三方一両損
「そのころの、江戸の町民たちの暮しは、貧富の差なく、特別の災害をうけぬかぎり、まことに暮しよかったのではあるまいか。
幕府の町政は融通《ゆうずう》がきいていて、白でなければ黒ときめつけるようなことは、みじんもなく、それがまた町民の生活へ敏感に反映したのである。
清明な、いさぎよい、自分を押しつけることなく、つつましやかに、日々を生き生きとすごすことを江戸人《えどびと》は念願とした」
——と池波正太郎著「江戸古地図散歩——回想の下町」にある。
「あれっ、こんなところに財布が落ちてるぞ。なかには……と、あれっ、三両も入《へえ》ってるぜ。こいつは面倒なことになっちまったなあ……それに、印形《いんぎよう》に書付けが入《へえ》ってるぜ。なんだ……神田|竪《たて》大工町大工熊五郎……こいつが落としやがったんだ。まぬけな野郎じゃねえか。まあ、とにかく届けてやんなくちゃあ……」
「ごめんよおッ」
「いらっしゃいまし、煙草はなにを?」
「なにを? だれが煙草買うって言った。大工の熊五郎てえやつの家はどこだ? この辺は竪大工町だな?」
「ああ、熊五郎さんの家をおたずねでございますか?」
「じれってえなあ、そうだよ」
「これへ行きますと八百屋があります。その路地を曲がりますと、長屋の腰障子に熊と書いた家があります。そこが大工の熊五郎さんの家ですから……」
「そのくらい知ってやがって早く教えろい、まぬけえ……ありがとよ」
「なんだい、あの人は……」
「ああ、ここだ、ここだ。この家かあ。腰障子に熊としてあらあ。いやに煙ってえじゃねえか。なにしてるんだ? 障子に穴あけてのぞいてみるか……ああ、あれが熊五郎って野郎だな。ふーん、一杯《いつぺえ》やってるな、鰯《いわし》の塩焼きで飲んでやがら、飲むんならもっとさっぱりしたもんで飲めッ」
「だれだ? ひとの家の障子を破きやがって、家の中のぞいてんのァ。用があんならこっちへ入《へえ》れッ」
「あたりめえよ。用がなけりゃあこんな汚え長屋へ入って来るかい。じゃあ開けるぜ」
「乱暴な野郎が来やがった……なんだ、てめえは?」
「おれは、白壁町の左官の金太郎てえもんだ」
「金太郎にしちゃ赤くねえな」
「まだ茹《う》でねえ」
「なまでもって来やがったな。なにか用かい」
「おめえ、きょう、柳原で財布を落っことしたろう?」
「おいおい、しっかりしろよ。柳原で落っことしたとわかってりゃあ、すぐに自分で拾うじゃねえか、どこで落としたかわかるけえ」
「たしかにてめえのにちげえねえ……おれが拾ったんだ。さあ、なかをあらためて受けとれ」
「冗談言うない、べらぼうめ。お節介な真似をするじゃねえか……なるほど、こいつぁおれの財布だ」
「まちげえねえな」
「ねえ」
「じゃあ、おめえに返すぜ。あばよ」
「おい、待ちな、金太郎」
「心やすく呼ぶねえ……なんだ?」
「印形《いんぎよう》と書付けは、大事なものだからもらっとくが、銭はいったんおれの懐中《ふところ》から出たもんだ。銭はおれのもんじゃねえから、返すぜ」
「わからねえ野郎だな。おれは銭なんかもらいに来たんじゃねえぞ、その財布を届けに来ただけだ」
「だから、印形と書付けはありがたく受けとっておくが、銭はおれのじゃねえから、持ってけてえんだ」
「ふざけるねえ。てめえの銭と知れてるものを、おれが持っていけるけえ」
「持ってかねえのか? ためにならねえぞ」
「てめえの銭なんざもらってく弱い尻《しり》はねえんだい」
「どうしても持っていかねえのか? 人が静かに言ってるうちに持ってかねえと、どうなるか、この野郎っ」
「この野郎? おらあ、てめえなんぞにおどかされておどろくような、そんなどじ[#「どじ」に傍点]じゃねえやいっ」
「なんだと? この野郎、まごまごしやがると、ひっぱたくぞ」
「おもしれえ、財布を届けてやってひっぱたかれてたまるもんか。殴れるもんなら殴ってみろ」
「よし、おあつらえなら殴ってやらあ」
「……あッ、痛え、やりゃあがったな。こん畜生」
「やったが、どうした?」
「こうしてやらあ」
「なにをしやがる」
「なにを、この野郎っ」
ふたりで、とっくみあいの喧嘩になったから、おどろいたのは隣の家で……。
「家主《おおや》さん、家主さん、熊んところでまた喧嘩がはじまった。壁へドシン、ドシンぶつかって暴れるんで壁がぬけそうだ。早くとめてやってくんねえ」
