崇徳院《すとくいん》
「ああ、熊さんか……上がっとくれ、忙しいところをご苦労さまだな」
「どういたしまして、若旦那がお加減わるいってえことを聞いて、いっぺんお見舞いにあがらなくちゃならねえとおもいながら、つい貧乏暇なしでねえ。で、どんな様子です、若旦那?」
「ありがと、ありがと。伜《せがれ》は、ひと月ほど前から、ぐわいがわるいと寝こんでしまったが、熊さんの前だけど、どうも弱ったことになってしまったよ」
「へえー、ちっとも存じませんで……そいつぁ、お気の毒なことをしましたねえ。で、なんですか、寺だの葬儀屋のほうは、もう人がまわりましたか?」
「なんだい、その寺だの葬儀屋だのってえ……うちの伜は死んだわけじゃないよ」
「へえー、まだ? なんだはか[#「はか」に傍点]がいかねえ」
「なに言ってるんだ。はか[#「はか」に傍点]なんぞいかれてたまるかい。なにしろいろいろと医者にも診《み》せたんだが、どの医者も診立《みた》てがつかないと首をかしげるばかり……病名がわからない、これがいちばん始末がわるい。今朝、ある名医におみせしたところが、これは、気病《きやま》いだとおっしゃる。なにか腹におもいつめていることがあるにちがいない。薬を飲ますよりもそのおもいごとを聞いてあげるほうが治りが早い。このまま放っておけば、重くなるばかりだと言う。そこで、あたしと番頭とでいろいろ責めてみたが、どうしても口を割らない。内気てえのも困ったもんだ。では、だれならば話すんだと問いつめたら、熊さん、おまえさんならば打ち明けると言うんだ……なあ、そう言うわけだから、ひとつ、伜に会って、そのおもいつめてることを聞き出してもらいたいんだ」
「へえ、そうですか。若旦那は小さいときからよくあっしになついていて、親にも言いにくいことも、あっしならたいがいのことは、話すでしょ。ええ、大丈夫ですよ。あっしにまかしてください」
「そうか。そりゃありがたい、さっそく頼むよ」
「若旦那、どちらへおやすみで? へえ、奥の離れに……へえ、へえ」
「あ、それから、熊さん。伜はひどく身体が弱って、先生の話じゃあ、あと五日ぐらいしか保《も》たないというんだから、あんまり耳もとで大きな声を出しちゃあいけない、身体に障るといけないからな」
「へえへえ、承知しました。まあ、あっしに万事……ええ、奥の離れと……ああ、ここだ。うわー、病人の部屋をこう閉めきってたらいけねえなあ、もし、若旦那、若旦那っ」
「あ、あ、あー、大きな声をしちゃ、いけないっていうのに……ああ、熊さんかい?」
「ああ、こりゃ葬儀屋へ行ったほうがよさそうだなあ……若旦那、そんな情けねえ声をだして、熊五郎でござんす」
「ああ、熊さん、こっちへ入っとくれ」
「若旦那、どうしました? 病名がわからないって言うじゃありませんか」
「医者にはわからないけど、あたしにはよくわかってる」
「へえー、医者にはわからなくって、若旦那にはわかってる? じゃ、おまえさんが医者になったほうがいいや、そりゃ。なんです、病気は?」
「これだけは、だれにも言わずに死んでしまおうとおもっていたが、おまえにだけは言ってもいいけど……でも、あたしがこんなことを言えば、おまえ、笑うだろう?」
「冗談言っちゃいけねえや。他人《ひと》が患っているのに、笑うやつがあるもんですか。言ってごらんなさい」
「ほんとうに笑わないかい?」
「笑いませんよ」
「笑わなきゃ言うけど……恥ずかしいっ……あははは、笑うよ」
「おまえさんが笑ってるじゃあねえか……あっしは笑いもどうもしねえから、きまりのわるいこともなんにもないから、言ってごらんなさいってえのに」
「そうかい、ほんとうに笑わないかい? じつはね……じつは……わたしの病《やまい》は……恋わずらい」
「ぷっ」
「ほら、やっぱり笑ったじゃないか」
「すいません、いっぺんだけ笑わしてもらいました……しかし、また、恋わずらいとは、たいそう古風な病気を背負いこんだものですねえ。いったい、どこで背負いこんできました?」
