湯屋番
古い川柳《せんりゆう》に「居候《いそうろう》置いて合わず居て合わず」というのがある。
どういうわけか居候と川柳とは仲が悪い。
「居候足袋の上から爪をとり」
「居候角な座敷をまるく掃《は》き」
「居候しょうことなしの子|煩悩《ぼんのう》」
「居候三杯目にはそっと出し」
というのはまことにしおらしい居候だが、
「居候出さば出る気で五杯食い」
なんて図々しい居候がいる。なかでも困るのは、
「出店迷惑様付けの居候」
どうにもあつかいに困り、置くほうで逆に居候に遠慮するなんていうのもある。
お出入りの鳶頭《かしら》が、お店の若旦那が道楽がすぎて勘当されたのを預るなどというのが、よくある話で……。
「ちょっとおまえさん、どうするんだ」
「なにを?」
「なにをじゃないよ。二階の居候だよ。いつまで置いとく気なんだい」
「うん、弱ったな、居候をいつまで置くったって猫じゃねえから、はっきり日を切って置いたわけじゃねえ。まあ、あの人のおとっつぁんに、おれは昔ずいぶん世話になったからなあ。あの人が居るところがないっていうのに、見て見ぬふりもできねえじゃねえか。まあ、少しのことは我慢しなよ」
「おまえさんは世話になったかどうか知らないけれど……ほんとうにあんな無精な人はありゃあしない。一日中ああして寝たっきりなんだから、そのくせ飯時分になると二階からぬうっと降りてきて、おまんまを食べちまうと、また二階へあがって寝てしまうんだからあきれるよ。掃除もしたこたあないし、汚いったらありゃしないよ。あんまりなんにもしないから『若旦那、あなたは横のものを縦にしようともしないんですね』って言ったら、『じゃあ、その長火鉢を縦にしようか』だって、しゃくにさわるったらありゃしない。おまえさんが口をきいたのが災難のはじまり、こうやって家へひっぱって来たのはおまえさんだからいいけど、あたしゃ、ご免だよ」
「そこをなんとか我慢して、まあ、世話をしておけば、先行きまたいいこともあろうから……」
「なにがいいことがあるものかね。だってそうだろう。親身の親でさえあきれる代物《しろもの》だよ。もうご免だよ。いやだよ。どうしてもおまえがあの人を置くと言うのなら、あたしが出ていくからいいよ」
「おい、ばかなことを言うなよ。居候とかみさんととっかえこにしてどうするんだよ。じゃ、まあ、なんとか話をしよう」
「たのむよ」
「しかし、そこでおめえがふくれっ面をしていたんじゃぐわいがわるいから、隣の婆さんのところへでも行っていろ。……うちのかかあもうるせえが、なるほど二階の若旦那も若旦那だ。もう昼過ぎるってえのに、よくもこうぐうぐう寝られたもんだなあ。……もし、若旦那、おやすみですかい。ちょっと、若旦那ッ」
「へっへっ、いよいよ来ましたよ『雌鶏《めんどり》すすめて雄鶏《おんどり》時刻《とき》をつくる』ってやつだ」
「もし、若旦那ッ」
「このへんで返事をしないと気の毒だな、……なーに寝ちゃいないよ」
「起きてるんですかい?」
「起きているともつかず、寝てるともつかず……」
「どうしてるんで?」
「枕かかえて横に立ってるよ」
「なにをくだらないことを言ってるんです。ちょっと話があるんですよ。降りてきてください」
「急ぎの話か?」
「大急ぎですよ」
「じゃ、おまえが上がって来たほうが早いよ」
「無精だね、まったく。さっさと降りておいでなさい」
「いま降りるよ。うるせえなあ。ああ、いやだ。家にいる時分には、若旦那だの坊ちゃんだの……すべったころんだ言いやがった。つくづく人生居候の悲哀を感じるってえやつだな」
「なにをそこに立ってもぞもぞ言ってるんです。早く顔を洗いなさい」
「洗うよ、洗いますよ。朝起きりゃ猫でも顔を洗ってらあ、いわんや人間においてをやだ。……しかし、顔を洗うったっておもしろくないね。道楽している時分には、女の子がぬるま湯を金だらいへ汲んで、二階へ持って来てくれる。口をゆすいで、いざ顔を洗う段になると、女の子がうしろへまわって、袂《たもと》を押さえてくれるし、ものが行き届いている。それにひきかえ、ここの家はどうだい。金だらいぐらい買ったっていいじゃないか。この桶《おけ》というものは不潔きわまりない。いやなもんだね。雑巾《ぞうきん》をしぼっちゃ、またこれで顔を洗うんだからなあ。衛生のなんたるやを知らねえんだ。だいいち、この桶に顔をつっこんでると、まるで馬がなんか食ってるようじゃないか」
「なにをいつまでぐずぐず言ってるんです。早く顔を洗っちまいなさいよ」
「もう洗ったよ」
「洗ったよって、あなた、顔を拭かないんですか」
「拭きたい気持ちはあるんだけどね、このあいだ手拭《てぬぐい》を二階の手すりへかけておいたら、風で飛ばされちゃったんだ。それからというものは、顔は拭かない」
「どうするんです?」
「干すんだよ。お天気の日には乾きが早い」
「だらしがねえな。どうも……手拭をあげますから、これでお拭きなさい」
「ああ、ありがとう。やっぱり顔は干すよりも拭いたほうがいい気持ちだ。ちょっと待ってくれ」
「ぷッ、さんざ朝寝をして拝んでる。なにを拝んでるんです?」
「なにを拝む? 朝起きりゃ、今日様へご挨拶するのがあたりまえだ」
「お天道様を拝んでる?」
「そう」
「もう西へまわってますよ」
「そうか、じゃあお留守見舞いだ」
