花見酒
[#1字下げ] 世の中は月雪花に酒と三味線
人間一生のうちの、これが楽しみとしてある。そのうち、月雪はおもに雅人が好むが、花となると、雅俗ともどもみんな出かけます。しかし、酒飲みにとっては、月を見ようと花を見ようと、酒がなくてはつまらない。
「酒なくてなんのおのれが桜かな」……桜咲く花の山も酒がなければただの山……というわけ。
「どうだい、いま花盛りだってんで、みんなぞろぞろ出かけるのに、家にくすぶっているのはつまらねえじゃあねえか、どうしたんだい?」
「どうしたもこうしたもねえよ。兄《あに》いの前だが、出かけようとおもうんだが、懐中《ふところ》がさびしかったひにゃあ、どこへ行ってもつまらねえからな。しかたがねえよ」
「よせよ、こん畜生。不景気なこと言うなよ……いま向島《むこうじま》はまっ盛りで、この四、五日というところが見ごろだぜ」
「そりゃそうだろうが、こっちは花見どころじゃあねえ」
「じつはおれも花見に行こうとおもったんだが、おれもおめえとおなじ、すっからかんってやつよ。でな、それについておれはいろいろ考えて、花見をしながら、ひとつ銭|儲《もう》けをしようとおもいついた」
「へえー、さすが兄いだな」
「どうだ、おめえにひとつ片棒を担がせようとおもってきたんだが、どうだ、一緒に行かねえか?」
「お、そいつはありがてえや……で、その銭儲けってえのは?」
「なあに、造作はねえ……じつは、きのう向島へ行ったんだ。ずーとひとまわり下見をしてきたがね。白鬚《しらしげ》から奥深く行くってえと、花は見事だね。人も大勢出てやがってね。みんな花見気分になってやがんだよ。ところがね、茶店が一軒もないよ。茶店がないくらいだから、あそこへ行くと、酒飲みはみんな酒がとぎれてしまうんだ。これでおれは考えついたんだが……どうだい? そこへ酒樽を担いで行って、『一杯一貫』っていったら、飛ぶように売れるとおもうんだがねえ」
「うーん、なるほど、こりゃいいや……酒飲みというのは、なくなるとよけい飲みたくなるもんだから……こりゃ、たしかに商《あきな》いになる。だけど兄い、その酒はどうする?」
「いいってことよ。心配するねえ。そりゃなあ、いまここへくる途中、伊勢屋の番頭にかけ合って二升借りこんだ。わけ話して今夜、帰ってから勘定ということにしてな。これを三割《みつわり》の酒樽へ入れ、天秤《てんびん》にて持ち出そうてえわけよ」
「兄いは、うめえことを考えついたもんだなあ」
「いいか。もうけは山分けということにして、……五貫の銀貨《たま》を持ってきて一杯くれってえ客はねえ、そういう客には『いま小銭は出払いました』ってねえ言やあいいが、二貫の銀貨《たま》出されて、『一貫の釣銭がねえ』と言うのはいけねえから、ここに一貫の釣銭を持ってきたよ」
「そりゃ、なにからなにまで兄い行き届いてるね。じゃあ、すぐ出かけるかい」
「すぐ出かけようじゃねえか。いまいい天気だが、花に嵐というたとえ、いつなんどきポツリとこねえもんでもねえから、これから出かけよう」
「そうしよう」
「これでうまく儲けて、あとでうんと飲もう」
二人は酒屋へ行って酒樽に二升の酒を入れ、柄杓《ひしやく》と竹棹《たけざお》を一本借りて水で三割《みつわり》にして、揃いの股引《ももひき》、腹がけ、新しい手拭で向こう鉢巻して、商いに出かけた。
「さあ、いさましい門出だ。行く先は向島だ」
「ホラショ……ドッコイショ。花見の場所へ酒を持ってって、一杯一貫で売れば、どのくらい儲かる?」
「まあ、おれの考えじゃ倍に儲かるとおもうんだがね、倍はかたいぜ」
「ふーん、原価《もと》が二両だから、倍になりゃあ四両じゃねえか。なあ、売れたら、おれがさあーってんで、四両仕入れてくら。な、こいつをまた売っちまえば、四両の倍だから、うーん、はは、八両になら。な、そうしたらまた、いやーってんで仕入れてきて、八両の酒を売りゃ、八両の倍だから、ええーと、ええー……ちょいと指を貸せ」
「情けねえ野郎だ。八両の倍ぐれえ、指を貸さなくたってわかるじゃねえか、ええ? 十六両よ」
「うーん。こいつは剛気だ……おい、兄い、このなあ、樽の底のほうでもってバチャバチャっとしてやがるんだよ、音が……なあ、ふつうの水の音とはちがうねえ。やっぱり、ねばりがあるんだね。なんとも言えねえや、こりゃ」
「おい、寝てる子を起こすようなことを言うなよ」
「なにが?」
「なにがって、おまえは風上だから気がつくめえが、後棒《あとぼう》のおれは風下にいて、鼻っ先に酒樽があるんだ。風がさあっとくると、匂いがまともに鼻にぶつかる……ああ、飲みてえ」
「そうか、そりゃわるかった」
「なあ……商売物だからただ飲んじゃわるいけれども、買うぶんにはいいだろう? なあ……」
