千両みかん
日本橋のさる大家《たいけ》の若旦那が、ふとしたことから病《やまい》の床についた。両親の心配はひと通りではない、医者よ薬よと、手のとどく限りつくしたが、病は日一日と重くなるばかり。ところが、ある医者が、
「病のもとは、なにかおもいこんでいることがあるとおもうので、それをかなえてあげたら、治るだろう」
と、見立てた。そこで、両親は、番頭を呼んで、
「なあ、番頭さん、お医者さまああ言ったが、伜《せがれ》の胸のうちを聞くにも、わたしが聞いても、恥ずかしがって言わないだろうし、他の者でもぐわいが悪いが、おまえさんなら伜とは、幼い時分から仲よしだから、ひとつ聞いてくれないか?」
「ええ、よろしゅうございます。さっそく聞いてみましょう」
「頼みます」
「へえ、若旦那、お暑いことで……きょうは、ご気分はいかがでございます?」
「ああ、番頭さんか、いつも親切にしてくれて、ありがとう。そのおこころざしは、死んでも忘れない……」
「あ、いやですよ。そんな縁起の悪いことを言うもんじゃありませんよ。そんなことより、若旦那、いま先生のお話だと、なにかおもいつめていらっしゃることがあるとのことですが、若旦那の病は、それじゃありませんか?」
「ああ、先生はそう言ったかい。さすが名医といわれる先生だ。恐れ入った。じつはなあ、番頭さん……おまえ、笑っちゃあいやだよ」
「いえ、めったに笑いません、へえ……」
「いやあ、やっぱりよそう。それが言えるくらいなら、なんにもこんな苦しいおもいをするこたあない……言ってもかなわぬことだ……言うも不孝、言わぬも不孝、おなじ不幸なら、このまま言わずに死んでいきたい……どうか、聞かずにおいてくれないか?」
「ああ、そんなにおもいつめていらっしゃるなら、無理にとは申しません。しかし、この番頭だけに聞かしてくださいませんか? ね、こうしましょう。わたしが聞いてこりゃあかないそうもないとおもったら、けっして旦那さまには申しません。わたしの胸にしまっておいて、口外するようなことは誓っていたしません。それならいいでしょう?」
「それなら、言ってもいいが、じつはな……」
「へえ」
「ああ、恥ずかしい……笑っちゃあいけないよ」
「笑いません、こわい顔してますから……」
「別にこわい顔しなくてもいいが……じつはな……艶《つや》のいい、ふっくらとした……」
「へえ、わかりました。みなまでおっしゃるな、けっして口外はいたしません。わたしにおまかせなさいまし。どこの娘です?」
「ちがうよ」
「じゃあ、芸者?……名前とところを教えてください。これから、わたしが話をつけに行きます」
「番頭さん、おまえ、勘ちがいしちゃあいけない。わたしのほしいものは、女じゃあないよ」
「へえ?」
「みかん」
「え? みかん?」
「みかんが食べたいんだ」
「へえー、だって若旦那、艶のいい、ふっくらとした……ってえから、あたしはてっきり……」
「そういうみかんを食べたくて、じつは、病気になっているんだよ」
「へーえ、みかんに恋わずらい? そいつは医者や薬じゃあ治らないわけだ。なんです。みかんぐらいお安いことです。これから、すぐ買ってきて、召しあがっていただきます」
「そうかかなえてくれるか……ありがたい、じゃ頼んだよ」
「よろしゅうございます。どうぞ、ご心配なく、待っててください……いま、旦那さまに申し上げてきますから」
「ああ、番頭さん、ご苦労さん、伜《せがれ》のおもいを聞き出してくれましたか?」
「へえ、それが……じつは……」
「なんと言った?」
「へえ、艶のいい、ふっくらとした……」
「やっぱりそうか。親というものは、いつまでも子供だ子供だとおもっているが……して、相手の娘は?」
「旦那もそうおおもいで……じつは、若旦那、みかんに恋わずらい」
「なに? みかん?」
「へえ、みかんが食べたい」
「あのみかんが……?」
「へえ、このおもいがかなえば、病は治る、とそういうわけでございます」
「しかし、そいつは困ったな。で、おまえ、伜になんと言った?」
「へえ、『みかんぐらいお安いことです、これから、すぐ買ってきて、召しあがっていただきます』と……」
「いやあ、番頭さん、そんな安請け合いしたって、きょうはいったい何日だとおもう? 土用の最中《さなか》に、どこを捜したって、みかんなんぞ、あるわけがない」
「あっ、そうで……冬場のみかんの出さかりならいざ知らず、こりゃあ、とんだことを請け合いました」
