船徳
「若旦那、ちょっとこっちへいらっしゃい」
「へえ」
「へえじゃございません。困ったもんですな、どうも。河岸へ行っちゃああいつらと一緒んなって悪戯《わるさ》をしていなすっちゃあ。あたしが、こうしてお世話をしているのも、大旦那さまの手前、およばずながらお詫び言でもしてえと心配をしているんで……。それなのに、このあいだも湯へ行って、ひょいとあなたのうしろ姿を見ると、ほんの筋彫りだけれども、刺青《ほりもの》をなすったようだが、若旦那、いったいどういうご了見なんで?」
「それについちゃあ、ちょいとおまえさんにお願《ねげ》えごとがございますんで……」
「なんですねえ若旦那。お願《ねげ》えごとがございますって、あなた、口のききようからしてこの節はすっかり変わっちまって、やっけえだの、じゃあねえのということが、ちょいちょいわたしの耳に入りますが、じつにどうも困ったもんで……で、お願いというのはなんなんで……」
「いやほかでもないんだがね、どうせおやじは勘当を許す気遣いはない。こないだだって番頭の清吉にちょいとそとで会ったところが、とてもお詫びはかないそうにもございませんと、こう言うじゃねえか。なんでも、わたしが三尺締めて歩いてんのを、どっかでおやじが見かけてね、身装《なり》までああいう下品のことを好むようじゃ、とても商人《あきんど》の家へは入れられない。親類から夫婦養子をして家を継がせると、こうまで言われちゃしかたがない、わたしも覚悟をきめちまったよ」
「なんです、その覚悟をきめたてえのは」
「おまえさんとこの稼業《しようばい》をやらしてもらいたいとおもってね、どう、ひとつ船頭にしてもらいたいんだ」
「若旦那、あなたみたいな細い身体《からだ》でねえ、船頭なんぞになれやしません」
「なれやしねえったって、おんなし人間じゃねえか、みんなやってんじゃねえか」
「みんなやってるったって、そればっかりはお考え直しになったほうがよござんすよ。また、暑い時分はこれでいい稼業のようにも見えますがね、寒くなって雪でも降ったり、北東風《ならい》でも吹く時分になってごらんなさい。『これから堀まで仕事があるんだ、行ってくれ』などと言われると、それこそ身を切られるようなおもいで、艪《ろ》を押したり、棹《さお》を突っ張らして、『ああ、船のなかの人は暖かくして、これから遊びに行くという楽しみがある、それにひっかえ、こっちは送ってって、また寒い川のなかを船漕いで帰らなきゃならない。なんてつらい稼業《かぎよう》だろう、ああいやだいやだ』とおもうことがいくらあるか知れませんよ。それでも、どうやらこうやら、まあこんなちっぽけな船宿の一軒も持てるようンなればいいほうです。ま、悪いことは申しませんから、船頭ンなるなんていう考えはおよしなさいまし」
「そうかい。おまえさんがだめってことならしかたない、お暇をもらって……」
「暇をもらうって若旦那、そいじゃなんだかわたしがあなたを雇ってでもいるようですね」
「うん、よそへ行って船頭ンなるよ」
「困りましたね、まあ、あなたがたってなりたいと言うものなら、おとめするのもなんですが……若旦那ほんとうに辛抱ができますか?」
「するとも。……それじゃね、店の若い者をみんなここへ呼んどくれ。……わたしが仲間に入ったしるしにね、ひとつ、ここでぱあっと散財をしましょう」
「散財は結構ですがね若旦那、入費《にゆうひ》がかかりましょう?」
「そりゃ承知のとおりで、いまわたしは一文なしだ、そこんところはおまえさんが一時立て替えるんだよ」
「あなたのおっしゃることは、いちいちどうもしまりませんね。まあようがしょ、若い者を呼びましょう。お清、お清、……返事ばかりするない、呼んだらすぐ来ねえかい」
「はーい」
「若《わけ》えやつらが河岸にいるから、呼んどいで。大急ぎの用があるって、おれがそう言ったっていうんだ」
「はーい。……熊さーんっ、八っつぁーんっ、熊《くま》ン八《ばつ》つぁーん」
「また呼んでやがら、ちぇっ、無精な呼び方があるもんだ。熊《くま》ン八《ばち》だってやがら。よせやい、別々に呼べ。なんだい、めしかあ?」
「呼びさえすりゃおまんまだとおもってんだね、食い意地がはってるよ、ほんとうに。おまんまじゃないよ、親方が呼んでるよ。みんなに叱言《こごと》を言うんだって、こわい顔してる」
「わかったよ。すぐ行くからって、そう言ってくんねえ。おい、親方が叱言《こごと》だってさ」
「嘘だよ。お清の言うことなんかあてになるもんか。あんな法螺《ほら》吹きはありゃあしねえや。こねえだだってそうだ。おれが河岸で褌《ふんどし》を洗ってたら、あいつが、『燃えだしたあ、燃えだした』って言うんだ。おだやかじゃねえから、おらあ飛んでったんだ。『どこが燃えだした?』と聞くと、『竈《へつつい》の下が燃えだした』って言うんじゃねえか。『ばか、いいかげんにしろ』って、河岸へ帰ったら、褌が流れちまってた。それっきりおらあ、褌をしめてねえ」