「お留守見舞いなんざいいやね。……まあ、くだらねえことを言ってないで、お茶が入ったからおあがんなさい」
「いや、ありがとう。朝、お茶を飲むってえのはいいね。朝茶はその日の災難をよけるなんてえことをいうくらいだから……さっそくいただこう……うん、だけど、もう少しいいお茶だといいんだがなあ。まずいお茶だ。これ、買ったんじゃないだろう? お葬式《とむらい》のお返しかなんかだろう? それにお茶うけがなんにもないっていうのは情けないな。せめて塩せんべいでも……」
「うるさいね、あなたは……」
「ああ、どうもごちそうさま。では、おやすみなさい」
「なんです。おやすみなさい……って、いいかげんにしなさい。じつはね、こんなことはわたしも言いたくはないんだ」
「そりゃそうでしょう。あたしも聞きたくはない」
「じゃ、話ができない」
「へへ、おやすみなさい」
「まあ、待ちなさい。……じつはね、いま、うちのかかあのやつが……」
「わかった、わかった。おまえの言わんとすることは……。さっき雌鶏がさえずった……」
「雌鶏? なんです?」
「うん、つまり、おかみさんが、わたしのことについてぐずぐず文句を言ったわけだ」
「いえ、うちのかかあのほうもわるいにはちがいないが、……ねえ、若旦那、あなたもいつまでもうちの二階でごろごろしててもしょうがありませんから、どうです、あたしはあなたのことをおもって言うんだがひとつ奉公でもしてみようなんてえ気持ちになりませんか?」
「ああ、奉公かい、いいだろう奉公もなあ。あたしがいるために、おまえがおかみさんから文句をぐずぐず言われるのでは、あたしとしてもしのびない。まあ、あたしさえいなければ、もめごともなく、まるく納まるのなら、その奉公っての、行こうよ。え? どこなんだい、その奉公先ってえのは?」
「そうですか、行きますか。場所は小伝馬町ですがね。あたしの友だちで桜湯をやってまして、奉公人が一人ほしいと言ってます。どうですか、湯屋は?」
「ほう、湯屋、女湯、あるかい?」
「そりゃ、女湯はありますよ」
「うふふふ、行こう、行こうよ」
「じゃ、手紙を書きますから、それを持ってらっしゃい」
「そうかい、じゃあ行ってみよう。おまえの家にもずいぶん世話になったな」
「いえ、まあお世話てえほどのことはできませんでした」
「ああ、そりゃまあそうだが」
「なんだい、ごあいさつですねえ。……まあお辛《つら》いでしょうが、ひとつご辛抱なすって……またお店のほうへはわたしが行って、大旦那に会ってよく話をしておきますから」
「ああ、わかったよ。おかみさんによろしく言っとくれ。そうだ、世話になったお礼といっちゃなんだが、おまえの家へなにか礼をしたいなあ」
「礼なんざいりません」
「いや、なにか礼をしたいね。そうだ、どうだい、十円札の一枚もやろうか」
「若旦那、そんな金持ってるんですか?」
「いや持ってないから、気持ちだけ受けとって……そのうちの五円をあたしにおくれ」
「ばかなことを言っちゃいけませんよ」
「じゃまあ、行ってくるよ。……いやまあどうもあの鳶頭《かしら》も人はいいんだが、かみさんに頭《あたま》があがらない。……しかし、どうも人間の運なんてわからねえもんだ。昨日まで芸者、幇間《たいこもち》にとり囲まれて『あらまあちょいと、おにいさん』かなんか言われていたやつが、おやじのお冠《かんむり》が曲がって、出入りの鳶頭の家へ居候。今日からまたお湯屋奉公しようとは、お釈迦さまでも気がつくめえってやつよ。……ああ、ここだ、ここだ、桜湯は……こんちは」
「いらっしゃい。あ、あなた、あなた、そっちは女湯ですよ」
「えへへ、わたし、女湯、大好き」
「好きだっていけませんよ。どうぞ、こちらへ回ってください」
「いえ、客じゃありません。こちらへひとつ、今日からご厄介になりたいんですが」
「ご厄介?」
「ええ、橘《たちばな》町の鳶頭《かしら》から、手紙を持ってきたんでねえ」
「ああ、手紙を……橘町の鳶頭から、ああ、話はありました。しかし、この手紙によると、あなた、名代の道楽者だっていうが……」
「えへへ、別に名代の道楽者ってえほどのことはない。ただ女の子にまわりを取り巻かれて『あらおにいさん、いやよゥ、そんなところさわっちゃ、くすぐったいわッ』なんてね……えっへへへ、そういうことが好きなだけで……」
「たいへんな人が来たな。さあ、辛抱できるかな? では、はじめのうちは外廻りからやってもらいましょうか」
「ようッ結構、さっそくやらせてもらいましょうか」
「若い人は、たいていいやがるがねえ」
「いいえ、どういたしまして、あたしは外廻りが得意で……ええ、札束を懐中《ふところ》へ入れて、きれいどころ[#「きれいどころ」に傍点]を二、三人お供に連れて、温泉場廻りをしてくるという……」
「そんな外廻りがあるもんか。外廻りというのは、車をひっぱって、方々の普請場へ行って、木屑だの鉋《かんな》っ屑だのを拾ってくるんだ」
「ああ、あれですか? がっかりさせるなあ、どうも……ありゃいけないよ。色っぽくないもの。汚《きたな》い車をひいて、汚い絆纏《はんてん》に縄の帯、汚い股引《ももひき》に、汚い手拭の頬被り。汚い草履をつっかけて……、ご免こうむりましょう。あんまり音羽屋のやらない役だ」
