お化け長屋
「杢兵衛《もくべえ》さん、聞いたかい? さっきここで家主《いえぬし》がどなってやがったのを……ほんとうにいやなじじいだなあ。こっちも悪いにゃあちがいないが、なにもあんなにとろとろ[#「とろとろ」に傍点]言うにゃあおよばねえじゃあねえか」
「ああ、源兵衛さんかい? 聞いてたかい?」
「うん……なあ、杢兵衛さん、ここの家主ぐれえしゃくにさわるやつはねえなあ。空き家にものをいれたって、『長屋の物置にしようとおもって、ここのうちを空けとくんじゃあねえ。ものをいれたやつは、調べあげて店賃《たなちん》を割り当てる』だってやがる。小憎らしい言い草じゃあねえか」
「まったくだ。おれもよっぽど飛び出して文句の一つも言おうとおもったんだが……」
「言ってやりゃあいいじゃあねえか」
「うん、飛び出そうとおもったんだが、店貸が三つもたまってるからな」
「だらしがねえな」
「ああ、あそこへ顔を出して催促でもされたひにゃあ、かえって気がきかねえとおもったから我慢をしたんだよ。じゃあ、どうだい、物置に使ってるといったんだから、向こうのお望みどおり、ほんとうにあの空き家を物置にしちゃおうじゃないか?」
「だって、あのうちだって、借り手が来るだろう?」
「だから、貸さないようにしようじゃないか。さいわい家主は二十間もはなれて、通りで荒物屋をしているから都合がいい。いいかい、おまえさんは路地の入口だ。おまえさんが向こうで、わたしが奥だ……もし、家を借りにきたやつがいたら、奥が差配だとかなんとか言って、わたしのところへよこしな。おれがそいつをあしらって、貸さねえようにすれば、家主は当分、店賃が一軒分入らねえ。それでおれたちで物置に使おうじゃねえか」
「なるほど、おれァ家主の頭を張り倒してやろうとおもったが、杢兵衛さんはさすがに年の功だ。こいつは、うめえ……じゃこれから、長屋の者に触れておきますから、よろしくたのみますよ」
「ああ、まかせときな」
「少々、うかがいますが」
「え? なんですか?」
「こちらに貸家がございますが、お家主《いえぬし》はどちらでございましょうか?」
「ええ、家主はね、ちょっと遠方《えんぽう》でね、差配が、万事とりしきっているんで……」
「そのお宅はどちらで?」
「この奥で、あの、四つ目垣のちょっとこわれた家があるでしょ? あそこに住んでいるのが、この長屋のいちばんの古株で、あだ名を古狸の杢兵衛さんてえぐらいでね、その人に聞けば、すっかりわかりますから……へっへっへ」
「あの四つ目垣のお宅で……ありがとう存じまして……ええ、ごめんください」
「はい、なんですね?」
「ええ、古狸の杢兵衛さんはこちらでございますか?」
「なんだい、どうも。陰で古狸と言われたこたァあるが、面とむかって、古狸と言われたなあ初めてだ……なんです?」
「あそこの、路地から三軒目の空家《うち》を拝借したいとおもいましてね、入口のかたにうかがいましたら、お宅で万事、おわかりだそうで……」
「えっへっへ、まあ……間取りはね、あたしのところとたいしてちがいません。入口が二畳で、玄関、それから四畳半の、奥が六畳、間《ま》は三間《みま》で……ちょいと縁側もついているし、庭もあり、ようがすよ」
「ええ、いまちょっと拝見してまいりました。つきまして店賃はどういうぐわいで……」
「店賃?……うう……そうですね。まあ二十銭も払ったらいいでしょう」
「二十銭? へえー、またずいぶん安いんですね……で、敷金とか、造作などは?」
「いや、敷金などは、お預かりしたところで、どうせ返さなくっちゃあならないし、面倒だからいりません。造作はいうまでもなく残らずついておりますよ」
「……では、前家賃ということでも?」
「べつにそんなものはいただきませんよ……まあ、住んでいただければ、こっちからいくらか住み賃を差しあげたいくらいのもんで……」
「住み賃? なんだかお話がよくわかりませんが……そんないい家で、造作がついてて、敷金も店賃もないというのは、どういうわけなんでございましょうか? なにか事情があるんじゃあございませんか?」
「ええ、そりゃあ、まあね……引っ越してきたあとで、こんなことがあるなら、なぜ話をしてくれなかったかと、恨みごとを言われるのもいやだから、ちょっとお話をいたしますが……(陰気に声をひそめ)ま、とにかくこちらへ……おかけなさい」
「えへへへへ、そんな声を出さないでくださいよ。あたしゃ、あんまり気の強いほうじゃあないんですから……」
「あの家は、ちょっとうしろに大きな木があって、日あたりが悪いので、まことに陰気でいけない」
「ははあ、それで……」
「いや、そんなことならだれでも住むが、そういうわけではない。……じつはな、以前、あすこにちょっと小金を残した夫婦が入っていたんだが、このおかみさんというのはなかなかの美人で、どちらかといえば、おかみさんが切れ者というか、まあ口も八丁手も八丁、働き者で、長屋のつきあいも如才がなく、そのうえ亭主が稼いでくるいくらかでも貯めて、けっして無駄ということをしない」
「へえ」
「そんなわけで、この長屋ではいちばんの身代になって、この長屋の者で借りのねえやつはねえというくらいだ。それで金を貸してもなかなか情け深くってひどい催促はしないというふうだから、近所でみんなよろこんで借りる。利が利をうむというのだから、ますます金はふえるばかりだ」
「結構なことでございましたな」
「ところが、満《み》つれば欠けるというが、ご亭主がちょっと病にとりつかれたのがはじまりで、枕があがらなくなった。さあ、それがもとで三月《みつき》か四月《よつき》患って、とうとう死んでしまった」
「おやおや」
「その時分にはもうそうとうの身代になっていたから、あとへのこったおかみさんだって困るということはない。奉公人もなく、あいかわらず一人で金貸をしているから別段に、貯まればといって減ることはない」
「なるほど安心でございますな」
「ところが、死んだ亭主がたしか四十いくつで、おかみさんはそのとき三十いくつだ……女|寡婦《やもめ》に花が咲くで、はじめのうちこそ質素にしていたが、百か日がすみ、一周忌がすむというと、襟《えり》白粉《おしろい》をつけ、口紅でもさすというふうになり、ちょっと表へ出るにも薄化粧をして着物を着がえるとかする、だいたいがいい女だ」
「へいへい」
「『石塔の赤い信女が子をはらみ』という川柳《せんりゆう》があるがね。いくら賢《かしこ》いものでもさてこの道ばかりは別なものだ」
「へえ」
「悪いやつにこのおかみさんがひっかかった。迷いてえものはしようがないもので、から夢中。近所の評判てえものはたいへんだ。またこの野郎がひどいやつで、根こそぎ取ったよ。わずか三年ばかりのあいだに何千とあった金をのこらずしぼりとって、しまいにおかみさんのちょっと外へ出る着物まではぎとってしまった」
「へえ」
「すっかり取り上げていよいよもう逆さにふるったって鼻血も出ないというようになったら、ドロンをきめて、いたちの道だ。おかみさんは気ちがいのようになって、うろうろしたがどこへ行ったか影もかたちも見せない。さあいよいよ気が変になって、だんだん痩せてくるばかり、目はくぼみ、頬骨が高くなり、髪をふり乱して……それがまたいい女だけにいっそうすごい。夜中になると、その逃げた男のことを口にして、神だか仏だか知らねえが、一所懸命祈っている、あまりものすごいので両隣のものは引っ越して行ってしまう。それがもう四、五年前の話だ」
「へえ、なるほど」
「とどのつまり、どっと枕について立ち居もままにならないというありさまだ。ある夜のこと、水が飲みたくなって這《は》い出したが、手をのばして流しの水瓶《みずがめ》の水をくんで飲もうとして、転がり落ちた。近所でもひどい音がしたとおもったが、夜中のことだからだれも行きもしなかった。すると長屋に親切な糊売りのお婆さんがいる、朝夕に飯汁をもって行っては世話をやいていた」