「汚《きたね》えな」
「嘘じゃないよ……親方ぁ、みんな、あんなことを言って来ませんよゥ」
「野郎どもっ」
「おい……おい、聞いたか、あの『野郎どもっ』ってえ声を? え? 叱言だよ……おう、伊之、おめえ、なんか心あたりはねえか?」
「えっへっへっへ、どうもすまねえ」
「よせよ、おい。すまねえって、なんかやったのかい?」
「よしゃあよかったんだよ、こねえだ、あんまり暇だったから、新艘《しんぞ》を大川まで出したんだ。気が張ってねえときはしかたのねえもんだね、舳先《へさき》を橋杭《はしぐい》にぶつけちまってね、先のほうを少し削《けず》っちまったんだ。すぐに大工《でえく》のほうへまわしときゃあよかったんだが、気がつくめえとおもって、先のほうを荒縄で巻きつけといたんだが、親方ぁ商売気ちげえだ、あれがばれたかな」
「それにちげえねえや。それだよ、きっと……それにしてもおかしいな。みんなに叱言っていうなあ……おい、寅、おめえ、なんか親方に叱言を言われるこたあねえか?」
「あはは、どうもしょうがねえ」
「しょうがねえって、なんかあったのかい?」
「十日ばかり前だったが、ちょっと祝儀をもらったもんだからね、いつもごちそう酒ばかりでうまかねえや。たまには手銭で一杯《いつぺえ》やりてえとおもってね、『ぼうずしゃも』へ行って、すっかり酔っぱらっちゃって、隣の客に喧嘩ふっかけてね、徳利三本と皿四、五枚かいちまったんだ。さては親方の耳に入《へえ》ったかな」
「それだよ、それにちげえねえや……ここでぐずぐず言ったってしょうがねえや。向こうは叱言を言おうと待ってるんだ。こういうときはね、叱言を言われねえうちに、こっちが先へつぅーとあやまるってえやつだ。もうこれしかほかに手はねえんだ」
「では、なにぶん頼まあ」
「じゃあついてこい。どうも手数がかかるやつらだ。……へい、親方、どうもあいすみません」
「みんなこっちへ入《へえ》れ」
「へい、みんなこっちへ入《へえ》れとよ」
「えっへっへ……入《へえ》らねえほうがいいや。叱言《こごと》はあんまりそばへ行かないほうがいい。叱言は、こうやって頭を下げてりゃあ、上のほうを通っちまうから……」
「あんなことを言ってやがら……へえ、親方、どうもあいすいません。伊之の野郎でござんす……あんまり暇だってんでね、新艘をいたずらしちまやぁがったんで、舳先を橋杭へぶつけて、先のほうを少し削っちゃったてえんです。だから、やったらやったでしょうがねえ、なぜ大工のほうへまわしとかねえてんでね、いま叱言を言ったとこなんで……気がつくめえなんてんで、荒縄で巻きつけといたなんて、そんな横着なことをしといちゃいけねえって、いまさんざっぱら叱言を言ったとこなんで……へえ、お腹もお立ちでしょうが、今日のところはあっしに免じてひとつご勘弁|願《ねげ》えてえもんで……」
「伊之、なんだっておめえは、いつもどじ[#「どじ」に傍点]なんだ。客があったらどうするつもりなんだ? なぜ大工のほうへまわさねえ。いつやったんだ? おれはちっとも知らなかった」
「えっ? 畜生、おしゃべりだねえ、こいつぁ、おい、親方は知らねえんじゃねえか」
「知らねえったって……そうだろうとおもったから、先に言ってあやまったんじゃねえか……じゃあ親方、寅のやつで、へえ……ちょいと祝儀をもらったもんですから、いつもごちそう酒ばかりでうまくねえから、たまには手銭で一杯《いつぺえ》やりてえてんで、『ぼうずしゃも』へ行って、すっかり酔っちまって、隣の客に喧嘩ふっかけて、徳利三本と皿を四、五枚かいちまったてんですが、それが親方の耳に入《へえ》ったんだろうってね」
「どうもうちにゃあろくな野郎がいねえな。どうしててめえたちはそうなんだ。いま聞きゃあ『ぼうず』で飲んで暴れりゃ、うちの暖簾《のれん》にさわるんだぞ、飲んだくれ野郎め、おい、寅、てめえってやつは……いつやったんだ? ちっとも知らなかった」
「えっ?……こん畜生、みんなしゃべっちまやあがった。親方ぁ知らねえや……てめえばかりいい子になりゃあがって、こんなおしゃべりはねえなあ」
「まあいいやな。ぐずぐず言ったって、できたこたあ、しょうがねえや。これから気をつけろ。そんなこって呼んだんじゃねえんだ。ここにいる若旦那だ。おとめしたんだがどうしても船頭ンなりてえと、こうおっしゃるんでな。それで、おまえたちを呼んだんだ」