「ぜいたくを言っちゃいけない。そんなことを言ったら、あとはやることなんかありゃしないよ」
「ではどうです? 流しやりましょう。女湯専門の三助ということで……」
「女湯専門なんてのがあるもんか。流しだってむずかしいんだよ。ただ客の肩へつかまってりゃあいいってもんじゃないんだから、とても一年や二年じゃあものにならないな」
「そうですか? では、その番台はどうです? 番台なら見えるでしょ?」
「見える? なにが?」
「なにが……だなんてしらばっくれて、ひとりで見ていて……ずるいぞ」
「弱ったな、この男は……ここは、なにしろあたしか家内のほかはあがらないところなんだから……しかし、まあ、あなたは身元がわかっているから、じゃ、こうしましょう、仕事のことはあとでゆっくり相談するとして、わたしがご飯《ぜん》を食べてくる間、ちょっとだけ、かわりに番台へ座っておくれ」
「番台、結構、ぜひ一度あがってみたいとかねがねおもっておりました」
「待ちな待ちな、あたしが降りなきゃだめだ」
「へえ、そうと決まれば……さあ、早く降りてください、早く、早く」
「まちがいのないようにしっかり頼みますよ。番台は見てりゃわけないようだが、なかなかむずかしい。昼間はたいしたことはないが、夜分は目のまわるほど忙しくなる。それからね、糠《ぬか》といったら、その後《うしろ》の棚に箱があるから、糠袋もそこにある。流しは男湯が一つで女湯が二つ、拍子柝《ひようしたく》を叩《たた》いてくれ、履物に気をつけてな、新しい下駄でも盗《と》られると、買って返すったってたいへんだから」
「へえ、へえ……行ってらっしゃい、ゆっくりと召しあがってらっしゃい。ふっ、ありがてえ、いっぺんここへあがってしみじみとながめたいとおもってたんだが……ええ、こちらは……男湯、入ってるねえ、一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人……ふーん、七尻ならんでるよ。あの三番目のは……すごい毛だなあ、たまには刈りこんだらいいのになあ、なんてえ汚《きたな》え尻をしてるんだ。あれがふけつ[#「ふけつ」に傍点]てんだ。こっちのやつは、またむやみにやせてるなあ、胸なんかまるでブリキの湯たんぽだ。しゃものガラだよ……いやだなあ、男とつきあいたくないね。男なんざあ昼間から湯へ入ってみがいてみたところでどうなるってんだよ。こいつらが出ちゃったら、入り口を釘づけにして男を入れるのをやめて女湯専門の湯屋にしちまおう。さて……と、問題の……女湯……なんだ、ひとりも入ってねえてのは、ひどいね。それがたのしみで湯屋奉公に来たてえのに、こっちは……でもこうやっているうちに、いまに女湯もこんでくるよ。『まあ、こんどきた番頭さんはほんとうに粋な人じゃないの』なんてんで……おれを見染める女がでてくるよ。こうなると……どういう女がいいかなあ、堅気の娘はいけないね。別れるときに、死ぬの、生きるのと事《こと》が面倒になるからなあ。といって、乳母や子守っ娘《こ》はこっちでご免こうむるし……主《ぬし》ある女は罪になっていけないし……さあ……そうなるといないねえ、芸者衆なんぞも悪くないけど……そうだ、お囲い者てえのがいいや、旦那はたま[#「たま」に傍点]にしか来ない、そういうのになると、湯へ来るのも一人じゃ来ないよ。女中に浴衣を持たして、甲の薄い吾妻下駄かなんかはいてね。カラコンカラコン……『へい、いらっしゃいまし、ありがとうございます。新参の番頭で、どうぞ、よろしく』番台をチラリと横目で見て、スーッと隅のほうへ行ってしまう。といってわたしが嫌いじゃない。女中とこそこそ話をしながら、ときどき番台のほうを見るのが嫌いじゃない証拠ってやつだ。しかし、ここが思案のしどころで、むやみにニヤニヤしちゃいけないよ。なんてにやけていやな男だろうなんて言われないとも限らないからなあ、かといって、まるっきり知らん顔もできないから、二三度来るうちに、女中に糠袋のひとつもやって取り入るよ。『まあ、すいませんねえ、たまにはお遊びに……』とくりゃしめたもんだ。さっそく遊びに行って、お家を横領して……糠袋一つでお家を横領ってわけにはいかないかな。なにかいいきっかけはないかしら……うーん、そうだ。うまいぐあいに釜が毀《こわ》れて体があく。そこの家の前を知らずに通りかかるなんてのがいいな。わたしの足に女中の撒《ま》いた水がかかる。『あれッ、ごめんなさい』と、顔を見るとわたしだから『まあ、お湯屋《ぶや》のお兄さんじゃありませんか』『おや、お宅はこちらでしたか』『ねえさん、お湯屋の兄さんが……』と奥へ声をかけると、ふだんから思いこがれていた男だから、奥からこう泳ぐようにして出てくるねえ。『まあまあまあ、よく来てくださったわねえ』『いえ、今日はわざわざ来たわけじゃございません。お門《かど》を知らずに通りましたので……』『まあいいじゃありませんの、それに今日はお休みなんでしょ』『はい、今日は釜が毀れて早じまい』……いいセリフじゃねえなあ、こりゃなあ……なんかねえか。そうそう墓詣りなんぞいいなあ。『まあ、お若いのに感心なこと』こういう方は女にもさぞかし実があるだろう……てんで二度惚れてえやつ。『いいじゃありませんの、さあお上がりなさいましよ』『お家をおぼえましたから、いずれまた』『なんですねえ。そんなに遠慮なすって……あたしと女中と二人っきり、だれもいないんですから、いいでしょ、ちょっとぐらいお上がんなさいましよ』『いえ、後日あらためまして』女は行かれちゃ困るから、わたしの手を掴《つか》んで離さないよ。『ねえ、あなた、お上がり遊ばせよ』『いや、そのうちに』『お上がりったら』『いいえ、また』『お上がり』『いいえ』『お上がりッ』」