「なるほど」
「その翌《あく》る朝《あさ》、お婆さんがいつものように飯汁をもって行くと、この始末だ。お婆さんが『きゃッ』と声をあげたのでみんなが行ってみると、どこで切ったのか顔のところからだくだく血が流れて、唇が切れていて、口から舌が半分だらりと出ている。目は開いたっきり、天眼というやつだ。両方の手はよほど苦しんだものと見えて、きゅーっとにぎっている。見ただけでぞっとするくらいだ」
「へえ、へえ……たいへんなものでございますな」
「もう息が絶えたのかとおもうと、その姿でいてまだ息があるんだよ、それでしきりに逃げた男の名を呼んで恨んでいるのだ。婆さんが起こそうとおもって手をかけると、『口惜しいっ』と言って、ばりばり歯ぎしりをしたかとおもうと、それで一巻のおわりだ」
「へえー」
「もとより親類もなにもない女だし、店請《たなうけ》をした人もいまはどこかへ引っ越して行ってわからない。死骸の引取人がいないから、長屋の人がいくらかずつ香奠《こうでん》を出しあって、かたちばかりの葬式を出し、墓地を三尺四方ばかり買って、そこへ葬ってやった。長屋にもなかなか奇特な人がいて、いまだにおりおり墓詣りをしてやっているものもある」
「へえ、なるほど」
「それから、すっかり造作などを直し、きれいにして貸家の札《ふだ》をはると、すぐに借りに来るものがある。しかしそれがみんな長くいないよ、たいがい二晩か三晩、臆病な人は一晩で引っ越して行ってしまう」
「へえー」
「そんなわけでもうあそこの家もかなり長く空いているんだ。いまじゃあ、だれも借り手がいないんで、長屋じゅうの物置に使ってるというわけだ。それをおまえさんが承知ならかまわないが、また二晩や三晩で引っ越して行っちまうんだったらなんにもならないが……敷金も前家賃もいらないが、住んでみますか? どうです?」
「へえ、そりゃこんな結構な話はありませんが……どういうわけでみんな二晩か三晩で越して行くんでございましょうね」
「それがだ、あたしもあまり不思議だから聞いてみたんだよ……すると、借りた人の言うには……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑《うし》三つどきになるてえと……びらびらっ……と青い火が燃える」
「うわーっ……わたくし、ほかにも用がありますので……」
「まあ、待ちなさい。せっかく話しかけたんだから……いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって、ボォーン……」
「へえ……もう、け、け、結構でございます」
「すると、仏壇のなかで、鉦《かね》が、ひとりでにチーン、障子へ髪の毛が、サラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするするっと、ひとりでに開《あ》く……ひょいと枕もとを見ると、死んだおかみさんが、血みどろの姿で、越してきた人の顔をうらめしそうにのぞきこんで、けたけたけた[#「けたけたけた」に傍点]っ……」
「へ、へ、へえ……」
「『よく、あなた。越しておいでだねえ』と言いながら、長い細い白い手がぬっと出て、冷たい手で、寝ている人の顔を下から上へ……すーっとなでる」
「きゃーッ」
「あははは、なんて臆病な野郎なんだ。『きゃーッ』てんで、はだしで逃げちめえやがった。あれっ、蟇口《がまぐち》を落としていきゃあがった」
「杢兵衛さん、なんだい、いまの騒ぎは?」
「ああ、いま、怪談ばなしでおどかしてやったあげくにね、幽霊が冷たい手で顔をなぜるてえときに、そばにあった濡れ雑巾で顔をさかなぜにしてやった」
「悪いいたずらをするねえ。野郎、まっ青ンなって、塵溜《ごみため》ェ蹴とばして出てったぜ」
「あと見たら、蟇口を落としていきゃあがった」
「蟇口を?」
「ああ、たいして入っちゃあいねえが、あとで、長屋の者で、すしかなんか、ちょっとつまもうじゃあないか」
「そうか。ありがてえなあ……じゃあ、また借りにきたら、むけてよこすから、頼むぜ」
「ああ、いいとも、どうせあたしゃ、用なしで退屈だから、どんどんよこしてくれ」
「え? なんですか?」
「こちらに貸家がございますが、お家主《いえぬし》はどちらでございましょうか?」
「ええ、家主はね、ちょっと遠方《えんぽう》でね、差配が、万事とりしきっているんで……」
「そのお宅はどちらで?」
「この奥で、あの、四つ目垣のちょっとこわれた家があるでしょ? あそこに住んでいるのが、この長屋のいちばんの古株で、あだ名を古狸の杢兵衛さんてえぐらいでね、その人に聞けば、すっかりわかりますから……へっへっへ」
「あの四つ目垣のお宅で……ありがとう存じまして……ええ、ごめんください」
「はい、なんですね?」
「ええ、古狸の杢兵衛さんはこちらでございますか?」
「なんだい、どうも。陰で古狸と言われたこたァあるが、面とむかって、古狸と言われたなあ初めてだ……なんです?」
「あそこの、路地から三軒目の空家《うち》を拝借したいとおもいましてね、入口のかたにうかがいましたら、お宅で万事、おわかりだそうで……」
「えっへっへ、まあ……間取りはね、あたしのところとたいしてちがいません。入口が二畳で、玄関、それから四畳半の、奥が六畳、間《ま》は三間《みま》で……ちょいと縁側もついているし、庭もあり、ようがすよ」
「ええ、いまちょっと拝見してまいりました。つきまして店賃はどういうぐわいで……」
「店賃?……うう……そうですね。まあ二十銭も払ったらいいでしょう」
「二十銭? へえー、またずいぶん安いんですね……で、敷金とか、造作などは?」
「いや、敷金などは、お預かりしたところで、どうせ返さなくっちゃあならないし、面倒だからいりません。造作はいうまでもなく残らずついておりますよ」
「……では、前家賃ということでも?」
「べつにそんなものはいただきませんよ……まあ、住んでいただければ、こっちからいくらか住み賃を差しあげたいくらいのもんで……」
「住み賃? なんだかお話がよくわかりませんが……そんないい家で、造作がついてて、敷金も店賃もないというのは、どういうわけなんでございましょうか? なにか事情があるんじゃあございませんか?」
「ええ、そりゃあ、まあね……引っ越してきたあとで、こんなことがあるなら、なぜ話をしてくれなかったかと、恨みごとを言われるのもいやだから、ちょっとお話をいたしますが……(陰気に声をひそめ)ま、とにかくこちらへ……おかけなさい」
「えへへへへ、そんな声を出さないでくださいよ。あたしゃ、あんまり気の強いほうじゃあないんですから……」
「あの家は、ちょっとうしろに大きな木があって、日あたりが悪いので、まことに陰気でいけない」
「ははあ、それで……」
「いや、そんなことならだれでも住むが、そういうわけではない。……じつはな、以前、あすこにちょっと小金を残した夫婦が入っていたんだが、このおかみさんというのはなかなかの美人で、どちらかといえば、おかみさんが切れ者というか、まあ口も八丁手も八丁、働き者で、長屋のつきあいも如才がなく、そのうえ亭主が稼いでくるいくらかでも貯めて、けっして無駄ということをしない」
「へえ」
「そんなわけで、この長屋ではいちばんの身代になって、この長屋の者で借りのねえやつはねえというくらいだ。それで金を貸してもなかなか情け深くってひどい催促はしないというふうだから、近所でみんなよろこんで借りる。利が利をうむというのだから、ますます金はふえるばかりだ」
「結構なことでございましたな」
