大工調べ
「おう、与太郎いるか?」
「ああ、棟梁《とうりゆう》、おいでなさい」
「どうした? ぼんやりしてるじゃねえか。おめえ、身体でも悪いのか? おう、仕事に出てこねえでよ」
「えっへへへ……棟梁のまえだけどもね、おれは身体なんぞ悪くねんだよ。身体は丈夫すぎて、しょうがねんだ。どうしてこんなにめしが食えるんだろう……とおもってね、おれは情けねんだ」
「なにを言ってやがんでえ。おふくろはいねえようだが、どうした? なに? 墓詣りか? ああ、そいつァ結構だ。年寄りは墓詣りがいちばんだからなあ。それにおめえは感心だ。よくおふくろの面倒を見るからなあ。それについてって言うのもなんだが、今度はまたいい仕事ができたぜ。番町のほうのお屋敷の仕事でなあ、とにかく一年と続こうてえ大仕事だ。おれたちはまあ、仕事さえありゃ大名《でえみよう》ぐらしだ。もう心配《しんぺえ》するこたあねえや。あしたっから仕事がはじまるんでな、今日じゅうに道具箱を屋敷へ持ち込んじまおうとおもうんだ。そうすりゃなあ、あしたは手ぶらで行けるってえ寸法だ。だから、道具箱をおれんところへ持ってっとけ。若《わけ》え者が車で引っぱって行くからな。ええ、おい与太、わかったか?」
「仕事はいつからはじまるんで?」
「だから、あしたっからよ」
「そいつは困っちゃったなあ」
「どうした? ほかに請《う》けあった仕事でもあんのか?」
「いや、仕事なんか別にありゃあしねえ」
「じゃあ、困るこたああるめえ?」
「それがよくねえんだよ、道具箱がねんだもの」
「あれっ、この野郎、ばかっ、職人が道具といやあ命から二番目のものじゃねえか。そんなに長《なげ》え休みでもなかったじゃねえか。おもちゃ箱を食っちまうやつもねえもんじゃあねえか?」
「なあに、食やあしねえ。あんな堅えもの、金槌なんぞかじれやしねえや」
「なに言ってやんでえ。その食ったんじゃあねえよ。質へ持ってったのか?」
「質なんぞに持ってくもんか。持ってかれちゃったもの」
「なんだなあ、商売道具を持ってかれちまうなんてだらしねえじゃあねえか、まったくどうも……よく戸締まりをしねえで寝てるからよ」
「ううん、寝ているとき持っていかれたんならいいんだけど、起きてるとき持っていかれちゃったんだよ」
「じゃ、てめえ、うちにいなかったのか?」
「いたんだよ。ちゃんと……」
「居眠りでもしてたのか?」
「なあに、居眠りなんぞしてるもんか。ちゃんと大きな目をあいて、持ってくやつを見てたんだ」
「よせやい、この野郎、見てるやつもねえもんだ。どうして泥棒とかなんとかどなんなかったんだ?」
「うん、どなってやろうかとおもってね、そいつの顔を見たら、怖《こえ》え顔しやがったからやめちゃった、ここが堪忍のしどころだと……」
「ばかだな、こん畜生。てめえは弱くっても、意気地《いくじ》がねえにしろよ、おめえがどなりゃあ、長屋の者はだれだって出てきてくれらあな、泥棒だって重いものを持ってるんだ。早くは逃げられやぁしねえ。近所の人がみんな出てくりゃ、すぐにふんづかまえちゃったんだ。しょうがねえ、じゃあ、そいつの面《つら》ァ、覚えてるな?」
「うん、忘れようったって、忘れられねえ面だ」
「そうか」
「うん、今朝もそいつと井戸端ンとこで会っちまった」
「そりゃうまくやりやがったな。とっつかまえたか?」
「それからおれが、お早うございます」
「挨拶なんぞしてるやつがあるか……ああそうか、しらばっくれてあとをつけて、そいつの家をたしかめようてんだな?」
「いや、家なんぞたしかめなくってもいいんだ。前からわかってんだから」
「教えろ、おれが取り返してやるから、どこだ? そいつの家は」
「この露地をでた右っ側の角の家よ」
「右っ側?……ありゃおめえ、家主《おおや》の家じゃあねえか?」
「そう」
「家主の家を聞いてんじゃねえんだ。その泥棒野郎の家を聞いてんだよ」
「だから、家主さんが持ってったんだよ」
「すると、おめえ、たまってた店賃《たなちん》の抵当《かた》かなんかに持ってかれたんじゃあねえか?」
「あははは、当たった」
「ばかっ、当たったじゃあねえ。そんならそうと早く言うがいいじゃあねえか。いってえいくらためたんだ?」
「一両二分と八百《はつぴやく》文」
「ずいぶんためたなあ」
「ちっとも骨を折らねえでたまっちまった」
「あたりめえだ、こん畜生は。……ま、そんなこともあるだろうとおもって用意してきたがなあ……一両二分と八百は困ったなあ……さあ、じゃあ、ここにこれだけあるからな、これを持ってって、よく家主にわけを話して道具箱を返してもらえ。さあ早く言ってこい。なにをぐずぐずしてるんだ?」
「どうもすいませんねえ。いつも棟梁にゃあお世話になっちまうからどうも……でも、棟梁、こりゃ、額が六枚じゃあねえか?」
「そうだよ」
「そうするてえと、こりゃなんだな、一両二分だなあ」
「そうだよ」
「店賃の借りが一両二分と八百あるんで……そこんとこへもってきて、ここんところに一両二分しかねえから……ええーと………」
「じれってえなこの野郎。八百不足だというんだろう?」
「ああそうだ」
「しっかりしろやい。いいか、一両二分と八百のところへ、一両二分持ってくんだ。あとの八百ぐれえ、おん[#「おん」に傍点]の字よ」
「なんだ? おん[#「おん」に傍点]の字てえなあ」
「あたぼう[#「あたぼう」に傍点]てんだ」
「なんだ? あたぼう[#「あたぼう」に傍点]てえなあ」
「いちいち聞くない。あたりめえだべらぼうめてんだよ、江戸っ子だよ、あたりめえだべらぼうめなんか言ってりゃあ、温気《うんき》の時分にゃあ言葉が腐っちまわ。だから、つめてあたぼう[#「あたぼう」に傍点]でえ」
「へーえ、うまくつまっちまうもんだなあ」
「感心してるやつがあるかい……考《かん》げえなくたって八百足りねえにきまってる、一両二分持ってって道具箱を早く取って来いってんだ」
「渡すか?」