「ひと月ほど前に、上野の清水《きよみず》さまへお詣りにいきました」
「へえへえ、それで?」
「久しぶりにお詣りしたけれど、おまえも知ってる通り、清水堂が高台で見晴らしがよくっていい気持ちだったよ」
「そうそう、下に弁天さまの池が見えるし、向が岡、湯島天神、神田明神が見えて、左のほうに、聖天《しようでん》の森から待乳山《まつちやま》……いい眺めですからねえ」
「で、清水さまのそばの茶店で一服した」
「あそこのうちは、縁台に腰かけると、すぐにお茶と羊かんを持ってきます。あの羊かんが厚く切ってあって、うめえのなんのって……羊かん、いくつ食べました?」
「羊かんなんぞ食べやしない……こっちが休んでるところへ入って来たのが、お供の女中を三人ぐらい連れた、年のころは十七、八のお嬢さんで、この女《ひと》の顔を見ておどろいた……それはそれは水もしたたるようなお方だ」
「へーえ、ひびの入った徳利みてえな人ですね」
「ちがうよ、きれいな女の人を、水がしたたるようなと言うんだよ」
「へーえ、じゃあ、きたねえ女は、醤油がたれるかなんか言うんで?」
「ばかなことを言うんじゃないよ。あんまりきれいなので、ああ、世の中には、美しいお人もあるもんだと、あたしがじーっと見ていると、その方もこっちをじーっと見ていたかとおもったら、にこっと笑った」
「それじゃ、向こうの負けだ」
「にらっめっこじゃない……そのうちに、お嬢さんが立って出て行くと、膝においてあった茶袱紗《ちやぶくさ》が忘れてある」
「それだよ、信あれば徳あり、袱紗だって、いま安くはありませんよ」
「拾いっぱなしにしやしないよ。あたしが追っかけて行って『これは、あなたのではございませんか』と、手から手へ渡してあげると、お嬢さんがていねいにお辞儀をなさった。とたんに、だれが桜の枝へさげたか、短冊がさがっている、それが風の加減で糸が切れたとみえて、ぱらぱらと落ちてきた。その短冊をお嬢さんが拾って、じいっと見ていたが、なにをおもったかあたしのそばへ短冊を置いて、軽く会釈してお帰りになってしまった。その短冊を手にとってみると、ごらん……『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の』と書いてあるじゃあないか……」
「なにも泣かなくても……へえー、『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の』……ふん、火傷《やけど》のまじない[#「まじない」に傍点]かい?」
「そんなもんじゃあないよ。これは、百人一首にも入ってる崇徳院《すとくいん》さまの歌で、下の句が、『割れても末に逢わんとぞ思う』というんだが……これは、いまここでお別れしますが、末にはまたお目にかかれますようにという……あのお嬢さんのお心かとおもうと、もうあたしゃあうれしくて、うれしくって……」
「よく泣くねえ、若旦那、およしなさいよ」
「その短冊をもらって帰ってきたが、それからというものは、なにを見てもお嬢さんの顔に見えて……あの掛け軸のだるまさんがお嬢さんに見える。横の花瓶がお嬢さんに見える。鉄瓶がお嬢さんに見える」
「へえー、ひどくおもいつめたもんですねえ……わかった、早い話が、若旦那とそのお嬢さんと一緒になりゃあ、あなたの病気は治っちゃうんだ、え? なんでえ、心配することもなんにもねえじゃねえか。ようがす、あっしがね、大旦那にかけあいましょう。で、相手は、どこの方なんです?」
「それがわかりゃ、おまえ、苦労はない……」
「わからねえ? ずいぶん頼りねえ話ですねえ……なにか手がかりは?……うん、その短冊ねえ……ちょっと貸してください、いえ、じきにお返ししますから、心配しないで……大丈夫、心得てますから……万事、あっしの胸のうちに、まかしといてくださいよ」
「ご苦労さま、ご苦労さま、どうした、熊さん、伜のやつはなんて言ってました?」
「ええ、伜のやつはと……」
「おまえが、伜のやつてえのはあるかい」