「えっ、若旦那が船頭に? おい、聞いたかよ、そうじゃねえかとおもってたね。なにしろ、こないだうちから、船いたずらしてましたからね。若旦那、おなんなさいよ。ありがとうござんす。そいつはなんにしてもおめでとうございます。たいへんな、ご出世で、まことに結構」
「なにを言ってんだ。財産のある商家の若旦那が船頭ンなって、なにがめでたい」
「へえ、じゃあご愁傷さまで」
「ご愁傷てえやつがあるか。まあ、できるかできねえか、とにかく面倒みてやってくんねえ」
「ええ、かしこまりましたとも……ねえ若旦那、あなたが船頭ンなりゃあ、わっしたちだって肩身が広《ひれ》えや。それにあなたなんざあ柄がいいや、オツなこしらえでもって、艪《ろ》へつかまって、裏河岸をひとまわりしてごらんなさい。どう考《かん》げえたって、芝居に出てきそうな船頭ができるね。いいえ、ほんとう……柳橋の芸者衆がほっとかないよ……音羽屋っ」
「ばかっ、てめえたちがそんなことを言うから、若旦那がよけいにのぼせて船頭になりたがるんだ。そうと、若旦那、船頭ンなりゃ、若旦那ってえわけにもいかねえや、まあ、徳兵衛という立派な名前もあることだし、おめえたちの仲間になりゃあ徳なら徳と、こう呼んじゃあ……いいでしょう?」
「ああ、そうしておくれ」
「こいつは弱ったね」
「なにが?」
「なにがって、いままで浴衣の一枚ずつもくださったり、祝儀だって人一倍はずんでくださった若旦那をだなあ、仲間に入《へえ》ったからって、すぐ名前の呼びつけはしにくいじゃねえか」
「なに言ってやんでえ。そんなことを言ったら若旦那だってお困りなさらあ……あっしは呼びつけにしますぜ。え? やってみろ? いまですかい? いまねえ……そうですか、ええ、呼びつけにしますけれどもね……いえ、できねえことはねえけれど……やい、やい、やい、やいってんだ」
「なんだ、それは?」
「いえ、あっしだって恩人を呼びつけにするんですから、やい、やいってんで景気づけをしなくっちゃあ……では、若旦那、はじめますよ。ええ、やい、やい、やい、やいってんでござんす」
「なに言ってるんだ」
「むずかしくって、どうも……これがずつと離れてたらすぐにできるんだが……おーい、おーい、へっへっへ……いまやるよ。ほんとうに。おーい、へへへへ、徳やーいてんで、ごめんなさい」
「あやまってやがらあ」
とうとう若旦那、船頭になった。「竿は三年、艪は三月《みつき》」というが、たいへんにむずかしいもので……。
四万六千日——。暑いさかり。
浅草の観音さまに、この日一日お詣りをすれば、四万六千日お詣りしただけのご利益があるというので、この日は人出でにぎわう。
「暑いね。お詣りもいいがね。この埃《ほこり》をあびていくのがいやだね。こうしようじゃないか。柳橋に大桝《だいます》てえ船宿を知ってんだが、あそこへ行こうじゃねえか」
「およしよ。いやだよ。おまえさんはすぐ船に乗りたがるけど、あたしゃ船は嫌《きら》いなんだから……」
「けどさ、この暑さだよ。今日はあたしにおまかせってんだ。君はね、臆病だから……あたしがついてるから大丈夫だよ……こんちは」
「おや、いらっしゃいまし。まあよくいらっしゃいました。どうぞ、お布団を……まあお暑いじゃあございませんか。ここんとこあんまりおいでがないから、どうなすったかとお噂申しておりました。お連れさま、どうぞお入り遊ばして、どうぞどうぞ……まあ、六千日さまで、お詣りに……そうでございますか……ねえ、旦那、先日の妓《こ》がね、もういっぺんあなたにお目にかかりたいと、わざわざ訪ねてきましたの……いえ、ほんとなんですよ」
「おい、お、おかみ、変なことを言っちゃあ、あたしゃ友だちといっしょなんだよ。あの……さっそくだが、大桟橋まで船を一艘仕立ててもらいたいんだが……」
「まあ、ありがとう存じますけれど、なにしろ、今日《こんにち》は、六千日さまで、お船はみんな出払っておりますんで、お気の毒さまでございます」
「そいつぁまずいね。友だちがいやがるのを無理につれて来たんだから、それじゃあ、あたしの立場がないじゃねえか。あっ、そういえば、おかみ、河岸に一艘|舫《もや》ってあったぜ」
「あら、ごらんになったんですか。お船はございますんですけど、お役に立つ若い者がおりませんので、ほんとうにごあいにくでございます」
「そいつぁまずいなあ……そこんとこをなんとかしてもらうのが、馴染《なじ》みじゃねえか。なあ、おかみ、そうでしょ……おいおい、おかみ、嘘《うそ》言っちゃいやだよ。若い者がいねえって、その柱に寄りかかって居眠りしてるじゃねえか? 若い衆なんだろ? あっはっは、とっときだね? お約束だね? こうしよう、手間はとらせない。あっちへやってもらったら、すぐに返すから、貸してくれよ、いいだろ?……ねえ、おい、若《わけ》え衆、若え衆」