「しょうがねえなあ。またかい……ああ喧嘩の好きなやつもねえもんだ、のべつだねえ……まったく……あっ、やってる、やってる。相手の若いのも威勢がいいや。あ、鰯を踏みつぶしやがった。もったいねえじゃねえか。まだろくに箸《はし》もつけてねえのに……」
「家主さん、鰯なんかどうでもいいから、早くとめなくちゃあ」
「やい、熊公っ、いいかげんにしろよ。おめえはかまわねえが隣近所が迷惑するよ。壁がぬけるってんで隣じゃ手でおさえて、仕事ができねえじゃないか……また、おまえさんもおまえさんだ。どこの人か知らねえけど、おれの長屋へ来てむやみに喧嘩しちゃあ困るな」
「なんだと? おれだってなにも好きこのんでこの長屋へ入《へえ》ってきて喧嘩してるわけじゃねえやい。こいつが落っことした財布を届けてやったら、この野郎がいきなりひっぱたいたから、こういうことになったんじゃねえか」
「そうだったのかい。そりゃどうもすまなかった……やい、熊公、てめえはなんでそんなことをするんだい、この人が親切に届けてくれたのに……」
「いったんおれの懐中から出た銭だ。そんな銭を受けとれるかい」
「そりゃなあ、おめえの了見じゃ、受けとれねえだろうけれど、この人がわざわざ届けに来てくれたんだから、一応受けとっといて、後日、手みやげのひとつも持って礼にいくのが道じゃねえか。それを殴ったりしやがって……この人にあやまれ」
「よけいな世話ァ焼くねえ。糞ったれ家主」
「なんだと?」
「やい、家主から叱言《こごと》をくらって、へえそうですかと、指をくわえてひっこんでいるような、お兄《あに》いさんとお兄いさんのできがちがうんだ、こちとらあ。いいか、自慢じゃあねえが、晦日《みそか》に持ってく店賃は、いつだって二十八日にきちんきちんと届けてらあ。それほどおれはおめえに義理を立ててるのに、てめえはなんだい、盆が来たって正月が来たって、鼻っ紙一枚くれたことがあるか。てめえなんぞにぐずぐず言われるこたあねえ」
「たいへんなことを言やがったね、こいつは……ねえ、そこの方、こういう乱暴な男ですよ。こういうやつはくせになるから、南町奉行大岡越前さまへ訴え出て、お白洲《しらす》の上であやまらせるから、今日のところは腹も立とうが、わしの顔を立てて、まあ、帰ってください」
「そうと話がきまりゃあ帰るけど、やい、熊公、おぼえてろッ」
「ああ、忘れるもんか。おれは二十八で耄碌《もうろく》しちゃいねえんだ。てめえのつまんねえ面《つら》ァ忘れるわけがねえ。くやしかったらいつでも仕返ししろい。矢でも鉄砲でも持ってこいッ」
「てめえなんぞ、矢だの鉄砲だのいるもんか。このげんこつでたくさんだ」
「なにをッ」
「またはじまった」
「ごめんよおッ」
「いらっしゃいまし、煙草はなにを?」
「なにを? だれが煙草買うって言った。大工の熊五郎てえやつの家はどこだ? この辺は竪大工町だな?」
「ああ、熊五郎さんの家をおたずねでございますか?」
「じれってえなあ、そうだよ」
「これへ行きますと八百屋があります。その路地を曲がりますと、長屋の腰障子に熊と書いた家があります。そこが大工の熊五郎さんの家ですから……」
「そのくらい知ってやがって早く教えろい、まぬけえ……ありがとよ」
「なんだい、あの人は……」
「ああ、ここだ、ここだ。この家かあ。腰障子に熊としてあらあ。いやに煙ってえじゃねえか。なにしてるんだ? 障子に穴あけてのぞいてみるか……ああ、あれが熊五郎って野郎だな。ふーん、一杯《いつぺえ》やってるな、鰯《いわし》の塩焼きで飲んでやがら、飲むんならもっとさっぱりしたもんで飲めッ」
「だれだ? ひとの家の障子を破きやがって、家の中のぞいてんのァ。用があんならこっちへ入《へえ》れッ」
「あたりめえよ。用がなけりゃあこんな汚え長屋へ入って来るかい。じゃあ開けるぜ」
「乱暴な野郎が来やがった……なんだ、てめえは?」
「おれは、白壁町の左官の金太郎てえもんだ」
「金太郎にしちゃ赤くねえな」
「まだ茹《う》でねえ」
「なまでもって来やがったな。なにか用かい」
「おめえ、きょう、柳原で財布を落っことしたろう?」
「おいおい、しっかりしろよ。柳原で落っことしたとわかってりゃあ、すぐに自分で拾うじゃねえか、どこで落としたかわかるけえ」