「えっ? あの番台の野郎だよ。見てごらんよ。お上がり、お上がりって、湯から上がれてえのかとおもったらね、てめえの手をてめえで一所懸命ひっぱってるぜ。おい、おかしなやつが番台へ上がりやがった」
「面白いから洗わねえで、番台を見てろよ」
「無理にひっぱり上げられて、座布団に座ると、『ちょいと、清《きよ》、お支度を……』目くばせすると、小さなちゃぶ台に酒肴の膳が運ばれてくる。『さ、なんにもないんですよ』盃洗《はいせん》の猪口《ちよこ》をとると、『あの……おひとつ、いかが?』『ありがとう存じます』と言って、酌《つ》いでもらって飲むんだが、この飲み方がむずかしいなあ。いきなりグイッと飲んじゃ『あ、この飲みっぷりだと、この男はくらいぬけ[#「くらいぬけ」に傍点]だよ』ってズドーンッと、肘鉄《ひじてつ》を食っちまわあ。といって相手が飲める口だと『あたくしはご酒のほうは……』なんて言うと『この男、お酒も飲めないなんて、話せないやつだねえ』ってんで、ズドーンと肘鉄……このかけひきてえのがむずかしいなあ。ここんとこはどっちつかずに『頂《いただ》けますれば頂きます。頂けませんければ頂きません』それじゃ乞食だよ。盃を受けてちょいと口をつけて、あと煙草かなんか吸いながら世間話でちょいとつなぎを入れるやつだ。あんまりしゃべってばかりいると、女が言うねえ『あら、さっきからお話ばかりしていらしって、お盃があかないじゃありませんか』グイッと飲んで盃洗でゆすいだやつを『へい、ご返盃』てんで、かえし酌をする。むこうが飲んでゆすいで『ご返盃』とこっちへくれるやつを、おれが飲んでゆすいでむこうへやる。むこうが飲んでおれにくれた盃を口につけようとすると、女のほうですごいことを言うよ。『兄さん、いまのお盃、ゆすいでなかったのよ。あなた、ご承知なんでしょうねえ』なんて……女がじっとおれを睨《にら》むんだが、その目の色っぽいこと……ううっ、弱ったなあ、弱ったなあ」
「なんだい? あの野郎、弱った弱ったって、ひとりでおでこを叩いて騒いでやがら……おいおい、六さん、どうしたんだ?」
「なんだい」
「鼻の頭から血が出てるぜ」
「あの野郎が変な声を出しゃあがるから、あの野郎に気をとられて、手拭だと思って軽石でこすっちゃった」
「おもしれえから、もう少し見てようじゃねえか」
「そのうちに、お互いにだんだん酔いがまわってくる。こうなると、このまま帰るのもあっけないかなあ……そうだ、雨が降ってくるなんてのはいいね、やらずの雨というやつだ。『あら、雨ですわよ、もう少し遊んでらっしゃいな。通り雨ですもの、じきやみましょうから』ところがこれがやまないよ。だんだん降りが強くなる。ここで雷かなんか鳴ってもらいたいな、少しくらい祝儀をはずんでもいいから、威勢のいいのをなあ。ガラガラガラ、ガラガラガラ、ガラガラガラッ……『清や、雷だよ。怖いから、蚊帳吊《かやつ》っておくれ』目関《めぜき》の寝ござを敷いて蚊帳を吊ると、女中は怖いからてんで、くわばらくわばら万歳楽と自分の部屋へ逃げて行ってしまう。女は蚊帳へ入ると、わたしを呼ぶね『こっちへお入んなさいな』なんてんでね……雷にどこかへ落っこちてもらおう。あんまり近くへ落っこちると、こっちも目をまわしちまうからなあ、ほどのいいところへ落ちてもらいたいねえ……ガラガラガラガラッ、ピシリッとくると、女は持ちまえの癪《しやく》てえやつで、歯をくいしばって、ムゥ……てんで気を失っちゃうねえ。『女中さん、たいへんですよ』たって気をきかせて出てこない。しょうがないから、こっちは蚊帳をくぐって、中へ入る。女を抱き起こして水をやるんだが、歯をくいしばってるから、盃洗の水をぐっと口へ含んどいて、口から口へのこの口うつしてえことになる、てへへへ、わーいッ」
「なんだおい、あの野郎、番台で踊ってるぜ」
「口うつしの水が女ののどへ通ると、女は気がつくねえ。目を細めにあけて、あたしを見てにっこり笑うんだが……そうだ、ここからのセリフは歌舞伎調でいきたいね……『もし、ねえさん、お気がつかれましたか』『はい、いまの水のうまかったこと』『いまの水がうまいとは……』『雷さまは怖《こわ》けれど、わたしがためには結ぶの神……』『それならいまのは空癪《そらじやく》か……』『うれしゅうござんす、番頭さん……』」
「なにを言ってやんでえ、ばかッ」
「あいたッ、痛いよっあなた、乱暴して……」
「なにを言ってやんでえ、おかしな声を出しやがってこの野郎、なにがうれしゅ……だ。おれは帰るんだ」
「どうぞご遠慮なくお帰りなさい」
「帰れったって、やい、おれの下駄がねえじゃねえか」
「あなた、下駄、はいてきたんですか?」
「張り倒すぞ」
「わかりましたよ。そう大きな声を出しちゃいけません。下駄があればいいんでしょ……じゃ、そこの隅の、そう本柾《ほんまさ》の、いい下駄だあ、鼻緒だって本天で、安かありませんよ。その下駄はいてお帰りなさい」