「へっ、ただいまっ……あっ、あーあ……あっ、お客さまだ。へっ、いらっしゃいまし」
「若い衆、あの、お約束だろうけどもねえ。ちょいと大桟橋《おおさんばし》までやってもらいたいんだ。すぐ帰すよ、いいだろう?」
「へっ、ありがとう存じます。ただいますぐにまいりますから……」
「ちょいと徳さん、徳さん、お馴染みのお客さまなんですからね。もし途中でまちがいでもあるといけませんからね」
「へえ、おかみさん大丈夫ですよ。やらしてくださいよ。近ごろじゃあね、腕がもうびゅんびゅん唸《うな》ってますから、この前みたいにひっくり返すようなことはござんせん」
「おい、おいっ」
「え?」
「えじゃないよ。いまあの男の言ったことを聞いたかい?」
「なにが?」
「なにがって、近ごろじゃあ、腕がびゅんびゅん唸ってます。この前みたいにひっくり返すことはござんせんてえ……じゃあ、前にはひっくり返したんじゃねえか」
「大丈夫だよ。嘘だよ。船なんてものはねえ、ひっくり返そうたってひっくり返るもんじゃないよ。君は臆病だね。この若い衆はね、寝てるとこを起こされたもんだから、寝ぼけたんだよ……ねえ、おかみ、大丈夫だねえ」
「ええ、まあ、大丈夫でござ……」
「へっへえ、大丈夫でござんす、ただいますぐまいりますから……」
浅草の観音さまに、この日一日お詣りをすれば、四万六千日お詣りしただけのご利益があるというので、この日は人出でにぎわう。
「暑いね。お詣りもいいがね。この埃《ほこり》をあびていくのがいやだね。こうしようじゃないか。柳橋に大桝《だいます》てえ船宿を知ってんだが、あそこへ行こうじゃねえか」
「およしよ。いやだよ。おまえさんはすぐ船に乗りたがるけど、あたしゃ船は嫌《きら》いなんだから……」
「けどさ、この暑さだよ。今日はあたしにおまかせってんだ。君はね、臆病だから……あたしがついてるから大丈夫だよ……こんちは」
「おや、いらっしゃいまし。まあよくいらっしゃいました。どうぞ、お布団を……まあお暑いじゃあございませんか。ここんとこあんまりおいでがないから、どうなすったかとお噂申しておりました。お連れさま、どうぞお入り遊ばして、どうぞどうぞ……まあ、六千日さまで、お詣りに……そうでございますか……ねえ、旦那、先日の妓《こ》がね、もういっぺんあなたにお目にかかりたいと、わざわざ訪ねてきましたの……いえ、ほんとなんですよ」
「おい、お、おかみ、変なことを言っちゃあ、あたしゃ友だちといっしょなんだよ。あの……さっそくだが、大桟橋まで船を一艘仕立ててもらいたいんだが……」
「まあ、ありがとう存じますけれど、なにしろ、今日《こんにち》は、六千日さまで、お船はみんな出払っておりますんで、お気の毒さまでございます」
「そいつぁまずいね。友だちがいやがるのを無理につれて来たんだから、それじゃあ、あたしの立場がないじゃねえか。あっ、そういえば、おかみ、河岸に一艘|舫《もや》ってあったぜ」
「あら、ごらんになったんですか。お船はございますんですけど、お役に立つ若い者がおりませんので、ほんとうにごあいにくでございます」
「そいつぁまずいなあ……そこんとこをなんとかしてもらうのが、馴染《なじ》みじゃねえか。なあ、おかみ、そうでしょ……おいおい、おかみ、嘘《うそ》言っちゃいやだよ。若い者がいねえって、その柱に寄りかかって居眠りしてるじゃねえか? 若い衆なんだろ? あっはっは、とっときだね? お約束だね? こうしよう、手間はとらせない。あっちへやってもらったら、すぐに返すから、貸してくれよ、いいだろ?……ねえ、おい、若《わけ》え衆、若え衆」
「へっ、ただいまっ……あっ、あーあ……あっ、お客さまだ。へっ、いらっしゃいまし」
「若い衆、あの、お約束だろうけどもねえ。ちょいと大桟橋《おおさんばし》までやってもらいたいんだ。すぐ帰すよ、いいだろう?」
「へっ、ありがとう存じます。ただいますぐにまいりますから……」
「ちょいと徳さん、徳さん、お馴染みのお客さまなんですからね。もし途中でまちがいでもあるといけませんからね」
「へえ、おかみさん大丈夫ですよ。やらしてくださいよ。近ごろじゃあね、腕がもうびゅんびゅん唸《うな》ってますから、この前みたいにひっくり返すようなことはござんせん」
「おい、おいっ」
「え?」
「えじゃないよ。いまあの男の言ったことを聞いたかい?」
「なにが?」
「なにがって、近ごろじゃあ、腕がびゅんびゅん唸ってます。この前みたいにひっくり返すことはござんせんてえ……じゃあ、前にはひっくり返したんじゃねえか」
