紙入れ
町内で知らぬは亭主ばかりなり……という川柳がある。
「新さん、いいじゃないか。なにをびくびくしてんだね。先刻から、ちっとも落ち着いちゃいないじゃないか」
「おかみさん、もし、こうやって差しむかいでやってるところに、旦那がお帰りになりゃしないかとおもって……」
「大丈夫だってえば……旦那は今夜は帰らない。だから、泊まったっていいやね。それともなにかい、あたしがこんなお婆ちゃんだもんで、嫌《いや》んなったのかい?」
「そんなことを言っちゃあ困りますよ、おかみさん。あっしはまあ、悪いとは知りながら、ついこんなことになりまして……いろいろご厄介になっているうえにこういうことになって、もしも旦那に知れたら、申しわけなくって……」
「へえー、じゃあ、旦那にご厄介になったからあたしはどうでもいいてえの? 旦那がどうこうしたって、みんなあたしの差し金じゃあないか……『新吉にああしておやんなさい、感心なんだから……』って、みんなあたしが陰で糸を引いているんじゃないか……そんなことを言って、今夜ほかにお約束でもあるんだろう? そのほうへ行くのを、あたしから使いが行ったもんだから、なんとか文句をつけて、逃げようってえ算段をしてるんだろ?」
「とんでもございません。それがその……もし……?」
「この人はなんてまあ意気地がないんだろう、大丈夫だよ。お帰りはないとわかってんのに……いま一本さしたからね、もう一本飲んで、ね? やすめばいいじゃないの……ね?」
おかみさんが、新吉の手をとったとたんに、表の戸がドンドンドンドン……。
「おい、あたしだ、開《あ》けとくれ」
「さあ、たいへんだっ……」
「新さん、そんなところでなにをぐるぐるまわってんだよ。さあ、早く裏からお逃げ……」
おかみさんは、新吉を裏口から逃がしておいて、それからおもむろに旦那をうちに入れて、落ち着き払った顔でいるが、逃げた新吉のほうはまっ青になって……、
「ああおどろいた。おどろいた。命のちぢまるおもいってえのはこれだね、悪いことはできないもんだ。だから言わねえこっちゃあねえ。どうも今夜は胸さわぎがしたんだ。ぐずぐずして、旦那にみつかったら、それこそたいへんな騒ぎだ。なにか忘れ物はなかったかな?……羽織は着ている、下駄も履いてる、煙草《たばこ》入れも持っている、と……あっ、紙入れ、紙入れを忘れてきた。さあ、たいへんだ。あの紙入れは、旦那にいただいたものなんだから、ひと目見ればわかっちまう……それに、なかを開けて見られたら……おかみさんからきた手紙が入っている。紙入れに手紙と、こう証拠がそろっちゃあもうだめだ。ちぇっ、しかたがないから、逃げよう。今夜、夜どおし逃げたら、かなり遠くまで逃げられるだろう。そうだ。夜逃げをしよう……だが、待てよ。もし、もし旦那が紙入れを見つけなかったら……なにも逃げなくっても、……ともかく、あすの朝、もいっぺん行って様子をみよう。それで、旦那の顔色が変わってて、『この野郎、よくもっ』って言われたら、それから逃げてもおそくはない。そうだ、そうしよう」
度胸はきめたものの、その晩はおちおち寝られない。夜が明けると、おそるおそる旦那の家へ出かけて行った。
「お早うござい……」
「あ、なんだ新吉じゃねえか、どうしたい? たいそう早えじゃないか」
「お早うございます」
「まあ、上がったらいいだろう。そんなところにぼんやり立ってねえで……おい、新吉が来たんだ、お茶を入れてくれっ、まあ、お茶でも飲んでけよ。朝茶はその日の災難をさけるなんてえことをいうじゃねえか……上がれ」
「ありがとう存じます」
「なんだか、おまえ、けさは顔色がよくねえようだが、なにかあったのか?」
「さあ、あったんでございましょうか?」
「おい、しっかりしなよ。こっちで聞いてるんじゃないか。どうしたんだ? 心配ごとか?」
「へっ、……じつは……その、ちょっと、世間に顔むけのできねえようなことをしちまったんで、人の噂も七十五日と申しますから、ほとぼりのさめるまで、どっかへ旅に行こうとおもうんですが……」
「旅へ出る? おかしいじゃねえか……おい、新吉のやつが旅へ出るんだとよ」
「あら、どうしたの? 新さん、急に旅へ出るなんて……旦那、どうしてなの?」
「いや、世間に顔むけができねえようなことってのは? 借金か? 金のことだったら相談にのろうじゃないか」
「いいえ、金ですむことならいいんですが……それが……」
「ふっ、すると、女だな? そうだろう?」
「……はい」
