笠碁《かさご》
「どうもゆうべはお待たせしっぱなしで、申しわけないことをいたしました」
「いやどういたしまして、お待ちをしておりましたんですが、あんまりお帰りがございませんので、もう今日はだめとおもい、残念ながらうちへ引きあげました。どちらへお出かけで?」
「あなたもご存知の、例の桜井の老人のとこへまいりましてな」
「ああ、そうですか。あいかわらずお達者で?」
「ええ、ひさびさで、ちょっとつきあってもらいたいと、盤を出されると、こっちも根が嫌《きら》いじゃありませんからな。いま一番、もう一番、とうとう三番ばかしやってしまいました」
「なるほど、そりゃお楽しみで結構でした。で?」
「それなんですがね。お楽しみどころか、三番たてつづけて、もろにやられてしまって」
「そりゃいけませんでしたな」
「いや、あなたの前だが、碁なんてえものは、おんなじくらいの腕で、勝ったり負けたりするところが、おもしろくもあり、くやしくもあるんだが、あの老人とやると、盤に向かったばかりで、もう負けている。手も足もでない。こうなると、もうくやしくもなければなんともない。さっそくしっぽを巻いて逃げ出そうとおもうと、お茶を出したり、菓子を出したりしてくれたから、よんどころなく話し相手になっていたんですが、ああいううまい人はわれわれとはちがいますね」
「どんなお話をなさいました?」
「老人の言うには『久しくあなたと手合わせをしなかったが、腕がちっともあがっていない、近ごろは打ってないんですか?』って言うから、おまえさんの話をして、『いいえ、打ってないどころじゃあありません。毎日、お昼から夕方まで八、九番は打っている』って言ったんですよ。そうしたら『そりゃ碁を打ってるんじゃあない。碁なんてえものは、数打ちゃあそれでいいてもんじゃない。だいいち、そう打てるもんでもない。あなた方の碁は、失礼だがただ石を並べて上から見てるだけのものだ。待ったやなんかがありましょう』てえから、『待ったは、お互いさまにのべつやってます』『それがよくない。待ったをするから、腕があがらない。待ったなしで打つと、一目置くにも、その石に対して、考えなしでは手がおろせない。自然と、腕のほうも上達をする』言われてみりゃ、もっともな話とおもいました。で、どうです? 今日はねえ、あなたと待ったなしで手合わせをしてみようとおもうんだが……」
「ええ、そりゃ結構ですな。あなたのおっしゃるとおり、じゃあ、待ったなしということで願いましょう」
「それじゃひとつ、そういうことで、どうぞ石をおとりください。じゃあまあ、落ち着いて、待ったなしでやらしていただきましょう」
「いやどうも、恐れ入りましたな。しかしこの、待ったなしてえことになると、よほど気をつけないといけませんなあ、じゃあどうぞおやりください」
「へ、ごめんをこうむって、こう置かせていただきます」
「へ、では、このあたりからお邪魔をしますかな。まあ、こう言うもんの、われわれは、こうして盤に向かってりゃ、それで楽しみなんですからな」
「なるほど……あたしは、こういって……さあさあ、いらっしゃい。遠慮なく……」
「そういらっしゃいましたか。なるほど、それじゃ、ここらに地盤をいただいてと……」
「ははは、いよいよおいでになりましたか。なるほどねえ、そうくりゃあこっちは、こういきましょう」
「ああ、そうきましたか、じゃあ、あたしも、この石で連絡をつけますか……」
「ははあ、つなぎましたか。どうもこりゃ恐れ入りましたな。へえへえ、それではひとつここへと……」
「へえ、さようで……こういきましょうか……」