「これ、おめえの下駄か?」
「いいえ、ちがいます」
「なんだと?」
「だれかなかへ入っているお客ので」
「その客はどうするんだ?」
「ええ、いいですよ。怒りましたら順にはかせて、いちばんおしまいの人は裸足《はだし》で帰します」
「ちょっとおまえさん、どうするんだ」
「なにを?」
「なにをじゃないよ。二階の居候だよ。いつまで置いとく気なんだい」
「うん、弱ったな、居候をいつまで置くったって猫じゃねえから、はっきり日を切って置いたわけじゃねえ。まあ、あの人のおとっつぁんに、おれは昔ずいぶん世話になったからなあ。あの人が居るところがないっていうのに、見て見ぬふりもできねえじゃねえか。まあ、少しのことは我慢しなよ」
「おまえさんは世話になったかどうか知らないけれど……ほんとうにあんな無精な人はありゃあしない。一日中ああして寝たっきりなんだから、そのくせ飯時分になると二階からぬうっと降りてきて、おまんまを食べちまうと、また二階へあがって寝てしまうんだからあきれるよ。掃除もしたこたあないし、汚いったらありゃしないよ。あんまりなんにもしないから『若旦那、あなたは横のものを縦にしようともしないんですね』って言ったら、『じゃあ、その長火鉢を縦にしようか』だって、しゃくにさわるったらありゃしない。おまえさんが口をきいたのが災難のはじまり、こうやって家へひっぱって来たのはおまえさんだからいいけど、あたしゃ、ご免だよ」
「そこをなんとか我慢して、まあ、世話をしておけば、先行きまたいいこともあろうから……」
「なにがいいことがあるものかね。だってそうだろう。親身の親でさえあきれる代物《しろもの》だよ。もうご免だよ。いやだよ。どうしてもおまえがあの人を置くと言うのなら、あたしが出ていくからいいよ」
「おい、ばかなことを言うなよ。居候とかみさんととっかえこにしてどうするんだよ。じゃ、まあ、なんとか話をしよう」
「たのむよ」
「しかし、そこでおめえがふくれっ面をしていたんじゃぐわいがわるいから、隣の婆さんのところへでも行っていろ。……うちのかかあもうるせえが、なるほど二階の若旦那も若旦那だ。もう昼過ぎるってえのに、よくもこうぐうぐう寝られたもんだなあ。……もし、若旦那、おやすみですかい。ちょっと、若旦那ッ」
「へっへっ、いよいよ来ましたよ『雌鶏《めんどり》すすめて雄鶏《おんどり》時刻《とき》をつくる』ってやつだ」
「もし、若旦那ッ」
「このへんで返事をしないと気の毒だな、……なーに寝ちゃいないよ」
「起きてるんですかい?」
「起きているともつかず、寝てるともつかず……」
「どうしてるんで?」
「枕かかえて横に立ってるよ」
「なにをくだらないことを言ってるんです。ちょっと話があるんですよ。降りてきてください」
「急ぎの話か?」
「大急ぎですよ」
「じゃ、おまえが上がって来たほうが早いよ」
「無精だね、まったく。さっさと降りておいでなさい」
「いま降りるよ。うるせえなあ。ああ、いやだ。家にいる時分には、若旦那だの坊ちゃんだの……すべったころんだ言いやがった。つくづく人生居候の悲哀を感じるってえやつだな」
「なにをそこに立ってもぞもぞ言ってるんです。早く顔を洗いなさい」
「洗うよ、洗いますよ。朝起きりゃ猫でも顔を洗ってらあ、いわんや人間においてをやだ。……しかし、顔を洗うったっておもしろくないね。道楽している時分には、女の子がぬるま湯を金だらいへ汲んで、二階へ持って来てくれる。口をゆすいで、いざ顔を洗う段になると、女の子がうしろへまわって、袂《たもと》を押さえてくれるし、ものが行き届いている。それにひきかえ、ここの家はどうだい。金だらいぐらい買ったっていいじゃないか。この桶《おけ》というものは不潔きわまりない。いやなもんだね。雑巾《ぞうきん》をしぼっちゃ、またこれで顔を洗うんだからなあ。衛生のなんたるやを知らねえんだ。だいいち、この桶に顔をつっこんでると、まるで馬がなんか食ってるようじゃないか」
「なにをいつまでぐずぐず言ってるんです。早く顔を洗っちまいなさいよ」
「もう洗ったよ」
「洗ったよって、あなた、顔を拭かないんですか」
「拭きたい気持ちはあるんだけどね、このあいだ手拭《てぬぐい》を二階の手すりへかけておいたら、風で飛ばされちゃったんだ。それからというものは、顔は拭かない」
「どうするんです?」
「干すんだよ。お天気の日には乾きが早い」
「だらしがねえな。どうも……手拭をあげますから、これでお拭きなさい」
「ああ、ありがとう。やっぱり顔は干すよりも拭いたほうがいい気持ちだ。ちょっと待ってくれ」
「ぷッ、さんざ朝寝をして拝んでる。なにを拝んでるんです?」
「なにを拝む? 朝起きりゃ、今日様へご挨拶するのがあたりまえだ」
「お天道様を拝んでる?」
「そう」
「もう西へまわってますよ」
「そうか、じゃあお留守見舞いだ」
「お留守見舞いなんざいいやね。……まあ、くだらねえことを言ってないで、お茶が入ったからおあがんなさい」
「いや、ありがとう。朝、お茶を飲むってえのはいいね。朝茶はその日の災難をよけるなんてえことをいうくらいだから……さっそくいただこう……うん、だけど、もう少しいいお茶だといいんだがなあ。まずいお茶だ。これ、買ったんじゃないだろう? お葬式《とむらい》のお返しかなんかだろう? それにお茶うけがなんにもないっていうのは情けないな。せめて塩せんべいでも……」
