猫久《ねこきゆう》
長屋に久六という八百屋さん、ごく人の好い、おとなしい人で、他人《ひと》といさかいをするなんてえことはなく、他人《ひと》からなにを言われてもニコニコ笑っている。それで、だれ言うともなく、猫みたいなやつだ、猫の久さん、猫久……猫久なんていう綽名《あだな》で呼びますが、本人もいたって平気なもの、近所では久なんて言わないで、猫、猫で通っている。
このおとなしい猫久が、ある日のこと、どこでどうまちがいを起こしたのか、まっ青な顔をして、長屋へ飛んで帰ってきた。
「さあ、きょうというきょうは勘弁できねえ、相手のやつを殺しちまうんだから、おっかあ、刀ァ出せ、脇差《わきざし》を出せえ」
と、どなり立っている。
ところがこの猫久のおかみさんというのが、ふだんからしっかりした女で、止めるかとおもうと大ちがい、箪笥《たんす》の抽出《ひきだ》しから脇差を取り出し、神棚の前へピタリと座って、しばらく口のなかで何か唱えておりましたが、やがてその脇差を袖《そで》にあてがって、三べん頂いて、
「さあ、お持ちなさい」
と渡した。猫久は脇差をもぎ取るようにして表へ飛び出して行った。
それを向こうの長屋で見ていたのが熊さん、大きな声で、
「おい、おみつ、見ろ見ろ、早くよ」
「なんだね、みっともない、どうしたんだい?」
「どうもこうもねえやな、ええ? 止めるがいいじゃねえか、狂人《きちがい》に刃物なんて言うけども、猫に脇差渡しちめえやがって、だけど向こうのかかあは変わり者だなあ」
「猫のかみさんの変わり者に今はじめて気がついたのかえ」
「へえ、そんなに変わってんのか?」
「ああ、あの女は長屋じゅうきっての変わり者だよ。なにしろ長屋でもいちばん早く起きるんだよ」
「それが変わってんのか?」
「あたりまえじゃないか。女房のくせに亭主より先に起きるのは女の恥だよ」
「うそォつきやがれ、亭主に寝顔を見せるのが女の恥てえなあ聞いてらあ。そんなわからないやつがあるけえ」
「だいいち生意気だよ。朝、井戸端で会ってごらん、おはようございます、なんて言やがるんだよ……いやんなっちゃう」
「ふん、こっちがいやんなっちまわァ。あたりめえじゃねえか。てめえのほうがよっぽど変わってるんだよ、いやだいやだ……さあおれは髪結床《かみいどこ》へ行ってこよう」
「だめだよ、もうお昼じゃないか……お菜《かず》は、鰯《いわし》のぬた[#「ぬた」に傍点]だよ、ねえ、味噌をあたしがこしらえといたんだから、鰯こしらいとくれ、鰯を。南風《みなみ》が吹いてるんだよ。ぽかときてるんだよ、腐っちまうよ、い、わ、しッ」
「畜生、大きな声で鰯ィ鰯ッてやがら、お昼のお菜が鰯だってえことが、長屋じゅうみんなにわかっちまうじゃねえか」
「あら、わかったっていいじゃあないか、わかっちゃあいけないのかい、ええ? こしらいとくれよゥ、い、わ、しッ」
「畜生ほんとうに……捨てちめえッ、そんなものァ……行ってくらあ、おらあ……いやだいやだ、かかあの悪いのをもらうと、六十年の不作だってえがまったくだい、一生の不作だね。あのかかあてえものは、生涯うちにいるつもりかなあ、ああいうのはどうしたら離れるだろうな、煮え湯かなんかぶっかけてやろうか。うふッ、しらみだよ、まるで……こんちわァ」
「あ、熊さん、おいで」
「親方、すぐやってもらえるかな」
「急ぐのかい?」
「いやあ、ちょいと鰯の一件があるもんだからね」
「なんだい、鰯の一件てな」
「えへへ……なんでもねんだよ」
「あ、そうだ、いい人が来た。おい、熊さん、あのう……とうとう猫が暴れだしたってじゃねえかい」