「たしかにてめえのにちげえねえ……おれが拾ったんだ。さあ、なかをあらためて受けとれ」
「冗談言うない、べらぼうめ。お節介な真似をするじゃねえか……なるほど、こいつぁおれの財布だ」
「まちげえねえな」
「ねえ」
「じゃあ、おめえに返すぜ。あばよ」
「おい、待ちな、金太郎」
「心やすく呼ぶねえ……なんだ?」
「印形《いんぎよう》と書付けは、大事なものだからもらっとくが、銭はいったんおれの懐中《ふところ》から出たもんだ。銭はおれのもんじゃねえから、返すぜ」
「わからねえ野郎だな。おれは銭なんかもらいに来たんじゃねえぞ、その財布を届けに来ただけだ」
「だから、印形と書付けはありがたく受けとっておくが、銭はおれのじゃねえから、持ってけてえんだ」
「ふざけるねえ。てめえの銭と知れてるものを、おれが持っていけるけえ」
「持ってかねえのか? ためにならねえぞ」
「てめえの銭なんざもらってく弱い尻《しり》はねえんだい」
「どうしても持っていかねえのか? 人が静かに言ってるうちに持ってかねえと、どうなるか、この野郎っ」
「この野郎? おらあ、てめえなんぞにおどかされておどろくような、そんなどじ[#「どじ」に傍点]じゃねえやいっ」
「なんだと? この野郎、まごまごしやがると、ひっぱたくぞ」
「おもしれえ、財布を届けてやってひっぱたかれてたまるもんか。殴れるもんなら殴ってみろ」
「よし、おあつらえなら殴ってやらあ」
「……あッ、痛え、やりゃあがったな。こん畜生」
「やったが、どうした?」
「こうしてやらあ」
「なにをしやがる」
「なにを、この野郎っ」
ふたりで、とっくみあいの喧嘩になったから、おどろいたのは隣の家で……。
「家主《おおや》さん、家主さん、熊んところでまた喧嘩がはじまった。壁へドシン、ドシンぶつかって暴れるんで壁がぬけそうだ。早くとめてやってくんねえ」
「しょうがねえなあ。またかい……ああ喧嘩の好きなやつもねえもんだ、のべつだねえ……まったく……あっ、やってる、やってる。相手の若いのも威勢がいいや。あ、鰯を踏みつぶしやがった。もったいねえじゃねえか。まだろくに箸《はし》もつけてねえのに……」
「家主さん、鰯なんかどうでもいいから、早くとめなくちゃあ」
「やい、熊公っ、いいかげんにしろよ。おめえはかまわねえが隣近所が迷惑するよ。壁がぬけるってんで隣じゃ手でおさえて、仕事ができねえじゃないか……また、おまえさんもおまえさんだ。どこの人か知らねえけど、おれの長屋へ来てむやみに喧嘩しちゃあ困るな」
「なんだと? おれだってなにも好きこのんでこの長屋へ入《へえ》ってきて喧嘩してるわけじゃねえやい。こいつが落っことした財布を届けてやったら、この野郎がいきなりひっぱたいたから、こういうことになったんじゃねえか」
「そうだったのかい。そりゃどうもすまなかった……やい、熊公、てめえはなんでそんなことをするんだい、この人が親切に届けてくれたのに……」
「いったんおれの懐中から出た銭だ。そんな銭を受けとれるかい」
「そりゃなあ、おめえの了見じゃ、受けとれねえだろうけれど、この人がわざわざ届けに来てくれたんだから、一応受けとっといて、後日、手みやげのひとつも持って礼にいくのが道じゃねえか。それを殴ったりしやがって……この人にあやまれ」
「よけいな世話ァ焼くねえ。糞ったれ家主」
「なんだと?」
「やい、家主から叱言《こごと》をくらって、へえそうですかと、指をくわえてひっこんでいるような、お兄《あに》いさんとお兄いさんのできがちがうんだ、こちとらあ。いいか、自慢じゃあねえが、晦日《みそか》に持ってく店賃は、いつだって二十八日にきちんきちんと届けてらあ。それほどおれはおめえに義理を立ててるのに、てめえはなんだい、盆が来たって正月が来たって、鼻っ紙一枚くれたことがあるか。てめえなんぞにぐずぐず言われるこたあねえ」
「たいへんなことを言やがったね、こいつは……ねえ、そこの方、こういう乱暴な男ですよ。こういうやつはくせになるから、南町奉行大岡越前さまへ訴え出て、お白洲《しらす》の上であやまらせるから、今日のところは腹も立とうが、わしの顔を立てて、まあ、帰ってください」
「そうと話がきまりゃあ帰るけど、やい、熊公、おぼえてろッ」