「みかんの出さかりまで、とても伜の命はもちますまい……かといって、いちど請け合ったものを、ないと言ったのでは、一時にがっかりして死んでしまうにちがいない。そうなれば、おまえが手をくださないでも、主《しゆう》殺しになる。おまえは、主殺し、ということで、町内ひきまわしの上、逆《さかさ》はりつけだ」
「へへへへへえ……べつに悪気があって請け合ったわけではございません。なにぶん、ご了見《りようけん》を願います……」
「そりゃ、わたしが了見しても、お上が了見しない……さあ、早《はよ》う出かけていって、みかんを捜してきておくれ。でないと、主殺しのかど[#「かど」に傍点]で……」
「へえへえ、若旦那の命にゃあ代えられません。捜してまいります。捜してまいります……さっそくこれでおいとまをして、みかんを捜しに行ってまいります……こんちはっ、八百屋さん」
「やあ、番頭さん、ご用はなんで?」
「おまえの店に、みかんはないか?」
「冗談じゃあねえ、この土用の最中《さなか》、暑いさかりに、みかんのみの字もあるわけはねえでしょ」
「そうだろうなあ……ああ、困ったことになったなあ、若旦那も悪い時季に患ったもんだなあ、人の気も知らないで、えらいことになった……へえ、こんにちは」
「へい、いらっしゃい、なにを?」
「お宅に、みかん、ありますか?」
「なに?」
「みかん」
「みかん? この暑いのに、どこにみかんがあるかよ」
「へへへえ……ああ、情けない、若旦那、一人でなく、主殺しのかど[#「かど」に傍点]であたしまで、二人の命なくなっちゃう。……へえ、ちょっと、うかがいます」
「え、らっしゃい」
「ありませんか?」
「なにを?」
「へえ、みかん、ありませんか?」
「冗談言っちゃあいけねえ、うちは魚屋だよ」
「魚屋に、みかんないんですか?」
「ふざけるねえ……ははあ、気の毒になあ、この暑さで、頭がおかしくなったんだな……おい、そこへ座りこんじゃあ、だめだ。え? どうしたんだ?」
「へ……へえ、じつは、お店の若旦那が、みかんが食べたい、と病の床につきまして、それがかなえられなければ死ぬと申します。もし、みかんがなければ、若旦那の命はもちろん、あたしは主殺しの罪で、町内ひきまわしのうえ、逆はりつけに……」
「へえー、たいへんだねえ。お気の毒なことだ。そーね、みかん、この広い江戸だ……そうだ、神田の多町《たちよう》(市場)へ行ってみねえ。あそこに、万亀というみかん問屋がある。そこへ行けば、ことによったらみかんの囲いが、一箱や二箱はあるかもしれねえよ。行ってみねえ」
「へえ、神田の多町……万亀という、みかん問屋……なるほど、そこに気がつきませんでした。ありがとうございます……ああ、これで、主殺し……町内ひきまわしの上、逆はりつけは、まぬがれる。……ああ、ありがてえ、ああー、ここが神田の多町だ……ああ、万亀、あそこだ……へえ、こちらでございますか? 万亀は?」
「へえ、そうですよ」
「お宅にみかんございますか?」
「ええ、みかん? みかんならありますよ」
「えっ、あるッ、ありがたいっ」
「痛っ、なにするんです、この人は? 人の胸ぐらァつかまえて……ああ、苦しい、とにかく手をはなしてくださいなっ」
「うわーん、うわーん」
「もし、お客さん、いい年齢《とし》をしてなにを泣いてるんですか? よくよくみかんのいる人らしい……一つでよろしゅうございますね。一つぐらいはなんとかあるでしょうから、いま、捜させますからね、ちょっとお待ちください……おーいっ、みかんのご用だよーォ」
店の奥から若い者が七、八人出てきた。長さが一尺もある札のついた蔵の鍵を裏の蔵の錠前《じようまい》へさしこんで、ピーンと錠をはずし、大戸へ手をかけて、ガラガラガラと開くと、若い者が飛びこんで、山のように積んであるみかんの箱を表へほうり出した。
「ほいきたっ」
若い者が受けると、一人が縄を切り、一人が金づちでポン、ポーンッ、ポン、ポーンッ、と箱の蓋《ふた》を開《あ》けて土間へみかんをあける。
「あ、これもだめ」
「あ、これもだめ」
「これもだめだ」
見るまに、万亀の蔵の前の土間は、みかんのくず[#「くず」に傍点]で山のよう……。
「あっ、あった、あった」
「あったか?」
「ああ、あったよ、どうだい。葉はついてるし、いい型をしている……旦那、ありましたよ」
「おお、あったか、ご苦労ご苦労……お客さま、一つですが、いい型をしたのがありました」
「あ、あ……ありがとうございました。で、おいくらでございましょう?」
「値段ですか? ちょっとお高くなりますが……」
「そりゃあ、季節《しゆん》はずれのみかん、高いのは承知しております。おいくらで?」