「あれ、もうかい? ああ、悪事千里なんてえことをいうけどまったくだよ、悪いことァできねえ、……さすがに親方んところは早耳だねえ。いえね、もうほんとうに今日ぐれえびっくりしたことァないよ。猫は魔物だってえけど、まったくだよ、あんな野郎でも怒ることがあるんだねえ。あの、なにしろ顔の色からしてちがうからねえ、ああおめえねえ……目なんかこんな大きくなっちまって、ぴかッと光ったよ。口が耳まで裂けたかと思うようだからねえ」
「うそだい」
「うそじゃない。おれんとこの真向けえなんだ、たったいま現場ァ見てきたんだから、おどろいたねえほんとうに、もうね、口からぴゅうッと火焔を吹いて飛び出したときなんざ、おらあもうぞうッとしちゃったなあ……あの勢いじゃあおらあ、どんなことしたって怪我人の五、六人は請けあうよ。人死《ひとじ》にがでなきゃあおれァいいと思ってんだがね」
この話をかたわらで聞いていたのが、でっぷりとした赤ら顔の五十前後の武士《さむらい》、
「あいや町人ッ」
「へえい……おれ? おい、いやだよ、親方ァ、お客さんじゃあねえか、それもいいけどお侍じゃあねえか。……どうもすみませんです、旦那《だんな》がそこへおいでんなるてえのァちっとも知らなかったもんですからねえ、そいから大きな声でどなっちまいまして……勘弁してください」
「いやいや大声《たいせい》をとがめておるでない。最前からこれにてうけたまわれば、猫又の変化《へんげ》が現われ、諸民を悩まし、人畜を傷つけるとか、おだやかならんこと、身ども年齢《とし》をとっても腕に年齢《とし》はとらせん、その猫を退治してくれよう、案内いたせ」
「いえ……旦那ちょいとねえ、まあ気の早い旦那だ。いえ、あの、いまここで猫々ッて話してましたけどもね、ほんとの猫じゃねえんでござんす」
「うん? なに? しからば豚か」
「いえいえ、じつはわっしの長屋の真向けえに久六という八百屋がおりまして、こいつがおとなしくって、猫みたいな野郎だってんで、猫の久さんだ、猫久だってんで、あっしだの、仲間だのはもう久の字ィ取っぱらっちゃって猫々ってんで、ええ、ほんとの猫じゃねえんですから……。なにしろ、足だって二本しかねえんですから、かみさんもちゃんとあるから大丈夫です。その猫が、どこかでまちがいを起こしたのか、まっ青な顔して外から飛んで帰ってきて、相手を殺しちまうんだから脇差を出せ、とどなると、かみさんがまた変わり者で、止めもしねえで、脇差を抽出しから出し、神棚の前へ座って何だか口のなかで世迷言を唱えて、それからその脇差をぴょこぴょこと三度ばかり頂いて渡してやりやがったんで、狂人に刃物を渡すなんて呆《あき》れ返ったもんだと言って、さんざっぱら笑っちまったんで、ま、旦那、話てえのはまあこういうおかしな話なんで……」
「ううむ、さようであるか、それは身どもとしたことが粗忽《そこつ》千万であった。しからばなにか、その久六と申すものは、そのほうの朋友《ほうゆう》であるか」
「へえ、あのう……ありがとうござんす」
「いや、ありがたくない、久六と申す者はそのほうの朋友であるか」
「……いい塩梅《あんばい》のお天気でござんす」
「いや、天気を聞いておらん、久六なる者はそのほうの朋友であるか」
「いえ、あの、なんです、あいつの商売は八百屋でござんす」
「いや、商売を聞いてはおらん、そのほうの朋友であるか」
「いえいえ、まるっきりちがうんですから、あっしは大工でござんす」
「わからんやつだな、久六なる者は、そのほうの朋友であるかッ」
「いえ、あの旦那、まああのお腹も立ちましょうが……」
「なにを申しとる、久六はそのほうの友だちであるか」
「うふッ……さようですか、どうも……旦那がほうゆうかほうゆうかとおっしゃるもんですから……へへ……友だちであるか、ですか」