「へえ、でも……ついね、若旦那はひと月ほど前に、上野の清水さまへお詣りに行って、茶店へ腰をかけたんですがね、あそこの茶店てえものは、腰かけると、すぐお茶と羊かんを持ってきます。その羊かんの厚く切ってあって、うめえのなんのって……」
「ふーん、すると伜は下戸だから、その羊かんが食べたいと言うのか?」
「いえいえ、羊かんは、あっしが食いてえんで……」
「だれもおまえのことなんぞ聞いちゃいないよ」
「若旦那が腰をかけてる前に、お供の女中を三人ぐらい連れた、年ごろ十七、八のお嬢さんが腰をかけたんですが、この人の顔を見ておどろいた、ひびの入った徳利みてえなんで……」
「ほほう、傷でもあったのかい?」
「いいえ、ほら、いい女のことを言うでしょ? 水がびしょびしょ……」
「それを言うなら、水のしたたるような……」
「あっ、そうだ、それ……そのしたたるってえやつ……で、若旦那が、そのお嬢さんをじっと見ていると、そのお嬢さんも若旦那をじっと見ていたとおもったら、にこっと笑った……大旦那、これをにらめっこだとおもいますか?」
「そんなことおもいやしないよ」
「そうですか、あっしゃあ、てっきりにらめっこだとおもったんですが……そのうちに、お嬢さんが立ちあがって出て行ったあとに、茶袱紗が忘れてあった。若旦那はああいう親切な方だから、これを拾って、お嬢さんに手から手へ渡してあげると、お嬢さんがていねいにお辞儀をなすった。とたんに、だれかが桜の枝へぶらさげた短冊が、風の加減で糸が切れ、ぱらぱらと落ちてきた。その短冊をお嬢さんが拾ったってんだけど、清水堂てえところは、銭にならねえものが落っこったり、拾ったりするところだとおもってね。その短冊をお嬢さんがじいっと見ていて、若旦那のそばへそれを置いて帰ってしまった。その短冊てえのがこれなんですけど……百人一首にあるすっとこ[#「すっとこ」に傍点]……どっこい[#「どっこい」に傍点]とかいう人の歌だってんだ」
「ちょっと、見せておくれ……『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の』……こりゃ、崇徳院さまの歌だ」
「火傷《やけど》のまじない[#「まじない」に傍点]だとおもうでしょ?」
「そんなことおもやしないよ。このくらいのことは知ってるよ。たしか下の句が『割れても末に逢わんとぞ思う』……」
「へえー、親子だけあって言うことがおんなじだよ、こりゃ」
「親子でなくたっておんなじさあ……この短冊がどうした?」
「そこですよ、若旦那が言うには、下の句が書いてないところをみると、いまはここでお別れしますが、末にはまたお目にかかれますようにという……そのお嬢さんの心かとおもったら、若旦那はぼーっとなって、それからというものは、なにを見てもお嬢さんの顔に見えて……掛け軸のだるまさんがお嬢さんに見える、鉄瓶がお嬢さんに見える……」
「やあ、そうかい。よく聞き出してくれた。ありがとう。親ばかちゃんりん[#「ちゃんりん」に傍点]とはよく言ったもんだ、いつまでも子供だ子供だとおもってたが……熊さん、おまえさんは、伜の命の恩人だ。一人息子のあれが、それほどおもいつめた娘さんなら、なんとしてももらってやろう。で、熊さん、頼まれついでに、先方へかけあっておくれ」
「ええ、かけあえと言えば、あっしも乗りかかった舟ですからよろしゅうござんすが、あいにく、相手のお嬢さんが、どこの方かわからないんで……」
「わからないと言ったって、日本人だろ?」
「そりゃまあ」
「熊さん、おまえ、もう一骨折っておくれ。なんとかしてこのお嬢さんを捜しておくれ、江戸中を捜してだめならば、東海道、中仙道、日光街道、木曾街道……しらみつぶしに捜しておくれ。ただは頼まないよ。いまおまえさんが住んでいる三軒長屋、あれをおまえにあげようじゃないか」
「へえ、そりゃありがたい話ですが、こりゃ、なにしろ雲をつかむようなことですから……」
