粗忽《そこつ》の使者
杉平柾目正《すぎだいらまさめのしよう》という大名の家来で治部田《じぶた》治部《じぶ》右衛門《えもん》、たいへんそそっかしい人だが、家柄もよく、部屋住みではあるけれど、殿様がなにかと目をかける。ある日、治部田治部右衛門に使者の役を申しつけた。さっそく当人はうれしがって、玄関へ飛び出してきた。
「これこれ、弁当弁当……弁当じゃない、別当。なにを、それ……犬じゃない、馬、馬をひけッ」
「へえ、これに参っております」
「ああこりゃ、この馬は首がない」
「逆さまにお乗り遊ばしたので、うしろをご覧なさい」
「ほう、めずらしい馬だな、うしろに頭があるか、これは困る、馬の首を斬ってこっちへ付けるというわけにはいかんか」
「そんなことはできません」
「ではこういたせ、拙者が尻を上げているから、馬をまわせ」
「やっぱりおなじでございます。ご面倒でもお乗り替えをねがいます」
「どっこいしょ。これでよし。供揃《ともぞろ》いはよろしいか?」
「よろしゅうござる」
五千石の格式で、治部右衛門は裃《かみしも》姿、両|徒士《かち》に草履《ぞうり》と、合羽駕籠、隆《りゆう》として出かけた。
ご親類の赤井御門守さまの門前まで来ると、
「杉平柾目正さまお使者ッ」
御門が八文字にギィーと開き、治部右衛門は門前で馬を降りて、玄関へまわり、使者の間へ通された。
「これはこれは、お使者のお役目ご苦労に存じます。手前は当屋敷の家来、田中三太夫と申す者、以後お見知りおかれまして、ご別懇のほどおねがいつかまつります」
「いや、これはこれは、初めてお目通りをいたします。手前は杉平柾目正家来、……エーその、エー治部田治部右衛門と申す者でござる」
「ご高名はかねがね承りましてございます。今日のお使者のご口上をば、某《それがし》に仰せ聞かせ下さりましょうならば、有難き仕合わせに存じ奉ります」
「いや今日手前、その殿の名代として、ご当家へ使者に参ったのは、余の儀ではござらぬ、そのー使者の趣《おもむき》でござるが、アー、ウー、そのー使者はどういう趣で参ったということを貴殿はご存知か?」
「恐れ入ります。手前は承りまするほうで」
「ごもっともでござるが、人相でそれがわかりませぬか、使者の口上、余の儀ではござらぬ、ええ、ウン……ええ」
「治部田氏、いかが遊ばされた、お顔の色が悪うござるが」
「いや、えらいことになり申した。ご迷惑ながら、ご当家のひと間を拝借つかまつって、拙者切腹いたさねばならぬことに相成り申した」
「これはおだやかならぬことを申される。武士たる者が腹切って果てるとは、容易ならんことでござるぞ」
「左様、その容易ならんことが出来《しゆつたい》いたしたのでござる、まことに面目次第もござらぬが、拙者、使者の口上を失念つかまつった」
「ええ? これはどうも、お戯れでは恐れ入ります」
「いやいや、まったくもって戯れではござらん。恥を申さねばおわかりいただけないとおもいまするが、拙者生来の粗忽《そこつ》者。田中|氏《うじ》、手前は幼少の折柄から粗忽の病《やまい》がございましてな、親どももこの儀については痛く心痛つかまつって、拙者が物忘れをいたすたびに臀《しり》を捻《ひね》ってくれました。田中氏、武士の情けでござる、尊公手前の臀をお捻りくださるまいか?」
「臀を捻れば使者の口上、思い出されまするか?」
「どうか何分よろしゅうおねがいいたす」
「手前とても承りませんければ、役目の落度、ではさっそく取りかかることにいたす、では臀をこれへお出しめされい」
「ごめん」
「では、お捻り申すぞ、……このへんでござるな?」
「いっこうに効きませんが……、幼少のころよりつねりつづけてタコができておりまする。もそっと強くおねがいいたす」
「うむむ、はあッ、いかがでござる?」
「もそっと強く」
「ううむ、ヤッ、よほどお見事なものでございますなあ、い、か、が、で、ござるッ」
「いや、いっこうに効きません、どうもお手前は遠慮があっていかぬ。どうでござろう、当屋敷に指の力量のある方はござらぬかな」
