一つ穴
「ちょいと、権助や」
「ひァッ」
「こっちへおいで」
「ひぇッ、なんだっちゅうに……」
「まあ、なんていう返事をするのさ。そこへお座り」
「なんでがす?」
「おまえも知ってるだろうが、旦那がもう三日も帰っていらっしゃらないね」
「へえ、そりゃまあ、旦那どんのお帰りになんねえのは、おらだって知んねえこともねえが、まあ、あれだけの年齢《とし》だで、まさか迷子になるようなこともなかんべえし、と言って、どこかでおっ死んだちゅうわけも……」
「なにを言ってるんだねえ。縁起の悪いことをお言いでないよ。おまえ、旦那さまの居所を知ってるんだろう?」
「おらあ知んねえ」
「そんなことがあるもんかね?」
「そんなことがあるもんかったって、知んねえことは知んねえだ」
「だって、おまえ、いつも旦那さまのお供をして歩いてるじゃあないか」
「そりゃあそうだが、いつもおらあ、はぐれちまうだ」
「どうしてさ?」
「こねえだだってそうだ。となり町の絵草紙屋の前まで行くと、えかくきれいな女《あま》っ子《こ》が画《け》えてあるで、これァなにけえ、どこの女っ子だんべえったら、ばかっ、これは女《あま》っ子ではねえ、女形の役者だァって……だから女形ってあんでがすって聞いたら、男が女っ子に化けとるだって……まあ、えかく腰ぬけ野郎があるもんだとおもって、おらがながめているうちに、気がついて振りむいたら、旦那どんの姿がねえ」
「いやだねえまあ、じゃあおまえ、絵草紙屋の前でまかれたんじゃあないか」
「いや、まかれたではねえ、はぐれただ」
「おんなしこったね、おまえがぼんやりしているからいけないんだよ」
「おらがぼんやりではねえ。野郎がはしっこい[#「はしっこい」に傍点]だもの」
「なんだい? 野郎というのは」
「あっ、こりゃあいけねえ、はっはっは。あんたのめえで言うこんじゃあなかったな。おらあ陰じゃあ旦那どんのことはてえげえ、野郎って……」
「あきれたね、まあ。自分の主人をつかまえて野郎ということがあるもんかね。あたしのことはなんというんだ?」
「なあに、あんたのことは、うちの女《あま》っ子《こ》が……」
「いやだねえ……これからそんな口のきき方をしたら承知しないよ」
「へえ、どうか勘弁しとくんなせえ」
「他人《ひと》さまでもいらっしゃると赤面するよ。とにかく口のきき方は気をつけないと困りますよ。おまえ、ここへ来て何年になるねえ?」
「早えもんでがんす。もうかれこれ八年になりやすなあ」
「八年もいたら、旦那のお供で行った先まで、ちゃんとついて行って、どこへいらっしゃるか、おぼえていてくれなくちゃあ困るじゃあないか、ほんとうに……この節、旦那さまが夜泊まり日泊まりをなすっておいでになるが、そりゃあなにもあたしがとやかく言うわけじゃあない。男の働きだからなにをなすってもいいけれども、出先をいい聞かしてくださらないと、お屋敷からの急のご用だ、そらなにかあったというときには、出先がわからなくっちゃあ困る。また今夜はお帰りなさらないなら帰らないからとおっしゃれば、そのつもりで時刻がくれば寝かしてしまうけれども、いまお帰りなさるだろうと万一に引かされてあたしが起きてるもんだから、清《きよ》も竹《たけ》もやっぱり遠慮して起きてる。店もあたしが起きてるからやっぱり起きているようなわけで、自然あくる日の商売にさわってくる……。つまり、うちのためにならないから、旦那さまに聞こうとおもうけれど、あたしの口からいずれで泊まりなさると聞くのもおかしいから……またうかがったからっておっしゃる気づかいもない……きっと表《そと》へ、囲い者でも出来たんだろうとおもうんだよ、ねえ、権助?」
「おれもそうおもってるだ。なんでもはあ、表へ出来たにそういなかんべえとおもっていただあね。そりゃ考《かん》げえうめえのう。表へなにが出来たんだあね?」
「それがわからないから聞いてるんだよ」
「なにを?」