「この歌がなによりの手がかり……そこに、硯箱《すずりばこ》がある。『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、割れても末に逢わんとぞ思う』……これを持って出かけておくれ……この短冊は伜へ返しといてくれ、大事にしているだろうから……さあ、こうなったら一刻をあらそうよ……伜の命にかかわることだから、なんとでもして捜しておくれ……そんなことを言わないで……おまえと伜は仲よしじゃないか……そうだ、捜しまわるのには草履《ぞうり》がいるな……おい、定吉、ぼんやりしちゃあいけない、そこに草履が十足ばかりあるだろう? かまわないから、熊さんの腰へぶるさげちまいな」
「おいおい、なにするんだよ。人の腰へむやみに草履をぶらさげちまって……仁王さまの申し子みてえになっちまったじゃねえか。まあ、大旦那、できるかできねえかわかりませんが、まあ、とにかく出かけます」
「できるかできねえかなんて、そんな心細いことを言ってちゃあいけない。医者の話じゃこのままでは伜の命はあと五日ぐらいしか保《も》たないそうだ。五日のうちに捜しておくれ。もしも捜し出さないで、伜に万一のことがあったら、あたしゃ、おまえさんを伜の仇《かたき》として名乗って出るから……」
「冗談じゃねえ。さようなら……こいつぁ、とんでもねえことを請けおっちゃったな、この忙しいのに……親ばかちゃんりん[#「ちゃんりん」に傍点]か、なるほどうめえことを言うもんだなあ……おう、いま帰ったよ」
「お帰り。なんだったんだい、お店のご用は?」
「ちゃんりん[#「ちゃんりん」に傍点]」
「なんだい、ちゃんりん[#「ちゃんりん」に傍点]てえの?」
「ちゃんりん[#「ちゃんりん」に傍点]てえのがばかばかしいったって、おめえ……おれもおどろいたよ。若旦那が病気だってんだが、その病気てえのがおめえ、どこかのお嬢さんに恋わずらいだとよ。ところが、そのお嬢さんがどこの人だかわからねえ。そのお嬢さんをおれに捜し出してくれってんだ。ただは頼まねえや。大旦那のことだ。うまく捜し出したら、この三軒長屋をおれにくださるとよ」
「あーら、おまえさん、おまえさんに運がむいてきたんだよ。しっかり捜しておくれよ」
「おめえはそう言うけど、それがまったく雲をつかむような話で、どこのお嬢さんだか、まるっきりわからねんだぜ」
「たいそう草履がぶらさがってるね、え……歩いて捜すからって? 十足? 十足じゃあ足らないよ、ここにも十足あるから……」
「おいおい、おめえまでがおなじように……おい、おれの腰は草履だらけよ。荒物屋の店先みてえにしちまって……」
「しっかり捜してくるんだよ」
あっちを捜し、こっちを尋ねましたが、その日はわかりません。そのあくる日は、朝早くから弁当持ちで捜したがわからずじまい、またそのあくる日もわからない。
「あー、とんだことを請けおっちまったな。こうへとへとに疲れちまっちゃあ、わるくすると、若旦那よりもおれのほうが先にまいっちまうぜ……帰りゃあ、かかあのやつが文句言いやがるし、まったくいやんなっちまわあ……おう、いま帰った」
「お帰り、その顔つきじゃあ、きょうもまただめだったんだね、どうするんだよ、じれったいっ」
「じれったい? やかましいやい、こん畜生、おれだって一所懸命捜してるんじゃねえか」
「どんな捜し方してるんだい?」
「このへんに、水のたれる方はいませんか……」
「土左衛門を捜してんじゃないよ、この人は。水のたれる方なんて言ったってわかるもんかね。おまえさん、旦那に歌を書いてもらったんだろ? それがなによりの手がかりじゃあないか、それを表を歩いてて、人の大勢集まっているようなところで、大きな声でどなってごらん。そうすりゃ、それを聞いた人のなかには、その歌ならどこそこの娘さんが、どこそこのお嬢さんがって、名乗って出る人があるかも知れないじゃあないか。それでもだめなら、床屋とかお湯屋とか、人の集まるところへ行ってどなってごらん。床屋もお湯屋も空いているところはだめだよ。あした捜して来なかったら、おまんま食べさせないよ」
たいへんな騒ぎで……あくる日になると、熊さんは、朝めしもそこそこにして出かけた。