「はっきりせんやつだな。ではなにか、その久六なる者の妻が、神前に三べん頂いて剣《つるぎ》をつかわしたるを見て、そのほうはおかしいと申して笑うたのか」
「ええええええ、そうなんです。ええ、世の中にはずいぶん変わったかかあがあるもんだてんでね、さんざっぱら笑っちゃったんで」
「しかとさようか」
「へ? へえ、あのう、鹿だか馬だか知りませんけども、おかしいから笑ったんで」
「それに相違ないな」
「え、ええ……あのう、相違ありません」
「おかしいと申して笑う貴様がおかしいぞ」
「はあ……さようですかな」
「その趣意《しゆい》を解せぬとあらば聞かしてとらす、もそっとこれへ……これへ出い……これへ出い」
「ちょいと、親方ァ……あの、なんとか言ってくれねえかな、おい。えれえことンなっちまって……どうも旦那すいません。いえあの、旦那がねえ、猫のご親戚だってことをちっとも知らなかったもんですから……へえ、いえ、わざわざ笑ったわけじゃねえんですから、ほんのちょいとなんで、旦那勘弁してくんねえな」
「汝《なんじ》人間の性《しよう》あらば魂を臍下《さいか》に落ち着けて、よおッく承《うけたまわ》れ。日ごろ猫と綽名《あだな》さるるほど人の好い男が、血相を変えて我が家に立ち帰り、剣を出せいとは男子の本分よくよく逃《のが》れざる場合、朋友の信義として、かたわら推察いたしてつかわさんければならんに、笑うというたわけがあるか。また、日ごろ妻なるものは、夫の心中《しんちゆう》をよくはかり、否とは言わず渡すのみならず、これを神前に三べん頂いてつかわしたるは、先方に怪我のあらざるよう、夫に怪我のなきよう神に祈り夫を思う心底、天晴《あつぱれ》女丈夫ともいうべき賢夫人である。身どもにも二十五になる伜《せがれ》があるが、ゆくゆくはさような女をめとらしてやりたいものであるな。後世おそるべし。世のことわざに、外面如菩薩内心如夜叉《げめんによぼさつないしんによやしや》なぞと申すが、その女こそさにあらず、貞女なり孝女なり烈女なり賢女なり、あっぱれあっぱれ、じつに感服つかまつったな」
「うふッ……えへへへ……按腹《あんぷく》でござんすかねえ、なんだかちんぷんかんぷんだが、さにあらずだよ、べらぼうめ」
「なにを言っている」
「つまり、ま、旦那のおっしゃることは、よくわかりませんけれども、こう頂くかかあと、頂かねえかかあとどっちが本物だってえと、頂くほうが本物だてえんで、へえ、ごもっともでござんす。ええ、そう言われますと、うちのかかあなんてものァもう、場違《ばちげ》えでござんすから、ええ、とても頂けっこありません。……おいおい親方、聞いてみなくちゃわからねえなあ、笑う貴様が、さにあらずだぜえ」
「おい……なんだ、なんだい、おい……どうするんだい熊さん、帰《けえ》っちまうのかい? 頭ァどうするんだい」
「いいよ、また出直すよ、いいこと聞いた、さっそくかかあに教えてやろう」
「あいや町人ッ」
「へえい……おれ? おい、いやだよ、親方ァ、お客さんじゃあねえか、それもいいけどお侍じゃあねえか。……どうもすみませんです、旦那《だんな》がそこへおいでんなるてえのァちっとも知らなかったもんですからねえ、そいから大きな声でどなっちまいまして……勘弁してください」
「いやいや大声《たいせい》をとがめておるでない。最前からこれにてうけたまわれば、猫又の変化《へんげ》が現われ、諸民を悩まし、人畜を傷つけるとか、おだやかならんこと、身ども年齢《とし》をとっても腕に年齢《とし》はとらせん、その猫を退治してくれよう、案内いたせ」
