たが屋
花火というものは、江戸の年中行事で、両国の川開きといって、たいへんなものだったそうです。享保のころに、はじまったそうですが……。昔は、玉屋と鍵屋の二軒の花火屋があったが、玉屋のほうは、天保十四年五月、将軍|家慶《いえよし》公が日光へご参詣のとき、自火《じか》を出したために、お取り潰しになった。それからは鍵屋だけになったが、花火のほうはあいかわらず玉屋と声がかかる。端唄《はうた》にも、「玉屋がとりもつ縁かいな……」というのがあり、小唄にも『あげ汐』に「上がった上がった上がった、玉屋と褒《ほ》めてやろうじゃないかいな……」というのがあって、どういうわけか玉屋のほうが売れている。
橋の上玉屋玉屋の人の声
なぜか鍵屋といわぬ情(錠《じよう》)なし
という同情した狂歌がある。
安永年間、五月二十八日が川開きの当日で、その日の夕方になって、花火の音のするころには屋形船やちょき船が川面にぎっしり繰りこんできて、柳橋寄りのほうのお茶屋の座敷からも、一杯飲みながら花火を見物する人で賑《にぎわ》い、両国橋の周辺は黒山の人だかりで、爪も立たないような騒ぎ、みんな押しあい揉《も》みあいながら夢中で花火を見物している。
その人混みの中へ、本所のほうから徒士《かち》の供侍《ともざむらい》二人、仲間《ちゆうげん》に槍を持たせた侍が馬を乗りいれてきた。
「寄れ寄れ、寄れィっ」
「おい、馬だ、馬だ、そっちへ寄ってくれっ」
「寄れないよ。もう欄干《らんかん》だから、もう寄れないよ」
「もっと寄れよ、欄干の外へはみだして」
「冗談言うねえ、川へ落っこちらあ」
「寄れ、寄れ寄れっ」
「おうおう、こん畜生っ、押すねえ、ほんとうにっ」
「押すねえったって、おれじゃあねえやい」
「だれが押してやがんだっ?」
「向こうだい」
「向こうもくそもあるけえ。ぶったたいて、川ん中へたたきこめっ」
「あれだい」
「あれだあ?……あー、あれじゃあだめだ」
「えーい、どけどけ、えー、寄れっ」
群衆は必死になって馬を避《よ》けようとするが、侍のほうはそんなことに構わず、人混みの中をなおも割ってくる。こうなると、見物人はみんなばたばたと将棋倒しになる。
一方、両国広小路のほうからやってきたのが、たが屋で……このたが屋というのは、ほうぼうの家の桶《おけ》のたがを直して歩く稼業《しようばい》で……道具箱を担《かつ》いで、仕事を終えて、両国橋へさしかかってまいりました。
「あっ、いけねえ。川開きだ、えれえことをしちゃったなあ、もっと早く気がつきゃあよかったなあ。といって、永代《えいたい》橋をまわっちゃあしょうがねえし、こう人混みにまきこまれちゃあ吾妻橋へ引き返すわけにもいかねえや。しかたがねえ、通してもらおう……すみません。通してやっておくんなせえ」
「痛《いて》えなあ、こん畜生……痛えわけだ。こんな大きなものを担いできやがったなあ。おい、その道具箱を、もっと上へ差しあげろい」
「へえ、すいません……へえ、すいません」
「そっちへ寄れえ、そっち……」
「どうもすみません」
人にあっち押され、こっち押されしながら、だんだん橋の中ほどへかかってきます。
「寄れ寄れ、寄れいっ」
侍も人を分けながら、だんだんこれも橋の中ほどまでかかってきた。ちょうど橋のまん中で、侍とたが屋が出っくわした。
「寄れ、寄れ、寄れと申すに……」
「へえ、すいません」
寄れといわれても、爪の立たないような人混みのなかで、道具箱を担いでいるから、たが屋としても身動きができない。侍のほうがじれて[#「じれて」に傍点]、