「うるさいね、あなたは……」
「ああ、どうもごちそうさま。では、おやすみなさい」
「なんです。おやすみなさい……って、いいかげんにしなさい。じつはね、こんなことはわたしも言いたくはないんだ」
「そりゃそうでしょう。あたしも聞きたくはない」
「じゃ、話ができない」
「へへ、おやすみなさい」
「まあ、待ちなさい。……じつはね、いま、うちのかかあのやつが……」
「わかった、わかった。おまえの言わんとすることは……。さっき雌鶏がさえずった……」
「雌鶏? なんです?」
「うん、つまり、おかみさんが、わたしのことについてぐずぐず文句を言ったわけだ」
「いえ、うちのかかあのほうもわるいにはちがいないが、……ねえ、若旦那、あなたもいつまでもうちの二階でごろごろしててもしょうがありませんから、どうです、あたしはあなたのことをおもって言うんだがひとつ奉公でもしてみようなんてえ気持ちになりませんか?」
「ああ、奉公かい、いいだろう奉公もなあ。あたしがいるために、おまえがおかみさんから文句をぐずぐず言われるのでは、あたしとしてもしのびない。まあ、あたしさえいなければ、もめごともなく、まるく納まるのなら、その奉公っての、行こうよ。え? どこなんだい、その奉公先ってえのは?」
「そうですか、行きますか。場所は小伝馬町ですがね。あたしの友だちで桜湯をやってまして、奉公人が一人ほしいと言ってます。どうですか、湯屋は?」
「ほう、湯屋、女湯、あるかい?」
「そりゃ、女湯はありますよ」
「うふふふ、行こう、行こうよ」
「じゃ、手紙を書きますから、それを持ってらっしゃい」
「そうかい、じゃあ行ってみよう。おまえの家にもずいぶん世話になったな」
「いえ、まあお世話てえほどのことはできませんでした」
「ああ、そりゃまあそうだが」
「なんだい、ごあいさつですねえ。……まあお辛《つら》いでしょうが、ひとつご辛抱なすって……またお店のほうへはわたしが行って、大旦那に会ってよく話をしておきますから」
「ああ、わかったよ。おかみさんによろしく言っとくれ。そうだ、世話になったお礼といっちゃなんだが、おまえの家へなにか礼をしたいなあ」
「礼なんざいりません」
「いや、なにか礼をしたいね。そうだ、どうだい、十円札の一枚もやろうか」
「若旦那、そんな金持ってるんですか?」
「いや持ってないから、気持ちだけ受けとって……そのうちの五円をあたしにおくれ」
「ばかなことを言っちゃいけませんよ」
「じゃまあ、行ってくるよ。……いやまあどうもあの鳶頭《かしら》も人はいいんだが、かみさんに頭《あたま》があがらない。……しかし、どうも人間の運なんてわからねえもんだ。昨日まで芸者、幇間《たいこもち》にとり囲まれて『あらまあちょいと、おにいさん』かなんか言われていたやつが、おやじのお冠《かんむり》が曲がって、出入りの鳶頭の家へ居候。今日からまたお湯屋奉公しようとは、お釈迦さまでも気がつくめえってやつよ。……ああ、ここだ、ここだ、桜湯は……こんちは」
「いらっしゃい。あ、あなた、あなた、そっちは女湯ですよ」
「えへへ、わたし、女湯、大好き」
「好きだっていけませんよ。どうぞ、こちらへ回ってください」
「いえ、客じゃありません。こちらへひとつ、今日からご厄介になりたいんですが」
「ご厄介?」
「ええ、橘《たちばな》町の鳶頭《かしら》から、手紙を持ってきたんでねえ」
「ああ、手紙を……橘町の鳶頭から、ああ、話はありました。しかし、この手紙によると、あなた、名代の道楽者だっていうが……」
「えへへ、別に名代の道楽者ってえほどのことはない。ただ女の子にまわりを取り巻かれて『あらおにいさん、いやよゥ、そんなところさわっちゃ、くすぐったいわッ』なんてね……えっへへへ、そういうことが好きなだけで……」
「たいへんな人が来たな。さあ、辛抱できるかな? では、はじめのうちは外廻りからやってもらいましょうか」
「ようッ結構、さっそくやらせてもらいましょうか」
「若い人は、たいていいやがるがねえ」
「いいえ、どういたしまして、あたしは外廻りが得意で……ええ、札束を懐中《ふところ》へ入れて、きれいどころ[#「きれいどころ」に傍点]を二、三人お供に連れて、温泉場廻りをしてくるという……」
「そんな外廻りがあるもんか。外廻りというのは、車をひっぱって、方々の普請場へ行って、木屑だの鉋《かんな》っ屑だのを拾ってくるんだ」
「ああ、あれですか? がっかりさせるなあ、どうも……ありゃいけないよ。色っぽくないもの。汚《きたな》い車をひいて、汚い絆纏《はんてん》に縄の帯、汚い股引《ももひき》に、汚い手拭の頬被り。汚い草履をつっかけて……、ご免こうむりましょう。あんまり音羽屋のやらない役だ」
「ぜいたくを言っちゃいけない。そんなことを言ったら、あとはやることなんかありゃしないよ」
「ではどうです? 流しやりましょう。女湯専門の三助ということで……」
「女湯専門なんてのがあるもんか。流しだってむずかしいんだよ。ただ客の肩へつかまってりゃあいいってもんじゃないんだから、とても一年や二年じゃあものにならないな」