「ところが、満《み》つれば欠けるというが、ご亭主がちょっと病にとりつかれたのがはじまりで、枕があがらなくなった。さあ、それがもとで三月《みつき》か四月《よつき》患って、とうとう死んでしまった」
「おやおや」
「その時分にはもうそうとうの身代になっていたから、あとへのこったおかみさんだって困るということはない。奉公人もなく、あいかわらず一人で金貸をしているから別段に、貯まればといって減ることはない」
「なるほど安心でございますな」
「ところが、死んだ亭主がたしか四十いくつで、おかみさんはそのとき三十いくつだ……女|寡婦《やもめ》に花が咲くで、はじめのうちこそ質素にしていたが、百か日がすみ、一周忌がすむというと、襟《えり》白粉《おしろい》をつけ、口紅でもさすというふうになり、ちょっと表へ出るにも薄化粧をして着物を着がえるとかする、だいたいがいい女だ」
「へいへい」
「『石塔の赤い信女が子をはらみ』という川柳《せんりゆう》があるがね。いくら賢《かしこ》いものでもさてこの道ばかりは別なものだ」
「へえ」
「悪いやつにこのおかみさんがひっかかった。迷いてえものはしようがないもので、から夢中。近所の評判てえものはたいへんだ。またこの野郎がひどいやつで、根こそぎ取ったよ。わずか三年ばかりのあいだに何千とあった金をのこらずしぼりとって、しまいにおかみさんのちょっと外へ出る着物まではぎとってしまった」
「へえ」
「すっかり取り上げていよいよもう逆さにふるったって鼻血も出ないというようになったら、ドロンをきめて、いたちの道だ。おかみさんは気ちがいのようになって、うろうろしたがどこへ行ったか影もかたちも見せない。さあいよいよ気が変になって、だんだん痩せてくるばかり、目はくぼみ、頬骨が高くなり、髪をふり乱して……それがまたいい女だけにいっそうすごい。夜中になると、その逃げた男のことを口にして、神だか仏だか知らねえが、一所懸命祈っている、あまりものすごいので両隣のものは引っ越して行ってしまう。それがもう四、五年前の話だ」
「へえ、なるほど」
「とどのつまり、どっと枕について立ち居もままにならないというありさまだ。ある夜のこと、水が飲みたくなって這《は》い出したが、手をのばして流しの水瓶《みずがめ》の水をくんで飲もうとして、転がり落ちた。近所でもひどい音がしたとおもったが、夜中のことだからだれも行きもしなかった。すると長屋に親切な糊売りのお婆さんがいる、朝夕に飯汁をもって行っては世話をやいていた」
「なるほど」
「その翌《あく》る朝《あさ》、お婆さんがいつものように飯汁をもって行くと、この始末だ。お婆さんが『きゃッ』と声をあげたのでみんなが行ってみると、どこで切ったのか顔のところからだくだく血が流れて、唇が切れていて、口から舌が半分だらりと出ている。目は開いたっきり、天眼というやつだ。両方の手はよほど苦しんだものと見えて、きゅーっとにぎっている。見ただけでぞっとするくらいだ」
「へえ、へえ……たいへんなものでございますな」
「もう息が絶えたのかとおもうと、その姿でいてまだ息があるんだよ、それでしきりに逃げた男の名を呼んで恨んでいるのだ。婆さんが起こそうとおもって手をかけると、『口惜しいっ』と言って、ばりばり歯ぎしりをしたかとおもうと、それで一巻のおわりだ」
「へえー」
「もとより親類もなにもない女だし、店請《たなうけ》をした人もいまはどこかへ引っ越して行ってわからない。死骸の引取人がいないから、長屋の人がいくらかずつ香奠《こうでん》を出しあって、かたちばかりの葬式を出し、墓地を三尺四方ばかり買って、そこへ葬ってやった。長屋にもなかなか奇特な人がいて、いまだにおりおり墓詣りをしてやっているものもある」
「へえ、なるほど」
「それから、すっかり造作などを直し、きれいにして貸家の札《ふだ》をはると、すぐに借りに来るものがある。しかしそれがみんな長くいないよ、たいがい二晩か三晩、臆病な人は一晩で引っ越して行ってしまう」
「へえー」
「そんなわけでもうあそこの家もかなり長く空いているんだ。いまじゃあ、だれも借り手がいないんで、長屋じゅうの物置に使ってるというわけだ。それをおまえさんが承知ならかまわないが、また二晩や三晩で引っ越して行っちまうんだったらなんにもならないが……敷金も前家賃もいらないが、住んでみますか? どうです?」
「へえ、そりゃこんな結構な話はありませんが……どういうわけでみんな二晩か三晩で越して行くんでございましょうね」
「それがだ、あたしもあまり不思議だから聞いてみたんだよ……すると、借りた人の言うには……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑《うし》三つどきになるてえと……びらびらっ……と青い火が燃える」
「うわーっ……わたくし、ほかにも用がありますので……」
「まあ、待ちなさい。せっかく話しかけたんだから……いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって、ボォーン……」
「へえ……もう、け、け、結構でございます」
「すると、仏壇のなかで、鉦《かね》が、ひとりでにチーン、障子へ髪の毛が、サラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするするっと、ひとりでに開《あ》く……ひょいと枕もとを見ると、死んだおかみさんが、血みどろの姿で、越してきた人の顔をうらめしそうにのぞきこんで、けたけたけた[#「けたけたけた」に傍点]っ……」
「へ、へ、へえ……」
「『よく、あなた。越しておいでだねえ』と言いながら、長い細い白い手がぬっと出て、冷たい手で、寝ている人の顔を下から上へ……すーっとなでる」
「きゃーッ」
「あははは、なんて臆病な野郎なんだ。『きゃーッ』てんで、はだしで逃げちめえやがった。あれっ、蟇口《がまぐち》を落としていきゃあがった」
「杢兵衛さん、なんだい、いまの騒ぎは?」
「ああ、いま、怪談ばなしでおどかしてやったあげくにね、幽霊が冷たい手で顔をなぜるてえときに、そばにあった濡れ雑巾で顔をさかなぜにしてやった」
「悪いいたずらをするねえ。野郎、まっ青ンなって、塵溜《ごみため》ェ蹴とばして出てったぜ」
「あと見たら、蟇口を落としていきゃあがった」
「蟇口を?」
「ああ、たいして入っちゃあいねえが、あとで、長屋の者で、すしかなんか、ちょっとつまもうじゃあないか」
「そうか。ありがてえなあ……じゃあ、また借りにきたら、むけてよこすから、頼むぜ」
「ああ、いいとも、どうせあたしゃ、用なしで退屈だから、どんどんよこしてくれ」
「おう、いるかい? 古狸っ」
「あれっ、たいへんなやつがきやがったな、いきなり古狸だってやがら……あたしゃ、杢兵衛ってんだ」
「ああ、てめえが、たぬもく[#「たぬもく」に傍点]か?」
「なんの用だ?」
「おめえは差配か? あそこの貸家を借りようってんだ」
「あたしは、この長屋のいちばんの古株で、長屋の草分けだ」
「なにを言ってやがる。こんな小汚《こぎたね》え長屋に巣をくってやがって、ええ? 表へ這《は》い出すこともできねえ、古狸だなんていわれて、気のきかねえ野郎だ」
「言うことが、いちいち乱暴だな……そんなに、なにも悪く言うんなら、おまえさんこそこの長屋へ来なくったっていいだろう」