「ええ、寄れ、寄らんか」
だァーんと……たが屋の胸を突いた。不意なので、たが屋は持っていた道具箱をどしーんと、その場へ落とした。……間の悪いときはしかたのないもので、道具箱のなかに巻いてあった竹のたがが、落ちた拍子に、止めてあった引っ掛けがはずれて、つっつっつっつっと伸びて、この先が馬に乗っていた侍の一文字の笠の縁《ふち》にあたって、笠をはじき飛ばした。侍の頭の上には、茶台みたいなものが載っているだけで、まことに滑稽なかたち。
「無礼者っ」
「へえ、ご勘弁ください」
「いいや、ならぬ。この無礼者め。ただちに屋敷に同道いたせ」
「あ、どうか、ご勘弁を願いとうございます。うしろから押されたもんでございますから、つい……」
「ならぬ、勘弁ならぬ。屋敷へ参れと申すのが、わからぬかっ」
「いえ、屋敷へ行きゃあ、この首は胴についちゃあねえんだ。どうか、ひとつ、ここでご勘弁を……」
「ならぬ」
「へえ、どうも……家へ帰《かえ》らにゃあ、目の見えねえおふくろが路頭に迷わなくっちゃなりません。どうぞ、お助けを」
「なあ、おう、許してやったらいいだろう」
「ほんとうだよ。えー、家には目の見えねえおふくろがいるってえじゃあねえか。それくれえのこたあ、許してやれ」
「この混んでる中へ、入《へえ》ってきたほうが悪いんだぜ。侍《さむれえ》がなんだってんだっ」
「おい、おれの背中で、なんか言うない。言ったっていいが、言ったあとてめえはすーっと首をひっこめるだろう? 侍がおれの顔をじいっと見てるじゃねえか、よせよ」
「かまやあしないよ」
「かまわなかあないよ、なぐるぞ」
うしろのほうの連中はなんだかわからずに……、
「なんだ、なんだ、なんだ」
「いやあ、巾着切《きんちやつき》りがつかまったんで……」
「巾着切りは男かい、女かい?」
「いいえ、お産ですよ」
「お産?」
「そうなんですよ。よしゃあいいのに、臨月《りんげつ》にこの人混みに出てこなくったってねえ。この人混みに押されたうえに、あのぱんぱんという花火の音ですから、赤ん坊だってそううかうか[#「うかうか」に傍点]腹のなかに入っちゃあいられないでしょ」
「あなたのおかみさんですか?」
「いいえ、そうじゃない」
「よく知ってますねえ」
「いえ、たぶんそうじゃないかと……」
「あっ、その背の高い方……なかはなんです?」
「お気の毒に……」
「え?」
「お気の毒だよ」
「へえー、そんなにかわいそうなことが起こってるんですか?」
「いいや、おまえさんが見えなくて、お気の毒だ」
「なにを言ってやんでえ、悔やみを言ってやがら、癪にさわるねえ。なんとかしてなかが見てえもんだ……えーと……そうだ。こうなりゃあ最後の奥の手をだして、股《また》ぐらくぐって、前へ出ちまえ。えー、ごめんよ。ごめんよ」
「あっ、びっくりした。人の股ぐらから出てきやがった……やい、泥棒っ」
「なんだと? この野郎、泥棒とはなんだい。いつおれが泥棒した?」
「泥棒じゃねえか。おれの股ぐらくぐったとき、てめえは股ぐらの腫物《できもの》の膏薬を頭にくっつけてもってっちまいやがって……」
「えっ、股ぐらの腫物の膏薬? あっ、頭にひっついてやがらあ、汚《きたね》えな、おい。返すぜ……えっ、どうしたんです? えっ?……あのたが屋が、あの侍の笠をはじき飛ばしたんで……うんうん、かわいそうに……供侍もえばってるけど、馬に乗ってるやつはひどく意地が悪そうだねえ」