「そうですか? では、その番台はどうです? 番台なら見えるでしょ?」
「見える? なにが?」
「なにが……だなんてしらばっくれて、ひとりで見ていて……ずるいぞ」
「弱ったな、この男は……ここは、なにしろあたしか家内のほかはあがらないところなんだから……しかし、まあ、あなたは身元がわかっているから、じゃ、こうしましょう、仕事のことはあとでゆっくり相談するとして、わたしがご飯《ぜん》を食べてくる間、ちょっとだけ、かわりに番台へ座っておくれ」
「番台、結構、ぜひ一度あがってみたいとかねがねおもっておりました」
「待ちな待ちな、あたしが降りなきゃだめだ」
「へえ、そうと決まれば……さあ、早く降りてください、早く、早く」
「まちがいのないようにしっかり頼みますよ。番台は見てりゃわけないようだが、なかなかむずかしい。昼間はたいしたことはないが、夜分は目のまわるほど忙しくなる。それからね、糠《ぬか》といったら、その後《うしろ》の棚に箱があるから、糠袋もそこにある。流しは男湯が一つで女湯が二つ、拍子柝《ひようしたく》を叩《たた》いてくれ、履物に気をつけてな、新しい下駄でも盗《と》られると、買って返すったってたいへんだから」
「へえ、へえ……行ってらっしゃい、ゆっくりと召しあがってらっしゃい。ふっ、ありがてえ、いっぺんここへあがってしみじみとながめたいとおもってたんだが……ええ、こちらは……男湯、入ってるねえ、一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人……ふーん、七尻ならんでるよ。あの三番目のは……すごい毛だなあ、たまには刈りこんだらいいのになあ、なんてえ汚《きたな》え尻をしてるんだ。あれがふけつ[#「ふけつ」に傍点]てんだ。こっちのやつは、またむやみにやせてるなあ、胸なんかまるでブリキの湯たんぽだ。しゃものガラだよ……いやだなあ、男とつきあいたくないね。男なんざあ昼間から湯へ入ってみがいてみたところでどうなるってんだよ。こいつらが出ちゃったら、入り口を釘づけにして男を入れるのをやめて女湯専門の湯屋にしちまおう。さて……と、問題の……女湯……なんだ、ひとりも入ってねえてのは、ひどいね。それがたのしみで湯屋奉公に来たてえのに、こっちは……でもこうやっているうちに、いまに女湯もこんでくるよ。『まあ、こんどきた番頭さんはほんとうに粋な人じゃないの』なんてんで……おれを見染める女がでてくるよ。こうなると……どういう女がいいかなあ、堅気の娘はいけないね。別れるときに、死ぬの、生きるのと事《こと》が面倒になるからなあ。といって、乳母や子守っ娘《こ》はこっちでご免こうむるし……主《ぬし》ある女は罪になっていけないし……さあ……そうなるといないねえ、芸者衆なんぞも悪くないけど……そうだ、お囲い者てえのがいいや、旦那はたま[#「たま」に傍点]にしか来ない、そういうのになると、湯へ来るのも一人じゃ来ないよ。女中に浴衣を持たして、甲の薄い吾妻下駄かなんかはいてね。カラコンカラコン……『へい、いらっしゃいまし、ありがとうございます。新参の番頭で、どうぞ、よろしく』番台をチラリと横目で見て、スーッと隅のほうへ行ってしまう。といってわたしが嫌いじゃない。女中とこそこそ話をしながら、ときどき番台のほうを見るのが嫌いじゃない証拠ってやつだ。しかし、ここが思案のしどころで、むやみにニヤニヤしちゃいけないよ。なんてにやけていやな男だろうなんて言われないとも限らないからなあ、かといって、まるっきり知らん顔もできないから、二三度来るうちに、女中に糠袋のひとつもやって取り入るよ。『まあ、すいませんねえ、たまにはお遊びに……』とくりゃしめたもんだ。さっそく遊びに行って、お家を横領して……糠袋一つでお家を横領ってわけにはいかないかな。なにかいいきっかけはないかしら……うーん、そうだ。うまいぐあいに釜が毀《こわ》れて体があく。そこの家の前を知らずに通りかかるなんてのがいいな。わたしの足に女中の撒《ま》いた水がかかる。『あれッ、ごめんなさい』と、顔を見るとわたしだから『まあ、お湯屋《ぶや》のお兄さんじゃありませんか』『おや、お宅はこちらでしたか』『ねえさん、お湯屋の兄さんが……』と奥へ声をかけると、ふだんから思いこがれていた男だから、奥からこう泳ぐようにして出てくるねえ。『まあまあまあ、よく来てくださったわねえ』『いえ、今日はわざわざ来たわけじゃございません。お門《かど》を知らずに通りましたので……』『まあいいじゃありませんの、それに今日はお休みなんでしょ』『はい、今日は釜が毀れて早じまい』……いいセリフじゃねえなあ、こりゃなあ……なんかねえか。そうそう墓詣りなんぞいいなあ。『まあ、お若いのに感心なこと』こういう方は女にもさぞかし実があるだろう……てんで二度惚れてえやつ。『いいじゃありませんの、さあお上がりなさいましよ』『お家をおぼえましたから、いずれまた』『なんですねえ。そんなに遠慮なすって……あたしと女中と二人っきり、だれもいないんですから、いいでしょ、ちょっとぐらいお上がんなさいましよ』『いえ、後日あらためまして』女は行かれちゃ困るから、わたしの手を掴《つか》んで離さないよ。『ねえ、あなた、お上がり遊ばせよ』『いや、そのうちに』『お上がりったら』『いいえ、また』『お上がり』『いいえ』『お上がりッ』」
