王子の狐
昔から狐、狸は人を化かすなんていわれている。狐は七化け、狸は八化け、狐と狸とくらべると、狸のほうがひと化け多い。多いが、狸のほうは化けるにしても、大入道とか、一つ目小僧とか、博奕《ばくち》場の賽《さいころ》とか、どこか愛嬌がある。狐のほうは少ないが、どちらかというと利口で陰険で性質《たち》が悪い。民話でも、風呂だといって野良の糞尿溜《こいだめ》の中へ人を浸《つ》けたり、酒だといって馬の小便を飲ませたり、牡丹餅だといって馬糞を食べさしたり、蕎麦《そば》だといって蚯蚓《みみず》を食べさせたりする。けれど、狐はまた、稲荷の使い姫だといって、信仰の厚い方は、たいへん狐を大切にする。
この稲荷を江戸の人びとはたいへんに信仰していて、初午の日になると、どこの稲荷も参詣客でたいへん賑わったが、ある男が、吉原でもてて、初午の日をすっかり忘れ、翌日になって、王子稲荷へ行ってみると、人影もなくシーンとしてものさびしい。参詣をすませて、根岸口の裏道を歩いていると、畦道の傍《わき》の稲叢《いなむら》のところで、狐が一匹、頭の上に一所懸命、草を載せている。不思議におもってじっと見ていると、くるりとひっくり返り、たちまち二十二、三の女に化けた。
「ああああッ……化けた! えッ? こりゃおもしれえや。話には聞いていたけど、目の前で狐が人間に化けるなんてのは初めて見たよ。うまいもんだねえ。乙《おつ》ないい女だねェ。あの縞のお召しの着物なんていうのは、どこから覚えてくるんだろうね。帯だってちゃんと締めてるしなァ。たいしたもんだねえ。あれじゃあ化かされるのも無理はねえなあ。これからだれかを化かそうてんだな、だれか来るのかな? だれ……あたりに人影がないところを見ると……おれだよ、おれを化かそうってんだよ。おれが女好きだってんで、それで女に化けやがった。こらァえれえことになったぞ、見こまれちゃったな。でも、見といてよかったねえ。あれを見てなきゃあ、もうやられてるよ。……だが待てよ、種《ねた》がわかってるんだ。向こうで化かそうってんなら、ひとつこっちでもって一番化かされてやろうじゃないか」
と、眉毛《まゆ》に唾《つば》をつけて、近づいていって、
「玉ちゃん、玉ちゃん……」
「あらっ、まァ……兄ィさん」
「あれっ、口をききましたよ。『コォン』てなことは言わないね……おどろいたねどうも、あぶねえ、あぶねえ。もうやられかけてらあ」
「え? なにか言った?」
「いえ、こっちのことで……いえね、うしろ姿があんまり似てたもんだから、つい声をかけちまったんだけど、まさか玉ちゃんがこんなとこを歩いてるとはおもわなかったよ。いまどき、なにしに、こんなところへ?」
「ええ、いまお稲荷さまへお詣りをして、その帰りにあんまり天気がよくて気持ちがいいから、裏手をぶらぶら歩いてたの」
「そうかい。じつは、おれもお稲荷さまへお詣りに行った帰りよ。……それにしても、よくおれのことを覚えてくれたねえ、うれしいねえ、玉ちゃんもすっかりきれいになって、いくつになったの? 二十二……? そりゃおとっつぁん、おっかさんもおたのしみだねえ。……お嫁に行くの? お聟《むこ》さんもらうの? どっち……え? きまりが悪い?……そんなこたァないよ。あたしはいいお聟さんをお世話しましょう……毛並のいいとこ! い、いやいや……せっかく逢ったんだから、どうです? どっかへ行きましょう」
「あたしァかまわないんですけれども、兄ィさんこそあたしみたいな者《もん》といっしょではご迷惑……」
「とんでもねえ。そんなら、この先に扇《おうぎ》屋という料理屋がある。そこへ行ってご飯を食べながら、ゆっくりいろいろお話をいたしましょう」
「では、お供しますわ」
「じゃあ、話はきまった。さァ行きましょう……ええ、ごめんよ」
「いらっしゃいませ。どうぞお二人さま、お二階へご案内」