「いえ……旦那ちょいとねえ、まあ気の早い旦那だ。いえ、あの、いまここで猫々ッて話してましたけどもね、ほんとの猫じゃねえんでござんす」
「うん? なに? しからば豚か」
「いえいえ、じつはわっしの長屋の真向けえに久六という八百屋がおりまして、こいつがおとなしくって、猫みたいな野郎だってんで、猫の久さんだ、猫久だってんで、あっしだの、仲間だのはもう久の字ィ取っぱらっちゃって猫々ってんで、ええ、ほんとの猫じゃねえんですから……。なにしろ、足だって二本しかねえんですから、かみさんもちゃんとあるから大丈夫です。その猫が、どこかでまちがいを起こしたのか、まっ青な顔して外から飛んで帰ってきて、相手を殺しちまうんだから脇差を出せ、とどなると、かみさんがまた変わり者で、止めもしねえで、脇差を抽出しから出し、神棚の前へ座って何だか口のなかで世迷言を唱えて、それからその脇差をぴょこぴょこと三度ばかり頂いて渡してやりやがったんで、狂人に刃物を渡すなんて呆《あき》れ返ったもんだと言って、さんざっぱら笑っちまったんで、ま、旦那、話てえのはまあこういうおかしな話なんで……」
「ううむ、さようであるか、それは身どもとしたことが粗忽《そこつ》千万であった。しからばなにか、その久六と申すものは、そのほうの朋友《ほうゆう》であるか」
「へえ、あのう……ありがとうござんす」
「いや、ありがたくない、久六と申す者はそのほうの朋友であるか」
「……いい塩梅《あんばい》のお天気でござんす」
「いや、天気を聞いておらん、久六なる者はそのほうの朋友であるか」
「いえ、あの、なんです、あいつの商売は八百屋でござんす」
「いや、商売を聞いてはおらん、そのほうの朋友であるか」
「いえいえ、まるっきりちがうんですから、あっしは大工でござんす」
「わからんやつだな、久六なる者は、そのほうの朋友であるかッ」
「いえ、あの旦那、まああのお腹も立ちましょうが……」
「なにを申しとる、久六はそのほうの友だちであるか」
「うふッ……さようですか、どうも……旦那がほうゆうかほうゆうかとおっしゃるもんですから……へへ……友だちであるか、ですか」
「はっきりせんやつだな。ではなにか、その久六なる者の妻が、神前に三べん頂いて剣《つるぎ》をつかわしたるを見て、そのほうはおかしいと申して笑うたのか」
「ええええええ、そうなんです。ええ、世の中にはずいぶん変わったかかあがあるもんだてんでね、さんざっぱら笑っちゃったんで」
「しかとさようか」
「へ? へえ、あのう、鹿だか馬だか知りませんけども、おかしいから笑ったんで」
「それに相違ないな」
「え、ええ……あのう、相違ありません」
「おかしいと申して笑う貴様がおかしいぞ」
「はあ……さようですかな」
「その趣意《しゆい》を解せぬとあらば聞かしてとらす、もそっとこれへ……これへ出い……これへ出い」
「ちょいと、親方ァ……あの、なんとか言ってくれねえかな、おい。えれえことンなっちまって……どうも旦那すいません。いえあの、旦那がねえ、猫のご親戚だってことをちっとも知らなかったもんですから……へえ、いえ、わざわざ笑ったわけじゃねえんですから、ほんのちょいとなんで、旦那勘弁してくんねえな」
「汝《なんじ》人間の性《しよう》あらば魂を臍下《さいか》に落ち着けて、よおッく承《うけたまわ》れ。日ごろ猫と綽名《あだな》さるるほど人の好い男が、血相を変えて我が家に立ち帰り、剣を出せいとは男子の本分よくよく逃《のが》れざる場合、朋友の信義として、かたわら推察いたしてつかわさんければならんに、笑うというたわけがあるか。また、日ごろ妻なるものは、夫の心中《しんちゆう》をよくはかり、否とは言わず渡すのみならず、これを神前に三べん頂いてつかわしたるは、先方に怪我のあらざるよう、夫に怪我のなきよう神に祈り夫を思う心底、天晴《あつぱれ》女丈夫ともいうべき賢夫人である。身どもにも二十五になる伜《せがれ》があるが、ゆくゆくはさような女をめとらしてやりたいものであるな。後世おそるべし。世のことわざに、外面如菩薩内心如夜叉《げめんによぼさつないしんによやしや》なぞと申すが、その女こそさにあらず、貞女なり孝女なり烈女なり賢女なり、あっぱれあっぱれ、じつに感服つかまつったな」