「なにもこんなところへおれァ永代《えいたい》居ようってんじゃあねえやなあ、おれなんざあ、いまの親方のうちへ厄介になってるんだ。来月ンなると、女がおれんとこへ来《き》ようってえ約束になってるんだ、なあ。夫婦そろって、おめえ、居候ってえのは気がきかねえから、こんな小汚《こぎたね》え長屋でもいいや、なあ。おれがとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いてりゃあ、女が『ちょいとあなたや』かなんかで繰りこんでくるんだぜえ……ふふふふ、いい女だぞ、ほんとうに。水を汲みにきたりなんかするとき、変な目つきをしやがると、ひっぱたくぞ、こん畜生」
「ぷッ……。まあ、変な目つきなんかしねえから安心しろ。ところで、ご案内してごらんにいれてもいいが、まあだいたい間取りはおんなじで、入ったところが二畳、四畳半の奥が六畳……」
「広すぎらあ……まあ、広くって文句は言えねえが……で、なにか? 敷金とか、造作とか、店賃とか、高えことをぬかしやがると、張り倒すぞ、こん畜生」
「おっそろしい気の荒い人だな、どうも……敷金なんぞは預かったところで返さなくっちゃあならないもんだからいらないし……店賃も、払おうとおもえば払ってもよし、また、いただかなくてもかまいません」
「おい、はっきり話をしろよ。いらねえってわけはねえじゃねえか……じゃほんとうに? ただかい? ふーん、ありがてえなあ。そういう家はねえかとおもって捜してたんだ。じゃあ、すぐに越してくるからな。ほかの野郎に貸すんじゃあねえぞ」
「もしもし、お待ちなさい、店賃がいらないということについては……」
「ああ。わかってるよ。どうせ因縁《いんねん》ばなしかなんかあるんだろう? お化けかなんか出る……」
「ええ、そりゃまあね……いずれにしてもあとで恨まれるのはいやだから、どういうわけかという、まあ、あらましをかいつまんでお話をいたしますが……」
「前置きをごたごたならべるない。早くしろい」
「まあ、こちらへおかけなさい」
「なんだ、いきなり声を落としたりしやがって……腹でもへったのか?」
「あの家は、ちょっとうしろに大きな木があって、日あたりが悪いので、まことに陰気でいけない」
「日あたりなんぞどうだっていいや、昼間は外で仕事をしてるんだ」
「そんなことはどうでも……以前、小金を残した夫婦が住んでいたんだが、このおかみさんというのが、なかなかの美人で、切れ者……亭主も稼ぐから、この長屋ではいちばんの身代になった……」
「そりゃそうだろう。だから、てめえなんぞは、なんぞというと泣きついて借りにいっただろう? ずうずうしい古狸だっ」
「いや、あたしはそんなことはしない……でも、長屋の者はじめ近所の者は借りにいったが、そりゃあ、情け深くって、ひどい催促はしないというふうだから、みんなよろこんで借りにいったな……したがって利が利をうむというやつだ」
「へえー」
「ところが、満《み》つれば欠けるというが、亭主が病にとりつかれ、まもなく死んでしまった。亭主がたしか四十いくつで、おかみさんはそのとき三十いくつだ……女|寡婦《やもめ》に花が咲くで、百か日がすみ、一周忌がすむというと、襟白粉をつけ、口紅をさすというふうになり、ちょっと表へ出るにも薄化粧をして着物を着がえるとかする。だいたいがいい女だ」
「うふふふ、無理はねえや、そんな女がひとり身でいりゃあ、世間のやつはうるせえや。てめえは、暮しむきなんぞひきうけられねえから、水汲んだり、薪割ったりして、骨折り仕事から持ちかけたんだろう? この助平狸めっ」
「なんだなあ、口の悪い。そんなことをするもんか」
「かくすない、腰巻ぐらい洗っただろう?」
「冗談言っちゃあいけないよ……ところが『石塔の赤い信女が子をはらみ』という川柳があるとおり、いくら賢いものでもさてこの道ばかりは別なものだ」
「へえー、どの道で……?」
「道を聞いてるんじゃあない。このおかみさんが悪いやつにひっかかった。この野郎がひどいやつで、根こそぎ取ったよ。わずか三年ばかりのあいだに何千とあった金をのこらずしぼりとって、しまいにおかみさんのちょっと外へ出る着物まではぎとってしまった」
「へえ、ふざけた野郎だっ、おれがいりゃその野郎ただおかねえ」
「すっかり取りあげられてもう逆さにふるったって鼻血も出ないというようになったら、その野郎はドロンをきめて、いたちの道」
「ふーん、で、どうしたい?」
「おかみさんは、気ちがいのようになって、うろうろしたが、どこへ行ったか影もかたちも見せない。とどのつまり、おかみさんは、どっと枕について立ち居もままならないというありさまだ。ある夜のこと、水が飲みたくなって這《は》い出したが、水瓶《みずがめ》のとこまできて、転がり落ちた」
「なぜ助けてやらねえ。薄情な野郎だっ」
「夜中のことだ……黙って聞きな、どうも話しにくくってしょうがないな……翌《あく》る朝、長屋の糊売りの婆さんがいつものように飯汁をもって行くと、この始末だ。お婆さんが、『きゃーッ』と声をあげたので、みんなが行ってみると、どこで切ったのか、顔のところからだくだくと血が流れて、唇が切れて、口から舌が半分だらりと出ている。目は開いたきり、天眼というやつだ。両方の手はよほど苦しんだものと見えて、きゅーっとにぎっている。見ただけでぞっとするくらいだ」
「ぷッ……妙な手まねをするな、なぐるぞ」
「もう息が絶えたのかとおもうと、その姿でいてまだ息がある。それで、しきりに逃げた男の名を呼んで……『口惜しいっ』と言って、ばりばり歯ぎしりをしたかとおもうと、それで一巻のおわりだ」
「ふーん」
「もとより親類もなにもない女だし、死骸の引取人がいないから、長屋の人がいくらかずつ香奠を出しあって、葬いを出しましたよ」
「そりゃあそうだろう。みんなちょっかいをだして、袖をひいた連中なんだから……」
「それが四、五年前の話……」
「この野郎、ながながと妙な真似しやがって、おかしな話をしやあがって、『それが、四、五年前の話』……こん畜生、てめえみてえな、暇な野郎はねえな、ほんとうに、いいかげんにしやがれっ」
「まあまあ、せっかく話し出したんだから、おしまいまで聞きなさい」
「もっとてきぱきやれっ、早くやれっ」
「そうがみがみ言いなさんな、それから造作などを直し、きれいにして貸家の札をはると、すぐに借り手がついたが、それが二晩か三晩、臆病な人は一晩で引っ越して行ってしまう」
「なんだろう? てめえがいやがらせをしたり、変なまねするからだろう? この野郎っ、そんなことしやがると、どてっ腹に風穴|開《あ》けるぞ」
「おいよせよ。そんなんじゃない、あたしはそんなことはしない……借りた人の話では……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑三つどきになるてえと……」
「へっ、よせやいっ、いやに気どって声を低くしやがって……ひっかくぞっ」
「びらびらっ……と青い火が燃える」
「火事か?」
「火事じゃあない。いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって……」
「ボォーンとくるかい?」
「そのとおりで……」
「まあ、たいてい、相場はきまってらあ。で、どうなる?」
「すると、仏壇で、鉦が、ひとりでにチーンと鳴ります」
「そりゃあおもしろくていいや」
「障子へ髪の毛が、サラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするっと開《あ》く」
「そいつぁいいや。おらあ、夜中に二度ぐれえ小便に起きるからね。てめえで開《あ》けるなあ面倒くせえから、するするっと開《あ》いたときに、小便に行ってくらあ」
「枕もとを見ると、死んだおかみさんが、血みどろの姿で、越してきた人の顔をうらめしそうに見たかとおもうと……」
「どうする?」
「けたけた……と笑う」
「ほう、そりゃあ愛嬌があっていいや。おらあ、『こっちへ入《へえ》れよ』って、いっしょに寝らい」