「いいじゃねえか、おめえなんざ、年齢《とし》は若いし、男っぷりもいいし。いつまでもひとりでいられるわけではなし、まとまるもんなら、おれがひと肌脱ごうじゃあねえか。女に惚れるぐれえ、かまわねえ。しかし、なにをしてもかまわねえが、新吉、主《ぬし》ある身だけはよしなよ」
「へえ……じつは……それなんで……」
「え? そりゃまずいぜ、おまえ」
「はい、まずいんでございます。じつはその……旦那がいろいろ目をかけてくださいまして、ご厄介になり、ちょくちょくお出入りをしておりますんで……」
「うん、それで?」
「で、また、その……おかみさんがあたくしに親切にしてくださいまして……つい……その……」
「ああ、よくあるやつだ。……で、なにか? このことが旦那に知れたのか?」
「へっ?」
「いやさ、その旦那に見つかったのかって聞いてるんだよ」
「さあ、どうなんでございましょう……?」
「まだわからない? ふーん。それで逃げて旅へ出ようってえのか……またおっそろしい気の早いやつだ、知れたから逃げるてえのはあるが、なにか知られるようなへま[#「へま」に傍点]でもやったのか?」
「へえ……その……旦那がよそへお泊まりになるってんで、その留守にうかがいまして、さあ、これからってえときに、急に旦那がお帰りになって……」
「やれやれ、天罰だ。……で、見つかったのか?」
「いいえ、うまく裏口から逃げたんですが、そのとき、つい、忘れ物をしてまいりましたんで……」
「ばかだなあ、おまえってえやつは、内緒事をするんなら、抜け目のないようにしな。なにを忘れてきたんだ」
「へえ……じつは、紙入れを忘れてまいりました」
「えっ? 紙入れ、あのおれがおまえにやったやつか。じゃ、その旦那は知っているのか、紙入れを?」
「へえ……その中に、おかみさんからの手紙も入っているんで……」
「そりゃ、なおまずいな。そういうものは、すぐにやぶいてしまうもんだ。うかつだな、どうも……そうか、そりゃあ心配だなあ……おい、新吉のやつは向こうへ、紙入れを忘れてきたんだとよ」
「ふふふふ、いやだよ、新さん……ほんとうに、青い顔なんかしてさ。しっかりおしよ。そりゃ、おまえ、旦那の留守に、若い男でも引き入れて、内緒事でもしようというおかみさんじゃないか、おまえ、そこに抜け目があるもんかね、紙入れなんか、ちゃあんと……こっちへしまって……ありまさあ、ねえ、そうでしょ、旦那?」
「うん、そうとも。たとえ紙入れがそのへんにあったって、自分の女房をとられるようなやつだから、そこまでは気がつくめえ」
「おかみさん、もし、こうやって差しむかいでやってるところに、旦那がお帰りになりゃしないかとおもって……」
「大丈夫だってえば……旦那は今夜は帰らない。だから、泊まったっていいやね。それともなにかい、あたしがこんなお婆ちゃんだもんで、嫌《いや》んなったのかい?」
「そんなことを言っちゃあ困りますよ、おかみさん。あっしはまあ、悪いとは知りながら、ついこんなことになりまして……いろいろご厄介になっているうえにこういうことになって、もしも旦那に知れたら、申しわけなくって……」
「へえー、じゃあ、旦那にご厄介になったからあたしはどうでもいいてえの? 旦那がどうこうしたって、みんなあたしの差し金じゃあないか……『新吉にああしておやんなさい、感心なんだから……』って、みんなあたしが陰で糸を引いているんじゃないか……そんなことを言って、今夜ほかにお約束でもあるんだろう? そのほうへ行くのを、あたしから使いが行ったもんだから、なんとか文句をつけて、逃げようってえ算段をしてるんだろ?」
「とんでもございません。それがその……もし……?」
「この人はなんてまあ意気地がないんだろう、大丈夫だよ。お帰りはないとわかってんのに……いま一本さしたからね、もう一本飲んで、ね? やすめばいいじゃないの……ね?」
おかみさんが、新吉の手をとったとたんに、表の戸がドンドンドンドン……。
「おい、あたしだ、開《あ》けとくれ」
「さあ、たいへんだっ……」
「新さん、そんなところでなにをぐるぐるまわってんだよ。さあ、早く裏からお逃げ……」
おかみさんは、新吉を裏口から逃がしておいて、それからおもむろに旦那をうちに入れて、落ち着き払った顔でいるが、逃げた新吉のほうはまっ青になって……、