「千両」
「えっ、千両? ふわーっ」
「どうしました?」
「へえへえ、腰……腰がぬけました」
「しょうがないな、だれか起こしてやれ……ねえ、お客さま、このみかん、千両でもけっして高くはありませんよ……あたしどもみかん問屋、万亀という看板を出している以上、お客さまから、いつ買いに来られても、ないと断わるわけにはいきません。お城やご大家の隠居さまから真夏、『みかんが食べたい』というご注文がありますので、あたしどもはみかんの出さかりに、腐るのは承知で、二戸前の蔵につぶ選《え》りの上物ばかりぎっしり囲っております。その中から、いい型をしたのが、一つか二つあれば儲けもの、これだけの仕入れをした中から、一つのみかん、千両でお高いはずはありません。お気に召さなければ、どうぞおやめください」
「ま、ま、待ってください。このみかん、一つが千両……わたし一存にはまいりません、これから店へ帰りまして、主人ともよく相談の上で、きめてまいりますので、どうぞ、しばらくお待ちを……へえ、行ってまいりました。旦那さま」
「おお、番頭さん、この暑いのにご苦労だったなあ。で、みかんはありましたか?」
「へえ、一つだけありました」
「へーえ、あった、ありましたか、ありがとう。よく捜してきてくれました。で、みかんはどこに? 早く伜に食べさせてやってくれ」
「それがいけませんので……」
「なに? どうしてだ?」
「そのみかんは、一つ千両なんでございます」
「ああ、そうだろうな。千両、季節はずれのみかんだ、そのくらいはするだろうな……伜の命には代えられない。千両で伜の命が買えれば、安い。じゃあ、さっそく、ご苦労だが、番頭さん、もういっぺん、千両箱をもって、そのみかんを買ってきておくれ」
目の前へ千両箱をドンと出されて、番頭さん、また、腰をぬかした。
大八車に千両箱と相乗りで、多町の万亀に行き、みかんを一つ、持って帰ってきた。
「へえ、これでございます、旦那さま」
「よし、早く伜に食べさせてやってくれ」
「かしこまりました……へえ、若旦那さま、みかんがございましたよ。さあ、おのぞみのみかんですよ。さあ、どうぞ、召しあがりください」
「あーあ、あったか……番頭さん、ありがとう。無理を言ってすまなかった……あーあ、ほんとうにいい型をしたみかんだ、艶といい、ふっくらとした型といい……」
「おうれしゅうございますか? 若旦那さま、大旦那さまのご慈悲をお忘れになっちゃあいけませんよ。このみかん、一ついくらだとおもいます。これ、一つ、千両でございますよ。あたしは、値を聞いたとたんに腰をぬかしてしまいました。ところが、大旦那さまは、『伜の命には代えられない』と、千両箱をドンと目の前へほうり出しました。あたしはそこでまた、腰がぬけましたが……まあ、親なればこそでございますよ」
「ああ、ありがたいことだ……番頭さん、むいておくれ」
「ああ、もったいない。これが千両……皮だけでも何十両についてるかもしれません。ああ、房《ふくろ》が、ひい、ふっ、みい、よう……十房《とふくろ》ございます。すると、ひと房《ふくろ》が、百両ッ?」
「おとっつぁん、おっかさん、ちょうだいします……ああ、おいしい、ああ、おいしい」
「あっ、百両、あっ、二百両……三百両、あっ、四百両……五百両っ……」
「ああ、おいしかった。たいしたもんだ、急に体に元気がついてきた。ところで、番頭さん、ここに三|房《ふくろ》残っているから、これをおとっつぁんとおっかさんにひと房《ふくろ》ずつ、あげておくれ。それから、番頭さん、おまえさんにもたいへんご苦労をかけました。これをひと房《ふくろ》、おまえにあげるから、食べておくれ」
「えっ、あたくしに? あたくしにまで、ありがとうございます……へっ、ちょうだいいたします」
盆の上に、捧げるように三|房《ふくろ》のみかんをのせて、番頭さん、梯子段《はしごだん》を降りて、茶の間のほうへ行かずに、蔵の廂間《ひあわい》へ入った。
「へへえ、ねえ、ご大家の若旦那というものはちがったもんだね。千両のみかんを見るまに七百両、食べちゃって、あとの三|房《ふくろ》をおとっつぁんとおっかさん、それに番頭にやるよって……どうだい、ひと房《ふくろ》が百両……百両、二百両、三百両。ああ、ねえ、九歳のときからこの店へ奉公しているが、この先、百歳《ひやく》まで奉公したって、三百両なんて大金は手に入ることはない……これだけあれば、大旦那さまには悪いが……」
と番頭さん、みかんを三房持って、そのまま逃げ出した。