「『よく、あなた、越しておいでだねえ』と言いながら、長い細い白い手がぬっと出て、冷たい手で、寝ている人の顔をこう……」
「なにをしやがんでえ、こん畜生……雑巾なんぞ持ち出しやがって……てめえの面《つら》ァでも拭けッ」
「あっ、ぷっ、ぷっ、ぷっ……こりゃあひどい」
「お化けはそれっきりか? ああ、結構結構。じゃあな、すぐ荷物持ってくるから、掃除を頼むぜ」
「あれっ、たいへんなやつがきやがったな、いきなり古狸だってやがら……あたしゃ、杢兵衛ってんだ」
「ああ、てめえが、たぬもく[#「たぬもく」に傍点]か?」
「なんの用だ?」
「おめえは差配か? あそこの貸家を借りようってんだ」
「あたしは、この長屋のいちばんの古株で、長屋の草分けだ」
「なにを言ってやがる。こんな小汚《こぎたね》え長屋に巣をくってやがって、ええ? 表へ這《は》い出すこともできねえ、古狸だなんていわれて、気のきかねえ野郎だ」
「言うことが、いちいち乱暴だな……そんなに、なにも悪く言うんなら、おまえさんこそこの長屋へ来なくったっていいだろう」
「なにもこんなところへおれァ永代《えいたい》居ようってんじゃあねえやなあ、おれなんざあ、いまの親方のうちへ厄介になってるんだ。来月ンなると、女がおれんとこへ来《き》ようってえ約束になってるんだ、なあ。夫婦そろって、おめえ、居候ってえのは気がきかねえから、こんな小汚《こぎたね》え長屋でもいいや、なあ。おれがとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いてりゃあ、女が『ちょいとあなたや』かなんかで繰りこんでくるんだぜえ……ふふふふ、いい女だぞ、ほんとうに。水を汲みにきたりなんかするとき、変な目つきをしやがると、ひっぱたくぞ、こん畜生」
「ぷッ……。まあ、変な目つきなんかしねえから安心しろ。ところで、ご案内してごらんにいれてもいいが、まあだいたい間取りはおんなじで、入ったところが二畳、四畳半の奥が六畳……」
「広すぎらあ……まあ、広くって文句は言えねえが……で、なにか? 敷金とか、造作とか、店賃とか、高えことをぬかしやがると、張り倒すぞ、こん畜生」
「おっそろしい気の荒い人だな、どうも……敷金なんぞは預かったところで返さなくっちゃあならないもんだからいらないし……店賃も、払おうとおもえば払ってもよし、また、いただかなくてもかまいません」
「おい、はっきり話をしろよ。いらねえってわけはねえじゃねえか……じゃほんとうに? ただかい? ふーん、ありがてえなあ。そういう家はねえかとおもって捜してたんだ。じゃあ、すぐに越してくるからな。ほかの野郎に貸すんじゃあねえぞ」
「もしもし、お待ちなさい、店賃がいらないということについては……」
「ああ。わかってるよ。どうせ因縁《いんねん》ばなしかなんかあるんだろう? お化けかなんか出る……」
「ええ、そりゃまあね……いずれにしてもあとで恨まれるのはいやだから、どういうわけかという、まあ、あらましをかいつまんでお話をいたしますが……」
「前置きをごたごたならべるない。早くしろい」
「まあ、こちらへおかけなさい」
「なんだ、いきなり声を落としたりしやがって……腹でもへったのか?」
「あの家は、ちょっとうしろに大きな木があって、日あたりが悪いので、まことに陰気でいけない」
「日あたりなんぞどうだっていいや、昼間は外で仕事をしてるんだ」
「そんなことはどうでも……以前、小金を残した夫婦が住んでいたんだが、このおかみさんというのが、なかなかの美人で、切れ者……亭主も稼ぐから、この長屋ではいちばんの身代になった……」
「そりゃそうだろう。だから、てめえなんぞは、なんぞというと泣きついて借りにいっただろう? ずうずうしい古狸だっ」
「いや、あたしはそんなことはしない……でも、長屋の者はじめ近所の者は借りにいったが、そりゃあ、情け深くって、ひどい催促はしないというふうだから、みんなよろこんで借りにいったな……したがって利が利をうむというやつだ」
「へえー」
「ところが、満《み》つれば欠けるというが、亭主が病にとりつかれ、まもなく死んでしまった。亭主がたしか四十いくつで、おかみさんはそのとき三十いくつだ……女|寡婦《やもめ》に花が咲くで、百か日がすみ、一周忌がすむというと、襟白粉をつけ、口紅をさすというふうになり、ちょっと表へ出るにも薄化粧をして着物を着がえるとかする。だいたいがいい女だ」
「うふふふ、無理はねえや、そんな女がひとり身でいりゃあ、世間のやつはうるせえや。てめえは、暮しむきなんぞひきうけられねえから、水汲んだり、薪割ったりして、骨折り仕事から持ちかけたんだろう? この助平狸めっ」
「なんだなあ、口の悪い。そんなことをするもんか」
「かくすない、腰巻ぐらい洗っただろう?」
「冗談言っちゃあいけないよ……ところが『石塔の赤い信女が子をはらみ』という川柳があるとおり、いくら賢いものでもさてこの道ばかりは別なものだ」
「へえー、どの道で……?」
「道を聞いてるんじゃあない。このおかみさんが悪いやつにひっかかった。この野郎がひどいやつで、根こそぎ取ったよ。わずか三年ばかりのあいだに何千とあった金をのこらずしぼりとって、しまいにおかみさんのちょっと外へ出る着物まではぎとってしまった」
「へえ、ふざけた野郎だっ、おれがいりゃその野郎ただおかねえ」
「すっかり取りあげられてもう逆さにふるったって鼻血も出ないというようになったら、その野郎はドロンをきめて、いたちの道」
「ふーん、で、どうしたい?」
「おかみさんは、気ちがいのようになって、うろうろしたが、どこへ行ったか影もかたちも見せない。とどのつまり、おかみさんは、どっと枕について立ち居もままならないというありさまだ。ある夜のこと、水が飲みたくなって這《は》い出したが、水瓶《みずがめ》のとこまできて、転がり落ちた」
「なぜ助けてやらねえ。薄情な野郎だっ」
「夜中のことだ……黙って聞きな、どうも話しにくくってしょうがないな……翌《あく》る朝、長屋の糊売りの婆さんがいつものように飯汁をもって行くと、この始末だ。お婆さんが、『きゃーッ』と声をあげたので、みんなが行ってみると、どこで切ったのか、顔のところからだくだくと血が流れて、唇が切れて、口から舌が半分だらりと出ている。目は開いたきり、天眼というやつだ。両方の手はよほど苦しんだものと見えて、きゅーっとにぎっている。見ただけでぞっとするくらいだ」
「ぷッ……妙な手まねをするな、なぐるぞ」
「もう息が絶えたのかとおもうと、その姿でいてまだ息がある。それで、しきりに逃げた男の名を呼んで……『口惜しいっ』と言って、ばりばり歯ぎしりをしたかとおもうと、それで一巻のおわりだ」
「ふーん」
「もとより親類もなにもない女だし、死骸の引取人がいないから、長屋の人がいくらかずつ香奠を出しあって、葬いを出しましたよ」
「そりゃあそうだろう。みんなちょっかいをだして、袖をひいた連中なんだから……」
「それが四、五年前の話……」
「この野郎、ながながと妙な真似しやがって、おかしな話をしやあがって、『それが、四、五年前の話』……こん畜生、てめえみてえな、暇な野郎はねえな、ほんとうに、いいかげんにしやがれっ」
「まあまあ、せっかく話し出したんだから、おしまいまで聞きなさい」
「もっとてきぱきやれっ、早くやれっ」
「そうがみがみ言いなさんな、それから造作などを直し、きれいにして貸家の札をはると、すぐに借り手がついたが、それが二晩か三晩、臆病な人は一晩で引っ越して行ってしまう」
「なんだろう? てめえがいやがらせをしたり、変なまねするからだろう? この野郎っ、そんなことしやがると、どてっ腹に風穴|開《あ》けるぞ」
