がはめこまれていた。むろん、それぐらいで驚きはしない。
ぼくを愕然《がくぜん》とさせたのは、その天窓の向こうに月が見えたこと、しかもそれが血に染まったようにドス赤かったことだった。
——それ自体は、何の不思議なこともない。皆既月蝕《かいきげっしょく》のときは、月は地球の影《かげ》にすっかり覆《おお》われてしまうが、だからといって太陽から一切の光が届かなくなるわけではなく、地球の大気をすり抜けた光によって、ほの暗くではあるが照らされる。このとき、波長の短い青い光は大気によって散乱されやすいが、波長の短い赤い光はそうならずに通過するので、月はもっぱら赤っぽく照り映えるというわけである。
だが、それは単なる科学豆知識、だからといって何の役に立つわけでもなかった。それよりはるかに重要であり、疑いようもなく明瞭《めいりょう》な事実はほかにあった。
その一つは、美羽子が言った「天の運行を受け、地上に善悪を問わず絶大な力をもたらす」という�あるもの�が、このからくりを指していたに違いないこと。そして、もう一つは、今まさにクライマックスに達しようとする月蝕が、これを作動させる原動力らしいということだった。
(ど、どうしよう)
どうしようも何も、まともな人間なら選択肢《せんたくし》は一つしかないはずだった。一目散《いちもくさん》に逃げること、それだけだ。見れば、からくり——プラネタリウムの原型となった太陽系儀《オーラリー》というものがあったそうだが、こんなものだったかどうかは知らない——は、まさに頭上で進行中の天文現象と歩調を合わせたかのように、歯車やカム、レバーの響きがいっそう高鳴り、それどころか装置全体が金色の輝きを増し、白熱の光を放ち始めたように見えた。
このあと、どうなるかは見当もつかない。だが、ただではすまないことは間違いなかった。何しろ美羽子が示した選択肢の中には「死」も当たり前のように含まれていた。ここに来て、ぼくにいくばくかの哀れみを感じたのかは定かではないが、とにかく逃げるのが第一だった。
だが、そもそもここから逃げ出すことなんてできるのか? 天窓のほかには窓一つなく、扉《とびら》はおそらく閉ざされていて——あれ?
(あ、開いてる?)
黄金の太陽系儀《オーラリー》の反対側にあった、壁と見分けのつかないほど薄汚れた扉《とびら》をダメもとで押してみたところ、何とすんなりと開いたではないか。となれば、もう一目散に——いや待てよ、自分一人で?
ここに倒れている黒河内刑事を、放ってゆくつもりか。かついで逃げる? 彼の倒れている場所に戻《もど》ってやってみたが、ことはそう簡単ではなかった。
かろうじて意識があって、ほんの少しでも自分で自分の体を支えてくれるとか、いっそ丸太ん棒の様に固まっていてくれれば、ぼくの非力でも何とかなったかもしれないが、まるで大きな人形みたいにグニャグニャしてつかみどころがなく、しかも発作的に暴れだしたりして始末におえなかった。
といって、彼を置いて立ち去ることもできなかった。おそらくうちのクラスでテレパシーもしくは自白薬を用いたアンケートを取ったら、全員が「見捨てて逃げる」と答えたろう。なのに、そうできなかったのは、この男に妙な同情と共感を覚えていたからだった。
ならば、いったい、どうすればいいのか。ぼくの中で、とうに答えは決まっていた。
美羽子がぼくに挑《いど》むように、試すかのように投げかけた「パズルを解く」——あの言葉を実行に移す。それだけ、たったそれだけのことだった。
自分の叫びに自分でたたき起こされて、ぼくはガバッと身を起こした。やみくもに腕《うで》を振《ふ》り回し、行宮美羽子の衣服のすそでもつかみ取ろうとむなしい試みたあと、ハッとわれに返った。
(今のは夢、だったのか……?)
そう認識したとたん、何ともいえない失望と自嘲《じちょう》が胸の中にひたひたと流れ込んできた。心地よい眠《ねむ》りの中で願いがかなえられ、そのあと迎《むか》えた目覚めのときに感じるむなしさ、恥《は》ずかしさ。そのとびきりむごくて身にこたえるやつが、ぼくを責めさいなんだ。
だが、待てよ。だとしたら、この唇に今も残る感触《かんしょく》は、五感に残された彼女の記憶《きおく》はいったい——?
(そうだ、美羽子はやはりここにいたんだ!)