「ああ、忘れるもんか。おれは二十八で耄碌《もうろく》しちゃいねえんだ。てめえのつまんねえ面《つら》ァ忘れるわけがねえ。くやしかったらいつでも仕返ししろい。矢でも鉄砲でも持ってこいッ」
「てめえなんぞ、矢だの鉄砲だのいるもんか。このげんこつでたくさんだ」
「なにをッ」
「またはじまった」
「おい金太、なにをぼんやり歩いてるんだい?」
「あっ、家主さん、いま喧嘩をしてきたもんですから……」
「喧嘩をした? えらいっ、よくやった。さすが江戸っ子だ。威勢がいい、喧嘩をするような了見でなけりゃ出世はできねえ。どこでやったんだ?」
「なにね、柳原を歩いていたら財布拾っちゃったんだ」
「なんだって、そんなどじ[#「どじ」に傍点]なことをするんだ」
「しかたがねえけど、下駄へひっかかっちゃったんだ」
「そんなささくれてる下駄を履いてるから、そんな目にあうんだ」
「中をあらためると、金が三両と、印形に書付けが入《へえ》ってたから、そいから、そいつンところへ届けてやったんだ」
「えらいっ、いいことをした。向こうじゃよろこんだろう?」
「それが、怒りやがった」
「どうして?」
「『印形と書付けはもらっておくが、銭はおれのもんじゃねえから持ってけ、持ってかねえとためにならねえぞ』って言いやがるんで……」
「おかしな野郎じゃねえか」
「ですからね、『おりゃ、てめえの銭なんざもらってく弱い尻はねえ』って言ってやった」
「そうだとも」
「すると『この野郎、まごまごしやぁがると、ひっぱたくぞ』とぬかしやがるんで……」
「乱暴なやつだなあ」
「そいから、あっしゃあね、『殴れるもんなら殴ってみろ』と言うと、『よし、おあつらえなら殴ってやらあ』ってんで、ポカリときやがった」
「まさか殴られやしめえな」
「パッとうけた」
「どこで?」
「頭で」
「なんだ、それじゃあ殴られたんじゃねえか。だらしがねえ」
「そのかわりあっしもくやしいから、いきなりとびこんでって、鰯《いわし》を三匹踏みつぶした」
「しまらねえ喧嘩だな。で、どうした?」
「壁へドシン、ドシンぶつかったもんだから、隣のやつが家主を呼んできやがった……あっしがわけを話すと、さすがは家主ですねえ。その熊ってえ野郎に叱言を言いました。『そりゃなあ、おめえの了見じゃ、受けとれねえだろうけど、この人がわざわざ届けにきてくれたんだから、一応受けとっといて、後日、手みやげのひとつも持って礼にいくのが道じゃねえか。それを殴ったりしやがって……この人にあやまれ』って言いますとね、その熊てえ野郎が家主へむかってタンカを切ったんですが、じつに敵ながらあっぱれなタンカで、おりゃ感心した」
「あれっ、殴られて、感心してやがる」
「『よけいな世話ァ焼くねえ。糞ったれ家主。やい、家主から叱言をくらって、へえそうですかと、指をくわえてひっこんでいるような、お兄《あに》いさんとお兄いさんのできがちがうんだ、こちとらあ。いいか、自慢じゃあねえが、晦日《みそか》に持ってく店賃は、いつだって二十八日にきちんきちんと届けてらあ。それほどおれはおめえに義理を立ててるのに、てめえはなんだい。盆が来たって正月が来たって、鼻っ紙一枚くれたことがあるか』ってタンカ切ったんだけど、どこの家主もおんなじだと思いました。えへへへ」
「いやなことを言うない」
「すると家主が、『こういうやつはくせになるから、南町奉行大岡越前さまへ訴え出て、お白洲の上であやまらせるから、今日のところは腹も立とうが、わたしの顔を立ててまあ、帰ってください』てえことになったから、それで、あっしも我慢して、そのまま帰ってきた……というわけなんで……」
「おう、そうか、それで、てめえはいいのか?」
「いいにもわるいにも、向こうの家主の顔を立てて……」
「よし、むこうの家主の顔は立った。しかし、おれの顔はどうして立てる?」
「なるほど、立てにくい顔だ、丸顔で……」
「なにを言ってやんでえ。おまえはうちの店子《たなこ》だよ。店子といえば子も同然、家主といえば親も同然というくらいだ。その親の家主の顔はどこで立てる? 訴えられるのを待ってるこたあねえ。こっちから逆に訴えてやれ……よし、これから、願書《がんしよ》を書くんだ」
「なんだい、願書てえなあ」
「字を書くんだよ」
「そんなみっともねえこと知らねえ」
「じゃあ、硯《すずり》を持ってこい。おれが書いてやるから……さあ、できた。こいつを持って訴えてこいっ」