「てめえは人がいいなあ。渡すも渡さねえもあるもんか。よく考《かん》げえてみろ、道具というものがあるから大工は仕事をして、暑くなく寒くなくして暮らしていかれるんだ、その道具箱を取り上げて店賃を催足するてえのはまちがってる。言い尽《ず》くならただでも取れる仕事だ。だが、相手が悪《わり》いやい。町役《ちようやく》なんぞやってるんだから、まあ長えもんには巻かれろってえことがある。下手にでて、犬の糞で敵《かたき》をとられてもつまらねえから、よくわけを話して、これだけ持ってって道具箱をおくんなさいと言うんだ。いいか、わかったら、早く行ってこい、おれは待っててやるから。門限があるんだ。門留め食っちまうとおめえ困るぜ、さあ、早く行ってこい」
「じゃあ、行ってくらあ……ああ、おどろいちまった。棟梁もいいけど二言《ふたこと》目にはまっ赤になって、けんつく[#「けんつく」に傍点]ばかり食わせるんだからやりきれねえや。おまけに家主ときたひにゃあ、しみったれで話がわからねえときてるんだからやんなっちゃうよ。あーあ……家主さーん」
「おい、婆さん、与太郎の野郎……やって来やがった。え、人の家の前に突っ立ってやがる。なんとか言え……なにしに来たんだ?」
「道具箱……よこせ」
「なんだ、口のきき方を気をつけろよ。よこせてえ言い草があるか?……おい、婆さん、おまえそういうことを言うからいけないんだ。そんなこったからあいつがいつまでたっても甘ったれ了見でいるってんだよ。店賃《たなちん》の抵当《かた》に預かった道具箱だ。店賃をもってこないうちに返しちゃあだめだ。おまえは黙ってなさい……おい、与太、道具箱がほしけりゃ、店賃をもってこい」
「店賃、ここに、あらあ」
「あるんなら出せ」
「うん、ほれ、受けとれ」
「なんだばか野郎、放り出すやつがあるか。なんてえ罰《ばち》あたりだ。いいか、お宝てえぐらいのもんだぞ。こういう了見だからてめえは貧乏する、ほんとうに……婆さん、そっちのほうへ銭は飛んでねえか? なに? 飛んでねえ? おかしいな。おい、与太、いつまでも突っ立ってねえで座りなよ。いいからお座りよ。おい、こりゃ一両二分のようだな」
「そう」
「そうなんてすましちゃあいけねえな。八百足りねえじゃあねえか」
「ああ」
「八百足りねえよ」
「いいよ」
「よかあねえや……この足りねえところはどうしてくれる?」
「だからあの、八百はなんだ、あの、おん[#「おん」に傍点]の字だい」
「なんだ、おん[#「おん」に傍点]の字てえのは」
「だから、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]だい」
「なんだ? そのあたぼう[#「あたぼう」に傍点]てえなあ」
「教えてやろうか。おれも知らなかったんだ。あたりめえだべらぼうめってえのをつめて言うとあたぼう[#「あたぼう」に傍点]」
「ふざけたことを言うな……ばか野郎、どうかしてやがる。てえげえにしろ、まぬけめ。おれはてめえの気を知ってるから怒りゃあしねえが、そういうわけのもんじゃねえぞ。なんぼ職人で口のききようを知らねえたって、言いようもあるもんだ。それを、おん[#「おん」に傍点]の字だの、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]だのと、それも足りなく持ってきやがって、なにを言やがんだ」
「ほんとうなら、なんだい、ただだって取れるんだい」
「なんだ?」
「あ、相手が悪《わり》いやい。あの……相手が町役でもって……ええと、長いものに巻かれて、犬の糞だい」
「なにを言ってやがる、ただだって取れる?……そうか、どうも変だとおもったよ。てめえの知恵じゃあねえな。だれかてめえ、尻押しがいるんだろう? てめえはともかく、その尻押ししたやつが憎いや。ただ取れるものなら取ってみろ、女郎買いや博奕《ばくち》の貸借とはちがう。店賃をなんとおもってる。だれでも連れてこい。おどろくんじゃねえや。その差し金したやつをここへ出せ」
「だめだい、差し金は道具箱ん中へ入《へえ》ってらあ」
「その差し金じゃあねえや、ばか野郎……いいから帰《けえ》れ帰《けえ》れ」
「だから、あの……道具箱を……」
「ふざけるな、もう八百持ってこい」
「じゃあ、その銭を返《けえ》してくれ」
「こりゃあ店賃の内金に預かっとく」
「じゃあ道具箱は?」
「あと八百持ってこいてんだ」
「ずるいや。そんなのねえや。道具箱をよこさねえで、銭だけ取っちゃうなんて、ず、ずるいぞ」
「なにをぐずぐず言ってやがんだ。どんな野郎がついてようとおどろくもんか。矢でも鉄砲でも持ってこい、さっさと帰れ」
「さようなら……さあてえへんだ……棟梁」
「棟梁じゃあねえや、この野郎、手ぶらで帰《けえ》ってきやがった。どうした、道具箱は?」
「むこうにある」
「持ってこなくっちゃあだめじゃねえか」
「くれねえもの」
「くれねえ? 銭はどうした?」
「むこうで取った」
「え? なんだと? 道具箱をよこさねえで、銭だけ、取り上げばばあか?」
「ばばあじゃねえ。じじいが取った」
「なに言ってやんでえ。どうしたんだ?」
「八百足りねえって言うんだ」
「だから、よくわけを話したんだろう?」
「うん、八百はおん[#「おん」に傍点]の字だ、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]だってんだ」
「少し待てよ。てめえ、家主におれの言った通りにしゃべったのか?」
「ああ、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]ってなんだって言うから、わけをすっかり教えてやったら、家主は怒りやがった」
「しょうがねえ野郎だな。あきれてものが言えねえ。そんなことをむこうへ行って言うやつがあるもんか。家主は怒ったろう?」