「そりゃ、そうだ。ほかの酒屋で飲みゃあ、その酒屋に一貫払って、倍|儲《もう》けられちまわあ」
「そりゃ、そうだなあ。ほかの酒屋に儲けられるよりは、この酒を一貫で買って飲みゃあ、おれとおめえが儲けるんだからなあ、無駄はねえとおもうんだがな」
「うん、よし……じゃここへ酒樽、降ろすよ」
「じゃあ、この湯飲み、そこの柄杓《ひしやく》で一杯くんでくれ……え、じゃ、一貫おめえに渡すよ」
「へえへ、どうもお客さま、ありがとう……しかしなんだな、兄いは頭がいいねえ。おれはそこまで気がつかなかったよ……なるほど、こりゃ無駄がなくっていいや」
「じゃまあ、飲むよ……飲みてえときに飲めるってえのは幸せだ……ああ、おいしいっねえ」
「おいしいだろうよ。飲んでるやつはうめえだろうが、見てるやつはちっともおいしくねえや、……おい、のどがビクビク言ってるよ。どうだい……少し残しておれにくれる気持ちはないのかい?」
「なにを言ってやんでえ。おまえは商人《あきんど》じゃねえか。商人が『酒、残しておれにくれ』なんて、ぐずぐず言うやつがあるかい? おめえだってそこに一貫もってるじゃねえか、ほしけりゃ、買ったらいいじゃねえか?」
「この一貫? あ、そうか。これで買やあいいのか」
「いいのかって、どうせ商いものだ。だれに売るのもおなじだ」
「じゃ、ひとつ売ってもらおうか」
「おお、いいとも、いいとも……へい、お待ちどうさま……」
「ああ、ありがてえ……買った酒だ遠慮することはねえ……フゥ、なるほどうまい、いい酒だあ、なんとも言えね」
「なにを言ってやんでえ……早く飲めよ」
「そうはいかない。たしない酒だから……」
「なんだ、指を突っこんでやがる。グッとやんなよ……おれももう一|杯《ぺえ》、買うんだからよ。おい、早く飲めよ……往来の人は笑ってらなあ……よしよし、この一貫渡すよ。なあ、ほかの酒屋のを飲みゃあ、無駄だ……こいつを飲んでりゃあ、お互いに儲かるんだから、ははは……なんとも言えねえや」
「兄い、おれにも一|杯《ぺえ》くれ、ここに一貫おくから」
「ああ、よしよし。おなじみだから、量《はか》りをよくしておいてやらあ、ははは……飲め飲め……うん、うん。うまそうに飲んでやがら、いいか、なるべく早く飲むんだぞ。おれもまた一貫買うんだから……いや、いや、もうひとつ……」
てんで、向島へ来た時には、ふたりともへべれけになってしまった。
「こおらこおらっと……さあ、来た、来た、ここんとこへ店を出そうじゃねえ、なんでもかまわねえから、ここへ天秤おろせ」
「ドッコラショ……」
「さあ、店開きだ。なんでもかまわねえから景気をつけてどならなくちゃいけねえ」
「ええ、さあ、いらっしゃいッ、いらっしゃい。一杯一貫、飲んで酔わなきゃお代はいりませんてえやつだッ、さあ、いらっしゃいッ」
「おい、あそこで酔っぱらいが酒売ってるよ。一杯一貫だとよ。……おもしろそうじゃねえか。こんなに酔いますってとこを見せてやがんだ。おもしろい。やい……酒屋さん、一杯、おくれ」
「へえ、いらっしゃい、えー、そのへんへお掛けなさい……」
「おいおい、見渡したところどこにも掛けるところがないじゃないか」
「じゃ、その桜の木にでもぶらさがりなさい」
「冗談じゃない……ところで酒屋さん、さっきから、樽の中かきまわしてるが、柄杓に少しも入らねえじゃねえか、ねえ」
「こうやってね、うーい……かきまわしているうちには、ひっかかります」
「なんだい、水飴みたいなことを言って……樽のなか見せろ……おい、空《から》じゃねえか」
「あ、空ですか……ははぁん、ははは……売り切れちゃった。またいらっしゃい……あれっ、兄い、そこへ寝てちゃあしょうがない、ちょっときてくれ」
「うん、……なんだ?」
「もう商いおしまい。売り切れた。一滴《ひとたらし》もねえや」
「うーむ……そいつは剛気だ。さあ、売り溜め出せ、勘定しようじゃねえか」
「う、おい、これ一貫だよ」
「えっ? おめえ二両の酒が売れて一貫てえのはおかしいじゃねえか。四両なきゃ勘定が合わないよ」
「おかしいじゃねえかって、おめえ、これっきりしかねえんだからしようがねえ」
「腹掛けの中よく捜して見ろ……おかしいぞ」
「おかしいにもなんにも、どこにもねえよ」
「一貫の銀貨《たま》、これ一つか?」
「それで、いいんだよ。兄い、よく考えてみねえ。おまえがはじめそれを持ってて一杯買ったろ?」
「買ったよ」
「で、またおれが買ってよ。な、兄いが買って、おれが買って、おめえが買って、おれが買ってよ……やってるうちに、酒二升、みんな飲んじゃったってわけだ」
「ああ、そうかあ……勘定はよく合ってる。してみると無駄はねえや」