夏の医者
辺鄙《へんぴ》な山村で病人がでると、医者のいる隣村《となりむら》まで迎えに行くことになる。隣村といっても、山裾《やますそ》をまわって行くと六里もある。看病を村の人に頼んで、素足に草鞋《わらじ》を履き、襦袢《じゆばん》一枚に菅笠をかぶって、夏のまっ盛り、山道をてくてく歩き出し、汗だくだくで隣村の一本松の玄伯の家へ来てみると、医者は、汚い越中|褌《ふんどし》一つの素っ裸で、網代《あじろ》で編んだ笠をかぶって、裏の田んぼの草を取っている……。
「やあ、先生さま」
「はい……はい、だれだ?……ああ、鹿島村から……」
「とっつぁま塩梅《あんべえ》が悪いで、ちょっくら見舞ってもれえてえがね」
「おう、病人か、よしよし、見舞ってやんべえ。待ちなせえ、もうこれ……二坪ぐれえで草ァしまうから、わけねえ。そけえ掛けて一服やってなせえ……いま、支度ゥぶつから……」
先生、田から上がって手足を洗って、おもむろに支度にとりかかった。手織|縞《じま》の少し黄ばんだ単物《ひとえもの》を着て、小倉の帯をしめ、その上に蝉《せみ》の羽根みたいな羽織を着て、鼠色になった白足袋を履いて、朴歯《ほおば》の少し曲がってきた日和《ひより》下駄をはいて、網代の笠をかぶって、
「ああ、えかく待たした、それじゃあ行くべえか」
「へい、ご苦労さまでごぜえます」
「ああ、そこに薬籠《やくろう》があんべ、それ薬箱だ。それ、おめえすまねえが背負《しよ》ってくれ」
「ああ、ええだ、おらあ背負っていくから」
「じゃあ出かけべえか……えかくまた暑いだねえ、今日も、土用《どよう》の値打ちがあるだよ。おめえ、どこの伜《せがれ》だって、は? 勘太? 勘太て……あああ、太左衛門さんの弟さんだ、うん。瘤《こぶ》の勘太さんていやあ、おらと若えうちは、野良ぁこいた[#「こいた」に傍点]もんだよ、うん。久しく会わねえでいるだ。塩梅悪くちゃいかねえな……ああ、待て待て、そっちへ行っちゃおめえ、山裾をまわっていくから六里もあるべえ。山越えすべえか……この道はまだ通ったこたあねえか? 山ぁ突っ切るでちょっくら苦艱《くかん》だがな、近道だでな、そうだな、四里半べえあるかな、ああ。早えぞ、そのほうがよかんべえ」
「ああ、早えほうがええで……」
「そうか、そんじゃあおら案内《あんねえ》してやんべえ、さあさ、来なせえ」
先生の道案内で、どんどん山を登ったが、頂上へ来たときには、二人とも滝をあびたようにびっしょり汗をかいて、大きな松の切り株でひと休み……。
「ああ、きつかったね、やれやれ、ここで一服やっていくべえ……おう、いい風くるねえここは……(煙草を吸いながら)今年はなにか、麦はどうだ、おめえのほうは? できはよくねえか? おらほうは今年はえかくええなあ、うーん。野菜物《やせえもの》はどうだ? うーん、ちょっくら雨があればええがなあ……こう日照りつづきじゃあだめだあ、うん。今年はもう間に合わめえが、水瓜《すいか》がえかくええちゅうから、おらとこでも来年《れえねん》は水瓜作ってみべえとおもっているがの……うん、なんだ?」
「どうだな先生、汗ぇ入《へえ》ったで、そろそろ出かけますべえ」
「まあだええでねえか……とっつぁま、おらが行ってみりゃあまちげえねえから」
「そんだが気にかかってなんねえ」
「まあま、病人|抱《かけ》えてちゃ無理もねえ、じゃ、よし、出かけるか」
「はあ、そんじゃ……あっ、あれあれ……先生……先生」
「はい、はい……ここだ、ここだよ」
「あんだか……えかく暗くなったでねえか」
「うーん、はてなぁ、いっぺんに日が暮れたわけじゃあんめえがなあ、こりゃあどうしただべえ」
「あんだか、先生、えかく温《ぬく》いでねえけ?」
「うーん、あんだか、変な臭いがする?」
「先生あんだか、はあ、足もとが見えなくなったようでえ」
「どうした?……待ちなせえよ(両手でまわりをさぐって)あっ、こりゃいかねえ。やあ、この山にゃ年古く棲《す》むうわばみ[#「うわばみ」に傍点]がいることは聞いていたがなあ、ことによるとこれァうわばみ[#「うわばみ」に傍点]に呑まれたかな、こりゃ……」
「嫌ァだ、なあ。これ、腹へ入《へえ》っとるかなあ」
「さあ……なあ。この塩梅じゃあもう入《へえ》ったかな?」
「入《へえ》ったか、って……、どうするだな」