「うん、まっ赤になって怒って、てめえの知恵じゃあねえな、だれか尻押しがいるにちがいないって言やがるから、べらぼうめえ、ただでも取れるんだが犬の糞で、長いものには巻かれて、ず、ずるいぞっ……」
「おやおや、みんな言っちまったのか。しょうがねえ、そんなこと言やあ、家主でなくたって、旋毛《つむじ》まげちまわあ……まあいいや、じゃあ、おれが行って、わけを話してもらってやるからよ。とにかく、一緒に来《き》ねえ……おれのうしろへついてこい、てめえ、なにも口をきくな、ただ頭をさげてりゃいいんだ、いいか……ごめんください……ごめんください」
「はい、どなた? ああ、なんだい、棟梁じゃあねえか。どうなすったい、裏からなんぞ入っちゃいけないよ。いつものように表から入って来てくださいよ。……おい婆さん、棟梁が見えたよ。お茶を入れなさい、それから、座蒲団を持っといで……さあさあ、どうぞどうぞ……そんなところでお辞儀されちゃあ困るなあ、いやどうもなあ、いつも婆さんと噂をしているんだ。年が若くても、よく仕手方の面倒を見なさるしね。それから裏のばか野郎ねえ、いろいろ面倒みてもらってありがとうよ。どうかまあこっちへあがって……え? だれかお連れさんがいるのかい? なんだ、ばか野郎、そこにいるんだな……やあ、棟梁、困るなあ、なんだか様子がおかしいとおもったら、おまえさん、そのばかを連れて詫《わ》びごとに来なすったかい? やあおよしよ、そんなやつの口をきいたってしょうがねえ。こんなばかはねえ。いえ、いま、あんまり言い草がひでえから、こんなやつに腹を立ったってしょうがねえんだが、叱言《こごと》を言って帰したまでの話なんだ」
「へえ、まことにすいません。なにしろ理屈もなんにもわからないやつなんで、へえ、なにしろ人間がおめでたくできあがっておりますが、これで仕事をさせりゃあ一人前以上の仕事をするもんで……それにおふくろの面倒はよく見ますし、仲間の者も目をかけてやっておりますが、長えこと遊ばしちまって……ところが、こんどいい仕事ができたんです。番町の屋敷の仕事で、まあこりゃあ、一年と続こうというような大きな仕事で、まあ、口はばってえようですが、職人なんてものは、仕事せえありゃあまた大名ぐらし、野郎を喜ばしてやろうとおもって、いま行って話をしてみると、あんまりうれしそうな面《つら》をしねえんですよ。だんだん聞いてみると、道具箱がねえ、一両二分と八百、店賃が滞《とどこお》ってって言うから、さんざっぱら叱言を言ってやったんで、そんなにたまってしまうまでうっちゃっておく法はねえ、なぜおれんところへ金を借りに来ねえんだ、質を置いたって貸してやる、雨露をしのぐ店賃をためるようなことをしちゃあいけねえてんで、ちょうど持ちあわせが一両二分しかなかったもんですから、それだけこの野郎に渡しまして、よーく家主さんにお願え申して道具箱をもらってくるように言ったんですが、根が気のいいやつですから、なにを言いましたか知りませんが、どうかご勘弁を願いたいもので……」
「いや、棟梁にそう言われりゃあ、わたしも文句はない。人の商売道具を取り上げるようなことはしたくないが、あまりこの野郎が乱暴だから、道具箱でも取り上げてやったら、いやがおうでも店賃を入れるだろうとおもって、持って来たようなわけなんだ」
「そりゃあごもっともでございますが、どうか道具箱を渡してやっておくんなすって」
「道具箱はいつでも渡してやるが、さっき持ってきた金は八百足りねえ。わたしゃまことに几帳面な性格《たち》で、たとえわずかでもそういうことはきらいなんだ、あとの八百を出しゃあ、道具箱は渡してやる」
「そいつぁ困りますね。仕事はあしたっからはじまるんで、今日じゅうにねえ、道具箱をお屋敷へ持ち込んじまうと、あしたは手ぶらで行かれるって寸法、まあ職人の貫禄をつけさしてやりてえとこうおもいますんで……門限があるんでねえ、門留めを食っちまうと困るんで、これから家へ帰って金を取って来たりしていたひにゃあ、間に合わない、それでこいつをつれて、お詫びにあがったようなわけなんでござんす。まあ、あとのところはたかが八百のことでござんすから、ついででもあったら若《わけ》え者に届けさせるようにいたしますんで、まあ家主さんひとつ、道具箱のほうをお願えいたします」
「ああわかった、わかった。だけど棟梁、おめえさんもずいぶんおかしなことを言うねえ。だってそうじゃあないか。あとはたかが八百てえなあなんだい? そりゃあおまえさんは立派な棟梁だ。八百ぐらいの銭はたかが[#「たかが」に傍点]かもしれないがねえ。あたしにとっちゃあ大金だね。それになんだい? ついででもありましたらてえのは? ついでがなければ八百の銭はそれっきりになってしまうんだろう。そんなことじゃあ承知ができねえ」
「いいえ、そんなつもりで言ったんじゃあねえんで……まあ、あっしの口のきき方はぞんぜえ[#「ぞんぜえ」に傍点]だから、気にさわったら勘弁しておくんなさい。まあ、あとの八百は、うちの奴《やつこ》にすぐ放り込ませますから……」
「よしとくれ。うちは賽銭箱じゃあねえんだから、むやみに放り込まれてごらん、あたりどこがわるけりゃあ怪我しちまわあ」
「べつに表から放り込もうってんじゃあねえんでさあ……家主さんのところだってねえ、道具箱を預かっといたってしょうがねえでしょう? あっしのほうじゃあ道具箱がいるんだ。それだからさんざんあっしがこのとおり頭をさげて頼んでいるんで……」
「なんだ? おまえさんが頭をさげたからどうなるってえんだい? 棟梁、おまえさんの頭は八百の銭でピョコピョコさげるようなそんな安い頭か。だれに言うんだい、そりゃあ? あたしゃこう見えても町役人《ちようやくにん》だよ。おめえはたかが大工じゃあねえか。職人が町役人の前で頭をさげたのがどうだっていうんだ? 生意気なことを言うねえ。頭なんぞさげてもらいたくねえや。どうしても道具箱が欲しかったら、あと八百持ってきな、鐚《びた》一文欠けたって渡してなんかやるもんか」