「大丈夫だよ。嘘だよ。船なんてものはねえ、ひっくり返そうたってひっくり返るもんじゃないよ。君は臆病だね。この若い衆はね、寝てるとこを起こされたもんだから、寝ぼけたんだよ……ねえ、おかみ、大丈夫だねえ」
「ええ、まあ、大丈夫でござ……」
「へっへえ、大丈夫でござんす、ただいますぐまいりますから……」
「さあ、さあ、早くおいでよ。さあ、手をとってあげるから……大丈夫だよ。そこは、少ししなったって……ほうら、どっこいしょのしょっ……どうだい、いい心持ちだろう?」
「いい心持ちだろうって、まだ、いま乗ったばかりで船は動いちゃいない」
「えへ、なにを言ってんだよう……おかみ、乗せました、乗せたよ。火箱は来てるよ……。おまえさんは、船は嫌いだ、嫌いだって言うけど、これから蔵前通りを歩いて行ってごらん。暑いし人出だってたいへんだ。そこへいくと、船は埃をあびないし、涼しいし、水の上すーっといく気なんてじつにいいもんだから……どうでもいいけど、若え衆はどうしたんだい? 暑いからすぐ出してもらいてえんだが……厠所《はばかり》へでも入ってるんじゃねえかい? おかみ、お手数でも見てきておくれよ……ねえ、もうちょっとの辛抱だよ。これで船が出れば、涼しい風がくるし、それに船てえものはお腹が空くから、向こうへ行って酒はうまいし、食い物はうまいし、きっとおまえも好きになるよ……おかみ、どうしたい、船頭は? えっ、厠所にいない? なにしてるんだろう? 蛇形の単衣《ひとえ》に白玉の三尺、芥子玉の手拭でむこっぱち巻き、ちょっと威勢がいいとおもったがね、いやにぐずだね、早く大川へ出なくちゃ暑くてしょうがねえや。あっ、あんなとこから出てきやがった。どうした、若え衆、やに遅いじゃあねえか」
「へえ、ちょいとただいま、髭《ひげ》をあたってましたんで……」
「色っぽいね、どうも。おい聞いたかい? 客を待たしといて、髭をあたるもないじゃねえか」
「へい、あいすみません。そのかわりひとつ威勢をつけまして……」
「早くやれっ」
「へえ、……じゃあおかみさん、行ってまいります……いよッ(竿で川底を突く)……いよッ……いよッ」
「徳さん、徳さん、腰、腰を、腰を張って」
「(ぐいッと力を入れ)いよッ……いいーよッと」
「おい、おい、若え衆、なにを唸《うな》ってるんだよ。いくら唸ったって出るわけはねえ。船はまだ舫《もや》ってある」
「へっ? あっ、どうもあいすいません。ちょっとあわてたもんですから……では、縄をときまして……」
「殴るよ、ふざけると……いつまで寝ぼけてんだい、しっかりしろっ」
「あいすいません……へえ、よッ……えへへ、出ました」
「あたりめえじゃねえか」
「旦那、お危のうございますから、お気をつけ遊ばして……」
「やだよ、おれは。聞いたかい? お危のうございますからてえのは、おだやかじゃないよ、君」
「大丈夫だよ、洒落《しやれ》ですよ、ねえ若い衆……まあ、文句は言ったものの、若い船頭はいいね、なんといってもきれいごとだ。いくら腕がよくってもね、年寄りの船頭はいけませんよ、水っぱなかなんかたらしてるのは痛々しいや。どうだい、え? いいもんでしょ。船の具合いは?」
「おまえは好きだから、一人でそうやって喜んでますがね。あたしゃあんまり好きじゃないからべつにうれしかあないよ。おまえ船頭は若いのがいいってえが、この船頭は船頭にしちゃあ少し色が白いんじゃないか?」
「おう、若え衆、いつまでもそう竿ばかり突っぱってねえで、いいかげんに艪《ろ》とかわったらどうだなあ」
「へっ、ここんとこを出ますあいだ……よッ……え、こんにちは、お日がらもよろしくて……」
「おい、若え衆、挨拶なんかどうでもいいよ。おっ、船がまわるよ」
「へえ、ここんとこは、いつも三度ずつまわることになってまして……」
「おい、若え衆、三度っつまわるって喜んでちゃあいけませんよ。おい、どうなるんだっ」
「ああっ、立っちゃいけませんよ。だ、だし抜けに立っちゃあだめですよ……いよっ、よいしょ、よいしょ……お詣りもたいへんでござんすね、こう暑くちゃあ……もし、そちらの太った旦那、あなた、もう少しこっちへ来てくださいよ。太ってて、先のほうへいかれたんじゃ、梶がとりにくくってしょうがねえ。素人は、なんにも知らねえから困っちまうな……わからねえんだから……竹屋のおじさーん、竹屋のおじさーんっ、あのお客をね、大桟橋まで送ってきますからあー」
「徳さん一人かぁーい? 大丈夫かぁーい?」
「おいッ、おれはあげてもらいたいなあ、おい、いま変なことを言ったよ」
「大丈夫だよ、うるさいね君は。……若え衆、大丈夫だよね?」
「へえ、大丈夫でござんす……えへ、この前、ちょいとまちがいがあったもんですから……それでああやって心配して……」
「この前ちょいとまちがいがあったって、どんなまちがいがあったんだい?」