ぼくは心の中で叫んだ。
だが、それはそれとして、ここはいったいどこなのだろう。たぶん、あの屋敷と一つ屋根の下なのだろうが……。
ぼくがいるのは、電灯もないのになぜかほの明るい光に照らされた部屋の端《はし》っこで、目を覚ましたときには、そこに積み上げられた木箱やら正体不明のガラクタやらに寄っかかってへたりこんでいた。
壁《かべ》も柱も天井《てんじょう》も時を経て小汚《こぎたな》く、どこもかしこもほこりっぽい部屋だった。特に汚らしいのは床《ゆか》だったが、ふと視線をめぐらした片隅《かたすみ》にボロ切れみたいに倒《たお》れている人物が目に入った。それが誰かは、もはや言うまでもなかった。
「黒河内《くろこうち》さん! 大丈夫ですか?」
すっ飛んでいって抱《だ》き起こしたが、幸い息はしていたものの、いくら叫んでも揺《ゆ》すぶっても白目をむくばかりで、それ以上何の反応もない。よかった、とりあえず死んではいないという安堵《あんど》と同時に、もしかして生ける屍《しかばね》に? という最悪の想像までしてしまったりもした。
とにかく、このままこんなところにいてはと、脱出口《だっしゅつこう》を求めて立ち上がったときだった。背後でカチコチ、チクタクと刻まれる金属質のリズムを耳にした。いや、さっきから気づいていたのだが、それどころではなかったのだ。
一度意識したが最後、もう無視はできなかった。心なしか、よりいっそう大きく鳴り響き始めた音源を確かめるべく、思い切って後方を振り返った。
次の瞬間、ぼくは今まで視野をさえぎっていた木箱その他の山越《やまご》しに、とんでもないものを見た——いや、むしろ見てしまったというべきか。
「な、な、何なんだ、これは……?」
この部屋は、全体としてはちょっとしたダンスパーティーぐらい開けそうな広さなのだが、その中央に鎮座《ちんざ》ましましていたそれを、さていったいどんな風に表現したらいいだろう。ぼくをして思わず目を疑わせ、次いで噴《ふ》き出させ、すぐそのあとに笑いを引っ込めさせてしまった代物を。
一言で表わせば、金色燦然《こんじきさんぜん》として巨大なからくり[#「からくり」に傍点]仕掛《じか》けといったところか。あるいはファンタジーに出てくる|魔 法 陣《マジック・サークル》——数学|遊戯《ゆうぎ》の|魔 方 陣《マジック・スクエア》ではなく——を立体化したとでも言った方が、イメージしやすいかもしれない。
だが、ぼくがそのとき連想したのとは、それとは全く別のもの、別のエピソードだった。
それは、まだ幼かった昔、母親にタンスの奥から取り出した「おじいさんの持ち物だった」という懐中《かいちゅう》時計を見せてもらったときのことだ。何でも銀製だそうで、外側は黒っぽく薄汚《うすぎたな》くなっていたが、布でこすってみると、たちまちピカピカの地肌《じはだ》が輝《かがや》きだしてびっくりさせられたものだ。
古いものだし、もう壊《こわ》れて動かないだろうと思っていたが、竜頭《りゅうず》と呼ばれるネジの部分を回すと、たちまちチクタクと音を立てて時を刻み始めた。まるで長い眠りから覚めたみたいだった。
もっと驚《おどろ》いたのは、母親がパチンと音をたてて、裏ぶたを開いたときだった。そこには外側からは想像もつかない、まるで新品のようにピカピカの金色や銀色をした大小の歯車、さまざまな形をした名も知れない部品が、規則正しく動いていた。
全てが冷たい金属製で、刻むリズムも正確そのもの。なのに、まるで生き物のように息づき、脈打っているように見えたのはなぜだろう。ともあれ、ぼくはその時計の機械仕掛け——ムーヴメントというらしい——にすっかり魅了《みりょう》されてしまったのだった。
だからといって、機械いじりに興味を持って、それが得意になったりはしなかったが(何しろ、不器用なもので)、ぼくが妙に理屈っぽく、ロジックの美しさみたいなものを求めるようになった一因は、ここらあたりにあるのかもしれない。
で……何が言いたかったかというと、ぼくの目の前にあったのは、その懐中時計の中身を何十倍にも拡大したような代物だったということだ。
——部屋いっぱいを占《し》めそうなほど巨大な黄金の円盤《えんばん》が、腰《こし》の高さほどに据《す》えられていた。よく見ると、それは一枚板ではなく、十個ほどの同心円が重なり合うことで成り立っていた。
中央の球体と、それをとりまく細いリング群という構成だった、それらのすき間からは複雑精妙な機械仕掛けがめまぐるしく作動し、駆け回っているのが見てとれた。どうやら、一つひとつの環《わ》は異なった動きをしているらしいが、唯一《ゆいいつ》中心にある、美しく彩色された円盤のみは不動だった。
いっそう不思議《ふしぎ》なのは、からくり全体がきらきらと輝き、金色に照り映えていることで、この部屋には灯りもないはずなのにと怪しまれた。どうやら自ら光を発しているらしく、さっき目覚めたとき、まわりがほの明るく感じられたのもそのせいだった。