「家主さん怒っちゃあ困るね、あっしはおまえさんとこへ喧嘩をしに来たんじゃあねえんだから、どうかそんな因業《いんごう》なことを言わねえで渡しておくんなさいな」
「ああ、因業だよあたしゃあ、このあたりでも因業家主で通ってるんだから、ああ因業ですよ」
「なにもそんな大きな声を出さなくとも……」
「大きな声は地声だよ。まだせりあがらあ」
「じゃあ家主さん、あっしがこれほどお願え申しても、どうあっても道具箱を渡してくれねえっておっしゃるんですかい?」
「いやに念を押しやがるな、渡さねえと言ったら、どんなことがあっても渡すこたあできねえんだ。金を揃えて持って来たら渡してやるが、それまでは渡すことはできねえ。渡さなけりゃあどうしようというんだ?」
「どうもこうもしようはねえ。いらねえて言えばそれでいいんでえ。道具なんざあ集めりゃいくらでもあるんだ、家主《おおや》さんとかなんとか言ってりゃあつけあがりやがって、なにをぬかしやがんでえ、この丸太ん棒めっ」
「な、な、なんだ、丸太ん棒だあ……おっ、婆さん、おめえ逃げるこたあねえやな、逃げるときゃ一緒に逃げらあな……おい、棟梁、他人《ひと》の家で尻をまくって大あぐらかいて、人間をつかまえて丸太ん棒とはなんてえ言い草だっ」
「なにを言ってやんでえ。てめえなんざ丸太ん棒にちげえねえじゃあねえか。血も涙もねえ、目も鼻もねえ丸太ん棒みてえな野郎だから丸太ん棒てえんだ。呆助《ほうすけ》、ちんけえとう、株っかじり、芋っ掘りめッ。てめえっちに頭をさげるようなお兄いさんとお兄いさんのできが少うしばかりちがうんだ。なにぬかしやがんでえ。大きな面ァするない。黙って聞いてりゃあ増長して、ごたく[#「ごたく」に傍点]がすぎらい。むかしのことを忘れたか、どこの町内のおかげでもって、家主とか町役とか膏薬とか言われるようになったんでえ、ばかっ。もとのことを知らねえとおもってやがるか、蛸《たこ》の頭、あんにゃもんにゃ。うぬ[#「うぬ」に傍点]はなんだ、てめえの氏素姓を並べて聞かしてやるからな、びっくりしてしゃっくりとめてばかンなるな。やい、よく聞けよ。おう、どこの馬の骨だか牛の骨だかわからねえ野郎が、この町に転がり込んできやがって、そのときのざまァ忘れやしめえ、寒空にむかって洗いざらしの浴衣《ゆかた》一枚でもってがたがたふるえてやがったろう? 幸いと町内にはお慈悲深え方が揃っておいでにならあ。あっちの用を聞いたり、こっちの使いをしたりしてまごまごしてやがって、冷や飯の残りをひと口もらって、細く短く命をつないだことを忘れやしめえ。てめえの運の向いたのはなあ、ここの六兵衛さんが死んだからだ。六兵衛番太の死んだのを忘れたら罰があたるぜ。そこにいるばばあは、六兵衛のかかあじゃねえか、その時分にゃあぶくぶく太って、黒油なんぞつけて、オツ[#「オツ」に傍点]に気どりやがっていやらしいばばあだ。ばばあがひとりでもって寂しいばかりじゃあねえや、人手が足りなくて困ってるところへつけこみやがって、『おかみさん、水汲みましょう。芋を洗いましょう。薪を割りましょう』と、てめえ、ずるずるべったり、そのばばあとくっついて、入夫《にゆうふ》とへえり込みやがったろう? その時分のことをよく知ってるんだい。六兵衛はなあ、町内でも評判の焼き芋屋だ。川越の本場のを厚く切って安く売るから、みろい、子供は正直だい。ほかの芋屋を五軒も六軒も通り越して遠くから買いに来たもんだ。てめえの代になってからはなんてえざまだい。そんな気のきいた芋を売ったことがあるか、場ちげえの芋を売りやがって、焚きつけを惜しみやがるから、生焼けのガリガリの芋でもってな、その芋を買って食って、腹をくだして死んだやつが何人いるかわからねえんだ。この人殺しめっ」
「なんだ、なんだ。べらべらべらべらとよくしゃべりやがる。黙って聞いてりゃあおもしれえことを言いやがるな。ええ、おい、なんだ? 細く短くだ? それを言うなら、よくおぼえとけよ。太く短くてんだ」
「なにを? このばかっ、太く短くてえなあ世間にいくらもあるんだ。てめえなんぞ細く短くにちげえねえじゃあねえか。三度のめしを三度ちゃんと食ったか? 一度食って、ひくひくひくひくついでに生きてたこのばか家主めっ、飲まず食わずでもって銭を貯めやがって、高《たけ》え利息で貧乏人に貸しつけやがって、さんざん人を泣かせたじゃねえか。家主も蜂のあたまもあるけえ。さあ、こうなったら意地ずくだ。出るところへ出りゃあきっと白い黒いを分けて見せるんだ。てめえに町役てえ力があるならな、弱えこっちとらにゃあ、強えお奉行さまてえ味方がついてら。お白洲へ出て、砂利をにぎって泣き面をするねえ。こん畜生っ」
「よく大きな声をだしやがるな」
「大きな声は地声だい。まだまだせりあがらあ……おう、与太、もっと前へ出ろ」
「棟梁、あの、もう帰ろうか」
「なにを言ってるんでえ。ふるえてやがらあ、こん畜生ァ。なんだってふるえてやんでえ」
「どうも陽気がよくねえようだ」
「なに言ってやんでえ。さあ、こうなりゃあ破れかぶれだ。行きがけの駄賃でえ。かまうことあねえから、意趣返しに文句のひとつも言ってやれ」
「え?」
「文句のひとつも言ってやれよ」
「なんて言う?」
「てめえ、こんなひどい目にあって腹が立たねえのか?」
「腹が立った」
「腹が立ったら文句を言ってやれ」
「怒りゃあしねえか?」
「まぬけめっ、こっちで怒ってるんだ。かまうこたあねえから、毒づいてやれ」
「ど、ど、ど、毒づいてやろうか」
「この野郎、おれに相談を持ちかけるねえ、ほんとうに」
「じゃあ、毒づくぞ……やい、あの、毒づくから覚悟しろ、あのう、家主……さん」
「さん[#「さん」に傍点]なんぞいるもんか。家主でたくさんでえ」
「ああそうだ。家主でたくさんだい。なんだい、ほんとうに、家主……ははは、ごめんなさい」
「謝るな、この野郎、おれがついてんだ、しっかりしろい」