「わからない人だね。いいかい、権助、旦那がきょうお帰りになって、で、もしも、またお出かけになるようだったら、おまえにお供を言いつけるから、こんどは途中でまかれたふりをして、どこへいらっしゃるか、よく見て来ておくれ」
「はあ、ようがす」
「それから、これは少ないけれどもね、鼻紙でもお買いよ」
「あんれまあ、もらっちゃあすまねえのう」
「いいから取っておおき」
「そうけえ、まあせっかくのおぼしめしだで……なんぼ入《へえ》っとるか……」
「なぜ開けて見るんだよ」
「なあに、銭高によって忠義の尽《つく》し方を考《かん》げえなくては……」
「現金だねえ、言うことが……」
「いやあ、えかくたくさん入っとる。何《あに》を買うべえ」
「鼻紙でもお買いよ」
「こんだにたくさん鼻紙買って、いちどきに鼻ァかんだら、鼻がおっちぎれべえに」
「なにもこんなに鼻紙ばっかり買うことはないさ。好きなものをお買いよ」
「そんじゃあ、おらあ、褌《ふんどし》でも買うべえ」
「なにを言ってるんだね。おまえの買い物の相談してるんじゃあないよ」
「あっ、肝心なことを聞くのを忘れた」
「なんだい?」
「こりゃ給金とは別でがしょうね?」
「なに、給金から差し引くもんかね。その代わり頼んどくよ。こんどはきっと向こうまでついて行って旦那のおいでになるところを突きとめておくれよ」
「へえ、向こうまでついて行きますだ」
「そうして、どこかを知らせておくれ。頼むよ……そら、旦那さまがお帰りだ。あっちへ早くおいで……お帰りなさいまし」
「はい、ただいま」
「早くあっちへおいでよ」
「なんだって権助を座敷へ入れるんだい?」
「いえ……その……いま掃除をさせましたもんですから……」
「掃除をさせるなら清や竹がいるじゃあないか。あんな者を座敷へ入れるんじゃあない。あいつの歩いたあとをごらんなさい。足跡がついているから……どうも汚いやつだ。このあいだもあいつの足を見ておどろいちまった。なんだか、踵《かかと》をつかずにぴょこぴょこ歩いてるから、『踵になにかついてるのなら、取ったらどうだ』と言うと、『これは取れねえ』という。どういうわけだと聞いたら、『郷里《くに》を出るとき、踵のあかぎれのなかへ粟《あわ》をふんづけてきやしたが、ことしは天候がうまくいったもんで芽《め》を吹きやした。この踵を見るにつけても郷里《くに》のことをおもいだしやす』と涙ぐんでやがる。踵へ田地《でんち》をつけて歩いてるんだからあきれたもんだ」
「これから用のときは、あちらへ参って申しつけるようにいたしますから」
「いや、べつに叱言《こごと》じゃないが……」
「どちらへ?」
「こんなに長くなるつもりはなかったんだが……いや……その……なあに、中村屋が一緒なもんだから、あいつときたら梯子酒《はしご》だから、もう少し付き合え、もう少し付き合えと言うので、ついついどうも……どこからか使者《つかい》はなかったかな?」
「本所の河田さんからお使者《つかい》がみえました」
「いつ?……きのう? さあ、しまった。どうしても会わなくちゃあならないことがあって、きのう行くつもりでいたんだが……きょう帰り道にまわってくればよかった。急いだもんだから、つい忘れちまった。うん、すぐ行って来ましょう」
「お召しものは?」
「着物はこれでいいが……」
「お出かけになりますなら、お供をお連れになって」
「いや、べつに供なんぞいらない」
「でもまた、どういうご用がないとも限りませんから、お連れになりましたら?」
「じゃあ、定吉を連れて行きましょう」
「小僧はみんな手がふさがっておりますので……権助をお連れなすって」
