四段目《よだんめ》
「定吉や……定」
「へい、ただいま、番頭さん」
「ただいまじゃあないよ。ちゃんとここへおいで、え? お使いに出たっきりいったいいままでどこを歩いていたんだ」
「へえ、京橋の三河屋さんへお使いに参りました」
「それはわかっているよ。あたしが頼んだんだから……おまえに聞くが、日本橋から京橋といえば目と鼻の先じゃあないか。それがどうしていま時分までかかるんだ。朝早く出て、ええ? もうそろそろ夕方だ。一軒の使いにこんなにかかりますか」
「へ、たいしたことはしておりません。お叱言《こごと》はあとでうかがいますから、すみませんが、ご膳を食べさしてくださいな」
「あきれたやつだ。おまえはお腹《なか》がすくと帰ってくるんだね。いけませんよ。先に旦那さまにお詫びをしてきなさい。旦那さまもたいへんにお怒りだ」
「へえッ、旦那さまも怒ってるんですか?」
「ああ、怒ってますよ」
「それじゃあ、やっぱり先にご膳を食べさしてください。お叱言は食後にゆっくりといただきますから」
「なんだい、食後にいただくてえのは……おまえがそういう了見ならよけい勘弁しません。早く旦那にお詫びをしてきなさい」
「そうですか。じゃお詫びをすればご膳をいただけますか。しょうがない。それじゃ……へえ、定吉でございます。ただいま戻りました」
「こっちへお入り。おまえさん、いままでどこへ行っていた?」
「へえ、京橋の三河屋さんに参りましたら、ご主人が留守でございまして、待っておりまして遅くなりました。……うう……ご主人に会いましたら、旦那に会ってから話をすると申されました」
「そんなことでいままでかかるか、嘘をつけッ、おまえ、どこかで遊んでいたろう」
「う、あたくし嘘ついとりません。ほ、ほんとついとります」
「ほんとつくてえやつがあるか。なあ? おまえの帰りが遅いので、店の者に四、五軒聞きにやった。そうしたら、向かいの近江屋さんの婆やと、歌舞伎座の前で会ったって、おまえに定どんてったらびっくりして、歌舞伎座の中へ、横っとびに入ったと、それまでわかってるんだ。それでもしら[#「しら」に傍点]をきるか」
「それまでお調べが行き届いてるんなら、なにもかも白状します……向こうへ参りましたらご主人が留守で、待っておりましたら、女中の申しますのには、定どん、旦那の帰るまで歌舞伎座の狂言が変わって看板が変わってるから、看板見てきたらどうだとこう申します。看板なら別段お銭《あし》はいらないと、こうおもいまして、看板を見ていてこんなに遅くなりました」
「いままで看板を見ていたのか?」
「早く帰ろうとおもったら、うちのおっかさんに会いました」
「おお、そうか。おっかさん、このごろちっともお店《みせ》にお見えなさらない。おっかさんどこぞお悪くはなかったか?」
「へへ、おっかさんは悪くないけど、おとっつぁんがちょっとお悪い……」
「自分でお悪いてえやつがあるか。おとっつぁん、どこがお悪い?」
「へ?」
「おとっつぁん、どこが悪い」
「うう……おとっつぁん、中、中気で足が立たないと申します。『うちのおとっつぁんが中気で足が立たなきゃ、うちの煙が立たん』とかよう申します。『そんなことなら、なんでわたしに教えてくださらない、いくらお店が忙しくても二日や三日お暇をもらって、帰らしてもらいます』。そうしたらうちのおっかさんの言うのには、『こんなみすぼらしい格好をしてお店へ出入りすると、おまえの肩身がせまくなる』てえから、『なんでそんなことがございます。わたしにとってはかけがいのないおとっつぁん、万一のことがあったらたいへんで……おっかさん、これからどこへ行くんだ?』って言ったら、『これから聖天《しようでん》さまへお百度を踏みに行く』とこう申します。『それなら、わたしも一緒に行って、母子《おやこ》もろともにお願いしたら、ご利益も早くあるだろう』と、こう心得まして、おっかさんと一緒に、聖天さまでお百度を踏んでいて遅くなりました。どうぞ今日のところはご勘弁を願います……」
「なぜ早くからそう言わない、早くからそう言ってりゃわたしは叱言は言わない。親孝行はしなさいよ。うん? おまえさんとこのおとっつぁん、車屋じゃないか。車屋がおまえ、中気で足が立たなきゃ、商売できない。そうか、そりゃあどうも……いつごろから足が立たん?」
「そ、そんなことはどうでもいい」
「どうでもよくない。いつごろから足が立たん?」
「……むにゃむにゃ……にえンげうのうおくい……」
「はっきりものを言いなさい、なに?」
「へ……先月のにゅうよくちおろ」
「……先月の十五日ごろか?」
「へい」