「さようでございますな、当家には剣術柔術ならば免許皆伝の者も多数まかりおりますが、別に指に力量のある者といって抱えた者もございませぬ。しかし数ある家来、指に力のある者がない限りもございませぬ。ただいま手前探して参りますれば、暫時、これにてお待ちくだされ」
「なにぶんよろしくおねがいいたす」
田中三太夫は次の間へ下がって、同役松本|脂《やに》十郎、石垣|蟹《かに》太夫などを集めまして、相談をしているところへ、大工の留が入ってきた。
「これこれ、職人、貴様は作事に参っているものか、なんだってここへ入ってきた」
「へえ、エヘヘヘ……」
「なにを笑っておる?」
「エヘヘヘ、ちょっと申し上げたいことがあるんで、なんだよ。いま聞きゃあ使者が口上忘れて、尻《けつ》を捻ると思い出すてえから、一番おれが使者の尻を捻ってやろうとおもうんだ」
「これ、貴様見ていたのか?」
「とっくり見せてもらいましたよ。いかがでござる……」
「無礼なやつだ」
「無礼も蜂の頭もねえや、思い出さなきゃあ腹ァ切るってんでしょう? いましたかい、指に力のある人は?」
「それがまた見当らんのだ」
「じゃねえかとおもって来たんだ、どうです、え、あっしがいちばんやっつけやしょうか?」
「貴様、指に力があるか?」
「おっとと、心配はねえよ。こっちには道具があらあ、閻魔《えんま》、釘抜きでグウィとやったら思い出すだろう」
「おいおい、怪我ァしたらどうする?」
「怪我ぐらいどってえことァないよ。うっちゃっておけば腹を切るってんだ、人間一人助けるんだからいいじゃあねえか」
「うーん、それはまことに有難いが、……しかし、大工を頼んで出したとあっては、当家の外聞にもかかわる、と申して、このまま捨ておくときは、切腹ということに相成り、当家がなおさらもって迷惑をいたすが……しからば、いかがでござろう、そのほうを、拙者の下役、当家の家臣ということにいたしたならば、差し支えもあるまい」
「なんでもいいようにしてくれ、こっちァ、あの野郎の尻さえつねりゃいいんだから」
「出すにしてもそんな職人の姿ではご無礼である。武士《さむらい》にならなければならぬ」
「へえー、大工をやめて、武士《さむらい》に稼業《しようばい》替えをするのかね」
「今日一日だけだ。さあ、こっちへ上がれ、ご同役、ええ、どなたか、この大工に衣服をお貸しくださらんか、おお、貴公がお貸しくださるか。いや、かたじけない。……さあ、大工、ここにて衣服を更《あらた》めろ」
「なんです、いふく[#「いふく」に傍点]というのは」
「いふく[#「いふく」に傍点]がわからぬか、着物のことだ」
「符牒で言ったってこっちにゃあわからねえ」
「なにをぐずぐずしておる。さあ、その法被《はつぴ》をぬいで、これに着かえろ」
「へーえ、なるほど、これが袴《はかま》ってやつかい。手数がかかるね、片っ方に穴があいているが、これは小便をする穴かえ?……両方に足を入れるのかえ? なるほど、窮屈袋《きゆうくつぶくろ》とはうまく言ったね」
「これこれ、帯を前に結んでいかがするのじゃ、ふーん、前へ結んで、うしろへまわすのか、いや、器用なことをいたすやつじゃ、……これ、袴のはき方を知らんとみえるな、腰板が前にきているではないか、それではあべこべじゃ、その板がうしろになるのだ」
「へえー板をうしろへ背負うのかい、野郎の蒲鉾《かまぼこ》だ」
「それに、頭髪《あたま》が少しまずい。チョン髷《まげ》の刷毛《はけ》先をパラリと散らかっていてはいかん。水をつけてこけ[#「こけ」に傍点]」
「なるほど、これで武士《さむらい》に見えますか?」
「うん、馬子にも衣裳、どうやら武士らしくみえるぞ。さて、そのほうの姓は?」
「そうですね、五尺三寸ぐれえでしょうかねえ」
「いや、身の丈《たけ》をきいたのではない。姓名は……名前はなんというのじゃ?」
「ああ名前ね、名前は留っこ[#「留っこ」に傍点]ってんで」
「留っこ? 留っこという名はあるまい。留吉とか、留太郎とか申すのであろうが……」
「なんだか知らねえが、餓鬼のころから留っこって言われてるんで」
「貴様の苗字はなんというのだ?」
「あっしは明神下じゃない。竪大工町で、苗字なんぞは知らねえよ」