「玉ちゃん、二階だってさァ。あたしは先ィ上がりますから……さァさァ、玉ちゃんも上がっておいでよ……ああ、こりゃあ、なかなかいい部屋だ。ちょっと、姐《ねえ》さん、その障子を開《あ》けておくれよ……うん、いい眺めだ。春霞がたちこめて、鶯《うぐいす》が鳴いている……さァ玉ちゃん、どうぞ上座のほうへ、今日は玉ちゃんお客さま、ね? ああ、そうですか? あなたなかなか遠慮深いね、さァお座りなさい。……姐さん済まないが早幕《はやまく》で、あ、日の暮れないうちに……今日はうんとごちそうしてくださいよ。板前さんにそう言って腕をふるってもらって、あ、お願いしますよ。あァそうだなあ、とりあえずお酒いただきましょう、お酒、二、三本、やっぱりお燗《かん》していただきましょう。それからあたしはね、刺身がいいね、刺身。どうだい、玉ちゃんは? お刺身は? 生臭いものはいただきません? そう……え? なにがいいの? 好きなもの、え? 油揚《あぶらあげ》? 油揚はいけませんよ。こういう店へ来て油揚なんてえのは洒落になりませんよ。なにか他のもの、え? 天ぷら? やっぱり揚げた物《もん》のほうが? ちょいと、姐さんこちらは天ぷらがいいってから、三人前ばかり、お椀かなんかつけて、あとは見つくろいでいいよ。とにかくまあ、すぐにお酒を持ってきておくれ……ねえ、玉ちゃん、玉ちゃんとここでもってこんなふうに一杯やれるなんて夢にもおもわなかった。ほんとうにうれしい日だよ。こりゃあ、きっとお稲荷さまのご利益だろう? そのうちお宅ィ遊びに行きますよ。おとっつぁん、おっかさんにもお目にかかって、昔語りってやつをねえ……久しく逢わないうちに、玉ちゃんいい女ンなって……お髪《ぐし》のぐわいなんざァ……う、うまく化け……ェェばかにおきれいですからね……おや、姐さん、もうできたのかい? はい、ご苦労さま……ずいぶん早かったねえ。はいはい、こっちへいただこう。え? あとはこっちでやるから、姐さんにはお手数はかけないよ。うん、もう階下《した》へ行っていいよ。用があったらね、手を叩《たた》いて呼ぶから……どうもご苦労さま……あっ、そんなにぴったり締めてっちゃあ……少し開けとくんだよッ。いざとなったら、ぱッと[#「ぱッと」に傍点]逃げる都合……いえ、なに、なんでもない。いいから、少ゥし開けといてくれ……さあ、玉ちゃん、おひとつどうぞ」
「あたし、お酒はだめなの」
「なにォ言ってるんだよ。飲めますよッ。隠したってちゃんと知ってるんだから、お神酒《みき》やなんかあがって……いえ、おまえさんとこの神棚の話さ……さァさァ、一杯いこう、なあにたんとは飲ませやしません……いいから心配せずにぐっとあけなよ。もしも酔ったらあたしが介抱をしますから……うーん、いい飲みっぷりだ。飲めるか飲めないかてえのは、ちょいと猪口《ちよこ》を口ィ持ってっただけですぐわかりますよ。え? ご返盃? うれしいねえ、玉ちゃんからお盃が頂戴できるなんて……お酌をしてくれる? なんだ盆と正月がいっしょてえやつ……こらァどうも……おっとっとっと、こんなにいっぱい注《つ》いじまって、こんなじゃあ始末に悪いや。こんなに、こんなに、盃にあふれて、こんなに……え? なに? そんなにこんこん[#「こんこん」に傍点]言っちゃあいけないって? ……あァそうか。やっぱりこん[#「こん」に傍点]て言うのは気がさすんだな……あァ、すまねえすまねえ。おまえさんがこん[#「こん」に傍点]と言っちゃあいけねえと言うんなら、こん[#「こん」に傍点]ごは、金輪際《こんりんざい》言わねえ……あれっ、言うまいとすると、余計に言うねえ。あっはははは……ところで、こりゃあほんとうの酒だろうな? まさか馬の小便じゃァあるまいね、え? いえなに……相手が悪いからねェ、こりゃあどうも……うゥ、大丈夫そうだな……ぐゥぐゥぐゥ……こりゃ、うめえ。……さァさァ玉ちゃんも遠慮しないで、天ぷらのさめねえうちに食べたほうがいいよ。そうそう、どんどん食べて……もうひとつ、お酌しよう。ぐっとあけて、ぐっとあけて……」
差し向かいでやったりとったりしているうちに、狐はすっかりいい心持ちになって、
「兄ィさん、あたし、すっかり酔っちまったわ」