「ああおどろいた。おどろいた。命のちぢまるおもいってえのはこれだね、悪いことはできないもんだ。だから言わねえこっちゃあねえ。どうも今夜は胸さわぎがしたんだ。ぐずぐずして、旦那にみつかったら、それこそたいへんな騒ぎだ。なにか忘れ物はなかったかな?……羽織は着ている、下駄も履いてる、煙草《たばこ》入れも持っている、と……あっ、紙入れ、紙入れを忘れてきた。さあ、たいへんだ。あの紙入れは、旦那にいただいたものなんだから、ひと目見ればわかっちまう……それに、なかを開けて見られたら……おかみさんからきた手紙が入っている。紙入れに手紙と、こう証拠がそろっちゃあもうだめだ。ちぇっ、しかたがないから、逃げよう。今夜、夜どおし逃げたら、かなり遠くまで逃げられるだろう。そうだ。夜逃げをしよう……だが、待てよ。もし、もし旦那が紙入れを見つけなかったら……なにも逃げなくっても、……ともかく、あすの朝、もいっぺん行って様子をみよう。それで、旦那の顔色が変わってて、『この野郎、よくもっ』って言われたら、それから逃げてもおそくはない。そうだ、そうしよう」
度胸はきめたものの、その晩はおちおち寝られない。夜が明けると、おそるおそる旦那の家へ出かけて行った。
「お早うござい……」
「あ、なんだ新吉じゃねえか、どうしたい? たいそう早えじゃないか」
「お早うございます」
「まあ、上がったらいいだろう。そんなところにぼんやり立ってねえで……おい、新吉が来たんだ、お茶を入れてくれっ、まあ、お茶でも飲んでけよ。朝茶はその日の災難をさけるなんてえことをいうじゃねえか……上がれ」
「ありがとう存じます」
「なんだか、おまえ、けさは顔色がよくねえようだが、なにかあったのか?」
「さあ、あったんでございましょうか?」
「おい、しっかりしなよ。こっちで聞いてるんじゃないか。どうしたんだ? 心配ごとか?」
「へっ、……じつは……その、ちょっと、世間に顔むけのできねえようなことをしちまったんで、人の噂も七十五日と申しますから、ほとぼりのさめるまで、どっかへ旅に行こうとおもうんですが……」
「旅へ出る? おかしいじゃねえか……おい、新吉のやつが旅へ出るんだとよ」
「あら、どうしたの? 新さん、急に旅へ出るなんて……旦那、どうしてなの?」
「いや、世間に顔むけができねえようなことってのは? 借金か? 金のことだったら相談にのろうじゃないか」
「いいえ、金ですむことならいいんですが……それが……」
「ふっ、すると、女だな? そうだろう?」
「……はい」
「いいじゃねえか、おめえなんざ、年齢《とし》は若いし、男っぷりもいいし。いつまでもひとりでいられるわけではなし、まとまるもんなら、おれがひと肌脱ごうじゃあねえか。女に惚れるぐれえ、かまわねえ。しかし、なにをしてもかまわねえが、新吉、主《ぬし》ある身だけはよしなよ」
「へえ……じつは……それなんで……」
「え? そりゃまずいぜ、おまえ」
「はい、まずいんでございます。じつはその……旦那がいろいろ目をかけてくださいまして、ご厄介になり、ちょくちょくお出入りをしておりますんで……」
「うん、それで?」
「で、また、その……おかみさんがあたくしに親切にしてくださいまして……つい……その……」
「ああ、よくあるやつだ。……で、なにか? このことが旦那に知れたのか?」
「へっ?」
「いやさ、その旦那に見つかったのかって聞いてるんだよ」
「さあ、どうなんでございましょう……?」
「まだわからない? ふーん。それで逃げて旅へ出ようってえのか……またおっそろしい気の早いやつだ、知れたから逃げるてえのはあるが、なにか知られるようなへま[#「へま」に傍点]でもやったのか?」
「へえ……その……旦那がよそへお泊まりになるってんで、その留守にうかがいまして、さあ、これからってえときに、急に旦那がお帰りになって……」
「やれやれ、天罰だ。……で、見つかったのか?」
「いいえ、うまく裏口から逃げたんですが、そのとき、つい、忘れ物をしてまいりましたんで……」
「ばかだなあ、おまえってえやつは、内緒事をするんなら、抜け目のないようにしな。なにを忘れてきたんだ」
「へえ……じつは、紙入れを忘れてまいりました」
「えっ? 紙入れ、あのおれがおまえにやったやつか。じゃ、その旦那は知っているのか、紙入れを?」
「へえ……その中に、おかみさんからの手紙も入っているんで……」
「そりゃ、なおまずいな。そういうものは、すぐにやぶいてしまうもんだ。うかつだな、どうも……そうか、そりゃあ心配だなあ……おい、新吉のやつは向こうへ、紙入れを忘れてきたんだとよ」
「ふふふふ、いやだよ、新さん……ほんとうに、青い顔なんかしてさ。しっかりおしよ。そりゃ、おまえ、旦那の留守に、若い男でも引き入れて、内緒事でもしようというおかみさんじゃないか、おまえ、そこに抜け目があるもんかね、紙入れなんか、ちゃあんと……こっちへしまって……ありまさあ、ねえ、そうでしょ、旦那?」
「うん、そうとも。たとえ紙入れがそのへんにあったって、自分の女房をとられるようなやつだから、そこまでは気がつくめえ」