「困ったやつだな、自分の名を知らんとは……しかし留っこでは武士らしくない。どうだ、拙者が田中三太夫であるから、そのほうを中田留太夫ということにいたそう」
「留太夫に三太夫、なんのこたあねえ伊勢の御師《おし》だね。なんでもいいよ。ちょいと行って、ちょいと捻っちまいましょう」
「これこれ、捻っちまおうとはなにごとだ。お使者のまえに出たならば、丁寧に口をきかんければいかんぞ。なんでもものの頭《かしら》へお[#「お」に傍点]の字つけて、ことば尻に奉る[#「奉る」に傍点]をつけ、先方を奉らなければならんぞ」
「面倒だねえ、そいつを抜きにして、すぐにグイとやっちまうわけにはいきませんか?」
「いかん」
「ええ、なんでも上へお[#「お」に傍点]をつけて、奉りゃあいいんだね、よし、わかった」
「貴様、懐中《ふところ》からなにかのぞいておるが、それはなんだ」
「へえ、これは仕事の道具なんで、なんでいるかわからねえから持っているんで、武士《さむらい》が刀を差しているようなもんでさあ」
「さようか。それでいい、では次の間で控えておれ、拙者が中田留太夫殿と呼んだら、すぐに出てまいれ、うまくやればほうびをつかわす」
三太夫さんはひと足先へ襖《ふすま》をガラリ、
「これはこれは治部田氏、長い間手間取りまして、ようようのことで当屋敷の、拙者下役にて中田留太夫と申す者、なかなかに指先に力量のある者、さっそく、召しつれましたゆえ、ご遠慮なくご用をお申しつけくださるよう」
「それはかたじけない、しからばさっそくおねがいいたす」
「これ中田留太夫、……留太夫殿、なにをしておる、これ中田留太夫、留っこッ」
「オーッ」
「なんという返事だ。これこれお使者のまえで、ご挨拶を申し上げろ」
「ああ、奉るのかい、弱ったねどうも。えー、お初にお目にかかりござり奉ります。えー、あなたさまが、お使者のご口上をお忘れ奉りやして、そこで、おわたくしが、あなたさまのお尻《けつ》さまをお捻りでござ奉るんで……」
「これこれ、なにを申しておる」
「なんだい三太夫さん、おまえさんがそこでがんばってたんじゃあ、仕事がやりにくくってしょうがねえ。すいませんが、ちょっと向こうへ行ってておくんなさいな」
「貴様一人で大丈夫か」
「大丈夫だよ、まかしといてくんねえ、そのかわりね、そこをピシャッとお閉め奉って、おのぞき奉ると、こっちはお困り奉るよ」
「しからば、治部田氏、拙者、次の間に控えおりますれば……、では、中田氏、くれぐれも粗相《そそう》のなきように……」
「じゃやるよ。こっちは口がきけねえんだ。どうだい、すぐに捻り奉るといこうじゃねえか。おれは武士《さむらい》じゃねえよ、ここに仕事にきている大工なんだが、おめえが使者の口上を思い出さねえと切腹だってえから、助けに出てきたんだッ、さあぐずぐずしてねえで尻出しねえ」
「これはどうも、恐れ入る」
「恐れ入ってねえで、袴を取って、尻を出せ、尻を……」
「しからばどうかよろしゅうねがいます」
「じゃあ、はじめるよ。……むむ、どうでげすッ、このくれえの按配《あんばい》で……ッ」
「うむッ、そのへんは一面にタコ[#「タコ」に傍点]になっておって、いっこうに通じません」
「じゃ、このくらいではッ」
「はあ、もそっと、手荒にねがいたい」
「えっ、効かねえかい? あきれたかたい尻だね、じゃあ、こっちを向いちゃいけないよ」
と、留さん懐中から釘抜きをとりだし、
「いいかい、これでいかがッ」
「これは、えらく冷たい指先でござるなッ、なるほどこれは……少々……」
「少々?! こりゃ、釘抜きのほうがなまっちゃうぜ。……よーし、そうなりゃ、やわらかそうなところを、ひとつ……そーら、よーい、そーれ、そーれ、どうだ? さあッ」
「うーん、これは……これは、なかなかの大力でござるな、もそっと強くッ」
「もそっと強く?……へっ、畜生っめ、エンヤラヤアノエエ!」
「うーん、うーん、これは、はや、痛み……痛み、耐えがたし」
「よーし、しめ、しめ、そーれ、そーれ、さあどうだッ」
「うーん、うう……思い出してござる」
これを聞いた三太夫、襖を開けて、
「して、お使者のご口上は?」
「うーん、屋敷を出るとき、聞かずに参った」