「ねえ、助けてくださいな」
「勘弁まかりならん、くどいっ、斬り捨てるぞっ」
「斬る? えっ、どうしても勘弁してくれないんですか、これほどに頼んでも……いらねえやい、丸太ン棒っ」
「なにっ、武士をとらえて、丸太ン棒と申したなっ」
「なにをぬかしやがる。丸太ン棒てえのは、ただうしろに立てかけてあるだけで、わからねえや。てめえも、おれの言うことがわからねえじゃねえかっ。農工商の上へ立つのが侍だ? へん、侍《さむれえ》も葬式《とむれえ》もあるものか。江戸っ子はなあ、侍なんぞにおどろくもんじゃあねえや、ほんとうに。おらあ、怖いもんなんざあなんにもねえ。死ぬなんぞ、へん、おどろくもんじゃあねえ。さあ、斬れよっ、斬るなら斬ってみやがれっ」
たが屋はやけっぱちで居直ったから、侍のほうがたじろいだ。形勢不利とみた馬上の侍は、ぴりぴりと青筋を立てて、
「斬り捨ていっ」
供侍が、差していた一刀をさーッと抜いた。……とおもいきや、これが三両一人|扶持《ぶち》、ふだん貧乏で内職に追われていて、刀の手入れまで手がまわらないので、すっかり錆《さび》ついている。抜けば玉散る氷の刃《やいば》……というわけにはいかない。抜けば粉《こな》散る赤|鰯《いわし》……ガサッ、ガサッ、ガサッ、ガサッガサッ……ひどい音を立てて抜いた刀で、斬りつけた。たが屋は怖いから、ひょいと首をひっこめると、刀が空を斬って、供侍の身体がすーっと流れた。その隙につけこんで、いきなり利《き》き腕《うで》をぴしりっと手刀で打った。ふだん桶の底をひっぱたいているから、腕っ節は強い。供侍は、手がしびれて、おもわず刀をぽろりと落とした。
「あっ」
と、拾おうとするのを、たが屋が腕をつかんで、ぐっと引っぱったら、とんとんとんと向こうへ流れていくところを、落ちてた刀を拾って、うしろから、「やっ」と袈裟がけに左の肩から右の乳の下へかけて、斜《はす》っかけに斬った。くず餅みたいに三角になった。
「わあーっ」
弥次馬がいっせいに喝采する。
「おう、斬った斬った、えー、どうだい、見事に斬りゃあがったな。えれえもんだ、どうです。ありゃあおめえ、おれの親戚だ」
「嘘つきゃがれ」
こうなると、馬上の侍も黙っていない。ただちに馬から飛び降り、仲間《ちゆうげん》に持たしてあった槍をとると、石突きをついて鞘《さや》を払い、きゅっ、きゅっ、きゅっとしごいておいて、ぴたりと槍をかまえた。
「下郎、参れ」
「なにをっ、さあこい」
「やっ」
「えい」
双方、にらみあいとなった。
「どうです、たが屋の強かったこと、おどろきましたねえ。供侍が三角になっちまった」
「しかし、こんどはいけない。主人のほうは強そうだ。この調子じゃあ、たが屋はやられちまうよ、なんとか加勢してやりたいねえ」
「これが町なかなら、屋根へ上がって、瓦めくってたたきつけるって手もあるんだけれど、橋の上じゃあそれもできゃしねえ」
「かまわねえから、下駄でも草履《ぞうり》でもあの侍にぶつけてやろうじゃねえか」
まわりの弥次馬がわあーわあ、侍めがけていろんなものをぶっつけるが、腕ができてるからびくともしない。たが屋はじりっじりっと押されて、欄干を残してあと一尺というところまで退いた。欄干に身体がついてしまっては、もう避《よ》ける余地がない。このまま、田楽刺しになるくらいならと、くそ度胸をきめて、たが屋が誘いの隙を見せた。侍のほうもまわりの弥次馬がわあわあ騒ぐので、冷静さを失っている。そこへ隙が見えたから、「えいっ」とばかり槍を突き出した。たが屋はそれをひょいとかわして、渾身の力で槍の千段巻きのところをぐいっとつかんだ。