「う、うん。こりゃまずいところへ打たれたな。その一目で、こっちが死んじゃう……どけてください」
「え?」
「こりゃ、よわったなあ」
「待ったですか?」
「いやいや、待ったてえわけじゃあない。待ったってわけじゃありませんが、ちょっと都合が悪い」
「そりゃまあ、都合の悪いほうと、いいほうができて、それではじめて勝負になるんで。両方が、はじめっから都合のよかったひにゃ、勝負は果てしがありませんからな」
「いや、みんなどけろって言うんじゃないの。この石、この石一つどけてくれりゃあ……」
「そりゃあいけません。あなたが、待ったなしとおきめになったんですから……」
「うーん、そりゃきめたんだが……将棋だって、王手をかけるでしょう。だしぬけに、そこへ置かれたって、こっちは困る」
「とにかく、なにもこれで勝負がついたというわけじゃなし、これからの打ちようで、一目や二目はどうにでもなりましょう」
「なにもそう愛嬌のないことを言わなくてもいいだろう? たった一目や二目待ったところで、なにもおまえさんのほうで百目もちがうというわけじゃなし……いいだろう?」
「いいだろうって、この勝負、ひとつ待ったなしでやろうじゃないかって、ご自分から言い出しておいて、自分から破っちゃあ、それは手前勝手というもんじゃあないですか?」
「ねえ、おまえさんも、そう理屈ばかり言うこたあないだろう? ねえ、あたしゃあ、理屈を聞こうてえんじゃないんだよ。いや、いけなきゃいけないで、どうでもいいんですよ。こっちだって、無理にも待ってもらおうってわけのもんでもない。……しかし、まあ、あなたが、そういう心持ちなら、これから先、長いおつきあいはできませんな。どうでもいいが、そんなこと、言えた義理じゃないでしょ。おまえさんと、あたしの仲なんてものは、そんなもんじゃないとおもいますねえ。だからさあ、なにも強《た》って待ってくれとは言わない。けれども、待ってくれてもいいだろうてえ話をしてるんだ。え? どうだい、これだけ、待てないかい?」
「待てません」
「あれっ、はっきり言ったねえ。そうかい、待てなきゃあいいんだよ。あたしゃ、こんなことは言いたかあないんだ。言いたくないけれど、言いたくもなるじゃあないか……おまえさんだって、以前のことを思い出すこともあるでしょ。そりゃ、この節は、たいそう身装《ようす》がよくおなりになった。定めし、お金もおできになったんでしょう。けど、よもや五、六年前のことは、お忘れじゃあないでしょ。うちへいらして、きょうはこれだけ拝借願いたい。ちょいと、こういうもんを仕入れるのに、これだけ足りないからご都合が願いたいと、なんどいらっしゃいました。そのたんびに、あたしが嫌な顔ひとつしましたか。ご用立てた金が、とどこおったことだって、一度や二度じゃないでしょ。そのときに、待ったなしだなんてことを、一度でもあたしが言いましたか」
「なんですね。そりゃどうも、たいへんに、なんですな。それと、これとは、ぜんぜん話がちがいましょ。そりゃ、あたしも、お世話にならなかったとは言いませんよ。けど、それは、きちんと全部、お返ししてるはずです」
「あたりまえですよ。返してもらわなきゃ詐欺ですよ。だから、あなたも一目くらい、目くじらたてて待てないなんて、言わなくたって……」
「だから言ってるでしょ。それとこれとは、話がちがうからって……。それじゃ、まあ、なんですから、こういうことにしましょう。これを、いったんこわして、新規まき直し、改めて、打ち直すということに……」
