まえがき
身近に、面白い、楽しいことがあると、人は「落語みたい」だと、よく言う。
「落語みたい」という表現のなかに、「ばかばかしい」「他愛ない」「呆れた」「尋常《じんじよう》ではない」……等々の意味も含まれている。
つまり、今日、われわれの社会、日常は、この「落語みたい」なことによって成り立ち、支えられていることのほうが多いのではないか。……時代が移り、人間が知恵を積み機械がすべてを可能にしても、人間は、面白い、楽しいことが好きであり、それを貪欲に追い求め、「ばかばかしい」「他愛ない」……ことを含めて、それが心の糧《かて》となり、日常を支える力《エネルギー》になっていることに、変わりはない。
まえがきがながくなったが、面白い、楽しいということは、その事柄と交渉《かかわり》をもつことによって生じる、人間の感性の営為《いとなみ》であり、その面白く、楽しいことは、より多くの人びとが共有することで、いっそう精彩を放つ。——大衆の娯楽《エンターテインメント》としての「落語」が、今日なお、そうした人びとの想いを反映しているところに、普遍性がある。
ほんらい、話芸である「落語」は噺家《はなしか》の芸の媒介によって演じられ、伝えられるという性格を持っている。事実、今日まで「落語」は噺家によってつくられ、つくり変えられ、その時代時代の風潮、また噺家自身の個性によって練達され淘汰《とうた》され、融通無礙《ゆうずうむげ》な演出によって、命脈を保ってきた。また将来もそのように伝えられていくだろう。「落語」と「噺家」は表裏一体、切り離すことのできない関係にある。
しかし、高座の噺家の身ぶり、手ぶりの面白さ、可笑《おか》しさだけにとらわれて、今日、「落語」の奥行である人間の生態を噛みしめることが希薄になりつつあるようだ。そこで、「落語」の素型を損なうことなく、噺家の芸を通さずに、「落語」のなかに溜めこまれた人間の想い、実感を写し取ろうと試みた。なにぶん噺家の芸——肉体を取り去って、文章化《リライト》することは自ら限界があるので、その点お馴染みがい[#「お馴染みがい」に傍点]でご容赦願いたい。
「落語」とは、大衆の立場から捉えられた、人間の魂をぶっつけあい、もてあそび、ねじまげようとするあますことのない人間群のオムニバスである。彼らはことごとく、今日のわれわれの尺度《ものさし》で量《はか》ろうとしても、弾力のある、あざやかな|身動き《フツト・ワーク》を見せ、たくましく、強烈な自己主張で切り返してくる。——「落語」のまえには理屈が通用しない。それが、面白く、楽しく、われわれの日常のなかに、なんらかの変革を齎《もたら》す。
「落語」は、ふと人間の「生き方」を振り返るとき、人間ほんらいの存在、有様《ありよう》の、規範を思い起こさせてくれる。そうした意味で、「落語」を断じて〈古典〉にしたくない、と思う。
今日伝えられている「落語」のおよそ五〇〇種のうちから、よく知られている噺、好きな噺を、内容・形式・人物・場景・風俗・行事などを配慮して百編、選出し、「落語」の感覚に欠くことのできない「季節」に分けて全四巻に配列した。(なお、「上方落語」は編者と馴染みがなく、発想・ニュアンスなどまた異なるので除外した)
また、友情厚い十代目金原亭馬生さんの挿絵《さしえ》で飾れたことも、幸せで、うれしさこの上なしである。どうぞ、お娯《たの》しみください。