「うん、そう言やあ、だいぶいい色になったねえ。色の白いところへぽォッと赤味がさして狐色……いやいや……なあに……そのう……とにかくいい色だ。え? なに? 眠くなった? あ、そう、それじゃ、ちょっと飲《や》り過ぎたんですね。そこへ、横ンなって……いいさ、おれと玉ちゃんの仲で遠慮なんぞしなくたって、この座布団を二つに折って、枕代わりにして……そうそう……それからお髪《ぐし》が汚れるといけませんからね、下ィ手拭を敷いたほうがいいよ。で、いいころを見計らって、あたしが、起こしますから、大丈夫、安心しておやすみ。あたしはここで飲んでます」
あと一人で飲んだり食ったりしているうちに、狐のほうはぐっすり寝入ってしまった。それを見とどけると、男はそゥっと裏梯子から降りて、
「あっ、お帰りでございますか?」
「しいっ、静かにしておくれ。いまね、二階で連れの女が寝たところだから……なァに、ちょいと飲み過ぎて、頭が痛いとかなんとか言ってるから、寝かしたんだ、心配はいらねえ……で、いま、思い出したんだが、この先に伯父がいるんでね。またってえのは億劫《おつくう》だ、ね? ちょいと来たついでに顔出ししようってやつだ。なんかこう、土産になるものはないかい? え? 卵焼? あッ、それを三人前折に詰めておくれ……それから、勘定はね、二階の連れからもらっとくれ。いいかい、ちゃんと紙入れを預けておいたから……起きたら、用足しがあって、おれは先へ帰ったとそう言っとくれ。まだ当分寝かしといてやっとくれよ。うん、起こすときも、いきなり起こさないほうがいいよ。いきなり起こすと、ぽォーんと跳びあがったりするといけないからね……ああ、折詰めができた? ありがとう。じゃあ、よろしく頼むよ。どうもごちそうさま……下駄ァ出しとくれ」
「毎度ありがとう存じます」
「はい、さようなら」
「ああ、お竹や、二階のお客さま、そろそろお起こししたらどうなの? あんまり遅くなるといけないから……」
「はい、かしこまりました……あのゥ、ごめんくださいませ。ごめんくださいませ……まァよくおやすみでいらっしゃいますこと。……あのお客さま。ちらほら灯火《あかり》も点《つ》いてまいりました。あまり遅くなるといけません。お目覚めを……もし、お客さま、お客さま」
「はいッ……はい。……まァすっかり酔ってしまって……あいすみません。あらっ、連れの者はどういたしました」
「なんでも、このご近所にご親戚がおありなので、ちょっと顔出しをしてくるからと、卵焼を三人前お土産《みや》にお持ちになってお帰りになりました」
「まあ、そうですか。人を寝かしたまま帰っちまうなんてひどい人ですわね……それで、あのこちらのお勘定は?」
「それがあのゥ、あなたさまからいただくようにと……」
「えッ!」
びっくりするとたんに、狐は神通力を失って、耳がピーンと立って、口が耳もとまでピューッとさけて、うしろの方からは太い尻尾《しつぽ》がニューッと出た。女中は、
「きゃッ!!」
という声とともに二階からガラガラガラ……。
「だれだい? 二階から落っこったのは?」
「た、た、たッ……」
「なんだよ、お竹、気をつけなよ。なんのために梯子段がついてんだよ。一段ずつ降りたらいいじゃねえか。ひと跨《また》ぎにしてみろ、股が裂《さ》けちまわァ、ばか。どうしたんだ?」
「た、た、たいへんだよッ」
「なんだ? まっ青な面《つら》ァして、がたがた震えてやがる。しっかりしろいッ、え? 二階の客が『お勘定』ったら、尻尾を出した? なに言ってやんでえ。勘定で足を出すってなあ聞いたことはあるが、勘定で尻尾を出したなんて話は聞いたこたァねえ、え? 耳がピーンと立って、口が耳もとまでさけた? ほんとうかい? そりゃあたいへんだ。どうも、おらァ様子が変だとおもったんだ。……いい女だったなァ女狐のほうは……雄狐のほうはあんまりいい男じゃあねえが……うしろ姿をおらァ見てたよ。梯子段上がるときよ、そうしたら、こう、股ぐらから白いものが、ちょろちょろ見えたけど、尻尾だなァ、あれァなあ……よし、こういうときは、辰っつぁんでなくちゃあ……おいッ、辰っつぁん、辰っつぁんいるかい? ちょっと来てくんねえ」