「うッ……」
侍はやりくり[#「やりくり」に傍点]がつかない。しかたがないから槍をはなした。やりっぱなし[#「やりっぱなし」に傍点]てえのはこのこと……。
侍があわてて刀の柄へ手をかけようとするところを、たが屋は片足を欄干にかけて、飛び上がるようにして、
「えいっ」
と、斬りこんだ。勢いあまって侍の首が、中天へ、ぴゅーぅと上がった。
これを見ていた見物人が、
「あ、上がった、上がった、上がった、上がったい……たァがやー」
その人混みの中へ、本所のほうから徒士《かち》の供侍《ともざむらい》二人、仲間《ちゆうげん》に槍を持たせた侍が馬を乗りいれてきた。
「寄れ寄れ、寄れィっ」
「おい、馬だ、馬だ、そっちへ寄ってくれっ」
「寄れないよ。もう欄干《らんかん》だから、もう寄れないよ」
「もっと寄れよ、欄干の外へはみだして」
「冗談言うねえ、川へ落っこちらあ」
「寄れ、寄れ寄れっ」
「おうおう、こん畜生っ、押すねえ、ほんとうにっ」
「押すねえったって、おれじゃあねえやい」
「だれが押してやがんだっ?」
「向こうだい」
「向こうもくそもあるけえ。ぶったたいて、川ん中へたたきこめっ」
「あれだい」
「あれだあ?……あー、あれじゃあだめだ」
「えーい、どけどけ、えー、寄れっ」
群衆は必死になって馬を避《よ》けようとするが、侍のほうはそんなことに構わず、人混みの中をなおも割ってくる。こうなると、見物人はみんなばたばたと将棋倒しになる。
一方、両国広小路のほうからやってきたのが、たが屋で……このたが屋というのは、ほうぼうの家の桶《おけ》のたがを直して歩く稼業《しようばい》で……道具箱を担《かつ》いで、仕事を終えて、両国橋へさしかかってまいりました。
「あっ、いけねえ。川開きだ、えれえことをしちゃったなあ、もっと早く気がつきゃあよかったなあ。といって、永代《えいたい》橋をまわっちゃあしょうがねえし、こう人混みにまきこまれちゃあ吾妻橋へ引き返すわけにもいかねえや。しかたがねえ、通してもらおう……すみません。通してやっておくんなせえ」
「痛《いて》えなあ、こん畜生……痛えわけだ。こんな大きなものを担いできやがったなあ。おい、その道具箱を、もっと上へ差しあげろい」
「へえ、すいません……へえ、すいません」
「そっちへ寄れえ、そっち……」
「どうもすみません」
人にあっち押され、こっち押されしながら、だんだん橋の中ほどへかかってきます。
「寄れ寄れ、寄れいっ」
侍も人を分けながら、だんだんこれも橋の中ほどまでかかってきた。ちょうど橋のまん中で、侍とたが屋が出っくわした。
「寄れ、寄れ、寄れと申すに……」
「へえ、すいません」
寄れといわれても、爪の立たないような人混みのなかで、道具箱を担いでいるから、たが屋としても身動きができない。侍のほうがじれて[#「じれて」に傍点]、
「ええ、寄れ、寄らんか」
だァーんと……たが屋の胸を突いた。不意なので、たが屋は持っていた道具箱をどしーんと、その場へ落とした。……間の悪いときはしかたのないもので、道具箱のなかに巻いてあった竹のたがが、落ちた拍子に、止めてあった引っ掛けがはずれて、つっつっつっつっと伸びて、この先が馬に乗っていた侍の一文字の笠の縁《ふち》にあたって、笠をはじき飛ばした。侍の頭の上には、茶台みたいなものが載っているだけで、まことに滑稽なかたち。
「無礼者っ」
「へえ、ご勘弁ください」
