道灌《どうかん》
「ご隠居さん、こんちは」
「どうした、八っつぁん。しばらくだったなあ」
「どうもすっかりごぶさたしちゃってねえ」
「たまには遊びにきておくれよ、おまえはお職人衆、あたしは隠居の身の上で、気が合うというのはふしぎだなあ、合縁奇縁というのかねえ。おまえの顔を一日見ないと、なんとなくもの足りなくていけない」
「どうもありがとうござんす。そう言ってもらうとうれしいねえ。合縁奇縁てんですかねえ、あっしもご隠居さんの顔を一日見ねえと、なんとなく通じがなくてねえ」
「おい変なことを言うんじゃないよ。あたしの顔で通じをつけるってそんなのがあるかい。あいかわらず変わったことを言う……今日はなにか用でもあって来たのかい?」
「いいえ、用がありゃあ来やしねえ」
「おかしいね。用があるから来たというのはわかるけど、用がないから来たというのはどういうわけだい?」
「用がありゃあその用をしてるもの、用がなくって退屈だから来たんだ」
「はははっ、正直でいいな。きょうは、やすみかい?」
「へえ、朝っから、変てこな天気になりやしたからね、しかたがねえ、やすみにしちゃった。隣でがき[#「がき」に傍点]が座便《いびたれ》をして灸《きゆう》をすえられて、ぎゃあーぎゃあー泣いてるのを聞いてるのもあまりおもしろくもねえから、ぶらっと出て来たんだが、ご隠居さん忙しいですか?」
「いやあ、わしも徒然《とぜん》で相手のほしいところだ、まあ、ゆっくりしてゆきなさい」
「ゆっくりしてってもいいですか?」
「ああ、いいとも」
「じゃあ、こっちへ引っ越してきましょうか。家にいたひにゃあ畳建具は汚《きたね》えし、ごみだらけの庭とにらめっこしていたところではじまらねえ。ご隠居さんのところは庭はよし、家はきれいだし、陽あたりはよし、飲み物でも食《く》い物《もの》でもまずいものはねえでしょう。みんないいものずくめだから……とこうおもって来たんで、まあ、お茶でもいれちゃあどうです?」
「おまえに催促されないったって、茶ぐらいいれるよ」
「お茶ぐらいったって、ご隠居さんとこのお茶は手数がかかるもの、沸かした湯を新規にさましてさ。茶の葉っぱいれたり、ああ手数かけちゃあ悪いよ、冷やでもようがすよ、酒のほうが……」
「そりゃいいだろうが、ここに、さいわいよそから甘いものをもらったから……」
「おやおや、甘《あめ》えもんかい」
「はてね、おまえ、甘いものは、いけないかい?」
「ええ、甘《あめ》えもんとくると、まるっきり意気地がねえんでね、羊羹など、五本も食おうもんなら、げんなりしちまうんで……」
「あきれたねえ、おまえってえ人は……だれだって、そんなに食べれば、げんなりするよ。失礼ながら、きょうのお菓子は上等なものだよ。というわけが、到来物だ」
「ああ、葬式《とむれえ》の菓子かい?」
「そうじゃあないよ。もらいものだ」
「そうだろねえ。もらいものでもなくちゃあ、上等の菓子なんかあるわけねえからねえ」
「あいかわらず口が悪いな……そんなことはどうでもいい。さあ、到来物の菓子でもおあがり」
「へえ、羊羹、こりゃごちそうさまだが、いったい、この羊羹てえやつはうすっぺらだと歯ごたえがねえ。こればっかりは厚く切らねえとうまくねえ」
「文句を言わずに食べたらよかろう」
「へえ、五つ切ればかりこみ[#「こみ」に傍点]に食ってようがすかね」
「そう欲ばるもんじゃあないよ。なんでも人間というものは、食うことと住むことと着ることは一生ついてまわってるもんだ」
「ところがこちとらはついてまわらねえことおびただしいや。店賃もたまっている。催促はされてんだが、おれは図太くかまえて動かねえんだ。着る物は着たっきり、食う物は店《たな》立てか、けんつくぐらいのもんで、まるっきり首がまわらねえ」
「おまえのように怠けていちゃあだめだ」
「ご隠居さんだって、他人《ひと》のことは言えないでしょ。そうやって働かないで一日じゅうぶらぶらしてるじゃあねえか?」
「わしは娘に養子をしたんだ。でまあ、世帯《しよたい》はその娘夫婦にゆずって、わしはこうして隠居の身でいるんだ」