「どうするったって、このままにしていると、おめえもおらも溶けちまうべえ」
「嫌だなあおらあ。溶けるなあ嫌だあな、先生。どうするべえな、先生」
「まあまあ、そう騒ぐなよ。騒いだっておめえ、出られるもんじゃあねえで。困ったなあ、刀を差してくりゃよかったな……腹をおっつぁべえて出るだが、切れ物はねえし。……あっ、そうだ、おめえが背負ってる薬籠があんべえな、え? 薬箱が、それ出しなせえ……中に下剤が入《へえ》っとるからな、くだしかけてみべえ。うまくいかば、くだされるか、わかんねえから……」
これから、大黄《だいおう》という粉の下剤を取り出して、そこいらへばらばらふり撒《ま》くと、この薬が効いてきたとみえ、うわばみ[#「うわばみ」に傍点]はのたりのたり、のたくって苦しみだした。
「わっははは……先生(身体を大きく揺らして)、えかく荒れるでがすなあ」
「(身体を大きく揺らして)やあ、ええ塩梅だ。少しのあいだ我慢しろ、こりゃ薬が効いてきただぞ……こりゃ。ああ……あれあれ、見なせえ。むこうに明《あ》かりが見えべえ、あれが尻の穴にちげえねえ、まあちっとだ……」
そのうちに、どーッと、二人は草ん中へほうり出された。
「やあ、先生、どこだ?」
「いや、ここにいるだ。早く来《こ》うや」
二人は手を取って、山を転がるように降りてきた。
「やあ、おじさま、行ってめえりやした」
「臭《くせ》え……どうした、えかく臭えでねえか」
「やあ、臭えにもなんにも、山越えしたら……よかんべえちいでなあ、途中で、うわばみに呑まれたあ」
「あれ……? どうした?」
「どうしたって、医者|殿《どん》ちゅう者はえれえもんだねえ、薬まいてなあ、先生もおらも、くだされたな」
「そうけえ、そりゃまあよかったな。先生も無事にござらしたか……」
「へえ、ええ……あれ? 先生いねえ……溶けたかなこりゃ」
「あんだ? 溶けたてえ」
「こけえ来てから溶けたわけじゃああんめえに……あっ、井戸|端《ばた》にいなさるわ」
先生頭からざあざあ水を浴びているところ……、
「いやあ、はっはっは、ああ、えかく臭えだで、ちょっくら水ぅ浴びやした……いやあ、こうだな身装《なり》で、まあごめんなせえ……ああ、お久しぶり。あんたも変わりねえで、結構だ。弟さんが塩梅が悪いち、よしよし、見舞ってやんべえ」
これからすっかり診察をして、
「なあんのこりゃ、案じるほどのこんじゃぁねえ、こりゃあ物あたりよ」
「あれ、物あたりてえ?」
「あんぞ沢山《えかく》、食ったじゃねえけ?」
「えかく食ったて……あっそうだ、萵苣《ちしや》の胡麻《ごま》よごしを食いやした」
「お? 萵苣の胡麻よごし……」
「はあ、とっつぁま、えかく好物だで……」
「どのくれえ食った? ふん、ふん……それがいかねえ、そんだにえかく、食《や》るで。夏の萵苣は、腹《はれ》へ障《さわ》ることあるだでやあ、物あたりだ。ああ、わけねえ、こりゃあ薬二、三|貼《ちよう》のみゃあよくなるで、あの、薬籠出せや、おら調合《こせ》えてやるから、薬箱を」
「薬箱?……うわばみの腹ん中で、先生に渡したっべえに……」
「……そうか、いかねえ、腹ん中へ忘れてきた。あれがねえじゃ、おらも商売困るだでなあ。じゃ、ええわ、ちょっくら行って来べえ」
「先生っ、どけえ行くだな」
「あに、まいっぺん行って、おらうわばみ[#「うわばみ」に傍点]に呑まれべえ、うん。そんで薬籠を取って、また帰《けえ》るからなあ、うん。なあに、案じるこたあねえ、大丈夫《だいじようぶ》だ」
元気のいい先生、また、どんどん山へ登って、頂上へ来て、ひょいっと、向こうを見る。土用の最中《さなか》に、うわばみは下剤をかけられたあとで、もうすっかり衰弱をしちまって、眼肉は落ちる、頬の肉はこける。大きな松の木へ首をだらりと下げて……、
「うーん、うーん……」
「やあっはは、ここにいなされたけぇ、あんたが穴へでも入《へえ》っちまっちゃあ、おらあどこを捜すべえかとおもった。ええ塩梅だ。あのなあ、おれ、さっき呑まれた医者だがなあ、あんたの腹ん中へ忘れ物をしてきただよ。すまねえが、まいっぺん呑んでもれえてえがなあ」
「……もうだめだ」
「うん?」
「……もうだめだよ」
「あんでえ、もうだめだとは。そんだなことを言わねえでよ、まあいっぺん、おらを呑んどくんなせえよ」
「いやあもういやだ……夏の医者(萵苣)は腹へ障《さわ》る」