「あっ、家主さん、いま喧嘩をしてきたもんですから……」
「喧嘩をした? えらいっ、よくやった。さすが江戸っ子だ。威勢がいい、喧嘩をするような了見でなけりゃ出世はできねえ。どこでやったんだ?」
「なにね、柳原を歩いていたら財布拾っちゃったんだ」
「なんだって、そんなどじ[#「どじ」に傍点]なことをするんだ」
「しかたがねえけど、下駄へひっかかっちゃったんだ」
「そんなささくれてる下駄を履いてるから、そんな目にあうんだ」
「中をあらためると、金が三両と、印形に書付けが入《へえ》ってたから、そいから、そいつンところへ届けてやったんだ」
「えらいっ、いいことをした。向こうじゃよろこんだろう?」
「それが、怒りやがった」
「どうして?」
「『印形と書付けはもらっておくが、銭はおれのもんじゃねえから持ってけ、持ってかねえとためにならねえぞ』って言いやがるんで……」
「おかしな野郎じゃねえか」
「ですからね、『おりゃ、てめえの銭なんざもらってく弱い尻はねえ』って言ってやった」
「そうだとも」
「すると『この野郎、まごまごしやぁがると、ひっぱたくぞ』とぬかしやがるんで……」
「乱暴なやつだなあ」
「そいから、あっしゃあね、『殴れるもんなら殴ってみろ』と言うと、『よし、おあつらえなら殴ってやらあ』ってんで、ポカリときやがった」
「まさか殴られやしめえな」
「パッとうけた」
「どこで?」
「頭で」
「なんだ、それじゃあ殴られたんじゃねえか。だらしがねえ」
「そのかわりあっしもくやしいから、いきなりとびこんでって、鰯《いわし》を三匹踏みつぶした」
「しまらねえ喧嘩だな。で、どうした?」
「壁へドシン、ドシンぶつかったもんだから、隣のやつが家主を呼んできやがった……あっしがわけを話すと、さすがは家主ですねえ。その熊ってえ野郎に叱言を言いました。『そりゃなあ、おめえの了見じゃ、受けとれねえだろうけど、この人がわざわざ届けにきてくれたんだから、一応受けとっといて、後日、手みやげのひとつも持って礼にいくのが道じゃねえか。それを殴ったりしやがって……この人にあやまれ』って言いますとね、その熊てえ野郎が家主へむかってタンカを切ったんですが、じつに敵ながらあっぱれなタンカで、おりゃ感心した」
「あれっ、殴られて、感心してやがる」
「『よけいな世話ァ焼くねえ。糞ったれ家主。やい、家主から叱言をくらって、へえそうですかと、指をくわえてひっこんでいるような、お兄《あに》いさんとお兄いさんのできがちがうんだ、こちとらあ。いいか、自慢じゃあねえが、晦日《みそか》に持ってく店賃は、いつだって二十八日にきちんきちんと届けてらあ。それほどおれはおめえに義理を立ててるのに、てめえはなんだい。盆が来たって正月が来たって、鼻っ紙一枚くれたことがあるか』ってタンカ切ったんだけど、どこの家主もおんなじだと思いました。えへへへ」
「いやなことを言うない」
「すると家主が、『こういうやつはくせになるから、南町奉行大岡越前さまへ訴え出て、お白洲の上であやまらせるから、今日のところは腹も立とうが、わたしの顔を立ててまあ、帰ってください』てえことになったから、それで、あっしも我慢して、そのまま帰ってきた……というわけなんで……」
「おう、そうか、それで、てめえはいいのか?」
「いいにもわるいにも、向こうの家主の顔を立てて……」
「よし、むこうの家主の顔は立った。しかし、おれの顔はどうして立てる?」
「なるほど、立てにくい顔だ、丸顔で……」
「なにを言ってやんでえ。おまえはうちの店子《たなこ》だよ。店子といえば子も同然、家主といえば親も同然というくらいだ。その親の家主の顔はどこで立てる? 訴えられるのを待ってるこたあねえ。こっちから逆に訴えてやれ……よし、これから、願書《がんしよ》を書くんだ」
「なんだい、願書てえなあ」
「字を書くんだよ」
「そんなみっともねえこと知らねえ」
「じゃあ、硯《すずり》を持ってこい。おれが書いてやるから……さあ、できた。こいつを持って訴えてこいっ」
双方から南町奉行に訴えが出た。やがて、差し紙がついて、お呼び出しということになる。当日は家主が付き添って、ずらりとお白洲へならぶ。
正面をみますと、紗綾形《さやがた》の襖《ふすま》。右手に公用人《こうようにん》左手に目安|方《かた》。縁の下には同心衆が控えている。
