たらちね
「おお、八っつぁんかい。さあ、こっちへお上がり、いま仕事から帰ったのかい」
「へえ、家主《おおや》さん。今日は仕事のほうは早じまいで……。家へ帰ると、となりの糊屋のばばあが家主さんから呼びに来ているから行ったほうがいいってんですが……これからひと風呂、湯へ行こうとおもうんで……ひとつ手っとり早く片付けてもらいたいもんで……」
「片付けろとは……なんということだ。他でもないが、今日はおまえに耳寄りな話を聞かせようとおもってな」
「へえ、なんで」
「おまえ、どうだ身を固めないか?」
「なんです、身を固めるってえのは」
「女房を持ったらどうだ。この長屋じゅうに、ひとり者も何人かあるが、どうもひとりでいるやつはろくな行ないをしねえ。おめえは、言うとおかしいが、ひとに満足にあいさつもできないような人間だが、仕事はよくやるし、若い者に似合わず堅《かて》え。ところが若い者の堅えは当てにならねえ。家をやりくりする女房がなくてはならぬ。むかしからよく言うように、ひとり口は食えないが、ふたり口は食えるというたとえもある。おまえ、女房を持つ気はねえか」
「ええ、そりゃまあ、持ちてえのは持ちてえんだが、あっしのような貧乏なところへ来るのがありますかねえ」
「おまえにその気があれば、ないことはない。あたしが世話をしよう。どうだ」
「どうもありがとうございます。やっぱり女でしょうな?」
「ばか言っちゃいけない。むろん女にきまってるさ」
「どんな女なんで」
「二十……たしか二だったな、婆さん。……生まれは京都で、両親はとうのむかしに亡くなって、屋敷奉公をしていたんだが、縁がなくって、嫁に行かないでいるんだ……横町に長役《ちようえき》さんてえ医者があるだろう?」
「へえ」
「あそこが叔父さんなんだ。あそこへ先月、屋敷奉公の暇をもらって、身を寄せているんだが、それ、この間、家《うち》へ使いに来た女をおぼえてないかい?」
「いいえ」
「もっともあのときはうす暗かったが、むこうではおまえのことを知っていて、先方の言うには、長い間きゅうくつなところへ奉公していたから、嫁に行く先は、舅《しゆうと》や小舅《こじゆうと》のない、気楽なところへ行きたい、と当人の望みで、おまえなら気心も知れているからいいと思うんだ」
「へえー、結構ですねえ」
「どうだ、おまえさえよければ、世話をする。八っつぁんには過ぎものだよ。針仕事もできるし、読み書きもできる。それにおとなしくって、器量も十人並みだ。どうだ、もらう気はないか?」
「へえ、けれども、まあ、食うだけがやっとで、着せることもできませんからね」
「その心配はない。まあ、たいしたことはないが、夏冬の道具|一揃《ひとそろ》いぐらいは持ってくる」
「夏冬のもの一揃いっていうと、行火《あんか》に渋|団扇《うちわ》?」
「ばかなことを言うな。茶番の狂言じゃあるまいし、ただ、ついては八っつぁん、ちょいと疵《きず》がある」
「そうでしょう。どうも話がうますぎるとおもった。そんなにいいことずくめの女があっしのような者のところへ来るはずがねえ。疵っていうと、横っ腹にひびがはいって、水がもるとかなんとかいうんですかい?」
「こわれた水瓶《みずがめ》じゃあるまいし。……つまり疵というのはな……」
「じゃ、寝小便?」
「ばか言いなさい。そんなんじゃない。疵というのは、言葉だ。ながい屋敷奉公とおとっつぁんが漢学者で、どうもたいへん厳格な育て方をしたんで、言葉が丁寧すぎる、それが疵だ」
「なんだ、そんなことなんですか。結構じゃありませんか。それに引きかえてあっしなんかはぞんざいすぎていつもお店《たな》の旦那に叱言《こごと》を言われるんで、丁寧結構、ちっとその丁寧を教わろうじゃありませんか」
「なるほどな、おまえのところへ行けば、じきに悪くはなろうが、なにしろときどきむずかしいことを言い出すんで困るよ。この間もな、表で逢うと、いきなり『今朝《こんちよう》は土風激《どふうはげ》しゅうて、小砂眼入《しようしやがんにゆう》す』と言ったな」