「えっ? あの番台の野郎だよ。見てごらんよ。お上がり、お上がりって、湯から上がれてえのかとおもったらね、てめえの手をてめえで一所懸命ひっぱってるぜ。おい、おかしなやつが番台へ上がりやがった」
「面白いから洗わねえで、番台を見てろよ」
「無理にひっぱり上げられて、座布団に座ると、『ちょいと、清《きよ》、お支度を……』目くばせすると、小さなちゃぶ台に酒肴の膳が運ばれてくる。『さ、なんにもないんですよ』盃洗《はいせん》の猪口《ちよこ》をとると、『あの……おひとつ、いかが?』『ありがとう存じます』と言って、酌《つ》いでもらって飲むんだが、この飲み方がむずかしいなあ。いきなりグイッと飲んじゃ『あ、この飲みっぷりだと、この男はくらいぬけ[#「くらいぬけ」に傍点]だよ』ってズドーンッと、肘鉄《ひじてつ》を食っちまわあ。といって相手が飲める口だと『あたくしはご酒のほうは……』なんて言うと『この男、お酒も飲めないなんて、話せないやつだねえ』ってんで、ズドーンと肘鉄……このかけひきてえのがむずかしいなあ。ここんとこはどっちつかずに『頂《いただ》けますれば頂きます。頂けませんければ頂きません』それじゃ乞食だよ。盃を受けてちょいと口をつけて、あと煙草かなんか吸いながら世間話でちょいとつなぎを入れるやつだ。あんまりしゃべってばかりいると、女が言うねえ『あら、さっきからお話ばかりしていらしって、お盃があかないじゃありませんか』グイッと飲んで盃洗でゆすいだやつを『へい、ご返盃』てんで、かえし酌をする。むこうが飲んでゆすいで『ご返盃』とこっちへくれるやつを、おれが飲んでゆすいでむこうへやる。むこうが飲んでおれにくれた盃を口につけようとすると、女のほうですごいことを言うよ。『兄さん、いまのお盃、ゆすいでなかったのよ。あなた、ご承知なんでしょうねえ』なんて……女がじっとおれを睨《にら》むんだが、その目の色っぽいこと……ううっ、弱ったなあ、弱ったなあ」
「なんだい? あの野郎、弱った弱ったって、ひとりでおでこを叩いて騒いでやがら……おいおい、六さん、どうしたんだ?」
「なんだい」
「鼻の頭から血が出てるぜ」
「あの野郎が変な声を出しゃあがるから、あの野郎に気をとられて、手拭だと思って軽石でこすっちゃった」
「おもしれえから、もう少し見てようじゃねえか」
「そのうちに、お互いにだんだん酔いがまわってくる。こうなると、このまま帰るのもあっけないかなあ……そうだ、雨が降ってくるなんてのはいいね、やらずの雨というやつだ。『あら、雨ですわよ、もう少し遊んでらっしゃいな。通り雨ですもの、じきやみましょうから』ところがこれがやまないよ。だんだん降りが強くなる。ここで雷かなんか鳴ってもらいたいな、少しくらい祝儀をはずんでもいいから、威勢のいいのをなあ。ガラガラガラ、ガラガラガラ、ガラガラガラッ……『清や、雷だよ。怖いから、蚊帳吊《かやつ》っておくれ』目関《めぜき》の寝ござを敷いて蚊帳を吊ると、女中は怖いからてんで、くわばらくわばら万歳楽と自分の部屋へ逃げて行ってしまう。女は蚊帳へ入ると、わたしを呼ぶね『こっちへお入んなさいな』なんてんでね……雷にどこかへ落っこちてもらおう。あんまり近くへ落っこちると、こっちも目をまわしちまうからなあ、ほどのいいところへ落ちてもらいたいねえ……ガラガラガラガラッ、ピシリッとくると、女は持ちまえの癪《しやく》てえやつで、歯をくいしばって、ムゥ……てんで気を失っちゃうねえ。『女中さん、たいへんですよ』たって気をきかせて出てこない。しょうがないから、こっちは蚊帳をくぐって、中へ入る。女を抱き起こして水をやるんだが、歯をくいしばってるから、盃洗の水をぐっと口へ含んどいて、口から口へのこの口うつしてえことになる、てへへへ、わーいッ」
「なんだおい、あの野郎、番台で踊ってるぜ」
「口うつしの水が女ののどへ通ると、女は気がつくねえ。目を細めにあけて、あたしを見てにっこり笑うんだが……そうだ、ここからのセリフは歌舞伎調でいきたいね……『もし、ねえさん、お気がつかれましたか』『はい、いまの水のうまかったこと』『いまの水がうまいとは……』『雷さまは怖《こわ》けれど、わたしがためには結ぶの神……』『それならいまのは空癪《そらじやく》か……』『うれしゅうござんす、番頭さん……』」
「なにを言ってやんでえ、ばかッ」
「あいたッ、痛いよっあなた、乱暴して……」
「なにを言ってやんでえ、おかしな声を出しやがってこの野郎、なにがうれしゅ……だ。おれは帰るんだ」
「どうぞご遠慮なくお帰りなさい」
「帰れったって、やい、おれの下駄がねえじゃねえか」
「あなた、下駄、はいてきたんですか?」
「張り倒すぞ」
「わかりましたよ。そう大きな声を出しちゃいけません。下駄があればいいんでしょ……じゃ、そこの隅の、そう本柾《ほんまさ》の、いい下駄だあ、鼻緒だって本天で、安かありませんよ。その下駄はいてお帰りなさい」
「これ、おめえの下駄か?」
「いいえ、ちがいます」
「なんだと?」
「だれかなかへ入っているお客ので」
「その客はどうするんだ?」
「ええ、いいですよ。怒りましたら順にはかせて、いちばんおしまいの人は裸足《はだし》で帰します」