「へーえ、うめえ株だね。しかしご隠居さんだって、なんか道楽がありましょう?」
「それは少しはな。わしの道楽は書画《しよが》だ」
「へーえ、それで鼻の頭が赤いんだね」
「なんだって?」
「生薑《しようが》が好きだってえから……唐辛子《とうがらし》の好きな者は鼻の頭が赤くなる。生薑もやっぱり赤いからおなじ理屈だ」
「生薑《しようが》じゃあない、しょが[#「しょが」に傍点]だよ」
「へえー、なんです、しょが[#「しょが」に傍点]てえのは?」
「画や字だな」
「なんだ、食い物じゃあねえんですかい」
「食い意地のはっている男だねえ。古いものでも買い集めて、まあ仕立直しかなんかして楽しむものだな」
「へえー、古い物にいいやつがありますかね」
「古いからいいというわけではないが、汚れて価値のないものを夜店などで買ってきて、洗ってみると存外いいものがあるんだよ」
「そのご隠居さんのうしろにあるのはなんですね」
「屏風だよ」
「へえー、せっかくきれいな屏風へなんだってそんな小汚《こぎたね》えものを貼っつけたんで」
「いまいう持ち古した故人の描いたものを貼り交ぜにしたのだ」
「来るたんびにとっかえひっかえちがう絵がかかってるが、久しく来ねえあいだにだいぶ模様が変わりましたね。きょうは屏風でも額でも表具でも戦《いくさ》の絵が多うがすね」
「うん、よくわかるね。お玉ヶ池の菊池容斎先生の絵が多い」
「ところでこの絵はなにが描いてありますね?」
「これは、三方《みかた》が原《はら》の戦いだ」
「だれとだれの戦《いくさ》です?」
「武田信玄と徳川家康とが戦をした」
「へえー、で、どうなりました?」
「なにしろ、徳川方では、酒井、榊原、井伊、本多なんていう名代の四天王がはたらいたからなあ」
「へえー、その四人が強かったんですか……で、武田方には、その四天王てえやつは、いなかったんですか?」
「いたとも……土屋、内藤、馬場、山県……まあ、こんなぐわいに、むかしは、強い人を四ったりよりどって守護の四天にかたどった。むかしの大将にはみな四天王というものがある」
「だれにでも?」
「源頼朝の四天王が、佐々木、梶原、千葉、三浦。義経の四天王が、亀井、片岡、伊勢、駿河」
「鯛《たい》に鰹《かつお》に鱚《きす》、鮪《まぐろ》ってえのはどうです」
「なんだ、それは?」
「海の魚の四天王……しじみ、はまぐり、ばか、柱……貝類の四天王」
「そんな四天王はない。新田左中将義貞の四天王が、栗生《くりう》、篠塚《しのづか》、畑《はた》、亘《わたり》。木曾義仲の四天王が、今井、樋口、楯、根野井」
「幸手、栗橋、古河、間々田さ……日光街道の四天王。こんなのはどうです、合羽、唐傘、蓑《みの》、足駄……雨具の四天王」
「そんなものを集めるんじゃないよ」
「だれにでもあるんですか?」
「強い武士にはみんなある」
「加藤清正に四天王がありますか?」
「清正はないよ。陪臣《ばいしん》の身の上だから」
「陪臣……てなんです?」
「またの家来」
「だれの家来?」
「太閤秀吉の家来」
「あれっ、あっしゃあ太閤秀吉より加藤清正のほうが強いのかとおもったがなあ、じゃあなんですか、秀吉に四天王がありますか?」
「信長というご主人があるからない。そのかわり賤《しず》が岳《たけ》の七本槍というのがある」
「なんです?」
「加藤虎之助、福島市松、片桐助作、脇坂甚内、平野権平、糟屋助右衛門に加藤孫六、これを賤が岳の七本槍、そのほかに太刀を持って向かうと相手がなかった三振太刀《みふりだち》というものがある。伊木半七、桜井佐七、石川の兵助、これを日本三傑といったぐらいだ。そのころ唐土《もろこし》には四傑あった、張岳《ちようがく》、陳平《ちんぺい》、韓信《かんしん》、張良《ちようりよう》。和漢|合《がつ》して七傑あった」
「ずいぶんけつが並んだねえ。湯屋の流しへ行ったようだね、毛むくじゃらの汚《きたね》えのもあるでしょう?」
「いや、強い人は豪傑だ」
「あは、汚いのが不潔か、水を汲むのがバケツ」