「へえ、たいしたことを言うもんですねえ」
「おまえにわかるか?」
「わかりゃあしませんが、そんなえらいことを言うなあ、感心だ」
「わからないで感心するやつがあるもんか。よくよく後で考えてみたら、今朝《けさ》はひどい風で砂が眼に入る、という意味なんだ」
「なるほど」
「おれも即答に困った」
「へえ、石塔に困ったんで? 墓場へでも行きましたか?」
「石塔じゃないよ。即答、おれもなんにも言わないのはくやしいから、スタンブビョーでございと言ったね」
「なんのことで……」
「ひょいと前の道具屋を見たら、箪笥《たんす》と屏風《びようぶ》があったから、それを逆さにして言ったんだ」
「家主さんまずいことを言ったね、あっしなら、リンシチリトクと言いますね」
「なんのことだい? それは……」
「七輪と徳利を逆さにしたんで」
「ばかなことを言うな。そんなことはどうでも、嫁の一件はどうするんだってえことよ」
「どうか、ひとつ、よろしくおねがい申します」
「そうか、それなら、いま呼びにやるからここで見合いをしちまいな。むろん、むこうはおまえを知ってるんだから、おまえさえ見合いをすりゃいいんだ」
「なんです。見合いってえのは? 見合わなくたってようがしょ。いますぐ連れてきておくんなさい。あっしはもらうことに決めましたから」
「そうか、そうと決まりゃ、吉日を選んで婚礼ということになるが、……婆さん、暦を出しなさい。ひとつ、いい日を見てやろう。……これは困ったな、当分いい日がないな」
「ようがす、家《うち》の暦がいけねえのなら、隣へ行って、別のやつを借りてきましょう」
「ばかなことを言うな、暦はどこへ行っても同じだ」
「へえー、不都合なもんですね」
「なにが不都合なものか……おっと、あった、今日がいい日だ」
「そいつはありがてえ、じゃ今夜に決めちゃいましょう」
「今夜はちっと短兵急すぎるが、善は急げだ、おまえがいいって言うんなら、今晩|輿《こし》いれということにするか」
「え? 腰……いれ? そんなけちけちして、腰だけもらってもしょうがありませんよ。体ごとそっくり、おくんなさい」
「そうか、それじゃ、これから向こうへ話をして、相手は女だ、いろいろ支度があるだろうから、おまえはこれから湯へでも行って身ぎれいにしておけ、隣の糊屋の婆さんに万事頼むといいや、あれでなかなか親切なんだから。お頭《かしら》つきに蛤《はまぐり》の吸物でも用意しておきな。それに酒は少し、たくさんはいらないよ。おれは下戸、おまえが下戸、嫁さんは飲まないからそのつもりで……。それから、長屋へは月番へだけ届けておけばいい。おっと、これは、少ないけど、あたしのほんの心祝いだ。とっておくれ」
「へえー、あっしに? すみません。やっぱり家主さんは、どこか見どころがあると思ってました」
「おだてるんじゃないよ。おまえも早く帰って、支度でもしな。晩方には連れ込むからな」
八っつぁんは、ひとっ風呂浴びて、
「あー、いい気持ちだなあー、嫁さんが来るとなりゃあ、いいもんだろうなあー。だいいち家へ帰って飯を食うにしても、ひとりでパクパク食ったんじゃうまくもなんともありゃしねえや。おや、お帰りかい、さっきから待っていたんだよ。なんだこれっきりか、今月はこれで我慢おしよ。冗談言うねえ、百姓じゃあるめえし、ニンジンにゴボウで飯が食えるけえ、刺身でもそう言ってきねえ。よしてくださいよ、八っつぁんはおかみさんが来てから、つきあいもしないで家でぜいたくばっかりしていると言われるのが辛いからさ。いいからそう言ってきねえってことよ。たまには女房の言うことも聞くもんですよ。これで食べておしまいッ」
「おやっ、八っつぁん。どうしたんだい? うれしそうな顔してさ」
「おっ、糊屋の婆さんかい、なーに、今晩、この長屋に婚礼があるんだ」
「この長屋でひとり者は、羅宇屋《らおや》の多助さんとおまえさんだけじゃないか。羅宇屋の多助さんは、たしか七十八になったんだから、まさかお嫁さんも来やあしまいがね。あとはおまえさんのところだけだよ」