「え? こわしてやり直す? ふん、冗談じゃあない。なにもこわしてやり直すほどの碁じゃないでしょ……よしましょう、よしゃあいいんだ……お互い、こんなことをやるからいけないんだ。お帰りください。いやね、じつはあたしは、今日、こんなことをしている閑暇《ひま》はないの。いろいろ用事がありましてね。まあ、おまえさんが来たから、相手をしなきゃ悪いとおもっていままでやってたんだ。帰っていただきましょ。邪魔になりますから、帰っとくれ」
「帰《けい》らい、このわからずや」
「さあ、帰れ、帰れ」
「なにを言ってんだ。帰りゃいいんだろう。おまえさんは卑怯だ。待ってやってもいいとおもったんだが、おまえさんが昔のことを言い出したから、こっちも意地になったんだ。そりゃ、おまえさんに世話になったし、金も借りたよ。そういうことがあったから、あたしゃあ、大掃除の手伝いにだって、なんべんもきてるんだ。なに言ってやんでえ、そのたんびに、おまえは、そば一杯、天丼一つでも食わしたか? このしみったれ、だいいち、言うことがおもしろくねえや。なんだと? 忙しい? ふん、笑わせるない。こっちのほうがよっぽど忙しいや。こっちはおまえさんとちがって出商売、身体いくつあったって足んねえんだ。それを、少しばかり世話になったし、金も借りたりしたから、こんなへぼ[#「へぼ」に傍点]の相手をしてるんだ」
「なんだ、この野郎、へぼ[#「へぼ」に傍点]とはなんだっ」
「へぼ[#「へぼ」に傍点]にちげえねえじゃねえか。へぼ[#「へぼ」に傍点]だからへぼ[#「へぼ」に傍点]って言ったんだ。待ったなしときめて、待ってくれだなんて、こんなへぼ[#「へぼ」に傍点]があるもんか。なに言ってやんでえ。おまえさんのようなわからねえやつとは、生涯《しようげえ》つきあうもんかっ」
「ああ、つきあわなくて結構……もう、二度と来るなよっ」
「あたりめえよ。死んだってこんなうちの敷居をまたぐもんか」
「帰れッ」
いい年齢《とし》をした大人が、たった一目のことで、この騒ぎ。
それじゃあこれが、もうこれっきり会わないかというと、そうでもない。
碁敵《ごがたき》は憎さも憎し懐《なつ》かしし——
そのうちに、雨が二、三日も降りつづくと、
「おやおや、どうもよく降るなあ……三日もぶっ通しで降ってやがる。いやんなっちゃうなあ……新聞はもう三べんも見ちゃったし、煙草ものみあきちまったし、することはなし……こういうときに、あいつが来ればいいんだ。来やしめえ。あれだけの喧嘩《けんか》しちまったんだから。もっともな、考えてみれば、こっちもよくなかったよな。待ったなしと、言い出しといて、待ってくれって言ったんだからな。こりゃ、たしかにおれのほうが悪い。悪いにはちがいねえけども、あいつも強情だよ。たったの一目ぐらい待つがいいじゃないか。あれさえ待ってくれりゃあ、こんなことになりゃあしねえんだ。……なんだ? 婆さん。退屈でしょう? 退屈してるかどうか、見りゃわかるでしょう。もう退屈は、とっくに通りこしてますよ。え? 迎いに行きましょうか? だれを? あいつをかい? 冗談言っちゃあいけないよ。迎いに行きゃあ、こっちが負けになるじゃあねえか?……なに? じゃあ、ほかの人を呼んできましょうか? なに言ってんだよ、ほかの人でいいくらいなら、こんなに退屈してるもんか。おれの相手は、あいつにかぎるんだから……え? 今日あたりは来るような気がする?……うん、おれも、さっきからそんな気がしてたんだ……お湯を沸かしておいとくれ。来たらすぐに茶がはいるように。いえ、顔を見てから湯を沸かすなんてえのは、遅くなるからね。お湯が沸いたら、あたしにもお茶を一杯……」
それじゃあこれが、もうこれっきり会わないかというと、そうでもない。
碁敵《ごがたき》は憎さも憎し懐《なつ》かしし——
そのうちに、雨が二、三日も降りつづくと、