「ええ、たいしたこたあねえんでござんすがねえ、子供を連れたおかみさんを、川ん中へ落っことしちまって……」
「そら危ねえなあおい……そらずっと前の話なんでしょ? この節ぁそんなこたあねえんだろうね?」
「へえ、大丈夫です。どうぞ、ご安心なすって、大丈夫でござんすから……」
「ご安心なすってって、ご安心はしてるけどねえ、若い衆、どういうわけのもんだい、この船てえものは、ばかにまた端《はし》へよるね。まん中へ出ねえじゃねえか。おい、石垣へくっつきそうだよ」
「へえ……さよでござんす。この船てえものは、石垣が好きでござんして……」
「蟹《かに》みてえな船だな。おい、おい、ほんとに石垣へくっつくよ。あー……とうとうくっついたよ。くっつきましたよ」
「へっ、くっつきました」
「おい、くっつきましたってすましてちゃしょうがないじゃあないか。どうなるんだ?」
「どうなるんだって、あなた方、そこでさっきから文句ばかり言ってるが、船なんてえものは、なかなかおもうようになるもんじゃございませんよ。そんなこと言うんだったら、あなた、こっちへきてやってごらんなさい。……そのコウモリ傘を持った旦那、ちょいと石垣を突いておくんなさい」
「こんなに用の多い船てえのはないね。突くのかい? 突くよ、そらッ……いよッと、ああ、あああ、だめだいだめだい……石垣のあいだ、おい、コウモリ傘はさんじゃったよ」
「へえ……もう離れたらおあきらめください。もうあそこへはまいりません」
「なんだいおい。行かねえのかいおい……あそこへ傘が見えてて取れねえのは、情けねえ……」
「いいじゃねえか、おまえ、傘の一本や二本、命にはかえられねえや。どうせあれは福引きで当たったんじゃねえか」
「福引きで当たったっておれのもんじゃねえか……だめかい? 取れねえのかい? おい、どこで損をするかわからねえや。ま、しかたがない……」
「どうだい、船の乗り心地は? 具合いはどうだい?」
「具合いどころじゃないよ。運動になるったってなりすぎますよ。のべつにお辞儀ばかりしてるじゃないか」
「おまえばかりお辞儀してるわけじゃない……あたしだってお辞儀してるじゃないか。お互いに失礼がなくっていいや。これなら、向こうへ行ってお互いに食い物がうまいよ。……よくこなれるよ」
「こなれすぎるよ。こんなにゆれちゃあ、臓物《ぞうもつ》までこなれちまうよ」
「ちょいとわたしは、煙草を一服つけたい心持ちなんだがね。その、火箱を取っておくれでないかい。取っておくれよっ」
「君、なにもね、この最中《さなか》に煙草を吸うこともないでしょ……さあ、おつけなさい。さあ、おつけなさいって言ってるのに……この人は、なにをしてるんですよ……わたしがこう前へ出したときにおつけなさいてえんだ」
「おつけなさいったって、あたしがこう出すとひっこましちゃうんじゃねえか。……どうしておまえさんは意地の悪いことをするんだい? 君とは、長年の、つきあいでしょっ……君がそういう、了見ならば……こっちは……こっちで……あっ、ついた。煙草を吸うのにこの騒ぎだ……おい、おいおいっ、この船はどうなってるんだい? おいおい若え衆、流れてるよ。流れて行くよ」
「へえ、なにしろその、目に汗が入っちまって、もうなんにも見えねえんですよ。すいませんが、旦那方、向こうから船が来たら、よけてください」
「おい、なにを言ってるんだよおい……」
「あなた方、水天宮さまのお守り持ってますか?」
「冗談じゃねえや。だからあたしはいやだって言ったでしょう。あたしはね君、厄年なんだから……」
「おい、まいっちゃったよ、この船頭」
「まいっちゃったじゃないよ。あたしゃ、こんな船に乗ったことがないよ。三年ばかり寿命をちぢめちゃったよ。おどろいたね、だいいち桟橋へ着かないじゃないか」
「おい、若い衆、しっかりしとくれよ。もうひとっ丁場だよ。あそこに見えてるじゃねえか。大桟橋だよ、もうわずかだから……若い衆、頼むよ」
「へえ、へえ……もうだめなんで……」
「おい、もう行かないんだよってどうする?」
「どうするったってしょうがないから……水のなかへ入っていくんだよ」
「おい、冗談言っちゃあいけないよ。だから、あたしが、いやだ、いやだてえものをおまえが無理やり乗せたんじゃないか……だからあたしをおぶってっとくれ」
「だけど、ねえ、ここは浅いんだよ。底が見えてるじゃないか……いいよ、おぶってやるよ、尻をはしょって、下駄を持って、忘れもんはないかい? では、あたしの背中にしっかりとおぶさるんだよ。いいかい……大きな尻《けつ》だね。君てえものは男のくせに、いいかい? ちゃんとつかまっとくれ、いいね、よっこらしょっと。……おい、若え衆、おれたちは上がるけどね、おまえさん、まっ青な顔して、しっかりおしよ、大丈夫かーい?」