「ふうん? ……先月の二十八日か、深川の不動さまのお詣りに、おまえさんとこのおとっつぁんの車に乗ったぞ」
「そのときは紋日《もんび》で足が立った、やれやれ」
「なにがやれやれだ。おまえはまた芝居を見てたんだろう?」
「いえ、芝居なんぞ見ちゃあおりません。あたくしは芝居が嫌いでございますから」
「おまえは芝居が嫌いか?」
「へえ、男のくせに白粉を塗って女の真似をしたり、もう、看板を見ただけで頭がずきずきして、中へ入ったらもう……目を回して死んじまいます」
「おまえが? そりゃちっとも知らなかった……与兵衛さんや、与兵衛、番頭……」
「へえ」
「いやいや、ほかじゃあない、あすの歌舞伎座、定吉だけおいて行くから」
「あの、みなさんでどちらかへお出かけで?」
「うん、久しぶりに、みんなを芝居に連れていこうとおもってな。おまえも連れていくつもりだったが、嫌いじゃあしょうがない。留守番がいなくて困ってたんだが、ちょうどいい、おまえ、あした一人で留守番しておくれ」
「……いえ、わたしだけって……それならわたしも参ります」
「おまえはうちにいろ。おまえを連れてって目でも回されたら困る」
「いえ、もうもう、少しくらいなら、もう、心地よく拝見いたします」
「ふッふふふ、こいつ……あたしはあんまり芝居ってえものは好きではないが、こんどの歌舞伎座の『仮名手本忠臣蔵』がたいへんな評判で、いいそうじゃないか。市村羽左衛門という役者が五段目の猪をするとよ。それがたいへんにうまいそうじゃないか。それからなあ、中村歌右衛門という役者が師直《もろのお》になって、ええ……市川左団次という役者が、これが判官か……」
「へへへ、そんなことを人に言ったら笑われます、旦那さま、市村羽左衛門ったら猪をする役者じゃあない、判官と勘平と二役やってる。仁左衛門が大阪からやってきて、師直と由良之助、ふふ、市川左団次が石堂右馬之丞《いしどううまのじよう》、斧定九郎。段四郎が平右衛門、へへ、旦那さん、みんなちがってる」
「なぜおまえがそんなことを知ってる?」
「でも……」
「あたしゃ、きのう見てきた人からちゃんと聞いたんだ」
「あたしゃいままで見ていた」
「こういうやつだッ……問うに落ちず語るに落ちるとは貴様のことだッ」
「しまったッ。(芝居の口調となり)謀《はか》る謀《はか》るとおもいしに、この家の主人《あるじ》に謀られしか。ちえッ、口惜しや残念なり」
「いいかげんにしろ。番頭さんや、ちょいと来てください。いやいや、今日という今日は勘弁できません。素直に、芝居を見ていて遅くなったと言えば、許してやらないこともない。それを嘘をついた上、おっかさんに会ったとかおとっつぁんが中気だとか、とんでもないやつだ。こらしめのためだ。蔵へ入れてお仕置きだ。さあ、蔵の中へ入れちまいなッ」
「うェーん、うェーん、ば、番頭さーん、助けてーえ」
「みろ、ほんとうに。旦那の計略にひっかかってみんなしゃべっちまった。今日はおまえが悪い。観念しなッ」
「いやだ、いやだ。わたしは蔵が嫌いでございます。朝からなにも食べてなくて、もう腹がぺこぺこで、死にそうです。……番頭さん、ご膳だけ食べさせてくださいよ……そんなこと言わないで、……ご膳をいただけたら蔵の中でゆっくりとひと休みしますから……やめてください、番頭さーんっ」
いやがる定吉を蔵の中へ、がらがらがらがらぴしゃん。
「旦那っ、わたしが悪うございました。ほんとうに悪うございました。旦那……旦那っ……勘弁してください……旦那……番頭さんッ……威張るな、奉公人あっての主人だぞっ。主人ひとりでみんなできるか……芝居見たくらいがどこが悪いんだ……店の金で見たんじゃねえんだぞ。自分の金で見たんだぞ……旦那ァ、勘弁してください……番頭さーん……ちッ、弱ったなあ……早く帰ってくりゃよかった、三段目の道行だけ見て帰ってくりゃこんなことはなかった、なあ、歌右衛門と羽左衛門、ふふ、片岡市蔵が伴内、清元延寿太夫の出語り、見て帰ろうとすると、後幕っ、後幕っ……いくら? 五十銭っ……ガマ口見たら七十銭、まだ二十銭残るとおもって……よかったなあ、四段目っていう幕は、芝居好きの見る幕だっていう……がらがらがらがらがらがらがら……と来て、えやッで、すーと開《あ》くとな、さしもにひろい歌舞伎座の平舞台……丸に鷹の羽の定紋で襖《ふすま》がこう……だれもいない。