「あれかい? おまえはね、たいそう贔屓役者で、あれをかわいがってやるのはいいが、あんな不作法なやつはないよ。ええ? 供に連れて歩きゃあ、あたしとぴったり並んで歩くんだ。『そんなにそばにくっつくもんじゃあない、供は少し離れて歩くもんだ』って言ったら、こんだ見えなくなっちまやがる。いやにどうも皮肉なやつだ。あたしがぐずぐずしていると、先へ立って歩くから、『供てえものが先へ歩くやつがあるか』と言ったら、『わしが先へ立って歩くんではねえ。おめえさまがのろいからあとになるんだ』と言う。『足が早いったって供が先へ立って歩くやつがあるもんか』と言ったら、ようやくあとから来やがった。そのときはたいへん素直でよかったが、越前堀へ行って提灯を借りてきたとき、あいつは提灯を持ってあとからくるんだ。『なぜあとからくるんだ?』と言ったら『こねえだは、供はあとから来いと言ったのに、そんな無理なことはねえ。提灯は先へ来い。供はあとから来いたって、わしゃそんだに長《なげ》え手は持たねえ』と、こう言うのさ。それはいいけれども、こないだ鎌倉河岸を歩いているときに、風の吹く日だ、冷たいものが顔へかかった。見るとおまえ、痰《たん》だ。振り向いたら、あの野郎がげらげら[#「げらげら」に傍点]笑ってるんだ。『おまえか?』と聞くと『へえ、三度目だ』と、こう言いやがる。『三度目とはなんのことだ?』『二度目まではうまく飛び越したが、三度目は風の加減でおめえさまの顔へ吹きつけた。悪いのは風だ。いつもは飛び越すはずだ』と、こうとぼけたことを言いやがる。あんなどうも世の中に、行儀の悪いやつてえのは……」
「それだってあなた、田舎者のほうが正直でようございますよ。いまもわたくしからよく叱言を申しておきましたから、お連れになりますように……」
「まあまあ、おまえがそう言うのなら連れてってもいいが、呼んでごらん。返事もしやあしねえ」
「権助や、権助や」
「はーい」
「おや? こりゃあめずらしい。あいつが返事をしたよ。雨が降らなきゃあいいが……支度をしなよ。供だよ」
「とうに支度ができて、尻をはしょって待ってるだよ。さあ、行くべえ」
「あの……お履物は?」
「はあ、も履《へ》えてますだ」
「おまえのじゃないよ。お履物といったら旦那さまのじゃあないか」
「ああ、野郎の……えへへ、旦那どんのはまだ出てねえだ」
「そんなことでお供が勤《つと》まるかねえ。気をつけなくっちゃあいけませんよ。いいかい、途中気をつけて、旦那さまにまちがいのないように、どこまでもよゥくお供をするんだよ」
「わかってるだ。さあ、履物が出ただ。早く歩《あゆ》め」
「まあ、なんですね、旦那さまをつかまえて早く歩めとは?」
「へえ、すみません」
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃいまし……権助頼むよ」
「へえ、よろしゅうがす」
「なんだい、その拳固で胸を叩いてるのは?」
「いや、はは、胸先痛えから、ちょっくら張っくり[#「張っくり」に傍点]けえした」
「胸が痛いなら行かなくてもいいよ」
「いや、治った」
「あやしいなあどうも……ああ、きょうはいい天気だなあ」
「ああ、なんでも天気でなきゃあだめでがすなあ」
「これからあたしは少し急いで行こうとおもう」
「ああ、勝手に急げ」
「なんだ、勝手に急げとは?……用はないから、おまえはうちへ帰んなさい」
「いや、ぜひにお供すべえ」
「行かなくってもいいよ」
「いや、行くべえよ」
「うちになにか用があるといけないよ」
「なあに、もう水ゥ汲んで、米もといでしまっただよ。薪も割っちまったし、なんにも用はねえだ」
「だけども、これから本所の河田さんへ行って、それから木場へまわるんだが……。じゃあ、河田さんへ送り込んだらすぐ帰りな」
「だけんどものう」
「また強情張ってるか」
「強情じゃねえ。よく聞かっせえ。うちを出るときにおかみさんはなんと言いやした? 権助頼むよ、とこう言っただ。してみると、おめえさまの身体をきょう一日わしが頼まれているだ。人間ちゅうものは、いま身体が達者でも老少不定、いつ行き倒れにならねえとも限らねえて」
「またはじめやがった。縁起でもねえことを言うな、おまえは、連れて歩いてもいいが、人の気にさわるようなことばっかり言う。ついて歩くてえなら勝手に歩け、その代わり木場からすぐうちへ帰らないよ。京橋から品川へ行って四谷から麹町へ行って、下谷から浅草へ行くぞ」