「よくいろんなことを言うなあ」
「じゃあ、こっちの絵はなんです?」
「どれだい?」
「桜の花が咲いててさあ、桜の木の下でよろいの上へ蓑を着て震えてるやつがいる」
「震えているのはよけいだ。これは備後の三郎」
「ああ、貧乏で寒いのかねえ?」
「そうじゃないよ。児島高徳《こじまたかのり》てえ人だ」
「ああ、児島さんですか」
「なんだい。児島さんですかって……知ってるのか?」
「ええ、うちの隣にいます。手習いの先生でしょ」
「なにを言うんだ。時代がちがうよ。元弘二年、三月十七日だから、いまから六百年も前のことだ」
「へえ、なにしてんです?」
「桜の皮を削った」
「悪いいたずらをしやがんねえ。梅はねえ。下枝おろすてえと幹はふとるんだがね。桜をそんないたずらしたひにゃ泣いちゃうからね」
「ああ、おまえさん植木屋さんだけによく知ってなさる。いやそりゃ、いたずらに削ったんじゃあないんだよ」
「え?」
「削っておいて、そのあとに字を書いた。『天勾践《てんこうせん》を空しうするなかれ、時に范蠡《はんれい》なきにしもあらず』と」
「あははは、やっぱり古い銭を大事にしなけりゃいけねえんですね」
「なに?」
「天保銭をむちゃくちゃにするなかれ、ときに般若《はんにや》が田螺《たにし》を食う」
「わからないことは聞くがいい」
「へえー、こっちの絵はなんです? 洗い髪の女が夜着《よぎ》を着て考《かん》げえてるのはなんです?」
「洗い髪というやつがあるか。それは下髪《さげがみ》というんだ。着ているのは夜着じゃあない、十二|単衣《ひとえ》というもんだ」
「拍子木みてえなものを持っているのはどういうわけで……」
「拍子木じゃあない、短冊《たんざく》だ」
「雨が降ってるね?」
「小野小町が雨乞いをしている図だ」
「ああ、この女ですか、小野小町てえなあ、てえそういい女だったそうですねえ」
「いい男をみれば、業平《なりひら》というし、いい女をみれば、小町のようだという。絶世の美女だったな」
「雨に降られびしょ[#「びしょ」に傍点]になったんだね」
「びしょ[#「びしょ」に傍点]ではない。美女、美しい女だ。悪い女は醜女《しゆうじよ》、こわい女は鬼女」
「ひげのはえたのを泥鰌《どじよう》」
「まぜっかえすなよ」
「だけどねえ、ご隠居さん、そんないい女なら、くどいた男も多かったでしょうねえ」
「まあな」
「きっと経師屋の半公みてえな、ああいうあつかましいのがとりついたにちげえねえ」
「なにを言ってんだ……多くの公家《くげ》のなかで、深草《ふかくさ》の少将という人が、とくに想いをかけたな」
「へーえ、どうしましたか?」
「小町の言うには、男心と秋の空、変わりやすいと言うから、わたしのもとへ百夜《ももよ》通ってくだされば、ご返事をしようと言った」
「ももよてなあ、なんです?」
「百の夜と書いて、百夜《ももよ》というな」
「ははあ、すると五十夜と書いて、みかん夜か」
「なにを言ってるんだ」
「どうしましたい?」
「恋に上下の隔てはない。深草の少将ともあるべき身が、風の吹く晩も、雨の降る夜もやむことなくせっせと通った」
「で、どうしました?」
「九十九夜目の晩に、大雪のために凍《こご》えて、ついに想いをとげなかった」
「やれやれ、しょうしょう不覚な人だ」
「しゃれるなよ」
「だがね、ご隠居さん、おれんとこの爺さんなんどは、一晩のうちに十三度通って相果てたよ」
「女のところへか?」
「なーに、厠所《はばかり》へさ」
「なにを言ってんだ」
「小町は色恋、爺さんは下肥……こい[#「こい」に傍点]に上下の隔てはねえや」
「つまらないことを言うな」
「もし、ご隠居さん、こっちの絵はなんです? その赤い着物を着て広目屋《ひろめや》みてえな扮装《なり》しているのは?」
「そりゃ、狩装束《かりしようぞく》だ」