「おやおや、どうもよく降るなあ……三日もぶっ通しで降ってやがる。いやんなっちゃうなあ……新聞はもう三べんも見ちゃったし、煙草ものみあきちまったし、することはなし……こういうときに、あいつが来ればいいんだ。来やしめえ。あれだけの喧嘩《けんか》しちまったんだから。もっともな、考えてみれば、こっちもよくなかったよな。待ったなしと、言い出しといて、待ってくれって言ったんだからな。こりゃ、たしかにおれのほうが悪い。悪いにはちがいねえけども、あいつも強情だよ。たったの一目ぐらい待つがいいじゃないか。あれさえ待ってくれりゃあ、こんなことになりゃあしねえんだ。……なんだ? 婆さん。退屈でしょう? 退屈してるかどうか、見りゃわかるでしょう。もう退屈は、とっくに通りこしてますよ。え? 迎いに行きましょうか? だれを? あいつをかい? 冗談言っちゃあいけないよ。迎いに行きゃあ、こっちが負けになるじゃあねえか?……なに? じゃあ、ほかの人を呼んできましょうか? なに言ってんだよ、ほかの人でいいくらいなら、こんなに退屈してるもんか。おれの相手は、あいつにかぎるんだから……え? 今日あたりは来るような気がする?……うん、おれも、さっきからそんな気がしてたんだ……お湯を沸かしておいとくれ。来たらすぐに茶がはいるように。いえ、顔を見てから湯を沸かすなんてえのは、遅くなるからね。お湯が沸いたら、あたしにもお茶を一杯……」
「ねえ、ちょいと、おまえさん、いいかげんに起きたらどうなんだい? もう二日も寝っころがったり、起きたり、ごろごろごろごろしてさあ」
「うるせえなあ。そんなこたあ言われなくってもわかってるよ……ああ、起きるよ、起きるとも……この上寝ようがねえじゃあねえか……あーあ、よく降りゃあがるなあ。毎日、毎日、のべつ幕なしに降りやがら。出商売なのに、こう雨ばかり降られちゃ、しめっぽくてしょうがねえや。家ン中はうす暗えし、するこたあなし……こんなときに、一石……」
「なんだい?」
「いや……なに……ちょいと、行ってくるよ」
「どこへ?」
「えへん……あすこへ……」
「あすこって、え、なんだい?……冗談言っちゃいけないよ。およしおよし、おまえさん、大喧嘩したんじゃあないか。あんなやつたァ生涯つきあわない。死んでも敷居をまたがないって、たんか切ったじゃあないか。こっちからのこのこ出かけていったら、みっともないよ。え? 退屈で死にそうだ? 言うことが大げさだねえ。少しの辛抱ができないかねえ、それくらいなら喧嘩しなけりゃいいんだ」
「そう言うけど、おれだって、あんとき、一目ぐらい待ってやってもよかったんだよ。待ってやったからって、どうってことはなかったんだから。けれど、あんまりあいつの言い草が癪にさわるから、つい意地張っちゃったんだよ。向こうだって退屈してるにちがいねえやね。ちょいと様子をみてくら」
「あきれたもんだね。おまえさん、もう喧嘩はごめんだよ。あたしがあいだにはいって、困るんだから……ちょいと、待ってくれよ、おまえさん、傘持ってくの?」
「降ってるじゃねえか」
「だめだよ。傘一本きりしかないんだから。あたしが、用達に行くとき困るからさ。置いてっとくれ」
「じゃあ、なにかい? おれに濡れてけってえのかい?」
「おまえさん、持っていきゃいつ帰ってくるかわからないだろう。その傘持ってっちゃあ困るよ、一本しかないんだから……」