「シーッ、シーッ……」
「だれか白洲で赤ん坊に小便さしてる? ねえ、家主さんッ」
「いま、お奉行の大岡越前守さまがこれへお出ましになるんだ、頭を下げろ、頭を……」
「頭を下げんのかい? だから、こんなところへ来るのはいやだったんだ」
「神田竪大工町大工熊五郎、おなじく白壁町左官金太郎、付き添い人一同、控えおるか」
「へえ、一同、揃いましてございます」
「大工熊五郎、おもてを上げい、苦しゅうない」
「へえ、表はいま閉めたばかりですがねえ」
「おい、顔を上げろてんだい」
「おどかすなよ、こん畜生。同心だからってそんなにいばるねえ。こっちは盗み泥棒なんぞしてこんなところへ入ってきてるわけじゃねえんだ。落っことした銭を受けとらねえてんだよ。このしみったれ野郎」
「おい、熊、なにをお役人に毒づいてんだ?」
「家主さん、しみったれじゃあねえか。同心てえのは、武士《さむらい》のくせに羽織の裾をはしょってやがる」
「よけいなことを言うな。黙って頭を下げてりゃあいいんだ」
「いま上げろって言ったじゃねえか。なんでえ、上げたり、下げたり……面倒だ、こんなもんでいいかい?」
「こりゃこりゃ、神田竪大工町大工熊五郎とはそのほうか。そのほう去《い》んぬる日、柳原において金子《きんす》三両、印形、書付け取り落とし、これなる白壁町左官金太郎なるものが拾いとり、そのほう宅へ届けつかわしたるところ、金子は受け取らず、乱暴にも金太郎を打ち打擲《ちようちやく》に及んだという願書の趣であるが、それに相違ないか」
「へえ、どうもすいませんね。わざと落したわけでもなんでもねえ。つい粗相で落としてしまったんで、勘弁しておくんなせえ。なーに、落っこったぐらいはわかってますがね。そこは江戸っ子ですからねえ、うしろを振り返ったり、拾ったりすりゃあ傍《はた》で見ていて、みっともねえことをしやぁがると、こうおもわれやしねえかとおもうから、こんなめでてえことはない、久しぶりでさっぱりしていい心地だと、家へ帰って、鰯の塩焼きで一杯《いつぱい》やっていると、いきなりこの野郎がやって来やぁがって、お節介にも『これは、てめえの財布だろう? おれが拾ったんだ。さあ、なかをあらためて受けとれ』ってぬかしやがるんで、『印形と書付けはもらっとくが、銭はいったんおれの懐中から出たもんだから、おれのもんじゃあねえ。おれのもんじゃあねえから、銭は持ってけ』てえ言ったんですが、こいつがどうしても持っていかねえで……だから『持ってかねえとためにならねえぞ』と、こいつの身のためをおもって親切に言ってやりますとね。こいつは、ひとの親切を無にしやぁがって、どうしても持ってかねえと強情を張るもんですから、『この野郎、まごまごしやがると、ひっぱたくぞ』て言うと、『殴れるもんなら殴ってみろ』と言いますから、当人がそういうものを、また殴らねえでもものに角が立つだろうとおもって、ポカリッ……と」
「さようか、おもしろいことを申すやつじゃ……さて、左官金太郎、そのほう、なにゆえそのみぎり、金子、熊五郎より申し受けぬのじゃ」
「おいおい、お奉行さん、みそこなっちゃいけねえぜ。ふざけちゃあいけねえ」
「これこれ、天下の裁断にふざけるということがあるか」
「真剣かい。真剣ならあっしのほうからもうかがおうじゃねえか。そうじゃねえか。拾った財布のなかに書付けがあったから、当人のところへわざわざとどけてやったのだ。もし、書付けがなくって届け場に困ったとしても、自身番に持っていけとか、どこそこへ届けろとか教えるのが、お役人の稼業《しようばい》だろう? 金はたった三両だよ。そんな金を猫ばばするような、そんなさもしい了見をこっちとら持っちゃあいねえよ。そういう了見なら、あっしはいま時分、棟梁《とうりよう》になってるよ。どうかして棟梁になりたくねえ。人間は金を残すような目にあいたくねえ。どうか出世するような災難にあいたくねえとおもえばこそ、毎朝、金比羅《こんぴら》さまへお灯明《とうみよう》をあげて……それを、いくらお奉行さまでも、その金をなぜ受けとらぬとは、あんまりじゃねえか」
「よし、しからば両人とも金子は受けとらぬと申すのじゃな。……なれば、この三両は、越前が預かりおくが、よいか?」
「ええ、そうしてくださりゃあ、銭はわずかだけど、そいつがあったひにゃ喧嘩がたえねえから……」