「ああ、情けねえなあ、三軒長屋どこじゃあねえや、しまいに捜してこねえと、めしを食わせねえっていいやがらあ……あの歌をどなって歩けったって、きまりがわるいじゃあねえか……大勢人が集まってらあ、瀬をッ……瀬をッ……えへんっ……瀬をッ」
「ちょいと豆腐屋さん」
「ちがうちがうッ。豆腐屋とまちがえてやがら……こっちは都合があって、こういう声を出してるんだよ。瀬をはやっみっ、岩にせかるる滝川のおっ……あれっ、ずいぶん子供がついてきたね、人を気ちがいとまちがえてやがる。あっちへ行け、あっちへ行けってんだ……瀬をはやみー」
「ウー、ワンワンワンっ」
「シッ、シッ、犬までばかにしてやがる。こりゃ、どなりながら歩いてもうまくいかねえや。床屋へでも行ってみるか……こんちはぁ」
「いらっしゃい」
「混んでますか?」
「いまちょうど空いたところで……」
「さようなら」
「もし、空いてますよ」
「空いていちゃいけねえんだ。こっちは都合があって、混んでる床屋を捜してるんだい……こんちは」
「いらっしゃい」
「混んでますか?」
「ええ、ごらんの通り、五人ばかりお待ちなんで、ちょっとつかえてますから、あとで来ていただきましょうか」
「いえいえ、そのつかえているところを捜しているんです」
「どぶ掃除みたいな人だね……ま、一服おやんなさい」
「そうさせてもらおう……すいません、そこでお待ちの方、ちょいとたばこの火を……へえ、ありがとうございます……えへん、瀬をはやみーッ」
「ああ、びっくりした。あなた、なんです? 急に大きな声をだして……どうしたんです」
「すいません。別におどかすつもりじゃあないんですが、ちょいと都合があるもんですから……やらしてもらいます……えへん、えへん……瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……」
「ほう、あなた、それは崇徳院さまのお歌じゃありませんか?」
「よくご存知で?」
「ええ、なんですか、このごろうちの娘が、どこで覚えてきたか、始終その歌を口にしておりますので……」
「えっ、お宅のお嬢さんが?……つかぬことをうかがいますが、お宅のお嬢さん、いいご器量ですか?」
「親の口から言うのもなんですが、ご近所では、鳶《とんび》が鷹を産んだなんて申しておりますがね」
「そうですか……水がたれますか?」
「水? ときどき寝小便はしますが……」
「おいくつで?」
「五歳《いつつ》です」
「さようならッ……瀬をはやみ……」
それから熊さん、床屋へ三十六軒、お湯屋へ十八軒、まわって、夕方になるとふらふらになって……
「こんちは……こんちは」
「いらっしゃい」
「お宅は床屋さんでしょう?」
「そうです」
「やってもらえますか?」
「ええ、やらないことはありませんがね、おまえさん、朝から三べん目じゃあありませんか」
「そうかもしれません。床屋は三十七軒目ですから……顔なんぞヒリヒリして……」
「まあ、一服おやんなさい」
「やすましてもらいます……瀬をはやみ……」
「はあ、だいぶ声も疲れてきましたね」
そこへ飛びこんで来たのが、五十がらみの鳶《とび》の頭《かしら》で……。
「おう、親方、ちょっと急ぐんだけど、やってもらえねえかい?……あっ、そこに待っている人がいた、弱ったなあ」
「あたしですか? あたしならいいんですよ」
「もう、どこも剃るところがないんですから……」
「そうですか、すいませんねえ。じゃあ、親方ひとつ頼まあ」
「ああ、いいよ。しかし、ばかに急ぐんだねえ」
「うん、お店《たな》の用事でな」
「お店といえば、お嬢さんのぐあいはどうだい?」
「それがな、かわいそうに、もうあぶねえってんだ」
「えっ、あぶない? 気の毒になあ、あの小町娘が……」
「旦那もおかみさんも目をまっかに泣きはらっしゃって、気の毒で、見ていられやしねえ」
「けど、あのお嬢さん、いったい何の病気なんだい?」