「ちょろちょろ流れの川のあるところへ、椎茸《しいたけ》があおりをくらったような帽子をかぶって、虎の皮の股引《ももひき》はいて突っ立ってる。こっちに、盗っ人の昼寝みたいなやつが拳固《げんこ》の上に鳶《とんび》とまらせてやがる。こっちの、洗い髪の女が、お盆の上になんか黄色いものをのっけて、お辞儀をしてるじゃあありませんか、どこの女中だ?」
「なんてえ絵の見方をするんだ。おまえさんにあっちゃあかなわないな……椎茸があおりをくらった帽子てえのがあるかい、騎射笠《きしやがさ》というもんだ。虎の皮の股引ではない行縢《むかばき》」
「へーえ」
「お盆の上の黄色いのは、山吹の花だ」
「なんか字が書いてありますねえ」
「『孤鞍雨《こあんあめ》を衝《つ》いて茅茨《ほうし》をたたく、少女はために貽《おく》る花一枝、少女は言わず花語らず、英雄の心緒紊《しんちよみだ》れて糸のごとし』」
「へえ、ちちんぷいぷいごようのおん宝ときやがった。そう言っといて、三べんなぜるとやけどが治るんでしょ」
「やけどのまじないじゃあないよ。その方は治にいて乱を忘れず、足ならしのために、田端の里へ狩りくらにお出かけになった、太田|持資《もちすけ》公だ」
「狩りくらって、なんです?」
「鷹野《たかの》だ」
「たかのって、なんです?」
「猟《りよう》ッ」
「りょうって、なんです?」
「わからないかなあ、野駆《のが》けだよ」
「ああ、うす明るくなってきた」
「それは夜明けだ……つまり、山へ鳥や獣《けもの》をとりに行ったんだ」
「へえへえ」
「するとにわかの村雨《むらさめ》だよ」
「へえ……むらさめ……食いつくでしょう、あれ?」
「なに?」
「へーえ、そうですかねえ。どうもてえしたもんだ」
「べつに、たいしたもんでもないよ」
「そうですねえ、そいつはいいや。たかがむらさめですもんねえ。……あははは、むらさめだ。むらさめなんてくだらねえや。……むらさめ、むらさめ……ええ、むらさめ? むらさめって、なんです?」
「なーんだ。わからないでいろいろ返事をしているやつがあるか」
「まるっきりわからなかったら、話してるほうで張りあいがねえだろうとおもってね、こっちは返事で探りをいれたんだ」
「村雨というのは、雨だ」
「え?」
「雨」
「なあんだ、雨か? 雨なら雨って最初《はな》っから言えばわかるじゃあねえか。むらさめなんて符牒で言うからわからねえ」
「符牒? そうじゃあない」
「じゃあ、早え話が鳥だの獣をとりに行ったら、野ッ原で夕立にあったってんだね」
「夕立ではない村雨だ」
「だから年寄りはいやがられるんだよ。皮肉だからいけねえ、おんなし雨じゃあねえか」
「おなじ雨でも、時期によって雨の名もちがうもんだ。その雨の名を聞くと、その時期がわかる」
「一年じゅうで雨の名前がちがうんですか?」
「春先降る雨が春雨、太田持資公が降られたのは村雨、五月にはいって降る雨を五月雨《さみだれ》」
「六月が耳だれか」
「六月はつゆだよ。梅の実がなるころに降るから梅の雨と書く。夏を夕立、冬を時雨《しぐれ》」
「へえー、いろんな雨があるんだねえ。じゃあ村雨の夕立にあったんだね」
「ごていねいだなあ……持資公、お困りになって、片方《かたえ》をみると一軒の荒家《あばらや》があった」
「やっぱりむかしの人は気がきかねえね。野っ原のなかで油屋なんどしたって買いにくるやつはありゃあしめえ」
「油屋じゃない。荒家、つまりこわれかかって破《やぶ》れた家をいうんだ」
「じゃあ、丈夫で、出来立ての家は、背骨家《せぼねや》か」
「そんなのがあるもんか。雨具を借用したいと訪れると、二八ばかりの賤《しず》の女《め》が出てきた」
「なるほど、家が古いもんだから、巣を作ってやがったんだね、雀が。チュッチュク、チュッチュク……」
「雀じゃあない。賤《しず》の女《め》」
「足の裏へできる」
「そりゃ魚の目だよ。なんて言ったらわかるんだろうな、卑《いや》しい女だ」
「あははは、つまみ食いするんでしょ?」
「そのいやしいんじゃあない。まあ、身なりの卑しい女だ」
「へえー、貧乏人にしちゃあ、ちょいとこぎれいな姿《なり》をしているが……」
「これは絵だからきれいに見せてるんだ」
「へえー」
「すると、その女は顔を赤らめて、奥へ入った」