「うふッ……えへへへ……按腹《あんぷく》でござんすかねえ、なんだかちんぷんかんぷんだが、さにあらずだよ、べらぼうめ」
「なにを言っている」
「つまり、ま、旦那のおっしゃることは、よくわかりませんけれども、こう頂くかかあと、頂かねえかかあとどっちが本物だってえと、頂くほうが本物だてえんで、へえ、ごもっともでござんす。ええ、そう言われますと、うちのかかあなんてものァもう、場違《ばちげ》えでござんすから、ええ、とても頂けっこありません。……おいおい親方、聞いてみなくちゃわからねえなあ、笑う貴様が、さにあらずだぜえ」
「おい……なんだ、なんだい、おい……どうするんだい熊さん、帰《けえ》っちまうのかい? 頭ァどうするんだい」
「いいよ、また出直すよ、いいこと聞いた、さっそくかかあに教えてやろう」
「なにしてるんだい、この人ァ、まだそんな頭でうろうろしてやがら。またなんだろう、途中でへぼ将棋かなんか、ひっかかってやがったんだろう、どうするつもりだよ、お昼のお菜《かず》を……い、わ、しッ」
「おゥ? この野郎、亭主が敷居をまたぐかまたがねえうちに、もう鰯ンなってやがら、そんな了見《りようけん》じゃとてもてめえなんぞには頂けめえ」
「なにを言ってるんだね、なかへお入りな」
「てめえの家へ入るのにかかあに遠慮なぞしやあしねえ、てめえに言って聞かせることがあるんだ」
「あらッ、いやだようこの人ァ、座ったんだねえ……わたしゃおまえさんと一緒になって三年になるが、おまえさんの座ったの初めて見たよ」
「てやんでえ、こん畜生、ふざけるない、えへん、もそっとこれへ」
「なに?」
「もそっとこれへ」
「お飯《まんま》かい?」
「この野郎、よそってくれてんじゃねえやい、もそっとこれへだよォ、もっと前のほうへ出ろってんだッ」
「なんだい?」
「だから、これへでえ……でえ、でえ……でえ」
「なに?」
「出え、てんだよ」
「なんだよ、でえでえって、雪駄《せつた》直し屋だよ、まるで」
「おめえ、なんだな、さっき前の猫ンとこのかみさんが刀ァこう三べん頂いたのを見て、笑ったろう?」
「なにを言ってるんだね、笑ったなあおまえが笑ったんじゃないか、おまえが笑いながらあたしに教えたんだよ、笑ったのァおまえだい」
「そりゃ、おれァ亭主だから先に笑うのが、あたりまえ」
「だれだっておかしきゃ笑うよ」
「うん、しかとさようか」
「なにを言ってるんだねえ、笑ったのがそんなにわるいのかい?」
「それに相違ないか」
「ああ、相違ないねえ」
「おかしいと申して笑う貴様がおかしい」
「なにを言ってるんだい、どうしたんだい」
「いや、その趣意を解せぬとあらば聞かせてとらす」
「たいへん改まっちまったんだね」
「汝《なんじ》……人間か」
「やだね、この人ァ。見たらわかるだろう、人間だよう、だからおまえのおかみさんになってらあね」
「よけいなことを言うない……汝人間なれば、魂はさいかちの木にぶらさがる」
「なんだい、それは」
「なんだかわからねえ……日ごろ猫久なるものは……久六で八百屋で、どうもしようがねえ……」
「なんだねえ」
「……ああ、朋友であるかてんだ」
「なんだい?」