「どうかすまねえが預かっておくんなさい。たのむよ。大将」
「ついては、そのほうどもの正直にめで、両人にあらためて二両ずつ、褒美《ほうび》をつかわすが、この儀は受けとれるか?」
「恐れながら家主より当人に成り代わって御礼を申し上げます。町内よりかような者の出ましたことは、誉れでございます。ありがたく頂戴をいたします」
「両人に褒美をつかわせ。……双方とも受けてくれたか。このたびの調べ、三方一両損と申す。わからんければ越前守申し聞かせる。これ、熊五郎、そのほう金太郎の届けしおり、受けとり置かば三両そのままになる。金太郎もそのおりもらい置かば三両ある。越前守も預り置かば三両、しかるに越前守これに一両を足し、双方に二両ずつつかわす。いずれも一両ずつの損と相成る。これすなわち三方一両損と申すのじゃ、あいわかったか」
「恐れ入りましたるお取り計らい、ありがたいしあわせに存じます」
「あいわからば一同立て……ああ、待て待て、だいぶ調べに時を経たようじゃ、定めし両人空腹に相成ったであろう。ただいま両人に食事を取らす……これこれ、両人の者に膳部の用意をいたしてつかわせ」
「え? ここで、ご馳走になるんですかい? 家主さん、すまないねえ。手ぶらでやってきて、こんな散財さしちゃあ……お奉行さま、無理しなくったっていいのにねえ……あれあれ、てえへんなご馳走だ。え? 熊五郎、見ろい、てめえなんざこの間、鰯の塩焼きで一杯《いつぺえ》やってたろう。お奉行さまのはそんなもんじゃねえぜ。鯛《てえ》だ、鯛だって本場もんだぜ。たまにはこういう鯛で酒を飲めよ……もっとも、おれもこんな鯛にゃあめったにお目にかかれねえが……まあ、見てたってしょうがねえや、遠慮なくいただこうじゃねえか」
「うーん、こりゃ、うめえや、おめえも食ってるか? なあ、これから腹がへったら、二人でちょいちょい喧嘩をして、ここへこようじゃねえか」
「こりゃこりゃ、両人いかに空腹だとて、腹も身のうちじゃ、あまり食《しよく》すなよ」
「えへへ、多かあ(大岡)食わねえ、たった一膳(越前)」
正面をみますと、紗綾形《さやがた》の襖《ふすま》。右手に公用人《こうようにん》左手に目安|方《かた》。縁の下には同心衆が控えている。
「シーッ、シーッ……」
「だれか白洲で赤ん坊に小便さしてる? ねえ、家主さんッ」
「いま、お奉行の大岡越前守さまがこれへお出ましになるんだ、頭を下げろ、頭を……」
「頭を下げんのかい? だから、こんなところへ来るのはいやだったんだ」
「神田竪大工町大工熊五郎、おなじく白壁町左官金太郎、付き添い人一同、控えおるか」
「へえ、一同、揃いましてございます」
「大工熊五郎、おもてを上げい、苦しゅうない」
「へえ、表はいま閉めたばかりですがねえ」
「おい、顔を上げろてんだい」
「おどかすなよ、こん畜生。同心だからってそんなにいばるねえ。こっちは盗み泥棒なんぞしてこんなところへ入ってきてるわけじゃねえんだ。落っことした銭を受けとらねえてんだよ。このしみったれ野郎」
「おい、熊、なにをお役人に毒づいてんだ?」
「家主さん、しみったれじゃあねえか。同心てえのは、武士《さむらい》のくせに羽織の裾をはしょってやがる」
「よけいなことを言うな。黙って頭を下げてりゃあいいんだ」
「いま上げろって言ったじゃねえか。なんでえ、上げたり、下げたり……面倒だ、こんなもんでいいかい?」
「こりゃこりゃ、神田竪大工町大工熊五郎とはそのほうか。そのほう去《い》んぬる日、柳原において金子《きんす》三両、印形、書付け取り落とし、これなる白壁町左官金太郎なるものが拾いとり、そのほう宅へ届けつかわしたるところ、金子は受け取らず、乱暴にも金太郎を打ち打擲《ちようちやく》に及んだという願書の趣であるが、それに相違ないか」