「へえー」
「それが再び出てきて、盆の上に山吹の枝を手折《たお》って、『おはずかしゅう存じます』と、持資公にさし出して、断わりをした絵だ」
「田舎娘で気がきかねんだね。殿さまが雨具を貸してくれって入《へえ》ってきたんでしょう? それを山吹の枝なんぞ出しゃあがって、これでもって雨はらって帰れってんでしょ。家へ帰るまで腕がくたびれちまわあ。それより芋《いも》の葉か蓮《はす》の葉でもかぶらしてやったらいいだろう」
「なにを言うんだ……もっとも、おまえにわからないのも無理はない。太田持資公という人は文武両道に長《た》けていたお方だが、この少女の出した謎が解けない。ぼうぜんとしておられると、ご家来の豊島|刑部《ぎようぶ》という人が父親が歌人《うたびと》なので、殿さまよりさきに、この謎が解けた。おそれながら申しあげます。兼明《かねあきら》親王の古歌《こか》に『七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき』というのがございますが、これは、お貸し申す蓑《みの》一つだにございませんと、実《み》のと蓑をかけて、山吹の枝をもって、申しわけをしたものでございましょうと申し上げたな」
「へえー、小娘のくせにたいそうなことしやがったねえ」
「すると、持資公は、小膝を打たれ、『ああ、余は、まだ歌道に暗い』とおっしゃって、そのまま、ご帰城になった」
「なるほどねえ。いくらえれえ殿さまでも名代の古い歌なんでしょう? それを知らねえんだからだらしがねえや。そこへいくと、身なりは卑しいしろろ……しろろめでもねえ。殿さま、へこまされちゃったわけですねえ」
「まあ、そうだ」
「たいへんなしろろめだ。ただのしろろめじゃあねえや。しろろ……め」
「舌がまわらないね」
「それから、ご帰城になったってのは、なんです?」
「お城へ帰った」
「へえー、角兵衛獅子みたいだ。うしろへ返ったんで」
「うしろじゃない。自分の城だよ」
「すると、お城など持ってるんですか、その人?」
「千代田の名城、丸の内のお城は、太田持資公……太田道灌が築いた城だ」
「あっしはおやじに聞いたけど、ありゃ徳川さまのお城だってえじゃありませんか」
「太田道灌公のお城だったのが、のちに、徳川さまのになったんだ」
「へえー、道灌公から徳川さまへ話をもちかけたんだな。これ、どうかん[#「どうかん」に傍点]ならねえか……いえやす[#「いえやす」に傍点]なら買おう、とかなんとか……」
「なにを言ってる——それから持資公は、そのとき豊島刑部がいなければ恥をかくところであったと気づき、歌人をよんで歌の勉強をなすって、のちに入道して道灌となって、日本一の歌人になった」
「へえー、大きな火事だね。むかしのことで、ろくなポンプがねえから、よく燃えたでしょうね」
「歌をよむ人を歌人」
「へえー、そのしろろめの出した、雨具のねえっていう断わりの歌? なんてんでしたかね」
「七重八重……」
「そう、それそれ……それね、仮名で書いてくださいな」
「いくども読んでおぼえようってえのか?」
「いや、そういうわけじゃあねんですが、あの、うちへ、ちょくちょく道灌が来るもんですからね」
「なに? 道灌が来るてえのは?」
「友だちの道灌、雨に降られて傘もってねえやつは道灌だろ。雨が降ってくると、きっとおれの友だちが傘だの下駄だの借りにくる。貸すのはかまわねえが返《けえ》したためしがねえ。このあいだも、おれんところの傘があるから、『こりゃおれが貸した傘じゃあねえか』と言うと、『うん、半年ばかり前に借りたが、ちょいちょいさしてるうちに破れちまったから、もう返さない。もらってもいいだろう』と言いやがる。ばかにしてやがるよ。こんど借りにきやぁがったら、ただ断わるのも癪にさわるから、その歌で断わってやろうとおもうんだ」
「そうかい、書けといえば、書いてあげるが、おまえの友だちに、歌なんかわかるかい?」
「わかんねえったってかまいません。とにかく、それをみせて断わっちまいますから……」