「なんだ、なんだ、なんでえ? なんてえ騒ぎだい。喧嘩《けんか》か? 強請《ゆすり》か? 食い逃げか?」
「いえ、そんなんじゃねえんだけどね。えれえ騒ぎンなっちゃったんだよ。今日は旦那はお留守で、どうにも裁きがつかねえ、ちょっとこっちィ来てくれよ、おゥ、辰っつぁん、おめえはたいそう強えンだってなあ」
「たいへんはわかったよ。なんだ、言ってみろよ。こっちはなにがあったっておどろきゃしねえんだ。なあ、背中に天狗の彫物がしてある天狗の辰てんだおらァ、鬼が来ようと蛇《じや》が来ようと、びくともするんじゃあねえや」
「そうだってなッ……鬼や蛇じゃねえんだよ。……二階に狐がいるんだ。ちょっと見て来いや」
「……ッてやんでえ、べらぼうめ、おれは天狗の辰だァ……鬼や蛇はおどろかねえ、……だが狐はだめだ」
「なにを言ってやんでえ。天狗もひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]もあるけえ。鬼でも蛇でもねえ、狐だってことよ」
「うん、狐ねェ……狐はいま断ってるんだ。ここンところ鬼と蛇にかかりっきりで手がはなせねえ。狐のほうは来月、半ば過ぎに……」
「なにを言ってやんでえ。強え強えってでけえことばかり言いやがるくせに……いいや、いいや、もう頼まねえ。さあ、みんな、いいか、旦那の留守のあいだに、扇屋に狐が来て、料理ただ食って土産まで持ってかれちゃあ、こっちは店預かってて、このまま旦那に顔向けができねえや。かまうこたァねえから、その狐ェ叩《たた》きのめせ。みんな、来いッ」
若い衆が五、六人、天秤棒や箒《ほうき》やはたきや心張棒を手に、そーっと二階へ上がっていって見ると、狐のほうは女の姿のまま、勘定をどうしようかと思案中、そこへいきなり飛びこんでって、みんなでひっぱたいた、狐は不意をくらって座敷を逃げまわったが、とうとう床の間の隅に追いつめられた。もう一打《いつこつ》というときに、最後の一手、強烈な鼻をつらぬくような屁《やつ》を一発、放った。……鼬《いたち》の最後っ屁とよく言うが、この狐の苦しっ屁もそれに劣らぬ猛威で……、けえェん[#「けえェん」に傍点]とひと声、窓からびゅうッ[#「びゅうッ」に傍点]と……
「あっ、プッ……こりゃあたまらねえ。まともにくっちゃった……臭えの臭くねえの、目がまわっちゃった……おどろいたねえ。……もう一打《いつこつ》だってえとこを、惜しいことをしちゃったな」
「ただいま帰りました、なんだ? 二階の騒ぎは?」
「あッ、旦那のお帰りだ……旦那お帰り……」
「へい、旦那、お帰りなさいまし」
「なんだ、おまえたちは……鉢巻なんぞして、てんでに棒なんぞ持って、いったいなんの真似だ?」
「へえ……旦那、もうひと足早くお帰りになるてえとおもしろいとこをごらんにいれたン……夫婦《めおと》狐が店《うち》へめしを食いに来やがってねえ。雌狐のほうは飲みすぎて寝こんじまって、雄狐のほうは先に土産持ってずらか[#「ずらか」に傍点]っちまった……お竹どんが起こしにいって、『勘定ォ』ったら、その雌狐がびっくりして正体を現しやがったんで……それから、みんなで叩《たた》きのめそうてんで殴りつけたんですがね。もう一打《いつこつ》ってえときに……臭えの臭くねえの……逃げられちゃったン」
「おいっ、おまえたちゃあとんでもないことをしてくれたな」
「えッ?」
「ここはどこだ? 王子だぞ、うちの店がこうやって繁昌してるのも、みんなお稲荷さまのおかげなんだ。お狐さまてえのは、お稲荷さまのお使い姫ぐらいのことは、おまえたちも知ってるだろう。そのお狐さまが、わざわざ来てくだすったんだ。日ごろのご恩返しに、うんとごちそうしてお帰し申すのがあたりまえだ。それを殴ったり、叩いたりして、とんでもねえやつらだッ……だれだ、殴ったのは?」
「あっし……じゃあねえ」
「『あっしじゃあねえ』って、その、持ってる棒はなんだ?」
「これは……」
「その棒で殴ったな?」