「それじゃ江戸じゅうあらかた歩くんだ。わしは歩くがおめえさまは歩けめえ」
「駕籠へ乗るから、おまえあとから追っかけてくるか?」
「不人情なことを言うもんじゃねえ、合乗りで行くべえ」
「ばかあ言いなさんな。おまえと駕籠に一緒に乗れるかよ。主人が帰れと言うんだから帰ったらいいだろう。権助、権助?……あれっ、急に見えなくなっちまった。うふふ、生意気なことを言ったって、人混みに来たらはぐれてしまいやがる。ざまあみろ」
「ざまあみろ……だと、ばかげたことを言うもんでねえ。はぐれたではねえ。屋台の下に隠れてるのを知んねえだ。おらあいつでも、この両国の広っけえところへ来るとごまかされるから、きょうはおらのほうで、先へまいてやっただ。この狸野郎……あれっ、見ろ、本所の屋敷へ行くのに橋渡らねえで左へ曲がったな? 野郎あやしいぞ」
旦那は、権助があとからついてくるのを知らずに、大橋の横町を曲がり芸者新道を曲がると、角から二軒目の小粋な家へ入った。
「頭はァ隠して尻隠さずちゅうのはこのこったあ。……この家へ入った。あそこに下駄がある……おらあ、おかみさまへ対して小|遣《づけ》えもらった顔が立たねえ、野郎、なにをするだかひとつ見てやるべえ……」
角を曲がると、庭の黒塀に節穴があった。
「おいおい、障子を開けな。ああ、急いで来たせいか、少し暑いから……。ああ、庭の模様がよくなったなあ。うん、手はちょいちょい入れなくちゃあいけませんね。表の塀は塗りかえさしたか? 近所の子供がいたずら書きしたりするから……なに、それにはおよばないが……」
「ばか野郎、天罰だぞこの野郎、おらが眼玉《まなこだま》ァつん出してんのも知んねえで……野郎、高慢げな顔をして布団の上に座りやがって、売れ残りの木魚《もくぎよ》みてえだ……あれっ、きれいな女《あま》っ子《こ》だなまあ、あんてえ色が白っけえだ。あれまあ、おしゃらく[#「おしゃらく」に傍点]に着物を着やがって、踵でふんめえてふんずり[#「ふんずり」に傍点]けえるな。ありまあ、そうだにぴったり傍《そべ》ぇ寄るな、えへっ、まっと離れろ……この女っ子にだまされてるだ。なんだ? ゆうべも来るだろうとおもって遅くまで待っていたよ? 久しく来ねえ? 浮気しちゃあだめよ? ばかァこくなよ。おらあ来てえがかかあがやかましくて手に負えねえ? 嘘言え、なんだ? ここへ来ておかみさんのこと悪く言ったってうちへ帰れば、本木《もとき》にまさる末木《うらき》なしとかでかわいがるだろう? あれェ、楊枝でほっぺたァ突っつかれていやがる、この狸野郎っ」
「おまえそんなことを言うけど、うちであいつの面ァみてめしを食うのもいやだ」
「へーっ、たいへんなことをこきゃあがる。道理でおらあほうへ冷めしばかりまわるとおもったが、これだもの……」
「きょうはひとりでいらした?」
「なあに、供を連れて来たんだが、はぐれやがった」
「小僧さんですか?」
「いや、小僧なら、連れてきて口止めすればいいんだが、きょうは大人だよ」
「いやねえ、大人? どんな人?」
「いつかあの深川の不動さまへ行ったとき、永代でおまえに会ったろう? あのとき供をしていた背の低い色の黒いやつが、包みを背負《しよ》ってた、あいつだあね」
「ああ、そうそう、おっそろしい色の黒い、まるで鍋のお尻《しり》のような人ねえ」
「この女《あま》っ、おらのことを鍋の尻《けつ》だってぬかしやがる。……あれ、なにか小さな声で話してやがる。もっとでっけえ声をしてやれ、……こればがっ、……よせ、昼間だってえのに、ああこりゃ……こりゃたまげだっ、障子を閉めちまった……これじゃ、かみさんがぐずぐず言うのは無理ねえこった。おらァこと鍋の尻《けつ》だとこきゃあがったな。おぼえてろっ……あ、痛《いて》え……おう痛え。釘で目の上、かぎ裂きした……おぼえてろっ」
権助、烈火のごとく怒って、うちへ帰った……。