「おいよせよ。そんなんじゃない、あたしはそんなことはしない……借りた人の話では……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑三つどきになるてえと……」
「へっ、よせやいっ、いやに気どって声を低くしやがって……ひっかくぞっ」
「びらびらっ……と青い火が燃える」
「火事か?」
「火事じゃあない。いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって……」
「ボォーンとくるかい?」
「そのとおりで……」
「まあ、たいてい、相場はきまってらあ。で、どうなる?」
「すると、仏壇で、鉦が、ひとりでにチーンと鳴ります」
「そりゃあおもしろくていいや」
「障子へ髪の毛が、サラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするっと開《あ》く」
「そいつぁいいや。おらあ、夜中に二度ぐれえ小便に起きるからね。てめえで開《あ》けるなあ面倒くせえから、するするっと開《あ》いたときに、小便に行ってくらあ」
「枕もとを見ると、死んだおかみさんが、血みどろの姿で、越してきた人の顔をうらめしそうに見たかとおもうと……」
「どうする?」
「けたけた……と笑う」
「ほう、そりゃあ愛嬌があっていいや。おらあ、『こっちへ入《へえ》れよ』って、いっしょに寝らい」
「『よく、あなた、越しておいでだねえ』と言いながら、長い細い白い手がぬっと出て、冷たい手で、寝ている人の顔をこう……」
「なにをしやがんでえ、こん畜生……雑巾なんぞ持ち出しやがって……てめえの面《つら》ァでも拭けッ」
「あっ、ぷっ、ぷっ、ぷっ……こりゃあひどい」
「お化けはそれっきりか? ああ、結構結構。じゃあな、すぐ荷物持ってくるから、掃除を頼むぜ」
「どうしたい? 杢兵衛さん、うまくいったかい?」
「だめだめ、あの野郎にゃあ、怪談ばなしがまるで通じない」
「冷たい手をやったかい?」
「ああ、やろうとしたら、その濡れ雑巾をふんだくられて、あべこべにこっちの顔をこすられた」
「だらしがねえな……どうする?」
「どうするったって、なにしろ引っ越してくるんだよ。あいつがね……店賃はいらねえって、そう言っちゃったんだから、しょうがねえから、あいつの店賃を二人で出そう」
「冗談言うねえ……そんな、ばかばかしいことができるもんか。その調子じゃ、蟇口《がまぐち》なんぞ落としていかねえな?」
「落としてくどころじゃねえ……あれっ、いけねえ、さっきの蟇口を持ってっちまったぜ」
「ひでえ野郎だなあ。どうするんだよ?」
「どうするったって、しょうがねえやなあ、なるようにしきゃならねえから……」
企《たくら》んだことがすっかりはずれて、長屋じゅう、あっけにとられていると、
「おう、杢兵衛、越してきたぜ。まあ、よろしく頼まあ」
「あれっ、おやおや、ほんとうに越してきやがった。しょうがねえ」
荷物はろくにないので、すぐに片付けてしまって、隣近所へ引越そばを配って、隣の家から火種をもらって、火をおこして……。
「お隣のお婆さん、ひとり者ですからね、なにぶんひとつおたの申します」
「おやまあ、ご挨拶がおくれまして、さっきは、おそばをごちそうさま。こちらこそ隣が空店《あきだな》だとね、どうもぶっそうで困りますから、おまえさんみたいに、威勢のいい兄さんが越してきてくだすったんで、これで安心しましたよ」
「ついちゃあ、これから湯へ行ってきますからね、お願いします」
「ああ、ゆっくり行っておいでなさい」
「灯火《あかり》がついてますから、よろしく……」
いれちがいに仲間が四、五人……、
「おいおい、野郎のところはなんでもこのへんだあな、ここらしいな、聞いてみな」
「あっ、お婆さん、今日越してきたやつは、隣ですかい?」
「そうですよ」
「どっかへ行きましたか?」
「いま、お湯へ行くと言って、出かけましたよ」
「そうですか……ねえ、お婆さん、あっしたちは、あいつの友だちなんですがね、なかへ入《へえ》って待ってますから……」
「ああ、ようございますよ」
「おう、みんな、入《へえ》れ、入《へえ》れ……野郎、なまいきに湯に行ったとよ」
「なるほど、いい家だあ……野郎、うめえところを見つけやがったもんだ」
「それもよ、この家は、店賃がただってそうじゃあねえか。野郎のよろこびようったらねえや」
「でもなあ……あれ[#「あれ」に傍点]が出るだってよ」
「出るかい?」
「出るったって……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑三つどきになるてえと、びらびらっと青い火が燃えて……いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって、ボォーン……」
「ふーん」
「仏壇で、鉦が、ひとりでにチーン、障子へ髪の毛がサラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするっと開《あ》く、血みどろの女が越してきた人の顔を見て、けたけたけたけたと笑う……『よく、あなた、越しておいでだねえ』なんて……冷たい手で……なでる」
「よせやい、こん畜生め。ひとの顔をなでるない……だけどもよ、あの野郎、怖くねえのかな? ええ?」
「怖くねえんだろうなあ……ふだんからあん畜生は、物心ついておそろしいとおもったことはねえなんて、いばってやがったから……」
「ふーん、ほんとうに度胸があるのかなあ?……ひとつ、おどかしてみようじゃあねえか」
「どうするんだい?」
「みんなでおどかすんだよ」
「ふーん」
「あいつが湯から帰ってくるまでにな……え、玄関の下駄ぁ片付けちゃってな。火鉢の火をうんとおこっしちゃって、灯火《あかり》を暗くして、おれたちは隠れてるんだ」
「ふん、ふん」
「あいつが、うちンなかへ入《へえ》ると、ひとりでに火がおこって、灯火が暗くなってるから、おかしいとおもわあ」
「うん」
「とたんに……おう、ちょいと……辰ちゃん、おまえ、身体が小せえから、その仏壇があるだろ? ああ、その下へ入《へえ》っちゃってな、その戸棚の上が仏壇だからちょうどいいや。まっ暗だし……で、あいつが帰ってきた時分に、チーンと鉦をたたくんだ、いいな?」
「うんうん」
「と、それを合図に、芳さんと盛ちゃんでな、ここに荷を結《いわ》いてきた細引きがあるから、それを障子に結いつけて、縁側の外に隠れてて、するするっと引っぱるんだ」
「うんうん」
「そうするとたんにおれが天井の梁《はり》へ上がっていて、ここにある箒《ほうき》でやつの面《つら》ァなぜるんだ」
「ふふふふ、こいつぁおもしれえや、なるほど」
「やつが『ぎゃーっ』てんで逃げ出すにちげえねえから、その金槌《かなづち》を、寅さん、おめえ、糸で縛ってね、格子の出口ンとこにいて、持って待ってるんだ。あいつが、出ようとしたとたんに、糸をゆるめると、その金槌が、あいつの頭をなぐるという趣向だ」
「こりゃあいいや。やっちゃおう、やっちゃおう」
四、五人の連中がすっかり仕掛けをして、手ぐすねを引いて、しィーんとして待っている。
「ああ、いい湯だったなあ。すっかりいい心持ちだ……どうもお婆さん、ありがとうござんした……えっへっへ、酒でも飲んで景気をつけて、寝ちまうかあ……世間じゃあ、なんでえ、この家は化け物が出るだなんていいやがって、驚くけえ……こちとらなあ、怖えおもいと痛えおもいはしたこたあねえって人間なんだ……おやっ? なんだい、灯火《あかり》はつけといたんだがなあ、いやにうすっ暗《ぐれ》えなあ、あっ、たいへんだ、火がかんかんおこってるぜ。なるほど化け物が出るってえだけに、妙な家だぜ、こりゃあ、うすっ気味|悪《わり》いや……」