「それがおめえ、病名がわからねえってんだ。こりゃ始末がわるいじゃねえか。一人娘だけに大旦那は心配をしてね、家の者だけじゃ手が足りねえってんで、出入りの者をそっくり集めて、あすこの先生はお上手だ、あすこの医者へ行ってこいって、毎日駆けずりまわって、こっちはおめえ、湯へ入る間もなきゃあ、髭をあたる間もねえってんだよ。それが三、四日前にやっとわかったんだけどね、ばかばかしいったって、おめえ、恋わずらい」
「へえ、あたしに?」
「ずうずうしいことを言うない。おめえなんぞにだれが恋わずらいをするかよ……なんでもひと月ばかり前に、お茶の稽古の帰りに、上野の清水さまへお詣りに行って、茶店へ入ると、前に若旦那風のいい男が腰をかけていたそうだ。あまりいい男なので、お嬢さんが見とれているうちに、茶袱紗を落としたのも気づかずに茶店を出て来ちまったら、その若旦那が親切な人で、茶袱紗を拾ってくれたってんだ。いい男ってえものは、なにをしても得なもんだね。お嬢さんがその茶袱紗を手から手へ受けとるときには、身体がびゅうと……震えてね。それから三日のあいだ震えがとまらなかった」
「へーえ、うちのおやじなんぞ、三年も震えがとまらないよ」
「ありゃ中気じゃねえか。なに言ってんだ……そんなことだから、うちへ帰ってきたって、ご飯がのどに通らない、おまんまばかしじゃねえ、おかゆが通らない、重湯が通らない、お湯が通らない、水が通らねえ……身体は糸みてえに細くなっちまって、床についたっきり頭もあがらねえというありさまよ。それがその若旦那に恋わずらいてえことがわかったもんだから、なんでもかまわねえから、その若旦那を捜せということになって、出入りの者がみんな狩りだされて、江戸中を捜しまわったんだが、どうしてもわからねえ、若旦那を見つけた者には、五十両出そう、そのうえに樽を積もうじゃないか、積み樽をしてくれようってんだ。それも一樽や二樽なんて、そんなしみったれなんじゃねえんだぜ、二十本積んでくれようってんだ」
「へえっ、四斗樽《しとだる》を?」
「そうさ、五十両に酒樽二十本積んでみねえ。お祭りみてえな騒ぎだぜ、さあ、みんな目の色かえて、なんでもかまわねえ、若旦那を捜せ。おれが捜す、われが捜すって、江戸中はおろか、日本人にはちがいないからって、こうなったら日本じゅうを捜せって、おとといの朝、番頭が東海道を捜そうって京大坂へ発《た》って、きのう中仙道を捜せって奉公人が五人、組をつくって発った。あっしはこれから奥羽、仙台へ……」
「へーえ、たいへんな騒ぎだね……けど、なにか手がかりになるようなものでもあるんですか?」
「なんでもね、短冊ってえやつをお嬢さんが若旦那に渡してあるんだそうだ。それがむずかしい歌でねえ……ここに書いてもらって持ってんだが……『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、割れても末に逢わんとぞ思う』……この歌がなによりの手がかり……」
「三軒長屋っ……三軒長屋っ」
「おいおいっ、なにをするんだ。いきなり人の胸ぐらつかまえて……」
「てめえを捜そうとおもって、床屋へ三十六軒、お湯屋へ十八軒……ここに三軒長屋が落っこっていようとはおもわなかった……瀬をはやみ岩にせかるる滝川のっ……」
「おやっ、この野郎、てめえ、よくその歌を知ってやがる。え? てめんところのお店の若旦那が?……こりゃ、いいところで会った。もう少しで奥羽、仙台へ出かけちまうところだった……この野郎っ、ここに五十両と酒樽がころがっていようとはッ……さあ、離さねえぞ、この野郎っ」
「なにを? こっちこそ離さねえぞ、てめえをうちのお店《たな》へ……」
「てめえをうちのお店へ……」
「おいおい、待った待った。二人でそんなところで取っ組み合いなんぞしちゃあ、あぶないよ……あぶないったら……よしな……よしなッ」
言ってるそばから、大きな花瓶が倒れて、前の鏡にぶつかったから、花瓶も鏡もめちゃくちゃ……。
「ほら、言わねえこっちゃあねえや。鏡をこわしちまって、しょうがねえじゃねえか」
「いや親方、心配しなくていいよ。割れても末に買わん(逢わん)とぞおもう」