「へっ……へっ……お客さま、お上がりになりましたらねえ……柳橋まで船頭一人雇ってください」
「いい心持ちだろうって、まだ、いま乗ったばかりで船は動いちゃいない」
「えへ、なにを言ってんだよう……おかみ、乗せました、乗せたよ。火箱は来てるよ……。おまえさんは、船は嫌いだ、嫌いだって言うけど、これから蔵前通りを歩いて行ってごらん。暑いし人出だってたいへんだ。そこへいくと、船は埃をあびないし、涼しいし、水の上すーっといく気なんてじつにいいもんだから……どうでもいいけど、若え衆はどうしたんだい? 暑いからすぐ出してもらいてえんだが……厠所《はばかり》へでも入ってるんじゃねえかい? おかみ、お手数でも見てきておくれよ……ねえ、もうちょっとの辛抱だよ。これで船が出れば、涼しい風がくるし、それに船てえものはお腹が空くから、向こうへ行って酒はうまいし、食い物はうまいし、きっとおまえも好きになるよ……おかみ、どうしたい、船頭は? えっ、厠所にいない? なにしてるんだろう? 蛇形の単衣《ひとえ》に白玉の三尺、芥子玉の手拭でむこっぱち巻き、ちょっと威勢がいいとおもったがね、いやにぐずだね、早く大川へ出なくちゃ暑くてしょうがねえや。あっ、あんなとこから出てきやがった。どうした、若え衆、やに遅いじゃあねえか」
「へえ、ちょいとただいま、髭《ひげ》をあたってましたんで……」
「色っぽいね、どうも。おい聞いたかい? 客を待たしといて、髭をあたるもないじゃねえか」
「へい、あいすみません。そのかわりひとつ威勢をつけまして……」
「早くやれっ」
「へえ、……じゃあおかみさん、行ってまいります……いよッ(竿で川底を突く)……いよッ……いよッ」
「徳さん、徳さん、腰、腰を、腰を張って」
「(ぐいッと力を入れ)いよッ……いいーよッと」
「おい、おい、若え衆、なにを唸《うな》ってるんだよ。いくら唸ったって出るわけはねえ。船はまだ舫《もや》ってある」
「へっ? あっ、どうもあいすいません。ちょっとあわてたもんですから……では、縄をときまして……」
「殴るよ、ふざけると……いつまで寝ぼけてんだい、しっかりしろっ」
「あいすいません……へえ、よッ……えへへ、出ました」
「あたりめえじゃねえか」
「旦那、お危のうございますから、お気をつけ遊ばして……」
「やだよ、おれは。聞いたかい? お危のうございますからてえのは、おだやかじゃないよ、君」
「大丈夫だよ、洒落《しやれ》ですよ、ねえ若い衆……まあ、文句は言ったものの、若い船頭はいいね、なんといってもきれいごとだ。いくら腕がよくってもね、年寄りの船頭はいけませんよ、水っぱなかなんかたらしてるのは痛々しいや。どうだい、え? いいもんでしょ。船の具合いは?」
「おまえは好きだから、一人でそうやって喜んでますがね。あたしゃあんまり好きじゃないからべつにうれしかあないよ。おまえ船頭は若いのがいいってえが、この船頭は船頭にしちゃあ少し色が白いんじゃないか?」
「おう、若え衆、いつまでもそう竿ばかり突っぱってねえで、いいかげんに艪《ろ》とかわったらどうだなあ」
「へっ、ここんとこを出ますあいだ……よッ……え、こんにちは、お日がらもよろしくて……」
「おい、若え衆、挨拶なんかどうでもいいよ。おっ、船がまわるよ」
「へえ、ここんとこは、いつも三度ずつまわることになってまして……」
「おい、若え衆、三度っつまわるって喜んでちゃあいけませんよ。おい、どうなるんだっ」
「ああっ、立っちゃいけませんよ。だ、だし抜けに立っちゃあだめですよ……いよっ、よいしょ、よいしょ……お詣りもたいへんでござんすね、こう暑くちゃあ……もし、そちらの太った旦那、あなた、もう少しこっちへ来てくださいよ。太ってて、先のほうへいかれたんじゃ、梶がとりにくくってしょうがねえ。素人は、なんにも知らねえから困っちまうな……わからねえんだから……竹屋のおじさーん、竹屋のおじさーんっ、あのお客をね、大桟橋まで送ってきますからあー」
「徳さん一人かぁーい? 大丈夫かぁーい?」
「おいッ、おれはあげてもらいたいなあ、おい、いま変なことを言ったよ」
「大丈夫だよ、うるさいね君は。……若え衆、大丈夫だよね?」
「へえ、大丈夫でござんす……えへ、この前、ちょいとまちがいがあったもんですから……それでああやって心配して……」
「この前ちょいとまちがいがあったって、どんなまちがいがあったんだい?」
「ええ、たいしたこたあねえんでござんすがねえ、子供を連れたおかみさんを、川ん中へ落っことしちまって……」
「そら危ねえなあおい……そらずっと前の話なんでしょ? この節ぁそんなこたあねえんだろうね?」