各パーツには、細かく刻印が施《ほどこ》されていたが、絵とも文字ともつかないそれらを見たとたん、ぼくはあるものを思い出した。あのとき図書室で、美羽子が読んでいた異国語の本、あの中に書かれていたのと同じではないか。文字も、文章の間に挿入《そうにゅう》されていた記号のような紋章《もんしょう》のようなものも、何もかもが。
だからといって、このからくりの正体が割れるわけでないのは本と同じことだったが、その場を去ることも、そもそも逃げ出さねばいけないことも忘れて見入るうち、ふとあることに気づいた。これはひょっとして、天体の運行を表わしたものではないかということだ。
よく見ると、個々のリングには(全てではなかったが)ややふくらんだ円形のコブのような部分があり、それ自体が細かく震《ふる》えながら動いているようだ。だとすると、黄金のリングは各天体の軌道《きどう》であり、それに付属する小さな円が星そのものなのではないか。それ自体が回転しているのは、もちろん自転にほかならない。
そう気づいた瞬間、ぼくはとっさに頭上を見上げた。そこに空などないことははっきりしているのに、ましてここは半地下のはずなのに、そうせずにはいられなかったのだ。
「!」
次の瞬間、ぼくは息をのんでいた。ベタ一面に真っ平らだとばかり思っていた天井は、そこだけ吹《ふ》き抜《ぬ》けのように高くなっていた。内壁《うちかべ》に沿って階段がめぐらされており、てっぺんには天窓がはめこまれていた。むろん、それぐらいで驚きはしない。
ぼくを愕然《がくぜん》とさせたのは、その天窓の向こうに月が見えたこと、しかもそれが血に染まったようにドス赤かったことだった。
——それ自体は、何の不思議なこともない。皆既月蝕《かいきげっしょく》のときは、月は地球の影《かげ》にすっかり覆《おお》われてしまうが、だからといって太陽から一切の光が届かなくなるわけではなく、地球の大気をすり抜けた光によって、ほの暗くではあるが照らされる。このとき、波長の短い青い光は大気によって散乱されやすいが、波長の短い赤い光はそうならずに通過するので、月はもっぱら赤っぽく照り映えるというわけである。
だが、それは単なる科学豆知識、だからといって何の役に立つわけでもなかった。それよりはるかに重要であり、疑いようもなく明瞭《めいりょう》な事実はほかにあった。
その一つは、美羽子が言った「天の運行を受け、地上に善悪を問わず絶大な力をもたらす」という�あるもの�が、このからくりを指していたに違いないこと。そして、もう一つは、今まさにクライマックスに達しようとする月蝕が、これを作動させる原動力らしいということだった。
(ど、どうしよう)
どうしようも何も、まともな人間なら選択肢《せんたくし》は一つしかないはずだった。一目散《いちもくさん》に逃げること、それだけだ。見れば、からくり——プラネタリウムの原型となった太陽系儀《オーラリー》というものがあったそうだが、こんなものだったかどうかは知らない——は、まさに頭上で進行中の天文現象と歩調を合わせたかのように、歯車やカム、レバーの響きがいっそう高鳴り、それどころか装置全体が金色の輝きを増し、白熱の光を放ち始めたように見えた。
このあと、どうなるかは見当もつかない。だが、ただではすまないことは間違いなかった。何しろ美羽子が示した選択肢の中には「死」も当たり前のように含まれていた。ここに来て、ぼくにいくばくかの哀れみを感じたのかは定かではないが、とにかく逃げるのが第一だった。
だが、そもそもここから逃げ出すことなんてできるのか? 天窓のほかには窓一つなく、扉《とびら》はおそらく閉ざされていて——あれ?
(あ、開いてる?)
黄金の太陽系儀《オーラリー》の反対側にあった、壁と見分けのつかないほど薄汚れた扉《とびら》をダメもとで押してみたところ、何とすんなりと開いたではないか。となれば、もう一目散に——いや待てよ、自分一人で?
ここに倒れている黒河内刑事を、放ってゆくつもりか。かついで逃げる? 彼の倒れている場所に戻《もど》ってやってみたが、ことはそう簡単ではなかった。
かろうじて意識があって、ほんの少しでも自分で自分の体を支えてくれるとか、いっそ丸太ん棒の様に固まっていてくれれば、ぼくの非力でも何とかなったかもしれないが、まるで大きな人形みたいにグニャグニャしてつかみどころがなく、しかも発作的に暴れだしたりして始末におえなかった。
といって、彼を置いて立ち去ることもできなかった。おそらくうちのクラスでテレパシーもしくは自白薬を用いたアンケートを取ったら、全員が「見捨てて逃げる」と答えたろう。なのに、そうできなかったのは、この男に妙な同情と共感を覚えていたからだった。
ならば、いったい、どうすればいいのか。ぼくの中で、とうに答えは決まっていた。
美羽子がぼくに挑《いど》むように、試すかのように投げかけた「パズルを解く」——あの言葉を実行に移す。それだけ、たったそれだけのことだった。