「へえ、行ってめえりやした」
「あ、ご苦労だったねえ……こっちへお入り……どうしたんだい? おまえの鼻の頭と額《ひたい》はまっ黒だよ。それに血が出てるじゃないか」
「いま黒板塀をのぞいていたからだあ」
「のぞいてどうしたんだい?」
「目の上ンところを塀に出ている釘でかぎ[#「かぎ」に傍点]裂きをしただあ」
「顔をかぎ裂きするやつがあるもんかね」
「おかみさん、どうにもこうにも、きょうばっかりはおらあ、たまげちまった」
「どうだったの?」
「おかみさん、話ィするがの、肝つぶしちゃいけねえ」
「大丈夫だよ」
「旦那どんの供をして途中まで行くと、権助、本所の屋敷まで送ったら、すぐ帰《けえ》れ、帰れと言うから、おらあ、おかみさまから一日じゅう旦那どんの身体を頼まれているだから、おらあ帰らねえ、いつおめえさまが行き倒れになるかわからねえから帰らねえとがんばった」
「それで?」
「両国まで行って、様子が変だからおらあ屋台の下へ隠れちまった。すると旦那は『人混みにはぐれてしまった、ざまあみろ』なんて生意気なことをぬかして、両国橋のところで橋を渡んねえで、川っ端を左へ曲がっただ……おらあ、旦那どんのうしろへついて行って……なんとか言いやした……でっけえ茶屋、あったね?」
「なに亀清《かめせい》かい?」
「そんな名じゃあねえ。ほら、両国の角にでっけえ茶屋が……」
「大橋《たいきよう》かい?」
「大橋だ。……大橋の横町曲がってまた曲がって、また曲がるところがあるのう?」
「はあ?」
「また曲がると一《ひい》、二《ふう》、三《みつ》つ裏を通って、でっけえ抜け裏の角の家で格子はまってるだ」
「はあ?」
「そこの家へ旦那どんは駆け込んだ。見ると玄関に旦那どんの駒下駄ァ出しっぱなしてあるだ」
「それから?」
「それから裏のほうへまわると、黒板塀に節穴がある、その節穴からのぞくと、おったまげたよ」
「どうしたえ?」
「旦那どんが布団の上に乗っかって、傍《そば》に女《あま》っ子《こ》が行儀悪くななめに座ってるだ。その女っ子のきれいのきれえでねえのって、年ごろは、二十二、三だんべか、色が白くって、それに着る物といい……あんたからくらべりゃあ、なに……向こうがぐわいよくねえ。……なんでもその女っ子がなんかぐずぐず言い出したが、そりゃあいいけんど、終《しめ》えに聞くと気に食わねえ。おらあのこと鍋の尻だってその女《あま》ァ言うんだ」
「なんだかわけがわからないよ」
「おらあにもわからねえだ」
「それからどうしたい?」
「だんだん見ているとたまげたね」
「なにが?」
「なにがって、昼日中みっともねえ。とっついたり、ひっついたりしていたかとおもうと、障子閉めっちまった。あッあッとおったまげるはずみに目の上にかぎ裂きしちまった」
「ふーん、じゃあ、それがお囲い者なんだね?……あたしもそんなことじゃないかとおもったんだ。その女の家というのはどこなんだい? 道はよくおぼえておいでかい?」
「いやあ、おぼえちゃあいるが、そんだに聞かれたってわかんねえね」
「行けばわかるだろう?」
「そりゃあ行けばわかるだあな」
「それじゃ、おまえ、後生だから一緒に行っておくれな」
「どけへ?」
「どこへったって、旦那さまにお目にかかりにさ」
「会ってどうするだい?」
「会ってどうするったって、知れたことじゃあないか。男の働きだからなにをするのもいいけど、旦那さまがどうなさるご了見だか、あたしゃうかがいたいから……」
「こりゃあ、えれえことになった。そりゃあ行くのはよくなかんべえ」
「なぜ?」
「なぜって、へえ、戦《いくさ》でもこっちから向こうへ出張《でば》るのは五分の損があるだってえからな、そうだなことをせずに、旦那どんだって、わが家だから、いつか一度は帰るにちげえねえ。そこで、あんたァ理解《りけえ》解いて話しぶったらよかんべえに、うん? そんで旦那どんが聞かなきゃあ、ええ、わさびおろしで鼻づらでもひっかけてやったらよかんべえ。おらも野郎ぶっぱたいてやるだから……」