「なんだじゃねえやいほんとうに……日ごろ猫久なるもの……ああそうだ、だ、だ、だッ、男子、男子だ。猫久は、男子であってみればよくよく……よくよくのがれ、のがれざるやと喧嘩《けんか》をすれば……」
「そうかい、ちっとも知らなかったよ。じゃああの、笊屋《ざるや》さんと喧嘩したのかい?」
「そうじゃあないよ、のがれざるやッ」
「なんだいその、のがれざるやてえのは」
「だからここらへくる笊屋と、わけがちがうんだよ。のがれざるやのほうだ、のがれざるや……のがれざるやと喧嘩をすれば、夫は薤《らつきよう》食って我が家へ立ち帰り……日ごろ妻なる者は、女でおかみさんで年増《としま》だ」
「なにを言ってるんだい、ばかばかしい」
「てやんでえ……日ごろ妻なる者は……あ、夫の……夫の真鍮《しんちゆう》磨きの粉をはかりよ。ここはいいとこだぞ、おい……神前に三べん頂いたるは、遠方に……遠方に怪我のあらざら……怪我のあらざら……あらざら、あらざら……あらざら、ざらざらざらのざらざらよ……夫に怪我のないように、祈る神さま仏さま……とくらあ」
「いやだよこの人ァ、変な声するんじゃないよ」
「身どもに二十五になる伜《せがれ》があるが……」
「およしよゥこの人ァ、おまえさん二十七じゃあないか、二十五ンなる伜があるわけないだろう」
「あればって話だよう……こういう女をかかあにしてやりてえと、あーあ豪勢おどろいた」
「おどろくのかい?」
「ああ、ここんとこはずうッとおどろくとこだ、なあ……ああおどろいたおどろいた。世のことわざが外道の面、庄さんひょっとこ般若《はんにや》の面、てんてんてれつく天狗の面」
「いやだよこの人ァ、浮かれてるよ、ほんとうに」
「いや、その女こそさにあらず、とくらあ。いいかおい、なあ、貞女や孝女、千艘《せんぞ》や万艘《まんぞ》、あっぱれあっぱれ甘茶でかっぽれ、按腹《あんぷく》つかまつったとくらあ……どうだ」
「なにを言ってるんだい、この人ァ」
「てめえだってそうだよォ、いいか、おれがなにか持って来いったらなあ、なんでもかまわず猫ンとこのかみさんみてえに、ちゃんとてめえ、頂いて持ってこられるか、わかったか」
「なにを言ってるんだい、なんだと思やあ頂くのかい。そんなことァわけないよ、すぐ頂けるよゥ」
「おゥ? この野郎、亭主が敷居をまたぐかまたがねえうちに、もう鰯ンなってやがら、そんな了見《りようけん》じゃとてもてめえなんぞには頂けめえ」
「なにを言ってるんだね、なかへお入りな」
「てめえの家へ入るのにかかあに遠慮なぞしやあしねえ、てめえに言って聞かせることがあるんだ」
「あらッ、いやだようこの人ァ、座ったんだねえ……わたしゃおまえさんと一緒になって三年になるが、おまえさんの座ったの初めて見たよ」
「てやんでえ、こん畜生、ふざけるない、えへん、もそっとこれへ」
「なに?」
「もそっとこれへ」
「お飯《まんま》かい?」
「この野郎、よそってくれてんじゃねえやい、もそっとこれへだよォ、もっと前のほうへ出ろってんだッ」
「なんだい?」
「だから、これへでえ……でえ、でえ……でえ」
「なに?」
「出え、てんだよ」
「なんだよ、でえでえって、雪駄《せつた》直し屋だよ、まるで」
「おめえ、なんだな、さっき前の猫ンとこのかみさんが刀ァこう三べん頂いたのを見て、笑ったろう?」
「なにを言ってるんだね、笑ったなあおまえが笑ったんじゃないか、おまえが笑いながらあたしに教えたんだよ、笑ったのァおまえだい」
「そりゃ、おれァ亭主だから先に笑うのが、あたりまえ」
「だれだっておかしきゃ笑うよ」
「うん、しかとさようか」
「なにを言ってるんだねえ、笑ったのがそんなにわるいのかい?」