「そうだ、そのおまえさんのところへ来るんだ」
「へえー、そりゃ、ちっとも知らなかったよ。よかったね。おめでとう。そうだったのかえ、……いま酒屋から酒が来て、魚屋から肴《さかな》が届いたので預かってあるよ」
「どうも、すいません。……しめしめ、ありがてえ、まず灯りをつけて、うん……酒屋は来たし、魚屋は来たし、あとこれで嫁せえ来りゃあいいんだ。……ああ、ありがてえ。足音がする。ちゃらこん、ちゃらこん、ちゃらこんと来やがら、ああァ、家主《おおや》が雪駄《せつた》を履《は》いて嫁さんが駒下駄を履いて来やがった、……なんだい、ありゃ洗濯屋のかかあじゃねえか、草履《ぞうり》と駒下駄と履いていやがる。どうもあのかかあてえのはいけぞんざいなもんだな、ええ? おや、また足音がする」
「ごめんなさい」
「へえ、おいでなさい」
「ながなが亭主にわずらわれまして、難渋の者でございます。どうぞ一文めぐんでやってください」
「なぐるよ、冗談じゃない。婚礼の晩に女乞食に飛びこまれてたまるもんか。銭はやるから、さっさと帰れッ」
「おっおっ、八っつぁん、えらい勢いだね。……さあ、こっちへお入り。待たせたね。ときに八っつぁん、この女だよ」
「あ、家主さん、どうも……」
「まあ、かしこまらなくたっていいよ。……さあさあ、こっちへお入り。ほかにだれもいやあしないから、遠慮なんかしないでさ。今日からおまえさんの家なんだから……おい、八っつぁん、どうしてうしろを向いてるんだ」
「へえ」
「さあさあ、ふたりともこっちへならんで、なにをもじもじしてるんだ。この男は職人だから口のききようが荒っぽいが、けっして悪気のある男ではない。そこは勘弁して……お互いに仲よくしておくれ。けっして、ふたりして争いをしてはならん。……いいか、万事略式だ。……盃を早くしなくっちゃいけねえ。じゃあ、おれがこれで納めにする。……いや、おめでとう。あとは、ゆっくりとふたりで飯にするんだ。長屋の近づきは、あした、うちの婆さんに連れて歩かせるからな。媒酌人《なこうど》は宵の口、これでお開きにするよ。はい、ごめん」
「家主さん、ちょっと待ってくださいよ」
「おれがいつまでいたってしょうがない。また、あしたくるからな」
「ああ、行っちまった、弱ったなあ、……へへへ、こんばんわ、おいでなさい、ま、家主さんから、あなたさまのこともうけたまわりまして……へへへへ、おまえさんも縁あって来たんだが、あたしのところは借金もないが、金もないよ。ま、なにぶんよろしく末ながくおたのみ申します」
「せんにくせんだんにあってこれを学ばざれば金たらんと欲《ほつ》す」
「金太郎なんぞ欲さなくてもいいがね。ところで弱ったな、家主さんにおまえさんの名を聞くのを忘れちゃった……おまえさんの名をひとつ聞かせてくださいよ」
「自《みずか》らことの姓名を問い給うや?」
「へえ、家主は清兵衛ってんですが……どうかあなたさまのお名前を……」
「父はもと京都の産にして、姓は安藤、名は敬蔵、字《あざな》は五光。母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜、丹頂の夢見て孕《はら》めるが故に、垂乳根《たらちね》の胎内を出でし時は、鶴女と申せしが、成長ののちこれを改め、清女と申し侍《はべ》るなり」
「へえー、それが名前ですかい? どうもおどろいたなあ。京都の者は気が長えというが、名も長え。こいつは一度や二度じゃとてもおぼえられそうにもねえ。すいませんが、これにひとつ書いておくんなせえ。あっしは職人のことでむずかしい字が読めねえから、仮名でたのみます……。えー、みずから、あー、ことの姓名は……父はもと京都の産にして、えー、姓は安藤、名は敬蔵、あざなは五光。……なにしろこりゃ長えや、おれが早出居残りで、遅く帰って来て、ひとつ風呂へ入ってこようという時に、おお、ちょっとその手拭を取ってくんな、父はもと京都の産にして姓は安藤、名は敬蔵、あざなは五光。