「へえ、大丈夫です。どうぞ、ご安心なすって、大丈夫でござんすから……」
「ご安心なすってって、ご安心はしてるけどねえ、若い衆、どういうわけのもんだい、この船てえものは、ばかにまた端《はし》へよるね。まん中へ出ねえじゃねえか。おい、石垣へくっつきそうだよ」
「へえ……さよでござんす。この船てえものは、石垣が好きでござんして……」
「蟹《かに》みてえな船だな。おい、おい、ほんとに石垣へくっつくよ。あー……とうとうくっついたよ。くっつきましたよ」
「へっ、くっつきました」
「おい、くっつきましたってすましてちゃしょうがないじゃあないか。どうなるんだ?」
「どうなるんだって、あなた方、そこでさっきから文句ばかり言ってるが、船なんてえものは、なかなかおもうようになるもんじゃございませんよ。そんなこと言うんだったら、あなた、こっちへきてやってごらんなさい。……そのコウモリ傘を持った旦那、ちょいと石垣を突いておくんなさい」
「こんなに用の多い船てえのはないね。突くのかい? 突くよ、そらッ……いよッと、ああ、あああ、だめだいだめだい……石垣のあいだ、おい、コウモリ傘はさんじゃったよ」
「へえ……もう離れたらおあきらめください。もうあそこへはまいりません」
「なんだいおい。行かねえのかいおい……あそこへ傘が見えてて取れねえのは、情けねえ……」
「いいじゃねえか、おまえ、傘の一本や二本、命にはかえられねえや。どうせあれは福引きで当たったんじゃねえか」
「福引きで当たったっておれのもんじゃねえか……だめかい? 取れねえのかい? おい、どこで損をするかわからねえや。ま、しかたがない……」
「どうだい、船の乗り心地は? 具合いはどうだい?」
「具合いどころじゃないよ。運動になるったってなりすぎますよ。のべつにお辞儀ばかりしてるじゃないか」
「おまえばかりお辞儀してるわけじゃない……あたしだってお辞儀してるじゃないか。お互いに失礼がなくっていいや。これなら、向こうへ行ってお互いに食い物がうまいよ。……よくこなれるよ」
「こなれすぎるよ。こんなにゆれちゃあ、臓物《ぞうもつ》までこなれちまうよ」
「ちょいとわたしは、煙草を一服つけたい心持ちなんだがね。その、火箱を取っておくれでないかい。取っておくれよっ」
「君、なにもね、この最中《さなか》に煙草を吸うこともないでしょ……さあ、おつけなさい。さあ、おつけなさいって言ってるのに……この人は、なにをしてるんですよ……わたしがこう前へ出したときにおつけなさいてえんだ」
「おつけなさいったって、あたしがこう出すとひっこましちゃうんじゃねえか。……どうしておまえさんは意地の悪いことをするんだい? 君とは、長年の、つきあいでしょっ……君がそういう、了見ならば……こっちは……こっちで……あっ、ついた。煙草を吸うのにこの騒ぎだ……おい、おいおいっ、この船はどうなってるんだい? おいおい若え衆、流れてるよ。流れて行くよ」
「へえ、なにしろその、目に汗が入っちまって、もうなんにも見えねえんですよ。すいませんが、旦那方、向こうから船が来たら、よけてください」
「おい、なにを言ってるんだよおい……」
「あなた方、水天宮さまのお守り持ってますか?」
「冗談じゃねえや。だからあたしはいやだって言ったでしょう。あたしはね君、厄年なんだから……」
「おい、まいっちゃったよ、この船頭」
「まいっちゃったじゃないよ。あたしゃ、こんな船に乗ったことがないよ。三年ばかり寿命をちぢめちゃったよ。おどろいたね、だいいち桟橋へ着かないじゃないか」
「おい、若い衆、しっかりしとくれよ。もうひとっ丁場だよ。あそこに見えてるじゃねえか。大桟橋だよ、もうわずかだから……若い衆、頼むよ」
「へえ、へえ……もうだめなんで……」
「おい、もう行かないんだよってどうする?」
「どうするったってしょうがないから……水のなかへ入っていくんだよ」
「おい、冗談言っちゃあいけないよ。だから、あたしが、いやだ、いやだてえものをおまえが無理やり乗せたんじゃないか……だからあたしをおぶってっとくれ」
「だけど、ねえ、ここは浅いんだよ。底が見えてるじゃないか……いいよ、おぶってやるよ、尻をはしょって、下駄を持って、忘れもんはないかい? では、あたしの背中にしっかりとおぶさるんだよ。いいかい……大きな尻《けつ》だね。君てえものは男のくせに、いいかい? ちゃんとつかまっとくれ、いいね、よっこらしょっと。……おい、若え衆、おれたちは上がるけどね、おまえさん、まっ青な顔して、しっかりおしよ、大丈夫かーい?」
「へっ……へっ……お客さま、お上がりになりましたらねえ……柳橋まで船頭一人雇ってください」