「いやいや、殴りませんとも……お狐さまがお出《い》でンなるんで、どのくらいあるだろうてんで、寸法を計った」
「なにを言ってんだ……やってしまったことはしょうがない。……さ、さァ……今日は商売休みだ……どんな祟《たた》りがあるかもしれない。これからお詫びごとをしなくちゃァならない」
扇屋では、みんなして垢離《こり》をとるやら、お百度を踏む、護摩《ごま》をあげるという騒ぎ。
「はい、かしこまりました……あのゥ、ごめんくださいませ。ごめんくださいませ……まァよくおやすみでいらっしゃいますこと。……あのお客さま。ちらほら灯火《あかり》も点《つ》いてまいりました。あまり遅くなるといけません。お目覚めを……もし、お客さま、お客さま」
「はいッ……はい。……まァすっかり酔ってしまって……あいすみません。あらっ、連れの者はどういたしました」
「なんでも、このご近所にご親戚がおありなので、ちょっと顔出しをしてくるからと、卵焼を三人前お土産《みや》にお持ちになってお帰りになりました」
「まあ、そうですか。人を寝かしたまま帰っちまうなんてひどい人ですわね……それで、あのこちらのお勘定は?」
「それがあのゥ、あなたさまからいただくようにと……」
「えッ!」
びっくりするとたんに、狐は神通力を失って、耳がピーンと立って、口が耳もとまでピューッとさけて、うしろの方からは太い尻尾《しつぽ》がニューッと出た。女中は、
「きゃッ!!」
という声とともに二階からガラガラガラ……。
「だれだい? 二階から落っこったのは?」
「た、た、たッ……」
「なんだよ、お竹、気をつけなよ。なんのために梯子段がついてんだよ。一段ずつ降りたらいいじゃねえか。ひと跨《また》ぎにしてみろ、股が裂《さ》けちまわァ、ばか。どうしたんだ?」
「た、た、たいへんだよッ」
「なんだ? まっ青な面《つら》ァして、がたがた震えてやがる。しっかりしろいッ、え? 二階の客が『お勘定』ったら、尻尾を出した? なに言ってやんでえ。勘定で足を出すってなあ聞いたことはあるが、勘定で尻尾を出したなんて話は聞いたこたァねえ、え? 耳がピーンと立って、口が耳もとまでさけた? ほんとうかい? そりゃあたいへんだ。どうも、おらァ様子が変だとおもったんだ。……いい女だったなァ女狐のほうは……雄狐のほうはあんまりいい男じゃあねえが……うしろ姿をおらァ見てたよ。梯子段上がるときよ、そうしたら、こう、股ぐらから白いものが、ちょろちょろ見えたけど、尻尾だなァ、あれァなあ……よし、こういうときは、辰っつぁんでなくちゃあ……おいッ、辰っつぁん、辰っつぁんいるかい? ちょっと来てくんねえ」
「なんだ、なんだ、なんでえ? なんてえ騒ぎだい。喧嘩《けんか》か? 強請《ゆすり》か? 食い逃げか?」
「いえ、そんなんじゃねえんだけどね。えれえ騒ぎンなっちゃったんだよ。今日は旦那はお留守で、どうにも裁きがつかねえ、ちょっとこっちィ来てくれよ、おゥ、辰っつぁん、おめえはたいそう強えンだってなあ」
「たいへんはわかったよ。なんだ、言ってみろよ。こっちはなにがあったっておどろきゃしねえんだ。なあ、背中に天狗の彫物がしてある天狗の辰てんだおらァ、鬼が来ようと蛇《じや》が来ようと、びくともするんじゃあねえや」
「そうだってなッ……鬼や蛇じゃねえんだよ。……二階に狐がいるんだ。ちょっと見て来いや」
「……ッてやんでえ、べらぼうめ、おれは天狗の辰だァ……鬼や蛇はおどろかねえ、……だが狐はだめだ」
「なにを言ってやんでえ。天狗もひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]もあるけえ。鬼でも蛇でもねえ、狐だってことよ」
「うん、狐ねェ……狐はいま断ってるんだ。ここンところ鬼と蛇にかかりっきりで手がはなせねえ。狐のほうは来月、半ば過ぎに……」
「なにを言ってやんでえ。強え強えってでけえことばかり言いやがるくせに……いいや、いいや、もう頼まねえ。さあ、みんな、いいか、旦那の留守のあいだに、扇屋に狐が来て、料理ただ食って土産まで持ってかれちゃあ、こっちは店預かってて、このまま旦那に顔向けができねえや。かまうこたァねえから、その狐ェ叩《たた》きのめせ。みんな、来いッ」