母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜、丹頂の夢見て孕めるが故に、垂乳根の胎内を出でし時は鶴女と申せしが、成長の後これを改め、清女と申し侍るなり、おやおやお湯がおわっちまわあ。それに近所に火事でもあったときに困るな、ジャンジャンジャン、おっ、火事だ、火事はどこだ、なに隣町《となりちよう》だ、そりゃたいへんだ。おい、みずからことの姓名は父はもと京都の産にして姓は安藤、名は敬蔵、あざなは五光、母は千代女と申せしが三十三歳の折……なんてやっていた日にゃあ焼け死んじまわあ、あした家主に、もう少し短い名と取りかえてもらうとして、寝ることにしよう」
そのまま枕についたが、夜中になると、お嫁さん、かたちを改め、八っつぁんの枕もとに手をついて、
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「えー、あらたまってなんです?」
「いったん偕老同穴《かいろうどうけつ》の契《ちぎ》りを結ぶ上は、百年《ももとせ》千歳を経るとも君こころを変ずること勿《なか》れ」
「へえ、なんだか知らねえが、蛙の尻《けつ》を結べって……お気にさわることがあったら、どうかご勘弁を……」
烏《からす》がカァーと夜があける。そこは女のたしなみで、夫に寝顔を見せるのは女の恥というので、早く起きて、台所へ出たが、ちっとも勝手がわからない。そこで八っつぁんの寝ている枕もとに両手をついて、
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「へい、へい、あーあ。ねむいなあ、もう起きちまったんですかい……。え? おい、わが君ってえのはおれのことかい? うわぁ、こりゃ、おどろいたな、なにか用ですかい?」
「白米《しらげ》のありかいずれなるや?」
「さあ困ったな。あっしはいままでひとり者でも、虱《しらみ》なんどにたかられたことはない」
「人|食《は》む虫にあらず、米《よね》のこと」
「へー、米《よね》を知ってるのかい? 左官屋の米《よね》を?」
「人名にあらず、みずからがたずねる白米《しらげ》とは俗に申す米《こめ》のこと」
「ああ、米《こめ》なら米と早く言っておくれ。そこのみかん箱が米びつだから、そこに入っている」
八っつぁんは、また眠ってしまった。お嫁さんは台所でコトコトやってご飯を炊き、味噌汁をこしらえようとしたが、あいにく汁の実がない。そこへ八百屋が葱《ねぎ》をかついで通りかかった。
「葱《ねぎ》や葱、岩槻葱《いわつきねぎ》……」
「のう、これこれ、門前に市をなす賤《しず》の男《おとこ》」
「へい、呼んだのは、そちらで?」
「そのほうが携えたる鮮荷のうち一文字草《ひともじぐさ》、値何銭文なりや」
「へえ、たいへんなかみさんだな、へえ、こりゃ、葱ってもんですが、一|把《わ》三十二文なんで……」
「三十二文とや、召すや召さぬや、わが君にうかがうあいだ、門の外に控えていや」
「へへー、芝居だねこりゃ、門の外は犬の糞だらけだ」
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「ああ、また起こすのかい。……おい、冗談じゃないよ。朝から八百屋なんかひやかしちゃしょうがねえや。腹掛けのどんぶりにこまかい銭があるから、出してつかってくんねえ」
これで、すっかりお膳立てをして、また枕もとへ来て、両手をつき、
「あーら、わが君」
「あーら、わが君ってのは、やめてくれねえか。おれの友だちはみんな口が悪いから、『あーら、わが君の八公』なんか、ろくなことは言わないから、なんだい?」
「もはや日も東天に出現ましまさば、御衣《ぎよい》になって、うがい手水《ちようず》に身を清め、神前仏前に御《み》灯明《あかし》を供え、看経《かんきん》ののち、御飯召しあがられてしかるべく存じたてまつる、恐惶謹言《きようこうきんげん》」
「おやおや、飯《めし》を食うのが恐惶謹言なら、酒を飲んだら、依《よ》(酔)って件《くだん》の如しか」