仏壇で、鉦がチーン。
「おや? おい、そろそろはじまったのかな? まだ宵じゃあねえか、こいつぁ……そんなこたあねえだろう? なんだい、丑三つどきだってえのに、れき[#「れき」に傍点]がとまどってやがんのかなあ?」
また、鉦が、チーン。
「あれっ……また鳴りやがったよ、こりゃあ驚いたねえ」
障子が、するするするするっ……。
「わあーたいへんだ、こいつぁ、いよいよ出やがった」
ひょいと立ちあがるところを、天井の梁から、箒を濡らしたやつで、顔をすーっとなぜたから、
「きゃーッ」
表へ飛び出そうとすると、出口のところで頭へガーンッ。
「おおっ痛えっ、あ、いててて……たいへんな家だよ……こりゃあどうも、ひでえ幽霊だ、これァ。頭がこわれそうだ……うゥ、痛え……」
親方の家へ一目散に逃げ帰った。
「だめだめ、あの野郎にゃあ、怪談ばなしがまるで通じない」
「冷たい手をやったかい?」
「ああ、やろうとしたら、その濡れ雑巾をふんだくられて、あべこべにこっちの顔をこすられた」
「だらしがねえな……どうする?」
「どうするったって、なにしろ引っ越してくるんだよ。あいつがね……店賃はいらねえって、そう言っちゃったんだから、しょうがねえから、あいつの店賃を二人で出そう」
「冗談言うねえ……そんな、ばかばかしいことができるもんか。その調子じゃ、蟇口《がまぐち》なんぞ落としていかねえな?」
「落としてくどころじゃねえ……あれっ、いけねえ、さっきの蟇口を持ってっちまったぜ」
「ひでえ野郎だなあ。どうするんだよ?」
「どうするったって、しょうがねえやなあ、なるようにしきゃならねえから……」
企《たくら》んだことがすっかりはずれて、長屋じゅう、あっけにとられていると、
「おう、杢兵衛、越してきたぜ。まあ、よろしく頼まあ」
「あれっ、おやおや、ほんとうに越してきやがった。しょうがねえ」
荷物はろくにないので、すぐに片付けてしまって、隣近所へ引越そばを配って、隣の家から火種をもらって、火をおこして……。
「お隣のお婆さん、ひとり者ですからね、なにぶんひとつおたの申します」
「おやまあ、ご挨拶がおくれまして、さっきは、おそばをごちそうさま。こちらこそ隣が空店《あきだな》だとね、どうもぶっそうで困りますから、おまえさんみたいに、威勢のいい兄さんが越してきてくだすったんで、これで安心しましたよ」
「ついちゃあ、これから湯へ行ってきますからね、お願いします」
「ああ、ゆっくり行っておいでなさい」
「灯火《あかり》がついてますから、よろしく……」
いれちがいに仲間が四、五人……、
「おいおい、野郎のところはなんでもこのへんだあな、ここらしいな、聞いてみな」
「あっ、お婆さん、今日越してきたやつは、隣ですかい?」
「そうですよ」
「どっかへ行きましたか?」
「いま、お湯へ行くと言って、出かけましたよ」
「そうですか……ねえ、お婆さん、あっしたちは、あいつの友だちなんですがね、なかへ入《へえ》って待ってますから……」
「ああ、ようございますよ」
「おう、みんな、入《へえ》れ、入《へえ》れ……野郎、なまいきに湯に行ったとよ」
「なるほど、いい家だあ……野郎、うめえところを見つけやがったもんだ」
「それもよ、この家は、店賃がただってそうじゃあねえか。野郎のよろこびようったらねえや」
「でもなあ……あれ[#「あれ」に傍点]が出るだってよ」
「出るかい?」
「出るったって……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑三つどきになるてえと、びらびらっと青い火が燃えて……いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって、ボォーン……」
「ふーん」
「仏壇で、鉦が、ひとりでにチーン、障子へ髪の毛がサラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするっと開《あ》く、血みどろの女が越してきた人の顔を見て、けたけたけたけたと笑う……『よく、あなた、越しておいでだねえ』なんて……冷たい手で……なでる」
「よせやい、こん畜生め。ひとの顔をなでるない……だけどもよ、あの野郎、怖くねえのかな? ええ?」
「怖くねえんだろうなあ……ふだんからあん畜生は、物心ついておそろしいとおもったことはねえなんて、いばってやがったから……」
「ふーん、ほんとうに度胸があるのかなあ?……ひとつ、おどかしてみようじゃあねえか」
「どうするんだい?」
「みんなでおどかすんだよ」
「ふーん」
「あいつが湯から帰ってくるまでにな……え、玄関の下駄ぁ片付けちゃってな。火鉢の火をうんとおこっしちゃって、灯火《あかり》を暗くして、おれたちは隠れてるんだ」
「ふん、ふん」
「あいつが、うちンなかへ入《へえ》ると、ひとりでに火がおこって、灯火が暗くなってるから、おかしいとおもわあ」
「うん」
「とたんに……おう、ちょいと……辰ちゃん、おまえ、身体が小せえから、その仏壇があるだろ? ああ、その下へ入《へえ》っちゃってな、その戸棚の上が仏壇だからちょうどいいや。まっ暗だし……で、あいつが帰ってきた時分に、チーンと鉦をたたくんだ、いいな?」
「うんうん」
「と、それを合図に、芳さんと盛ちゃんでな、ここに荷を結《いわ》いてきた細引きがあるから、それを障子に結いつけて、縁側の外に隠れてて、するするっと引っぱるんだ」
「うんうん」
「そうするとたんにおれが天井の梁《はり》へ上がっていて、ここにある箒《ほうき》でやつの面《つら》ァなぜるんだ」
「ふふふふ、こいつぁおもしれえや、なるほど」
「やつが『ぎゃーっ』てんで逃げ出すにちげえねえから、その金槌《かなづち》を、寅さん、おめえ、糸で縛ってね、格子の出口ンとこにいて、持って待ってるんだ。あいつが、出ようとしたとたんに、糸をゆるめると、その金槌が、あいつの頭をなぐるという趣向だ」
「こりゃあいいや。やっちゃおう、やっちゃおう」
四、五人の連中がすっかり仕掛けをして、手ぐすねを引いて、しィーんとして待っている。
「ああ、いい湯だったなあ。すっかりいい心持ちだ……どうもお婆さん、ありがとうござんした……えっへっへ、酒でも飲んで景気をつけて、寝ちまうかあ……世間じゃあ、なんでえ、この家は化け物が出るだなんていいやがって、驚くけえ……こちとらなあ、怖えおもいと痛えおもいはしたこたあねえって人間なんだ……おやっ? なんだい、灯火《あかり》はつけといたんだがなあ、いやにうすっ暗《ぐれ》えなあ、あっ、たいへんだ、火がかんかんおこってるぜ。なるほど化け物が出るってえだけに、妙な家だぜ、こりゃあ、うすっ気味|悪《わり》いや……」
仏壇で、鉦がチーン。
「おや? おい、そろそろはじまったのかな? まだ宵じゃあねえか、こいつぁ……そんなこたあねえだろう? なんだい、丑三つどきだってえのに、れき[#「れき」に傍点]がとまどってやがんのかなあ?」
また、鉦が、チーン。
「あれっ……また鳴りやがったよ、こりゃあ驚いたねえ」
障子が、するするするするっ……。
「わあーたいへんだ、こいつぁ、いよいよ出やがった」
ひょいと立ちあがるところを、天井の梁から、箒を濡らしたやつで、顔をすーっとなぜたから、
「きゃーッ」
表へ飛び出そうとすると、出口のところで頭へガーンッ。
「おおっ痛えっ、あ、いててて……たいへんな家だよ……こりゃあどうも、ひでえ幽霊だ、これァ。頭がこわれそうだ……うゥ、痛え……」
親方の家へ一目散に逃げ帰った。
「あははは、どうだい、おもしろかったろう?」
「うん、野郎、いばってやがるが、ざまあねえや」
「野郎、逃げ出していきやあがったが、また、そのうちにかならず帰ってくるから……どうだい、もう少しおどかしてやろうじゃねえか」