「いいや、ならぬ。この無礼者め。ただちに屋敷に同道いたせ」
「あ、どうか、ご勘弁を願いとうございます。うしろから押されたもんでございますから、つい……」
「ならぬ、勘弁ならぬ。屋敷へ参れと申すのが、わからぬかっ」
「いえ、屋敷へ行きゃあ、この首は胴についちゃあねえんだ。どうか、ひとつ、ここでご勘弁を……」
「ならぬ」
「へえ、どうも……家へ帰《かえ》らにゃあ、目の見えねえおふくろが路頭に迷わなくっちゃなりません。どうぞ、お助けを」
「なあ、おう、許してやったらいいだろう」
「ほんとうだよ。えー、家には目の見えねえおふくろがいるってえじゃあねえか。それくれえのこたあ、許してやれ」
「この混んでる中へ、入《へえ》ってきたほうが悪いんだぜ。侍《さむれえ》がなんだってんだっ」
「おい、おれの背中で、なんか言うない。言ったっていいが、言ったあとてめえはすーっと首をひっこめるだろう? 侍がおれの顔をじいっと見てるじゃねえか、よせよ」
「かまやあしないよ」
「かまわなかあないよ、なぐるぞ」
うしろのほうの連中はなんだかわからずに……、
「なんだ、なんだ、なんだ」
「いやあ、巾着切《きんちやつき》りがつかまったんで……」
「巾着切りは男かい、女かい?」
「いいえ、お産ですよ」
「お産?」
「そうなんですよ。よしゃあいいのに、臨月《りんげつ》にこの人混みに出てこなくったってねえ。この人混みに押されたうえに、あのぱんぱんという花火の音ですから、赤ん坊だってそううかうか[#「うかうか」に傍点]腹のなかに入っちゃあいられないでしょ」
「あなたのおかみさんですか?」
「いいえ、そうじゃない」
「よく知ってますねえ」
「いえ、たぶんそうじゃないかと……」
「あっ、その背の高い方……なかはなんです?」
「お気の毒に……」
「え?」
「お気の毒だよ」
「へえー、そんなにかわいそうなことが起こってるんですか?」
「いいや、おまえさんが見えなくて、お気の毒だ」
「なにを言ってやんでえ、悔やみを言ってやがら、癪にさわるねえ。なんとかしてなかが見てえもんだ……えーと……そうだ。こうなりゃあ最後の奥の手をだして、股《また》ぐらくぐって、前へ出ちまえ。えー、ごめんよ。ごめんよ」
「あっ、びっくりした。人の股ぐらから出てきやがった……やい、泥棒っ」
「なんだと? この野郎、泥棒とはなんだい。いつおれが泥棒した?」
「泥棒じゃねえか。おれの股ぐらくぐったとき、てめえは股ぐらの腫物《できもの》の膏薬を頭にくっつけてもってっちまいやがって……」
「えっ、股ぐらの腫物の膏薬? あっ、頭にひっついてやがらあ、汚《きたね》えな、おい。返すぜ……えっ、どうしたんです? えっ?……あのたが屋が、あの侍の笠をはじき飛ばしたんで……うんうん、かわいそうに……供侍もえばってるけど、馬に乗ってるやつはひどく意地が悪そうだねえ」
「ねえ、助けてくださいな」
「勘弁まかりならん、くどいっ、斬り捨てるぞっ」
「斬る? えっ、どうしても勘弁してくれないんですか、これほどに頼んでも……いらねえやい、丸太ン棒っ」
「なにっ、武士をとらえて、丸太ン棒と申したなっ」
「なにをぬかしやがる。丸太ン棒てえのは、ただうしろに立てかけてあるだけで、わからねえや。てめえも、おれの言うことがわからねえじゃねえかっ。農工商の上へ立つのが侍だ? へん、侍《さむれえ》も葬式《とむれえ》もあるものか。江戸っ子はなあ、侍なんぞにおどろくもんじゃあねえや、ほんとうに。おらあ、怖いもんなんざあなんにもねえ。死ぬなんぞ、へん、おどろくもんじゃあねえ。さあ、斬れよっ、斬るなら斬ってみやがれっ」