「なんだね、旦那を殴ってどうするんだね。じゃあ、どうしても一緒に行くのは嫌《いや》かい?」
「嫌っちゅうこたあねえが、やめたほうがよかんべえに……」
「そうかい、おまえもなんだねえ、旦那と一つ穴の狐だねえ」
「あり? 狐とはひどかんべ」
「そうじゃあないか、連れて行けてえのに、変に邪魔をするからさ」
「邪魔をするわけじゃあねえ」
「だから、旦那と一つ穴の狐だよ」
「やァだァね、狐だなんて言われちゃあ心持ちよくねえだ……そんじゃあ、案内《あんねえ》ぶってもええが、夫婦喧嘩なんちゅうものは、仲ァ直ったあとで、だれが案内ぶった、権助だ、あの野郎とんでもねえやつだ、なんてんでうらまれるのは困るだからね」
「大丈夫だよ、おまえの名前を出すようなことはないからさ。さ、いいからおいで」
こうなったらおかみさんは、言ったって止めたって聞きはしない……そこは女性のことで、髪を直して、着物を着かえて家を出たが、ふだんはちょっと歩くと、鼻緒ずれだとか、足が痛いとか言ってなかなか歩かない人が、きょうは癇癪《かんしやく》歩きという、魂が頭のてっぺんに上がっているから宙を飛ぶような速さ……。
「ぐずぐずしないで、早くおいで」
「そうだに早く行っちまっちゃあだめだ……そこだそこだ」
「そうかい。じゃあ、おまえ、表で待っといで」
「待っているのはええが、だめだよあんたァ、喧嘩ぶつようなことがあっちゃあ、みっともねえから、それと、おらが名を出しちゃあだめだ、ええけえ」
「よけいなことをお言いでない。……ごめんください。どなたもいないの……」
と格子戸へ手をかけて引くと、ガラガラと開いて女中が出て来て……、
「はい、いらっしゃいまし。どなたさまで?」
「こちらさまに大津屋の半兵衛さんがおいででございますか?」
「はい……いいえ、いらっしゃいませんが……」
「おとぼけなすっちゃあいけません。ここに下駄があるじゃあございませんか?」
「ああ……さようでございますか、あたくしはよそへ参っていま帰ったばかりですから……それじゃあおいでになったかもしれませんが、あなたさまはどなたさまで?」
「ちょっとお目にかかればわかるんでございますから……」
「でございますが、お名前をうかがわないとお取り次ぎができませんから」
「そうですか、名前を言わなくってわからなかったら、わたくしのような……ばばあが参ったと、おっしゃってください」
「はいっ」
女中はおどろいて奥へ……六畳ばかりの座敷で、一間《いつけん》の床の間に一間のちがい棚、下が袋戸棚になっていて、床の掛け物は光琳風の花鳥物がかかっていて、四方縁《くりえん》にして腰高の障子がはまり、きゃしゃな小粋な桐の胴丸の火鉢に利休型の鉄瓶、中に桜炭の上等なのがいけこんである。少し離れて枕もとのところに結構な煙草盆があって、絹布《けんぷ》のふとんの上に旦那はうとうとと仰向けになって寝ている。
「あの、ちょっと、ねえさん」
「なんだねえ……静かにおしよ。旦那がいまおやすみになったばかりじゃあないか」
「ねえさん、ちょっと、ちょっと……ちょっと」
「なんだよ。どうしたの?」
「どうしたって、旦那の浮気にはおどろきましたわ」
「なにがさ?」
「なにがさって、表でごめんなさいって言うから行って見ますとね、いい年増なんですの。みると、ちょっと人柄のところがあっていい服装《なり》をした人がね。息せき切って来ているんですの」
「ぜんたい……なんなの?」
「まあ、お聞きなさいまし。それからなんと言うかとおもっていると、こちらに大津屋の半兵衛さんがおりますかと言うから、あたしはいないと言いましたら、おとぼけなすっちゃあいけません。そこに履物がありますと言うんですよ。まあ憎いじゃありませんか。履物まで知っているんですの。あたしも間が悪うございましたからね、いま用足しから帰って来たばかりですが、ことによったら留守においでなすったかしれません、と言ったらね、ちょっとお目にかかりたいと言うから、お名前はなんとおっしゃるんですかと聞いたら、名前を申さなくっていけなかったら、ばばあが参ったとおっしゃってくださいまし、と、こうなんですよ。憎らしいじゃありませんか。それがばばあどころじゃあない、いい年増ですね。なんだか様子が変なんですけど、どうしましょうねえ? 旦那はきっとほかにも浮気をしておいでなさるにちがいないとおもいますわ」