「では書こう……さあ、書いたよ」
「なるほど……えーと……ななへやへ……なんだかくせえようだなあ」
「だめだな、そんな読み方しちゃあ、にごりをつけるところはちゃんとつけて読むもんだ」
「この歌を出して、相手が知らなかったら、なんて言うんでしたっけね」
「その人は歌道に暗い」
「どういうわけで?」
「歌の道と書いて歌道という」
「こりゃ雨具のねえって断わりの歌ですね」
「まあ、そうだ」
「もう一つ教えてくれませんか?」
「なんだい?」
「みそかになると借金取りが大勢来るんですがね、いま銭がねえって歌はありませんか?」
「そんなものはありゃあしない」
「それじゃあ、あっしは、これで帰ります」
「まあ、いいじゃないか、ゆっくりしていきなさい。いま酒でもつけよう」
「貸しておきますよ」
「品物みたいだね」
「まあまあ、そうしてはいられねえ。雲行きがあやしくなってきましたからね。さよなら……おっ、降りだしたな、村雨……通る通る道灌が……あっ、守《もり》っ子の道灌が駆けだしていく、赤ん坊の首を振り落としそうだ。大工の道灌が草鞋《わらじ》の下へ木をたたきつけてあれで下駄にしようて、うめえことを考えたもんだな。豆腐屋の道灌が来た、こいつはぐずぐずしてやがる。あんまり駆けると豆腐がこわれちまうよ。おー、牛方の道灌、牛をひっぱたいたってなお動かねえや。ばばあの道灌、年増《としま》の道灌……あああ、姐御の道灌が向こうの家の軒へ駆けこみやがった。まっ白な脛《すね》をだして色っぽい道灌だ、おや、袂《たもと》から風呂敷を出して尻《けつ》ゥ包んでるぜ、ああ尻が重てえんで駆けられねえ、尻だけどっかへ預けていくのかな? そうじゃあねえ。帯が濡れるといけねえってんだ、女ってのは帯を大事にするからなあ……こっちには犬の道灌、坊さんの道灌ときやがらあ……そういうおれもびしょ濡れの道灌になっちゃった……あっ、引き窓が開《あ》けっ放しになってやがる。村雨が降りこみやがって、竈《へつつい》まで道灌になっちゃった……これだけいろんな道灌がいるんだ。うちにも来ねえともかぎらねえなあ、せっかく書いてもらったのに、無駄になっちゃあしょうがねえ」
「ごめんよ」
「おうッ、来たな、道灌」
「すまねえ、兄い、提灯、貸してくんねえか?」
「提灯?……そうじゃねえ、雨が降って提灯がいるかい。おめえの借りにきたものは先刻ご承知だ。道灌、雨具だろう?」
「いや、雨具は今朝《けさ》出るときにね、朝焼けして危ねえとおもって、ここに持ってきた。急に深川まで車ひいていく用事ができちまって、帰りが遅くなるから、提灯を貸してくれ」
「用心のいい道灌だあ。雨具持ってる道灌てのはあるけえ。この場ちがい道灌」
「なにを言ってんだな、急ぐんだから早く提灯を貸してくれ……そこの鴨居の柱ンとこにかかってるじゃあねえか」
「あれっ……いや、あっても貸せねえ」
「なんだ、あっても貸せねえ? そんなのあるけえ」
「だからよ。雨具を貸してくれといやあ、提灯貸してやる」
「そんなわからねえやつがあるもんか、雨具はこのとおり持ってるよ」
「持っててもいいから、頼むからそう言ってくれ。いま使っちゃわねえと無駄になるんだからさあ、頼むから、雨具貸してくれって言え」
「変わってやんなあ、雨具てやあ、提灯貸してくれんのか? じゃあ、雨具貸してくれ」
「待ってました……おはずかしゅうございます」
「なんでえ、よせよ。気でも触《ふ》れたんじゃあねえか。そんな女みてえな真似をして……」
「黙ってろい……これを読みゃあわかるんだ」
「なんだい、こりゃあ……えーと……ななべやべ、はなはさけども……」
「なんてえ読み方をしてるんだ。素人はしょうがねえな……いいか、よく聞いてろ。ななえやえ花は咲けども……山伏の味噌一樽に鍋《なべ》ぞ釜《かま》しき……てんだ。どうだ、わかったか?」
「聞いたこたあねえな、都々逸か?」
「都々逸? おめえもこれを知らねえようじゃ、よっぽど歌道に暗えな」
「ああ、角[#「角」に傍点]が暗えから、提灯借りにきた」