たが屋はやけっぱちで居直ったから、侍のほうがたじろいだ。形勢不利とみた馬上の侍は、ぴりぴりと青筋を立てて、
「斬り捨ていっ」
供侍が、差していた一刀をさーッと抜いた。……とおもいきや、これが三両一人|扶持《ぶち》、ふだん貧乏で内職に追われていて、刀の手入れまで手がまわらないので、すっかり錆《さび》ついている。抜けば玉散る氷の刃《やいば》……というわけにはいかない。抜けば粉《こな》散る赤|鰯《いわし》……ガサッ、ガサッ、ガサッ、ガサッガサッ……ひどい音を立てて抜いた刀で、斬りつけた。たが屋は怖いから、ひょいと首をひっこめると、刀が空を斬って、供侍の身体がすーっと流れた。その隙につけこんで、いきなり利《き》き腕《うで》をぴしりっと手刀で打った。ふだん桶の底をひっぱたいているから、腕っ節は強い。供侍は、手がしびれて、おもわず刀をぽろりと落とした。
「あっ」
と、拾おうとするのを、たが屋が腕をつかんで、ぐっと引っぱったら、とんとんとんと向こうへ流れていくところを、落ちてた刀を拾って、うしろから、「やっ」と袈裟がけに左の肩から右の乳の下へかけて、斜《はす》っかけに斬った。くず餅みたいに三角になった。
「わあーっ」
弥次馬がいっせいに喝采する。
「おう、斬った斬った、えー、どうだい、見事に斬りゃあがったな。えれえもんだ、どうです。ありゃあおめえ、おれの親戚だ」
「嘘つきゃがれ」
こうなると、馬上の侍も黙っていない。ただちに馬から飛び降り、仲間《ちゆうげん》に持たしてあった槍をとると、石突きをついて鞘《さや》を払い、きゅっ、きゅっ、きゅっとしごいておいて、ぴたりと槍をかまえた。
「下郎、参れ」
「なにをっ、さあこい」
「やっ」
「えい」
双方、にらみあいとなった。
「どうです、たが屋の強かったこと、おどろきましたねえ。供侍が三角になっちまった」
「しかし、こんどはいけない。主人のほうは強そうだ。この調子じゃあ、たが屋はやられちまうよ、なんとか加勢してやりたいねえ」
「これが町なかなら、屋根へ上がって、瓦めくってたたきつけるって手もあるんだけれど、橋の上じゃあそれもできゃしねえ」
「かまわねえから、下駄でも草履《ぞうり》でもあの侍にぶつけてやろうじゃねえか」
まわりの弥次馬がわあーわあ、侍めがけていろんなものをぶっつけるが、腕ができてるからびくともしない。たが屋はじりっじりっと押されて、欄干を残してあと一尺というところまで退いた。欄干に身体がついてしまっては、もう避《よ》ける余地がない。このまま、田楽刺しになるくらいならと、くそ度胸をきめて、たが屋が誘いの隙を見せた。侍のほうもまわりの弥次馬がわあわあ騒ぐので、冷静さを失っている。そこへ隙が見えたから、「えいっ」とばかり槍を突き出した。たが屋はそれをひょいとかわして、渾身の力で槍の千段巻きのところをぐいっとつかんだ。
「うッ……」
侍はやりくり[#「やりくり」に傍点]がつかない。しかたがないから槍をはなした。やりっぱなし[#「やりっぱなし」に傍点]てえのはこのこと……。
侍があわてて刀の柄へ手をかけようとするところを、たが屋は片足を欄干にかけて、飛び上がるようにして、
「えいっ」
と、斬りこんだ。勢いあまって侍の首が、中天へ、ぴゅーぅと上がった。
これを見ていた見物人が、
「あ、上がった、上がった、上がった、上がったい……たァがやー」