「あ、あ、謝ることあるか、べらぼうめえ」
「そうだ、そうだ」
「そうだ、そうだ」
「真似するない」
「てめえはなんだ、ほんとうに、てめえなんぞは、なんだぞほんとうに、えれえぞ」
「えらかねえや」
「あ、えらかねえやい、まちげえた。なんだい、てめえなんぞなんだろうほんとうに、家主だろう、家主、おーやおーや」
「なにを言ってやがる」
「家主のくせに店賃取りやがる」
「あたりめえじゃあねえか」
「てめえはなんだ……えーと、忘れた……」
「忘れちゃあいけねえ、てめえはどこの馬の骨だか牛の骨だかわからねえやつだ、とこう言ってやれ」
「てめえはどこの骨だ、馬の骨だ、牛の骨だ、犬の骨、軍鶏《しやも》の骨、豚の骨、唐傘の骨……」
「骨ばっかり並べるな、こいつは、馬の骨だよ」
「あは、ああそうだ。馬の骨だい。で、もってなんじゃあねえか。転がり込みやがって、ざまあみろい。家主コーロコロ、ひょうたんボックリコ」
「なにを言ってやがる。ちっともわかんねえじゃあねえか」
「おれにだってわかんねえ……てめえなんぞなんだろうほんとうに……寒いときにガタガタしやがったろう? ガタガタうれしがりやがって……」
「うれしがるんじゃあねえ。まごまごしたんだい」
「そうだ、まごまごしたんだい。でもって、なんじゃねえか。てめえ、そのう……細く短く……おめでたく……」
「めでたかねえや。さっさとやれ」
「細く短く、太えや」
「なに言ってやがる。細く短く命をつないだろうてんだ」
「ああ、そうだ。いま言った通りだい」
「この野郎、おれので間に合わせるな」
「なんだぞ。てめえの運の向いたのは、ここの六兵衛が死んだからだぞ。六兵衛が死んだって、てめえなんぞしみったれで香奠《こうでん》やるめえ」
「いいぞ、いいぞ」
「おれもやらねえ」
「よけいなことを言うない」
「そこにいるばばあは六兵衛のかかあじゃあねえか。その時分にゃあぶくぶく太ってやがって、黒油なめたもんだから、そんなにひからびちまったろう、干物ばばあめ」
「黒油はつけるんだ。まちがってらあ」
「ごめんなさい」
「謝るな、さあ、先をやれ」
「それから……そうだ、ばばあがひとりで寂しがってやがると、てめえがそばへ来やがって……うふふ、うまくやってやがら」
「なに言ってやんでえ」
「な、な、な、なんだい、ばばあがひとりでまごまごしてると、てめえがそばへ行って、『薪を洗いましょう、芋を割りましょう』って……」
「あべこべだい」
「あ、あ、あべこべだい。でもって、あべこべでもって、生焼けでもって、てめえ、ガリガリの芋とくっついたろ? 場ちがいのばばあめ」
「芋とくっつけるかい」
「そりゃ、いもいも[#「いもいも」に傍点]しいや」
「なに言ってるんだ。ばばあとくっついたんだ」
「その時分のこたあ……おらあ、よく知らねえぞ」
「知ってるって言うんだ」
「そうだ、知ってる、知ってる。よかあ知らねえけど……そうだ、飲まず食わずで銭を貯めやがって、いまじゃこんな立派な家主さんになっちまって……どうもおめでとうござい」
「なんだっ、おめでとうございってやつがあるもんか。毒づくんだ、毒づくんだ。しっかりしろい」
「うん、毒づくんだい、なんだいほんとうに。てめえなんぞ、出るところへ出るぞ。そうすりゃあ、白い黒いがわかるんだから、強えこちとらにゃあ、弱いお奉行さまが味方に……」
「あべこべだい」
「そうだ。あべこべがついてるんだ。でもって……あの……お白洲へ出て、砂利を食うねえ」
「砂利を食うやつがあるか。にぎるんだ」
「そうだ。にぎるんだい。砂利にぎって喜ぶない」
「喜ぶんじゃあねえ。おどろくなてんだ」
「お、お、おどろくない、ほんとうに……ざまあみろ。おどろいたか……あーあ、おれがおどろいた」
「なにを言ってやがんだ。さあ、いいや、行こう」
「どこへ行くんだい? 棟梁」
「おそれながらと駆っこむんだ」
「お茶漬けかい?」
「なに言ってやんでえ。そうじゃねえ。南の御町奉行大岡越前守さまへ駆けこみ訴えをするんだ。さあこい、おれが願書を書《け》えてやるから、細工はりゅうりゅう仕上げをごろうじろてんだ。さあ、いいから一緒に来い……やい、糞ったれ家主、おぼえてろっ」
これから、大工の政五郎が与太郎をつれて、奉行所へ訴え出たが、そのころ、差し越し願いはあいならん、順当を経てお取上げということで、なかなか取り上げてはくれないのがたてまえ。ところが政五郎の願書の書き方がうまかった。
「このたび与太郎こと、家主源六かたへ二十日あまり道具をとりおかれ、一人の老母養いかね候」という文面ですから、これはおだやかならんこと、さっそく奉行所でお取り上げになり、家主のところへお呼び出しの差し紙。
「神田三河町、町役家主源六、願人源六店大工職与太郎、差し添え人神田竪大工町金兵衛地借大工職政五郎、ならびに付き添いの者一同揃ったか?」
「はい、一同揃いましてございます」
「与太郎、おもてをあげろ……」
「与太、おもてをあげろとよ」
「え? たばこ屋の表を頼まれてたんだけど、道具箱がねえから直すことができねえ」
「その表じゃあねえ。面《つら》をあげろてんだ」
「ああそうか……へえ」
「そのほう、何歳にあいなるか? 何歳じゃ?」
「おい、年はいくつだってんだよ」
「だれの?」
「おめえのだよ」
「おれの? おれの年は……棟梁、いくつだったっけなあ」
「この野郎、てめえの年を人に聞くやつがあるか。たしか二十八じゃあなかったかな」
「ああ……たしか二十八だなあ」
「てめえでたしかをつけるやつがあるけえ」
「ええ、二十八でございます」
「うん……政五郎、そのほうは何歳じゃ?……うむ、願書の趣によれば、これなる与太郎、源六かたへ二十日あまり道具を留め置かれ、一人の老母を養いかねるとの文面じゃが、それに相違ないか? うむ……これ、源六」
「へえ」
「そのほう、大工与太郎の道具なにゆえあって二十日あまりも留め置いた? その儀はどうじゃ?」