「まだ、ほかに趣向があるのかい?」
「うん、いま、表へ按摩《あんま》が通ったろう」
「ああ」
「あの大入道みてえな按摩だ……おーい、按摩さん、按摩さん」
「はい、お呼びになりましたか?」
「こっちだこっちだ……こっちへ入ってくれ」
「お療治でございますか?」
「いや、療治じゃあねえんだ、なんでもいい、おめえはなんにもしなくっていい。ここへじいッと寝てりゃあいいんだ。療治代は払うよ」
「わたくしが寝るだけで?」
「そうだ。じつは友だちをちょっとおどかそうてえ趣向だ。人が入ってきたら、『ももんがあ』てんで、目玉をむいてくれりゃあいいんだよ。療治代は倍はずむから……」
押入れから弁慶縞《べんけいじま》の布団をあるったけ引っぱり出して、これを二枚、縦につないで敷き、これへ按摩が大の字に寝る。ずーっと長くかかっている布団の裾のほうから、一人が右足を出し、もう一人が左足を出す……そとから見ると、一丈二尺ばかりの大入道が寝ている寸法……。
「うん、野郎、いばってやがるが、ざまあねえや」
「野郎、逃げ出していきやあがったが、また、そのうちにかならず帰ってくるから……どうだい、もう少しおどかしてやろうじゃねえか」
「まだ、ほかに趣向があるのかい?」
「うん、いま、表へ按摩《あんま》が通ったろう」
「ああ」
「あの大入道みてえな按摩だ……おーい、按摩さん、按摩さん」
「はい、お呼びになりましたか?」
「こっちだこっちだ……こっちへ入ってくれ」
「お療治でございますか?」
「いや、療治じゃあねえんだ、なんでもいい、おめえはなんにもしなくっていい。ここへじいッと寝てりゃあいいんだ。療治代は払うよ」
「わたくしが寝るだけで?」
「そうだ。じつは友だちをちょっとおどかそうてえ趣向だ。人が入ってきたら、『ももんがあ』てんで、目玉をむいてくれりゃあいいんだよ。療治代は倍はずむから……」
押入れから弁慶縞《べんけいじま》の布団をあるったけ引っぱり出して、これを二枚、縦につないで敷き、これへ按摩が大の字に寝る。ずーっと長くかかっている布団の裾のほうから、一人が右足を出し、もう一人が左足を出す……そとから見ると、一丈二尺ばかりの大入道が寝ている寸法……。
「親方ぁ、親方ぁ」
「なんだい? どうしたんだ。まっ青な顔して入《へえ》ってきやがって……」
「で、で、出たんで……」
「出た? なにが出たんだ?」
「あっしは、も、も、も、物心お、お、おぼえて……こ、こ、怖えとおもったことと痛えとおもったこ、こ、こたあねえんですが、今夜ばかりは驚きました」
「出たか、化け物が?」
「へえ、……お、お、お化けが出ましてあっしが湯ィ行って帰《けえ》ってきまして、すぐなんで……草木も眠る丑三つのころだってえから、こっちは安心をしていたら、宵のうちからとまどいやがって……ええ、仏壇で、鉦がチーンと鳴るんで……」
「ほほう、ひとりで……?」
「ええ、ひとりで鳴るから驚いたんでござんす。すると障子がするするするっ……」
「ふん」
「それからあっしがひょいと立つてえと、天井からなんかが、びしょびしょしたざらざらした手でもって、あっしの面ァなぜやがん……こいつはいけねえとおもって逃げようとおもったら、お化けのやつがあっしの額のところをこつゥん……となぐりやがった。その痛えったら……たいへんな力ですよ、あのお化け……」
「どうしたんだい? なるほど額のところが痣《あざ》ンなってらあ」
「ええ、どうもひでえ……」
「べらぼうめ……化け物なんてえものが、この世にあってたまるけえ。……よし、おれが行って見てやろう」
「へえ、すいませんがいっしょに行っておくんなさい」
「なんだい? どうしたんだ。まっ青な顔して入《へえ》ってきやがって……」
「で、で、出たんで……」
「出た? なにが出たんだ?」
「あっしは、も、も、も、物心お、お、おぼえて……こ、こ、怖えとおもったことと痛えとおもったこ、こ、こたあねえんですが、今夜ばかりは驚きました」
「出たか、化け物が?」
「へえ、……お、お、お化けが出ましてあっしが湯ィ行って帰《けえ》ってきまして、すぐなんで……草木も眠る丑三つのころだってえから、こっちは安心をしていたら、宵のうちからとまどいやがって……ええ、仏壇で、鉦がチーンと鳴るんで……」
「ほほう、ひとりで……?」
「ええ、ひとりで鳴るから驚いたんでござんす。すると障子がするするするっ……」
「ふん」
「それからあっしがひょいと立つてえと、天井からなんかが、びしょびしょしたざらざらした手でもって、あっしの面ァなぜやがん……こいつはいけねえとおもって逃げようとおもったら、お化けのやつがあっしの額のところをこつゥん……となぐりやがった。その痛えったら……たいへんな力ですよ、あのお化け……」
「どうしたんだい? なるほど額のところが痣《あざ》ンなってらあ」
「ええ、どうもひでえ……」
「べらぼうめ……化け物なんてえものが、この世にあってたまるけえ。……よし、おれが行って見てやろう」
「へえ、すいませんがいっしょに行っておくんなさい」
「さあさあ、さっさとこい」
「へえ……ここ、ここ、ここの家なんでござんす」
「なんだい? おい、親方の声のようだぜ」
「そいつぁいけねえ、やっこ、親方を引っぱってきやがったよ。これァ少しことが面倒ンなったな」
「ばれねえうちに、逃げちまおう」
足のほうが逃げ出した。
「あっ、親方、たいへんだっ、大入道がいます」
「なんだ? おっそろしく大きな坊主が寝てるじゃあねえか」
「ももんがあー」
「なにが『ももんがあー』だ。……なんだ、おめえは、横町の按摩さんじゃあねえか」
「え? こりゃあ、親方さんで……」
「なに言ってやんでえ。どうしてこんなくだらねえ真似をしてるんだ?」
「へえ、頼まれたもんですから……」
「だれに?」
「へえ、お宅の若い方に……ここに寝ていて、ひとが来たら、『ももんがあー』と目をむけば、療治代を倍やるとこう言いまして……」
「うぷっ……てえげえそんなこったろうとおもったんだ。見ろ、てめえがふだんあんまり強がったことを言いやがるから、仲間が寄ってたかっておどかそうてんで、罠《わな》にかけたんだあ」
「ちぇっ、ひでえことをしやがらあ、畜生め」
「それにしても、頼んだやつらも、按摩さんだけ置きっぱなしに、ずらかるとは、尻腰《しつこし》のねえやつらだ」
「へえ、腰は、さっき逃げてしまいました」
「へえ……ここ、ここ、ここの家なんでござんす」
「なんだい? おい、親方の声のようだぜ」
「そいつぁいけねえ、やっこ、親方を引っぱってきやがったよ。これァ少しことが面倒ンなったな」
「ばれねえうちに、逃げちまおう」
足のほうが逃げ出した。
「あっ、親方、たいへんだっ、大入道がいます」
「なんだ? おっそろしく大きな坊主が寝てるじゃあねえか」
「ももんがあー」
「なにが『ももんがあー』だ。……なんだ、おめえは、横町の按摩さんじゃあねえか」
「え? こりゃあ、親方さんで……」
「なに言ってやんでえ。どうしてこんなくだらねえ真似をしてるんだ?」
「へえ、頼まれたもんですから……」
「だれに?」
「へえ、お宅の若い方に……ここに寝ていて、ひとが来たら、『ももんがあー』と目をむけば、療治代を倍やるとこう言いまして……」
「うぷっ……てえげえそんなこったろうとおもったんだ。見ろ、てめえがふだんあんまり強がったことを言いやがるから、仲間が寄ってたかっておどかそうてんで、罠《わな》にかけたんだあ」
「ちぇっ、ひでえことをしやがらあ、畜生め」
「それにしても、頼んだやつらも、按摩さんだけ置きっぱなしに、ずらかるとは、尻腰《しつこし》のねえやつらだ」
「へえ、腰は、さっき逃げてしまいました」