まえがき
「落語」を聴いて、ただゲラゲラ笑っているうちに、ふとそこに、生きている歓びや、自分とよく似かよった性癖、心情を見出し、もうひとつの人生の機微に浸り、溶けこんでいることに気づく。
大衆の娯楽である「落語」は、そうした人びとの感情を、つねに惹きつけ、汲みこみ、与え……繰り返し繰り返し語り伝えられていくうちに、選《え》りすぐられた知恵と洗い練られた語感が、人びとを飽きさせないのである。
大衆の——などというと、最近は、大量集団《マス・コミユニケーション》の、万事、大げさなことのように受けとられがちだが、私の言う、このばあいの大衆とは——身近な、手の触れる、親しいものの意味で、「落語」もまた、ほんらいそういうものであり、いわば生活のなかの必需品であり、実用品なのではないか。
「蒸す寄席に一夜の遊び梅雨に入る」(石塚友二)
夕闇とともに、ふらっと、寄席の吊り提灯の灯《あかり》にさそわれるように立ち寄って、一席の「落語《おとしばなし》」に耳の垢《あか》を落とす……。人を寄せるから寄席[#「寄席」に傍点]——現在では、演芸場、ホールなどと呼び名が変わったが、人びとの想いにそれぞれの差異こそあれ、面白くもない現実をちょっとの間忘れて、噺家の舌先三寸の話芸につりこまれて、その情景、出来事をさまざまに思い描いて、笑いや、あるときは涙とともに、一日の労働の疲れと、胸中にちり積った憂さをはき出してしまう。それが、噺の上の、他人《ひと》事ならばなおさら、聴く側は心おきなく、充分に感情を移入することができ、娯しむことができたのではないか。——人は、現実の、自分自身の身に起こったことでは、安易に笑ったり泣いたりすることができないから。
したがって、「落語」には、自《おのず》から大衆を対手《あいて》とする、自由闊達な、旺盛な活力《ヴアイタリテイ》と、人びとの心を把握しようとする拡がりが生まれてくる。
「落語」の身上をひと言でいえば、人間が生きていく、日常的なありのままの生態が、直截的《ストレート》で、かつ客観的に描写されている……のだが、それが、江戸時代という、一都会の町内|周辺《サイド》(例外としていくつか地方《ローカル》もあるが)を題材とし、背景にしているにしろ、それは大衆の、われわれが感覚像《イメージ》のなかで創《つく》り上げたものであり、大衆の、われわれ自身の分身が寄り集まって、登場人物を構成しているようなものである。
今日、こうした「落語」にふれあうことで、依然として、人間だれしもが抱く——今日、流行《はやり》の〈原点〉などというとわかりがいいが——まぎれもない懐しく愛《いと》おしい人間の普遍性・共通性がたしかめられる。そして、生きている歓びにふと触れて、心が浄化され、慰められる。
大衆の伝統というものは、結局のところ、過去がどうあったとか、未来へどう伝えるか……ということはさておき、何よりも今日を生きていることをわかちあえる、というところにあるらしい。
してみると、「落語」は、われわれの面白くもない現実、生活のなかで忘れているものでなく、われわれの面白くもない現実、生活のなかからよりよいものを創り出そうとしたものとも言えるだろう。——これが、人間の、ほんとうの文化と呼べるものではないか。
これから、われわれの分身である、八っつぁん、熊さん、隠居、若旦那、与太郎、泥棒……が次々に登場します。