「それに相違ないか」
「ああ、相違ないねえ」
「おかしいと申して笑う貴様がおかしい」
「なにを言ってるんだい、どうしたんだい」
「いや、その趣意を解せぬとあらば聞かせてとらす」
「たいへん改まっちまったんだね」
「汝《なんじ》……人間か」
「やだね、この人ァ。見たらわかるだろう、人間だよう、だからおまえのおかみさんになってらあね」
「よけいなことを言うない……汝人間なれば、魂はさいかちの木にぶらさがる」
「なんだい、それは」
「なんだかわからねえ……日ごろ猫久なるものは……久六で八百屋で、どうもしようがねえ……」
「なんだねえ」
「……ああ、朋友であるかてんだ」
「なんだい?」
「なんだじゃねえやいほんとうに……日ごろ猫久なるもの……ああそうだ、だ、だ、だッ、男子、男子だ。猫久は、男子であってみればよくよく……よくよくのがれ、のがれざるやと喧嘩《けんか》をすれば……」
「そうかい、ちっとも知らなかったよ。じゃああの、笊屋《ざるや》さんと喧嘩したのかい?」
「そうじゃあないよ、のがれざるやッ」
「なんだいその、のがれざるやてえのは」
「だからここらへくる笊屋と、わけがちがうんだよ。のがれざるやのほうだ、のがれざるや……のがれざるやと喧嘩をすれば、夫は薤《らつきよう》食って我が家へ立ち帰り……日ごろ妻なる者は、女でおかみさんで年増《としま》だ」
「なにを言ってるんだい、ばかばかしい」
「てやんでえ……日ごろ妻なる者は……あ、夫の……夫の真鍮《しんちゆう》磨きの粉をはかりよ。ここはいいとこだぞ、おい……神前に三べん頂いたるは、遠方に……遠方に怪我のあらざら……怪我のあらざら……あらざら、あらざら……あらざら、ざらざらざらのざらざらよ……夫に怪我のないように、祈る神さま仏さま……とくらあ」
「いやだよこの人ァ、変な声するんじゃないよ」
「身どもに二十五になる伜《せがれ》があるが……」
「およしよゥこの人ァ、おまえさん二十七じゃあないか、二十五ンなる伜があるわけないだろう」
「あればって話だよう……こういう女をかかあにしてやりてえと、あーあ豪勢おどろいた」
「おどろくのかい?」
「ああ、ここんとこはずうッとおどろくとこだ、なあ……ああおどろいたおどろいた。世のことわざが外道の面、庄さんひょっとこ般若《はんにや》の面、てんてんてれつく天狗の面」
「いやだよこの人ァ、浮かれてるよ、ほんとうに」
「いや、その女こそさにあらず、とくらあ。いいかおい、なあ、貞女や孝女、千艘《せんぞ》や万艘《まんぞ》、あっぱれあっぱれ甘茶でかっぽれ、按腹《あんぷく》つかまつったとくらあ……どうだ」
「なにを言ってるんだい、この人ァ」
「てめえだってそうだよォ、いいか、おれがなにか持って来いったらなあ、なんでもかまわず猫ンとこのかみさんみてえに、ちゃんとてめえ、頂いて持ってこられるか、わかったか」
「なにを言ってるんだい、なんだと思やあ頂くのかい。そんなことァわけないよ、すぐ頂けるよゥ」
熊さんがわけのわからない講釈をしている間に、台所の鰯を猫が咬《くわ》えて飛び出した。
「やいこん畜生っ、泥棒《どろぼう》猫めッ、おう、おっかあおっかあ、なんか持ってこい。おう、早くしろッ」
おかみさんは、擂鉢《すりばち》のなかにあった擂粉木《すりこぎ》を手に持って、神棚の前にぴたりと座り、丁寧《ていねい》に三べん頂いて、熊さんに渡した。
「やいこん畜生っ、泥棒《どろぼう》猫めッ、おう、おっかあおっかあ、なんか持ってこい。おう、早くしろッ」
おかみさんは、擂鉢《すりばち》のなかにあった擂粉木《すりこぎ》を手に持って、神棚の前にぴたりと座り、丁寧《ていねい》に三べん頂いて、熊さんに渡した。