「おそれながら申しあげます。この与太郎めは、店賃の滞《とどこお》りが四月にもあいなり、一両二分八百文ございまして、再三催促をいたしましたが、いっこうに入れようとはいたしませんので、道具箱でも持ち帰れば、その気になるかとおもいまして、ええ、その道具箱を預かりましたものに相違ございません。ところが、過日、一両二分持参いたしまして、道具箱をくれと申しましたので、八百の不足はとたずねますと、八百はおん[#「おん」に傍点]の字だだの、やれあたぼう[#「あたぼう」に傍点]だの、やれただでも取れるのと、さまざま悪口《あつこう》を申しましたので、つい言い争いをいたしまして、それがためにお上《かみ》にお手数をおかけいたしまして、恐れ入りましてございます。道具箱を預かり置きましたるは、右様《みぎよう》の次第に相違ございません」
「うん、しからば、一両二分と八百文借用のあるところへ一両二分持参いたし、八百文不足のために言い争いができたと申すのじゃな」
「御意にございます」
「うんさようか。しかし源六、そのほうの聞きちがいではないか? まさか町役を勤めるもののところへまいって、さような悪口を申すことはあるまい。これ、与太郎、そのほう、そのような悪口を申したおぼえはなかろう? どうじゃ?」
「いいえ、あの……あの、家主さんがあんまりわからねえもんですからねえ、わかるようにねえ、言ってやったんで……へえ、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]だって、あたりまえだべらぼうめって、たしかに言ってやりました」
「ひかえろッ、かりにも町役を勤める者の前でさような悪口を申すやつがあるか? 不埒《ふらち》なやつ、うむ、恩金ではないか……そのほう、ひとりの老母を養いかねると申す者が、いかがして一両二分の金子を工面いたした?」
「申しあげます。その金子は、この政五郎が貸したものに相違ございません」
「うん、政五郎、そのほうが貸し与えたか? 奇特《きとく》のいたりであるのう。だが、一両二分八百ということを承知していて、一両二分貸す親切があるならば、八百文のことゆえ、なぜ一両二分八百全部貸してつかわさぬ。さすればかように御上《おかみ》の手数をわずらわさずともよいではないか? 一両二分八百持ってまいれば、道具箱は取り戻されると申さば、与太郎にあと八百文貸し与えてはどうじゃ……ああ、さようか? では一両二分は源六が……これ、源六、政五郎はああ申すが、一両二分はそのほうへ預かり置いたか?」
「へえ、店賃の内金に預かり置きましたに相違ございません」
「さすれば、あと八百文でよいのじゃな。……さようか、では、政五郎、あと八百文与太郎に貸し与えるわけにはいかぬか? うん、与太郎、政五郎より八百文借りうけ、源六のほうへさっそく持参いたせ。そして、道具箱を取り戻し、明日から渡世に励み、老母を養うようにいたせ。与太郎、あと八百文を家主にすみやかに払え。日のべ猶予はあいならんぞ、立てっ……」
一同、ぞろぞろ、白洲の外の腰かけへ引きあげてきた。
「源六さん、どうでしたい?」
「ありがとう存じます。世の中にはばかほどこわいものはない。あきれかえってものが言われません。店子《たなこ》が家主を訴えるなんて、そんな話は聞いたことがねえ。いいえ、あいつのばかはわかってますがね、そいつを尻押しをした大ばか野郎がいるんだからおどろきますよ。高いところへあがって、トンカチやることは上手だろうが、お白洲へ出ちゃあ、まるっきり形なしだ。あたしなんざあ、毎朝大神宮さまへ手をあわして、町内繁昌なんてこたあ拝みやしねえ。町内騒動を祈っているくらいの家主だ。そういう者を相手どって、楯ついて訴えやがったって、ばかな野郎だよ、ほんとうに……おいおい、与太、さあ、八百持ってきなよ、日のべ猶予はならねえんだからな。銭がなけりゃあ尻押しのところへ行って借りてこい」
「棟梁、もう八百貸してくれよ」
「まぬけめっ、貸さねえたあ言わないが、なんだってあすこで、おん[#「おん」に傍点]の字だの、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]だのと言やがるんだ?」
「だってお奉行さまの前だもの、ものは正直に言わねえと悪かろうとおもったんだ。それにだんだん聞いてみると、こっちもあんまりよくねえみたいだ、なあ棟梁」
「ばかっ、ここまで恥をかきに来たようなもんだ……さあ、貸してやるから、持ってけ」
「うん……家主さん、持ってけッ」
「なんだ、この野郎、ふざけやがって、持ってけって言い草があるか……それじゃ、済口《すみぐち》の書面をあげるんだから、みなさん、もう一度、恥のかきついでに願います」
家主が先立ちで、ぞろぞろと白洲へ入ってずらりと並んだ。
「これ、源六、八百文うけとったか?」
「へえ」
「しからば、帰宅ののちそうそう道具箱は与太郎に渡せよ。政五郎、そのほう八百文を与太郎に貸しつかわしたか?……うむ、奇特なことじゃ。……そこで与太郎、そのほうにたずねるが、源六がそのほう宅に参り、それなる道具箱を持っていったのか?」
「家主さんがガミガミ言って店賃を払わなけりゃあ持って行くと言って担いで行っちまったんで……」
「さようか、源六、そのほう道具箱をなにがために預かった?」
「へえ」
「一両二分と八百の抵当《かた》に預かりおったのだな?」
「さようにございます」
「金子の抵当《かた》に品物を預かるというのは、いわば質屋であるな?」
「へえ」
「そのほうは質屋の株はあるか?」
「いえ……そのう……恐れ入ります」
「いや、ただ恐れ入ったではわからん。質屋の株を所持しておるのか? おらんのか?」
「へえ……どうも……恐れ入りましてございます」
「これこれ、恐れ入ってばかりおってはわからん。町役を勤めるほどの者、さようのことは心得ておろう。あるか、ないか、どうじゃな?」