若い衆が五、六人、天秤棒や箒《ほうき》やはたきや心張棒を手に、そーっと二階へ上がっていって見ると、狐のほうは女の姿のまま、勘定をどうしようかと思案中、そこへいきなり飛びこんでって、みんなでひっぱたいた、狐は不意をくらって座敷を逃げまわったが、とうとう床の間の隅に追いつめられた。もう一打《いつこつ》というときに、最後の一手、強烈な鼻をつらぬくような屁《やつ》を一発、放った。……鼬《いたち》の最後っ屁とよく言うが、この狐の苦しっ屁もそれに劣らぬ猛威で……、けえェん[#「けえェん」に傍点]とひと声、窓からびゅうッ[#「びゅうッ」に傍点]と……
「あっ、プッ……こりゃあたまらねえ。まともにくっちゃった……臭えの臭くねえの、目がまわっちゃった……おどろいたねえ。……もう一打《いつこつ》だってえとこを、惜しいことをしちゃったな」
「ただいま帰りました、なんだ? 二階の騒ぎは?」
「あッ、旦那のお帰りだ……旦那お帰り……」
「へい、旦那、お帰りなさいまし」
「なんだ、おまえたちは……鉢巻なんぞして、てんでに棒なんぞ持って、いったいなんの真似だ?」
「へえ……旦那、もうひと足早くお帰りになるてえとおもしろいとこをごらんにいれたン……夫婦《めおと》狐が店《うち》へめしを食いに来やがってねえ。雌狐のほうは飲みすぎて寝こんじまって、雄狐のほうは先に土産持ってずらか[#「ずらか」に傍点]っちまった……お竹どんが起こしにいって、『勘定ォ』ったら、その雌狐がびっくりして正体を現しやがったんで……それから、みんなで叩《たた》きのめそうてんで殴りつけたんですがね。もう一打《いつこつ》ってえときに……臭えの臭くねえの……逃げられちゃったン」
「おいっ、おまえたちゃあとんでもないことをしてくれたな」
「えッ?」
「ここはどこだ? 王子だぞ、うちの店がこうやって繁昌してるのも、みんなお稲荷さまのおかげなんだ。お狐さまてえのは、お稲荷さまのお使い姫ぐらいのことは、おまえたちも知ってるだろう。そのお狐さまが、わざわざ来てくだすったんだ。日ごろのご恩返しに、うんとごちそうしてお帰し申すのがあたりまえだ。それを殴ったり、叩いたりして、とんでもねえやつらだッ……だれだ、殴ったのは?」
「あっし……じゃあねえ」
「『あっしじゃあねえ』って、その、持ってる棒はなんだ?」
「これは……」
「その棒で殴ったな?」
「いやいや、殴りませんとも……お狐さまがお出《い》でンなるんで、どのくらいあるだろうてんで、寸法を計った」
「なにを言ってんだ……やってしまったことはしょうがない。……さ、さァ……今日は商売休みだ……どんな祟《たた》りがあるかもしれない。これからお詫びごとをしなくちゃァならない」
扇屋では、みんなして垢離《こり》をとるやら、お百度を踏む、護摩《ごま》をあげるという騒ぎ。
「よう、兄ィたいそうご機嫌じゃあねえか。なんかあったのかい?」
「へへへ、それがばかな話。これは手土産代わり、扇屋の卵焼だけど……」
「すまないねえ。いつもいつもごちそうさま。おや、扇屋かい? 安かァないよ。贅沢《ぜいたく》なもんだな。だいぶかかったろう?」
「それがただなんだ」
「ただ? 官費かい?」
「いや、狐《こん》費」
「なんだい? こん[#「こん」に傍点]費てえのは?」
「それがね、王子のお稲荷さまへ初午をすっかり忘れて、一日ずれてお詣りに行った帰りに狐が出てきやがって、乙《おつ》な新造に化けやがった。『玉ちゃん』ってったら『あァい』って返事しやがんの。それから、おれはうめえことを言って扇屋へ連れこんで、さんざん飲んだり食ったり……とうとう狐的《こんてき》の畜生、酔っぱらって寝ちまやがった。それから、おれァ卵焼を持ってずらかり[#「ずらかり」に傍点]……」