「そんな意地の悪《わり》い話があるもんか。それじゃあ、行くなってえのとおんなじじゃあねえか。そんなわからねえ話が……うふふふ、うめえもんがあった。おい、そこにかぶり笠があるな、菅笠《すげがさ》が……それを持ってこう。まあ、ものてえやつぁ、なんでも丹念にとっとけてなあこれだ。ひどいほこりだなあ、わざわいも三年経てば役に立つってなあ、おととし大山へ行ったときにかぶった笠だ。これをこうしてかぶっていきゃあ濡れっこねえ。おかしいったってかまわねえってことさ。うふふふ、うめえものがありゃあがった。こうやっていきゃあ濡れっこねえぞ」
「うるせえなあ。そんなこたあ言われなくってもわかってるよ……ああ、起きるよ、起きるとも……この上寝ようがねえじゃあねえか……あーあ、よく降りゃあがるなあ。毎日、毎日、のべつ幕なしに降りやがら。出商売なのに、こう雨ばかり降られちゃ、しめっぽくてしょうがねえや。家ン中はうす暗えし、するこたあなし……こんなときに、一石……」
「なんだい?」
「いや……なに……ちょいと、行ってくるよ」
「どこへ?」
「えへん……あすこへ……」
「あすこって、え、なんだい?……冗談言っちゃいけないよ。およしおよし、おまえさん、大喧嘩したんじゃあないか。あんなやつたァ生涯つきあわない。死んでも敷居をまたがないって、たんか切ったじゃあないか。こっちからのこのこ出かけていったら、みっともないよ。え? 退屈で死にそうだ? 言うことが大げさだねえ。少しの辛抱ができないかねえ、それくらいなら喧嘩しなけりゃいいんだ」
「そう言うけど、おれだって、あんとき、一目ぐらい待ってやってもよかったんだよ。待ってやったからって、どうってことはなかったんだから。けれど、あんまりあいつの言い草が癪にさわるから、つい意地張っちゃったんだよ。向こうだって退屈してるにちがいねえやね。ちょいと様子をみてくら」
「あきれたもんだね。おまえさん、もう喧嘩はごめんだよ。あたしがあいだにはいって、困るんだから……ちょいと、待ってくれよ、おまえさん、傘持ってくの?」
「降ってるじゃねえか」
「だめだよ。傘一本きりしかないんだから。あたしが、用達に行くとき困るからさ。置いてっとくれ」
「じゃあ、なにかい? おれに濡れてけってえのかい?」
「おまえさん、持っていきゃいつ帰ってくるかわからないだろう。その傘持ってっちゃあ困るよ、一本しかないんだから……」
「そんな意地の悪《わり》い話があるもんか。それじゃあ、行くなってえのとおんなじじゃあねえか。そんなわからねえ話が……うふふふ、うめえもんがあった。おい、そこにかぶり笠があるな、菅笠《すげがさ》が……それを持ってこう。まあ、ものてえやつぁ、なんでも丹念にとっとけてなあこれだ。ひどいほこりだなあ、わざわいも三年経てば役に立つってなあ、おととし大山へ行ったときにかぶった笠だ。これをこうしてかぶっていきゃあ濡れっこねえ。おかしいったってかまわねえってことさ。うふふふ、うめえものがありゃあがった。こうやっていきゃあ濡れっこねえぞ」
「おいおい、どうしたい、婆さん。お湯は?……え? まだ沸かない? なんだい。火がおこらない? あおいだらいいだろう。……なに? ほこりが立ちます? 立ったっていいじゃあねえか。さっさと沸かしなよ。湯なんてものはね、ちゃんと沸かしとくもんだよ。人さまが来たときに、湯を沸かしてりゃあ、布団出して、すぐ茶が出せるんだよ。沸いてねえと、布団出して、湯を沸かして茶をいれりゃあ、そのあいだ間がぬけるじゃあねえか。早く沸かしなよ……おやおや、まだ降ってやがる。もういいかげんにやんだらいいじゃあねえか。表をごらんよ。のべつに降ってるから、ひとっ子ひとり通りゃあしねえや。……や、や、や、出てきた、出てきた、婆さん、やって来た、やって来た……ふふふふ、とうとうたまらなくなってやって来やがった。