「へえ、ございません」
「なに、所持しておらん? 質株なくして質物を預かるとは、なんたる不届きなやつじゃ。重き罪科を申しつけるところなれども、訴え人が店子ゆえ、このたびはさし許す。しかし、二十日の余、道具を取り上げ、これなる与太郎、ひとりの老いたる母を養いかねるというのは許しがたい。願人が大工ゆえに、科料として、与太郎に二十日分の手間賃をそのほう払いつかわせ……これ、政五郎、大工の手間賃は、一日どのくらいじゃ?」
「おそれながら申しあげます……へえ、一日の手間賃と申しますと」
「よいから、はっきり申せ。いくらだ?」
「一日に、まあ、十|匁《もんめ》ぐれえで……」
「うん、さようであるか。しからば、二十日で二百|匁《もんめ》とあいなるな。金子になおして三両二分……これ、源六、三両二分、与太郎に払いつかわせ。日のべ猶予はあいならん。立ていっ」
また腰かけへぞろぞろさがってくる。
「さあ、与太、家主から三両二分、行ってもらってこい。天道さま見通しだい。ざまあみやがれ」
「家主さん、あの……おくれよ。三両二分だあ。あははは、あの、日のべ猶予はならねえんだからなあ」
「ちえっ、汚い手を出すな、まあ、待て」
「銭がなかったら尻押しに借りてきて」
「真似するない……さあ、持ってけ」
「ありがてえ……棟梁、おまえに預ける」
「よし、それじゃみなさん、どうもご苦労さまだが、もういっぺんご迷惑ついでに……」
こんどは政五郎が先立ちで、ぞろぞろ白洲へ。……よく出たり入ったりする調べで……。
「これ、与太郎、いかがいたした? 受け取ったか? うん、さようか。これにて調べも落着《らくちやく》じゃ。源六、そのほうにとって、与太郎は店子であるぞ。下世話に申せば、家主といえば親も同然とやら……以後、与太郎をいたわってとらせよ。また与太郎も、家主に対し悪口など申すことはあいならんぞ。よいか……では、一同の者、立てっ……ああ、政五郎、これへ参れ。一両二分と八百の公事《くじ》、三両二分とは、ちと儲かったな。しかし、徒弟をあわれみ世話する奇特、奉行感服いたしたぞ」
「ありがとう存じます」
「さすが、大工は棟梁(細工は流々)」
「へえ、調べ(仕上げ)をご覧《ろう》じろ」
「このたび与太郎こと、家主源六かたへ二十日あまり道具をとりおかれ、一人の老母養いかね候」という文面ですから、これはおだやかならんこと、さっそく奉行所でお取り上げになり、家主のところへお呼び出しの差し紙。
「神田三河町、町役家主源六、願人源六店大工職与太郎、差し添え人神田竪大工町金兵衛地借大工職政五郎、ならびに付き添いの者一同揃ったか?」
「はい、一同揃いましてございます」
「与太郎、おもてをあげろ……」
「与太、おもてをあげろとよ」
「え? たばこ屋の表を頼まれてたんだけど、道具箱がねえから直すことができねえ」
「その表じゃあねえ。面《つら》をあげろてんだ」
「ああそうか……へえ」
「そのほう、何歳にあいなるか? 何歳じゃ?」
「おい、年はいくつだってんだよ」
「だれの?」
「おめえのだよ」
「おれの? おれの年は……棟梁、いくつだったっけなあ」
「この野郎、てめえの年を人に聞くやつがあるか。たしか二十八じゃあなかったかな」
「ああ……たしか二十八だなあ」
「てめえでたしかをつけるやつがあるけえ」
「ええ、二十八でございます」
「うん……政五郎、そのほうは何歳じゃ?……うむ、願書の趣によれば、これなる与太郎、源六かたへ二十日あまり道具を留め置かれ、一人の老母を養いかねるとの文面じゃが、それに相違ないか? うむ……これ、源六」
「へえ」
「そのほう、大工与太郎の道具なにゆえあって二十日あまりも留め置いた? その儀はどうじゃ?」
「おそれながら申しあげます。この与太郎めは、店賃の滞《とどこお》りが四月にもあいなり、一両二分八百文ございまして、再三催促をいたしましたが、いっこうに入れようとはいたしませんので、道具箱でも持ち帰れば、その気になるかとおもいまして、ええ、その道具箱を預かりましたものに相違ございません。ところが、過日、一両二分持参いたしまして、道具箱をくれと申しましたので、八百の不足はとたずねますと、八百はおん[#「おん」に傍点]の字だだの、やれあたぼう[#「あたぼう」に傍点]だの、やれただでも取れるのと、さまざま悪口《あつこう》を申しましたので、つい言い争いをいたしまして、それがためにお上《かみ》にお手数をおかけいたしまして、恐れ入りましてございます。道具箱を預かり置きましたるは、右様《みぎよう》の次第に相違ございません」
「うん、しからば、一両二分と八百文借用のあるところへ一両二分持参いたし、八百文不足のために言い争いができたと申すのじゃな」
「御意にございます」
「うんさようか。しかし源六、そのほうの聞きちがいではないか? まさか町役を勤めるもののところへまいって、さような悪口を申すことはあるまい。これ、与太郎、そのほう、そのような悪口を申したおぼえはなかろう? どうじゃ?」
「いいえ、あの……あの、家主さんがあんまりわからねえもんですからねえ、わかるようにねえ、言ってやったんで……へえ、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]だって、あたりまえだべらぼうめって、たしかに言ってやりました」
「ひかえろッ、かりにも町役を勤める者の前でさような悪口を申すやつがあるか? 不埒《ふらち》なやつ、うむ、恩金ではないか……そのほう、ひとりの老母を養いかねると申す者が、いかがして一両二分の金子を工面いたした?」
「申しあげます。その金子は、この政五郎が貸したものに相違ございません」