「なァんだ、じゃ、なにか? おい。あべこべに狐ェ化かしゃがったんじゃねえか。……へえェ、たいへんなことをやりゃあがったなァ、こいつァ。おまえが間抜けで、一日ずれてお詣りに来たから、お稲荷さんがさびしいだろうってお使い姫をさし出したんだ。なぜおまえはそういうことをするんだ。え? 勘定はどうした?」
「あとで狐が勘定してくれる」
「ばかなことを言いなさんな。……狐が勘定できるか? うまく逃げられればいいぞ。もしも扇屋の若い者《もん》かなんかに見《め》っかって、『畜生ォ』かなんかいって、殺されないまでも、殴られでもしてみろ。『くやしィィ』ってんで恨まれるぞォ、遺恨が、ええ?……狐ってえものは執念|深《ぶけ》えもんだからな。おまえはなんだぞ、とり殺されるから……おめえ一人じゃあねえ、一家みな殺しだ。……言われて見ると、おまえの口が少しとんがって[#「とんがって」に傍点]きた。耳が長く……」
「じょ、じょ、冗談言っちゃあいけねえ」
「冗談じゃあねえ。家ィ帰《けえ》ってみろ、かみさんが向こう鉢巻かなんかしてなァ、采配《さいはい》を持ってテケレッテン、スケテン、テン……って、お神楽かなんか踊ってるぞォ。おまえさんが帰ってくると、どこへ行ってたの? コーンてなことを言って、おまえさんの咽喉笛くらいつくよ」
「そりゃァえれえことンなっちゃった」
友だちにおどかされて酔いもどこへやら、とって返そうとおもったが、夜中、とうてい王子へは行かれない。家へ帰ってきてみるとなにごともないので、ひと安心。その晩は一睡もしないで、あくる日、朝早く起きて、手土産を用意して、王子へ詫びにやってきた。
「へへへ、それがばかな話。これは手土産代わり、扇屋の卵焼だけど……」
「すまないねえ。いつもいつもごちそうさま。おや、扇屋かい? 安かァないよ。贅沢《ぜいたく》なもんだな。だいぶかかったろう?」
「それがただなんだ」
「ただ? 官費かい?」
「いや、狐《こん》費」
「なんだい? こん[#「こん」に傍点]費てえのは?」
「それがね、王子のお稲荷さまへ初午をすっかり忘れて、一日ずれてお詣りに行った帰りに狐が出てきやがって、乙《おつ》な新造に化けやがった。『玉ちゃん』ってったら『あァい』って返事しやがんの。それから、おれはうめえことを言って扇屋へ連れこんで、さんざん飲んだり食ったり……とうとう狐的《こんてき》の畜生、酔っぱらって寝ちまやがった。それから、おれァ卵焼を持ってずらかり[#「ずらかり」に傍点]……」
「なァんだ、じゃ、なにか? おい。あべこべに狐ェ化かしゃがったんじゃねえか。……へえェ、たいへんなことをやりゃあがったなァ、こいつァ。おまえが間抜けで、一日ずれてお詣りに来たから、お稲荷さんがさびしいだろうってお使い姫をさし出したんだ。なぜおまえはそういうことをするんだ。え? 勘定はどうした?」
「あとで狐が勘定してくれる」
「ばかなことを言いなさんな。……狐が勘定できるか? うまく逃げられればいいぞ。もしも扇屋の若い者《もん》かなんかに見《め》っかって、『畜生ォ』かなんかいって、殺されないまでも、殴られでもしてみろ。『くやしィィ』ってんで恨まれるぞォ、遺恨が、ええ?……狐ってえものは執念|深《ぶけ》えもんだからな。おまえはなんだぞ、とり殺されるから……おめえ一人じゃあねえ、一家みな殺しだ。……言われて見ると、おまえの口が少しとんがって[#「とんがって」に傍点]きた。耳が長く……」
「じょ、じょ、冗談言っちゃあいけねえ」
「冗談じゃあねえ。家ィ帰《けえ》ってみろ、かみさんが向こう鉢巻かなんかしてなァ、采配《さいはい》を持ってテケレッテン、スケテン、テン……って、お神楽かなんか踊ってるぞォ。おまえさんが帰ってくると、どこへ行ってたの? コーンてなことを言って、おまえさんの咽喉笛くらいつくよ」
「そりゃァえれえことンなっちゃった」
友だちにおどかされて酔いもどこへやら、とって返そうとおもったが、夜中、とうてい王子へは行かれない。家へ帰ってきてみるとなにごともないので、ひと安心。その晩は一睡もしないで、あくる日、朝早く起きて、手土産を用意して、王子へ詫びにやってきた。