「へえ、どうもすいませんね。わざと落したわけでもなんでもねえ。つい粗相で落としてしまったんで、勘弁しておくんなせえ。なーに、落っこったぐらいはわかってますがね。そこは江戸っ子ですからねえ、うしろを振り返ったり、拾ったりすりゃあ傍《はた》で見ていて、みっともねえことをしやぁがると、こうおもわれやしねえかとおもうから、こんなめでてえことはない、久しぶりでさっぱりしていい心地だと、家へ帰って、鰯の塩焼きで一杯《いつぱい》やっていると、いきなりこの野郎がやって来やぁがって、お節介にも『これは、てめえの財布だろう? おれが拾ったんだ。さあ、なかをあらためて受けとれ』ってぬかしやがるんで、『印形と書付けはもらっとくが、銭はいったんおれの懐中から出たもんだから、おれのもんじゃあねえ。おれのもんじゃあねえから、銭は持ってけ』てえ言ったんですが、こいつがどうしても持っていかねえで……だから『持ってかねえとためにならねえぞ』と、こいつの身のためをおもって親切に言ってやりますとね。こいつは、ひとの親切を無にしやぁがって、どうしても持ってかねえと強情を張るもんですから、『この野郎、まごまごしやがると、ひっぱたくぞ』て言うと、『殴れるもんなら殴ってみろ』と言いますから、当人がそういうものを、また殴らねえでもものに角が立つだろうとおもって、ポカリッ……と」
「さようか、おもしろいことを申すやつじゃ……さて、左官金太郎、そのほう、なにゆえそのみぎり、金子、熊五郎より申し受けぬのじゃ」
「おいおい、お奉行さん、みそこなっちゃいけねえぜ。ふざけちゃあいけねえ」
「これこれ、天下の裁断にふざけるということがあるか」
「真剣かい。真剣ならあっしのほうからもうかがおうじゃねえか。そうじゃねえか。拾った財布のなかに書付けがあったから、当人のところへわざわざとどけてやったのだ。もし、書付けがなくって届け場に困ったとしても、自身番に持っていけとか、どこそこへ届けろとか教えるのが、お役人の稼業《しようばい》だろう? 金はたった三両だよ。そんな金を猫ばばするような、そんなさもしい了見をこっちとら持っちゃあいねえよ。そういう了見なら、あっしはいま時分、棟梁《とうりよう》になってるよ。どうかして棟梁になりたくねえ。人間は金を残すような目にあいたくねえ。どうか出世するような災難にあいたくねえとおもえばこそ、毎朝、金比羅《こんぴら》さまへお灯明《とうみよう》をあげて……それを、いくらお奉行さまでも、その金をなぜ受けとらぬとは、あんまりじゃねえか」
「よし、しからば両人とも金子は受けとらぬと申すのじゃな。……なれば、この三両は、越前が預かりおくが、よいか?」
「ええ、そうしてくださりゃあ、銭はわずかだけど、そいつがあったひにゃ喧嘩がたえねえから……」
「どうかすまねえが預かっておくんなさい。たのむよ。大将」
「ついては、そのほうどもの正直にめで、両人にあらためて二両ずつ、褒美《ほうび》をつかわすが、この儀は受けとれるか?」
「恐れながら家主より当人に成り代わって御礼を申し上げます。町内よりかような者の出ましたことは、誉れでございます。ありがたく頂戴をいたします」
「両人に褒美をつかわせ。……双方とも受けてくれたか。このたびの調べ、三方一両損と申す。わからんければ越前守申し聞かせる。これ、熊五郎、そのほう金太郎の届けしおり、受けとり置かば三両そのままになる。金太郎もそのおりもらい置かば三両ある。越前守も預り置かば三両、しかるに越前守これに一両を足し、双方に二両ずつつかわす。いずれも一両ずつの損と相成る。これすなわち三方一両損と申すのじゃ、あいわかったか」
「恐れ入りましたるお取り計らい、ありがたいしあわせに存じます」
「あいわからば一同立て……ああ、待て待て、だいぶ調べに時を経たようじゃ、定めし両人空腹に相成ったであろう。ただいま両人に食事を取らす……これこれ、両人の者に膳部の用意をいたしてつかわせ」
「え? ここで、ご馳走になるんですかい? 家主さん、すまないねえ。手ぶらでやってきて、こんな散財さしちゃあ……お奉行さま、無理しなくったっていいのにねえ……あれあれ、てえへんなご馳走だ。え? 熊五郎、見ろい、てめえなんざこの間、鰯の塩焼きで一杯《いつぺえ》やってたろう。お奉行さまのはそんなもんじゃねえぜ。鯛《てえ》だ、鯛だって本場もんだぜ。たまにはこういう鯛で酒を飲めよ……もっとも、おれもこんな鯛にゃあめったにお目にかかれねえが……まあ、見てたってしょうがねえや、遠慮なくいただこうじゃねえか」
「うーん、こりゃ、うめえや、おめえも食ってるか? なあ、これから腹がへったら、二人でちょいちょい喧嘩をして、ここへこようじゃねえか」
「こりゃこりゃ、両人いかに空腹だとて、腹も身のうちじゃ、あまり食《しよく》すなよ」
「えへへ、多かあ(大岡)食わねえ、たった一膳(越前)」