「うん、政五郎、そのほうが貸し与えたか? 奇特《きとく》のいたりであるのう。だが、一両二分八百ということを承知していて、一両二分貸す親切があるならば、八百文のことゆえ、なぜ一両二分八百全部貸してつかわさぬ。さすればかように御上《おかみ》の手数をわずらわさずともよいではないか? 一両二分八百持ってまいれば、道具箱は取り戻されると申さば、与太郎にあと八百文貸し与えてはどうじゃ……ああ、さようか? では一両二分は源六が……これ、源六、政五郎はああ申すが、一両二分はそのほうへ預かり置いたか?」
「へえ、店賃の内金に預かり置きましたに相違ございません」
「さすれば、あと八百文でよいのじゃな。……さようか、では、政五郎、あと八百文与太郎に貸し与えるわけにはいかぬか? うん、与太郎、政五郎より八百文借りうけ、源六のほうへさっそく持参いたせ。そして、道具箱を取り戻し、明日から渡世に励み、老母を養うようにいたせ。与太郎、あと八百文を家主にすみやかに払え。日のべ猶予はあいならんぞ、立てっ……」
一同、ぞろぞろ、白洲の外の腰かけへ引きあげてきた。
「源六さん、どうでしたい?」
「ありがとう存じます。世の中にはばかほどこわいものはない。あきれかえってものが言われません。店子《たなこ》が家主を訴えるなんて、そんな話は聞いたことがねえ。いいえ、あいつのばかはわかってますがね、そいつを尻押しをした大ばか野郎がいるんだからおどろきますよ。高いところへあがって、トンカチやることは上手だろうが、お白洲へ出ちゃあ、まるっきり形なしだ。あたしなんざあ、毎朝大神宮さまへ手をあわして、町内繁昌なんてこたあ拝みやしねえ。町内騒動を祈っているくらいの家主だ。そういう者を相手どって、楯ついて訴えやがったって、ばかな野郎だよ、ほんとうに……おいおい、与太、さあ、八百持ってきなよ、日のべ猶予はならねえんだからな。銭がなけりゃあ尻押しのところへ行って借りてこい」
「棟梁、もう八百貸してくれよ」
「まぬけめっ、貸さねえたあ言わないが、なんだってあすこで、おん[#「おん」に傍点]の字だの、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]だのと言やがるんだ?」
「だってお奉行さまの前だもの、ものは正直に言わねえと悪かろうとおもったんだ。それにだんだん聞いてみると、こっちもあんまりよくねえみたいだ、なあ棟梁」
「ばかっ、ここまで恥をかきに来たようなもんだ……さあ、貸してやるから、持ってけ」
「うん……家主さん、持ってけッ」
「なんだ、この野郎、ふざけやがって、持ってけって言い草があるか……それじゃ、済口《すみぐち》の書面をあげるんだから、みなさん、もう一度、恥のかきついでに願います」
家主が先立ちで、ぞろぞろと白洲へ入ってずらりと並んだ。
「これ、源六、八百文うけとったか?」
「へえ」
「しからば、帰宅ののちそうそう道具箱は与太郎に渡せよ。政五郎、そのほう八百文を与太郎に貸しつかわしたか?……うむ、奇特なことじゃ。……そこで与太郎、そのほうにたずねるが、源六がそのほう宅に参り、それなる道具箱を持っていったのか?」
「家主さんがガミガミ言って店賃を払わなけりゃあ持って行くと言って担いで行っちまったんで……」
「さようか、源六、そのほう道具箱をなにがために預かった?」
「へえ」
「一両二分と八百の抵当《かた》に預かりおったのだな?」
「さようにございます」
「金子の抵当《かた》に品物を預かるというのは、いわば質屋であるな?」
「へえ」
「そのほうは質屋の株はあるか?」
「いえ……そのう……恐れ入ります」
「いや、ただ恐れ入ったではわからん。質屋の株を所持しておるのか? おらんのか?」
「へえ……どうも……恐れ入りましてございます」
「これこれ、恐れ入ってばかりおってはわからん。町役を勤めるほどの者、さようのことは心得ておろう。あるか、ないか、どうじゃな?」
「へえ、ございません」
「なに、所持しておらん? 質株なくして質物を預かるとは、なんたる不届きなやつじゃ。重き罪科を申しつけるところなれども、訴え人が店子ゆえ、このたびはさし許す。しかし、二十日の余、道具を取り上げ、これなる与太郎、ひとりの老いたる母を養いかねるというのは許しがたい。願人が大工ゆえに、科料として、与太郎に二十日分の手間賃をそのほう払いつかわせ……これ、政五郎、大工の手間賃は、一日どのくらいじゃ?」
「おそれながら申しあげます……へえ、一日の手間賃と申しますと」
「よいから、はっきり申せ。いくらだ?」
「一日に、まあ、十|匁《もんめ》ぐれえで……」
「うん、さようであるか。しからば、二十日で二百|匁《もんめ》とあいなるな。金子になおして三両二分……これ、源六、三両二分、与太郎に払いつかわせ。日のべ猶予はあいならん。立ていっ」
また腰かけへぞろぞろさがってくる。
「さあ、与太、家主から三両二分、行ってもらってこい。天道さま見通しだい。ざまあみやがれ」
「家主さん、あの……おくれよ。三両二分だあ。あははは、あの、日のべ猶予はならねえんだからなあ」
「ちえっ、汚い手を出すな、まあ、待て」
「銭がなかったら尻押しに借りてきて」
「真似するない……さあ、持ってけ」
「ありがてえ……棟梁、おまえに預ける」
「よし、それじゃみなさん、どうもご苦労さまだが、もういっぺんご迷惑ついでに……」
こんどは政五郎が先立ちで、ぞろぞろ白洲へ。……よく出たり入ったりする調べで……。
「これ、与太郎、いかがいたした? 受け取ったか? うん、さようか。これにて調べも落着《らくちやく》じゃ。源六、そのほうにとって、与太郎は店子であるぞ。下世話に申せば、家主といえば親も同然とやら……以後、与太郎をいたわってとらせよ。また与太郎も、家主に対し悪口など申すことはあいならんぞ。よいか……では、一同の者、立てっ……ああ、政五郎、これへ参れ。一両二分と八百の公事《くじ》、三両二分とは、ちと儲かったな。しかし、徒弟をあわれみ世話する奇特、奉行感服いたしたぞ」
「ありがとう存じます」
「さすが、大工は棟梁(細工は流々)」
「へえ、調べ(仕上げ)をご覧《ろう》じろ」