「あァあ、おどろいたねえ。ちょいとした悪戯《いたずら》がこんなことになるとはおもわなかった。しかし、まあ、ちょっと洒落が強すぎたなあ、せめてまァ、勘定だけでも払っときゃあよかったんだが、ええ? 万物の霊長たる人間が狐ンところィ詫びに来ようとはおもわなかった。……えーと、たしかこのあたりだったな。また穴がどっさりあるねェ、たしか……この木の下で、草を頭に載せて、ひっくり返ったんだ……おやっ、唸《うな》り声が聞こえるよ……おやおや? 小《ち》っちゃな狐、はァはァ、こりゃァお子たちだな。……もしもし、お嬢ちゃんだかお坊ちゃんだかよくわからないんですけども、いいお毛並ですね。つやつやとしてお手入れがいいんでしょう。奥に唸ってる方どなた? え? おっかさんが昨日人間に化かされて……ぷっゥ、わかった……どうもすいません。化かした人間てえなァ……あたくし……いえ、大丈夫、大丈夫。昨日は、別に悪気があったんじゃあないんだけど、ついふらふらとやっちまって……おっかさんに、よォくお詫びしといておくれ、怪我ァありませんでしたか? みんなに撲《ぶ》たれて身体《からだ》が痛い? まことにすいません。……人間がぴょこぴょこ頭ァさげてましたって、よくお詫びしてちょうだい。お大事にってね。で、これ、つまらないもんだけど、ほんのお詫びのしるしだって、おっかさんにあげとくれ。……ああ、出てこなくてよござんす。あたしのほうで放りますから……よござんすか。ひのふのみッ……と、あァかわいいもんだねェ、銜《くわ》いこんじゃったよ」
「静かにおしよ、この子は……。おっかさん具合いが悪いんだよ。むやみに表へ出るんじゃあないよ。ウゥまた人間に化かされるといけない……」
「おっかちゃん、いま化かした人間てえのが来たよ」
「あらッ、まあァ……よくここまでつきとめて来やがった。人間なんてえのは執念深いもんだね。……まだいるのかい?」
「ううん。もういない。それでね、あたいのこと……お嬢ちゃんだかお坊っちゃんだかわかりませんけども、いい毛並だってほめてたぜ」
「畜生ッ、人間なんて、そらぞらしいもんだね。……まだなんか言ったかい?」
「うん。『昨日は、別に悪気があったんじゃあないんだけど、ついふらふらとやっちまって、おっかさんによォくお詫びしといておくれ。お大事に』って、ぴょこぴょこ頭ァさげていやがんのさ。で、ね、これ、『つまらないもんだけどお詫びのしるし』だって持って来たの……おっかちゃん、これ、坊におくれよ」
「いけません。このごろの人間は油断がならないんだから……あたしの見ている前で開《あ》けてごらん。いいとなったらおまえにあげるから……あけてごらん」
「あッ、おっかちゃん、おいしそうな牡丹餅《ぼたもち》だ」
「あ、あ、食べるんじゃない。馬の糞《ふん》かもしれない」
「静かにおしよ、この子は……。おっかさん具合いが悪いんだよ。むやみに表へ出るんじゃあないよ。ウゥまた人間に化かされるといけない……」
「おっかちゃん、いま化かした人間てえのが来たよ」
「あらッ、まあァ……よくここまでつきとめて来やがった。人間なんてえのは執念深いもんだね。……まだいるのかい?」
「ううん。もういない。それでね、あたいのこと……お嬢ちゃんだかお坊っちゃんだかわかりませんけども、いい毛並だってほめてたぜ」
「畜生ッ、人間なんて、そらぞらしいもんだね。……まだなんか言ったかい?」
「うん。『昨日は、別に悪気があったんじゃあないんだけど、ついふらふらとやっちまって、おっかさんによォくお詫びしといておくれ。お大事に』って、ぴょこぴょこ頭ァさげていやがんのさ。で、ね、これ、『つまらないもんだけどお詫びのしるし』だって持って来たの……おっかちゃん、これ、坊におくれよ」
「いけません。このごろの人間は油断がならないんだから……あたしの見ている前で開《あ》けてごらん。いいとなったらおまえにあげるから……あけてごらん」
「あッ、おっかちゃん、おいしそうな牡丹餅《ぼたもち》だ」
「あ、あ、食べるんじゃない。馬の糞《ふん》かもしれない」