しばらくすると上手をすーと開いて出てくるのが、斧九太夫と原郷右衛門、斧九太夫が中村鶴蔵、原郷右衛門、河原崎権十郎……下手へきて頭《かしら》を下げる……すっと花道、杉戸が開くと、石堂右馬之丞、市川左団次……大統領ッ……高島屋ッ、舞台|背負《しよ》って立てェ…ッ…つ、つ、つ、つ……あとから薬師寺、片岡市蔵……片市イッ……これがな、すうッと上手へ……正面の襖をすッと開いて出てくるのが、市村羽左衛門……橘屋ァ…ッ…耳をピンと立って……つッ、つッ、つッ、つッ、……座るだけで五万三千石の格式を見せないと、判官という役はできない。ぴったり座る、上使のやりとり……黒装束をぱッととる、下が白装束に無紋の裃《かみしも》。うしろを向いていると、さむらいが四、五人で畳を二枚裏返し、白い布を……しきみを四つ置いて引きさがる……片岡千代之助、大星力弥、三宝の上へ九寸五分、検視の前で検閲済みになると、判官さまの前へ出して、これ今生《こんじよう》のお名残と、下からじっと見上げる顔、上から見下ろす顔と顔……向こうへ行け……とあごで教える……キッとにらまれると、ご不興になってはいけないと、力弥がつつつーと下がるっ……でェん……でェん……という三味線にあわして、こう……上《かみ》をとる……白をぬぐと白い襦袢一枚、九寸五分をぎりぎりッと紙に巻いて、一寸ばかり出したやつを左に持つ、三宝をおしいただいて……うしろへ……腹を切ってもうしろへ引っくりかえらない。用意周到をきわめ……『力弥力弥、由良之助は』(と、芝居がかりになって)……『ははッ』……『由良之助は』……。つ、つ、つ、つ、つ……花道のつけぎわまで……どうしてこんなにおとっつぁん遅いのかしら……早く来てくれればいいがなあ、という思い入れがあって……『いまだ参上』……『つかまつりませぬ』……『存生中《ぞんじようちゆう》に対面せで』……『無念なと伝えい』『ご検視、お見届けェくだァさァ……れェ』と、右へ持つというと……もうものの言えないのが切腹の作法だそうだ。ぐうッと腹をもんで……向こうを見るのがこれが判官さまの腹芸で、この幕だけはな、出物を持って入ろうとおもっても、出方がじいっと待ってる……出物止めというやつ……向こうでもこっちでも見物が涙をぽろぽろぽろぽろこぼす……もうこれまでという思い入れあって左の脇腹から、ぐうッと突き立てる……のがきっかけ、ばたばたばたばたばたばたッ、大星由良之助の出ッ。これがまたよかった、本物の由良之助はこんな人かとおもわした仁左衛門、松島屋ッ……と、前の人の頭を唾《つばき》だらけによろこぶところ、花道へはあッとへたばるのを見てとるのが石堂右馬之丞、『城代家老、大星、由良之助とはそのほうか』……『へへッ』……『許すッ、近《ちこ》う近うッ』……『はッ』と、顔を上げてみるとご主君が腹を召している。ああ遅かったという思い入れあって、腹帯をなおして……つッ、つッ、つ、つつつつつつつつ……花道から本舞台、腹を召しているご主君の耳へ口をあて……『ご前……ン』『くッ、……由良之助かあッ』『へへェッ』……『待ちかねたァ』……つつ、つつつつ……旦那ァ、勘弁してください……ほんとうにあたくしが悪うございました……旦那、番頭さーん、お腹がへってもう死んじまいますよおー。あとで後悔するな、あはは、弱ったな。……でもな、な、こうやって芝居の真似をしている間はお腹空いたのが少しはまぎれらあ……白の一反風呂敷……こいつを敷いて……これが腹切り場……ええと、お膳のふちのとれてるの、あ、これが三宝のかわりだ……九寸五分は……あったッ、北海道の熊切り……よッ、よッ……こりゃ切れるぞォ……よし、この格好ではさまにならない」
と、定吉、一枚二枚ととると、さらしの半襦袢たった一枚、刃物を持って、お膳をおしいただいて、腰の下へつっかい棒、
「ご検視、お見届けくだされェ……うう…ッ」
と、蔵の中から変な声がした。そのとき、女中のおまきどん、夕方のことで、物干しへ上がって干し物を取り込みながら、さっきから、定吉はかわいそうに、蔵へ入れられたが、どうしているんだろうと、そこは朋輩《ともがら》の人情、物干しから蔵の窓を通して見ると、うす暗い中で定吉が刃物をもって、尻を持ち上げて、ぎゃッと、わき腹へ突き立てていたから、びっくり仰天、物干しからひと足踏みはずして、がらがらがら、がちゃがちゃがちゃ……。
「……だ、旦那ッ、旦那ッ……定どんが……蔵の中で、腹切っておりますッ」
「……定吉が? あっ、蔵へ入れっぱなしだ、あたしゃすっかり忘れてたぁ、ま、忙しいもんだから……なに、さっきから腹へった腹へったっていってるけども、それを苦にして、さあ、そりゃたいへんだ……いや、なんでもいい、お膳で間に合うか、お櫃《ひつ》を……」
と、旦那みずからお櫃をかかえて、蔵の大戸をがらがらがらがら……。
「ご膳ッ(御前)」
「くッ……く、蔵のうちでか(由良之助か)」
「ははッ」
「うむ、待ちかねた」