また、妙な格好して来やがったなあ、笠かぶってやがら……きまりが悪いもんだから、わざと笠なんぞかぶってきたんだな。おーい、早く湯を沸かしな。煙草《たばこ》盆を出してな……あれっ、行っちまいやがった。いやな野郎だねえ。どこへ行きゃあがったのかねえ。この降りだってえのに、ほかに行くところなんぞあるはずがねえのに……あ、もどってきた、もどってきた。婆さん、おいおい、ここへ碁盤を持ってきなよ。そこへ置け、見えるところへな、しめしめ、もうこっちのもんだ。やっぱりうちへ来やがったよ。うん、なに、大丈夫、こんどは入《へえ》ってくるからな……へ、へ、へ……強情な野郎だねえ。こっちを見ろってんだ。こっちを、見りゃあ、ちゃーんと盤がでて、支度もできてるんだ。素直に入《へえ》ってくるがいいじゃあねえか。皮肉な野郎だね……また行っちまやがった。ちぇっ、いまいましい野郎だ。用もねえのにうちの前歩いてやがんだ。そういう野郎なんだ、あいつは……ぷうゥ、電信柱のかげに立ってやがって、こっちをのぞいてやがる。やっぱりきまりが悪くって来にくいんだな。かまわず入《へえ》ってくりゃいいのに、ばか野郎……あっあ、また出てきたよ、だんだん寄ってきたな、来た来た……婆さん、羊羹《ようかん》切っとくれ……あれっ、こんどは下向いて歩いてやがる。ふふ、こんどこそ、こっちへ……よしよし、……あれっ、また通りす……やいやいっ、……へぼ[#「へぼ」に傍点]ッ、へぼ[#「へぼ」に傍点]やいッ」
「なにをッ、へぼ[#「へぼ」に傍点]? へぼ[#「へぼ」に傍点]たあなんだ」
「へぼ[#「へぼ」に傍点]だから、へぼ[#「へぼ」に傍点]って言ったんだ」
「なにをッ、てめえのほうがよっぽどへぼ[#「へぼ」に傍点]だ」
「よし、どっちがへぼ[#「へぼ」に傍点]か、一番くるか?」
「やらなくってよ。いくとも……まず、え? 世の中におめえさんぐらいわからねえ人間があるかい、言い出しといて待ったをするから……」
「ぐずぐず言うことはない。さあさ、せっかく来たんだ、機嫌を直して、ゆっくり遊んできな」
「……いえなに、……べつにね、機嫌直すも直さねえもありませんけど、あなた、あんまりものがわからねえから……」
「わからねえたって……」
二人が碁盤に向かっていると、盤の上にしずくがぽたりぽたり。
「やあ、こりゃあ、たいへんだ。盤の上に水滴《しずく》がたれるね。こりゃ困った。え? どっか漏るんじゃあないか……はてな? 雨の漏るわけはないが……いくら拭いても、いくら拭い……あっ、いけねえなあ、かぶり笠をとらなくっちゃあ」
「なにをッ、へぼ[#「へぼ」に傍点]? へぼ[#「へぼ」に傍点]たあなんだ」
「へぼ[#「へぼ」に傍点]だから、へぼ[#「へぼ」に傍点]って言ったんだ」
「なにをッ、てめえのほうがよっぽどへぼ[#「へぼ」に傍点]だ」
「よし、どっちがへぼ[#「へぼ」に傍点]か、一番くるか?」
「やらなくってよ。いくとも……まず、え? 世の中におめえさんぐらいわからねえ人間があるかい、言い出しといて待ったをするから……」
「ぐずぐず言うことはない。さあさ、せっかく来たんだ、機嫌を直して、ゆっくり遊んできな」
「……いえなに、……べつにね、機嫌直すも直さねえもありませんけど、あなた、あんまりものがわからねえから……」
「わからねえたって……」
二人が碁盤に向かっていると、盤の上にしずくがぽたりぽたり。
「やあ、こりゃあ、たいへんだ。盤の上に水滴《しずく》がたれるね。こりゃ困った。え? どっか漏るんじゃあないか……はてな? 雨の漏るわけはないが……いくら拭いても、いくら拭い……あっ、いけねえなあ、かぶり笠をとらなくっちゃあ」