「来ているってそう言っておやりな。なにを言うんだい。笑わせやがる。嫌味なことを言いやがって、生意気だよ」
囲い者は囲い者でまた嫉妬がある。寝間着姿の上へお召し縮緬の袷《あわせ》をひっかけ、ほつれた鬢《びん》の毛を掻き上げながら、さっき少し飲んだ酒の酔いで、目のふちをほんのり赤くして、ずるずるお引きずりで門口へ出たときの風はえもいわれぬ風情で……。
「おいでなさいまし。あなた、どちらからおいでなさいました?」
「お女中は幾人《いくたり》おいでくだすってもいけません。半兵衛さんをお出しなすってくださいまし」
「そりゃああなた、そうおっしゃいますけれども、取り次ぎに出ましたものが、お名前をおうかがいしましたら、なにか、ばばあとおっしゃったそうでございますが、ばばあなんて言うお名前のお方はありますまい、とおもうんでございますが……旦那はおやすみになっていらっしゃいます。お名前をうかがいまして、ご用によったらお取り次ぎをいたしましょう」
さあ、前に権助からいろんな話を聞いたあげくに、この姿。この女がいままでなに[#「なに」に傍点]をしていたかとおもうと、そこは、やきもちの虫がキュッ……と上がってくる。これを抑えようとすると……こっちから癇癪《かんしやく》の虫が……顔を上げてくる。これを無理に抑えると、まん中から屁ッぴり虫が、カァッと持ち上がってくる。さあ、こうなると、胸は早鐘を打つようにじゃんじゃんしてくる。
「名前を言わなくっちゃあならないんですか? わたしは大津屋半兵衛の家内です」
「はッ」
と、お囲い者があとへさがったとたんに、半兵衛の女房はばたばたばたばたッ……と奥へ入って、旦那の寝ている、その枕もとにぴたりと座ってしまう。さてこうなると女は意気地のないもので、なにか言いたいとおもうが、口ごもって、涙をぽろぽろ……やがて気を取り直して、旦那の肩をゆすぶりながら、
「旦那さま、お、お起きあそばせ……もし、あなたっ」
「あーあ、水を一杯くんな。ああどうも、ばたばたしちゃあいけないよ。せっかくいい気持ちに寝こんでいたのに……あっ、こりゃあ、おまえかッ……いや……その……このご婦人が急に癪《しやく》がおこったってえもんだから、それを押してあげたりなんかして、あたしも疲れたもんだから……」
「あなたのお力で押してあげたら、さぞ癪もおさまりましょう。けれども、癪を押すのに枕が二つおいりになりますの?」
「え? いや、その……なにしろお癪が強いもんだから、一つは、その……転がったときのかけ替えの枕……」
「いいかげんになさいまし、なにもそんなにお隠しあそばさないでもいいじゃございませんか……(すすりあげながら)男の働きだからなにをなさっても、けっしてやきもちがましいことは申しません。お隠しなさることはおよしくださいまし、わたくしもご存知の通り兄弟もなし、それほどあなたがかわいいとおぼしめすなら、家へ引き取って、姉妹《きようだい》になり、あなたがどこへでも連れて遊びにおいでなすって、家内の姉妹ですと言えば、わたしも心持ちがよろしゅうございます。あなたも世間で悪くも言われず、家内は感心だ、仲をよくしている、定めて主人の躾《しつけ》がいいんだろうと、わたしも肩身がひろうございますが、あなたが(泣き声になって)うちをお空けになりまして、わたくしが親戚の者やなにかに……」
「うん、えへん、そのどうも、おい、大きな声をしちゃあいけない……いや、まことにすまない。いや、これはわたしが悪かった。打ち明けて言えばよかったんだが、ついどうもな、きょう言おう、あす言おうと言いそびれてこういうことになったんだが、ここでこうセリフを並べられちゃあ困る。うちへ帰って話をしよう。ねえ、おまえ、そう泣いちゃあ困るから、まあ、ひと足先へお帰り」
「ご一緒に参りましょう」
「一緒に行かなくてもいいじゃあないか、ばつ[#「ばつ」に傍点]が悪いから先へお帰りと言うんだよ」
「どうせわたくしのようなばばあと一緒に帰るのはお嫌《いや》でございましょう……」
「いや、べつに、ばばあというわけじゃあない。先へお帰りと言うんだよ。じきに帰るから……。そんなわからないことを言わないで、わたしが悪いから謝る。うちへ帰って話をするからお帰りと言うんだよ。わからないなあ」
「どうせわたくしはわかりません」
「そう、おまえ、袂《たもと》を引っぱっちゃあいけない。帰らないとは言わないよ。すぐ帰るよ。おい、そう引っぱっちゃあ袂が切れるよ……ええい、なにをするんだ。いいかげんになさい。おまえもあんまりわからなさすぎる。わたしも悪いとおもったから一目《いちもく》も二目《にもく》もおいて詫びてるんだ。それなのになんです、けしからん。うちへ帰って話をすると言うんだから、それでいいじゃあないか。帰んなさい。先へ……おい、なにをするんだ。また引っぱって、袂が切れるってえのに……おい、いいかげんにしろッ」
「痛いッ、あなた、おぶちなさいましたね。さあ、殺すんなら殺してくださいっ」
と、旦那にむしゃぶりつきました。
「なにをするんだっ」
と、旦那が奥さんの丸髷《まるまげ》をつかんだので、元結がぷっつり切れて散らし髪になって、なおもむしゃぶりつくのを、ぽーんと向こうへ突き飛ばした。奥さんがひょろひょろとよろけて火鉢の上へどすんと尻餅をつく。鉄瓶がとたんにひっくりかえって灰《はい》神楽《かぐら》があがる。旦那がそばにあった刺身の皿を放りつけると、奥さんがひょいとよけたが、よけきれないで、頭から刺身をあびた。耳のあいだにツマがぶらさがって、鼻の頭へ大根おろしがついている。その騒ぎにおどろいて妾《めかけ》は厠へ逃げこむ。女中は裏口から飛びだすとたんに井戸端ですべって転ぶ。猫が飛びこんできて魚を咬《くわ》え出す。
こうなっては権助も見ちゃあいられないから跳びこんできて、
「それ見たことか……あっ、痛え、おかみさん。なんでおらが手へ食いつくだ? あぶねえからやめなせえ。だから言わねえこっちゃあねえ。あっ、旦那どん、あぶねえ、怪我でもぶったらどうするだ? まあまあ待ちなせえ。短気は損気、狸の金玉八畳敷きだ」
「やい、権助、なにしにここへ来た?」
「さあしまった。出るところじゃあなかったな」
「じゃあなんだな? あとをてめえがつけて来やがったんだな? どうもおかしいとおもった。権助っ、おまえぐらい悪いやつはない。畜生っ、犬めっ」
「なんだ、犬だ? おかみさん、ま、泣かねえがいい。少し待ちなせえ……、あとで話はつくべえ……あんたがた夫婦のこった。すまねえのはおらがほうだ。……野郎っ、ちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]ここへ出ろっ」
「主人をつかまえて野郎出ろとはなんだ? てめえ出ろっ」
「野郎と言ったがどうした? そりゃあ、おまえらのところで奉公ぶって給金もらってるから、めし炊きだ、権助だ。けんど、郷里《くに》へ帰ってみろ。おらの親父は権左衛門と言って、村に事あるときは名主どんから三番目に座る家柄だ。その伜《せがれ》の権助をつかめえて犬とは何《あん》だ。おらがいつ椀の中へ面ァ突っこんでめしを食った」
「なにを言やがるんだ。面を突っこんで食うばかりが犬じゃあねえや。あっちへ行っちゃあいいようなことを言い、こっちへ行っちゃあいいようなことを言うから、それで犬と言ったんだ」
「それじゃあ、夫婦してよってたかっておらのことをけだものにするだな。おめえさんはおらあのことを犬だ犬だって言うし、おかみさんは、はあ、一つ穴の狐だと言った」