三年目
昔から、幽霊はあるとかないとか、いろいろいわれているが、幽霊とは、幽《かす》かな霊《みたま》と書く……つまり、はっきりしない、うすぼんやりしたものとでも表現しておくのが、いちばん、幽霊らしいようで……。人間の気というものは、なにかしら残る。ただうらめしいというだけでなく、あの人に会いたいとか、恋しいとかいう気が残って、これが幽霊になる。万物の霊長である人間のおもいが、残らないはずはないようで……。
相思相愛の若夫婦が、あまり仲がよすぎたせいか、おかみさんのほうが、ちょっと具合いが悪いといって床についた。亭主はもう、昼も夜も枕もとをはなれずの看病、ほうぼうの医者にもみせたが、病《やまい》は悪くなるばかりで、もう枕もあがらないという大病になった。
「おい、おまえ、加減はどうだい? 薬を持ってきたよ」
「はい、ありがとう存じます」
「おあがりよ。先生がね、飲みいいように調合したとおっしゃったから……ああ、それから、口直しも枕もとにあるからね……もう少しさすろうか?」
「いいえ、もったいない」
「なにも、もったいないなんて言うことはない。なんでも遠慮なくお言い。そんなに遠慮をすると、病気にさわるよ。それよりは、薬をどんどん飲んで、一日も早くよくなっておくれよ」
「恐れ入ります。あとでいただきます」
「あとでと言わずに、わたしの見ている前でおあがり……いいえ、いけない。わたしが見ていないと、飲んだふりをして捨ててしまうじゃあないか。薬を飲まなくては治らないよ」
「わたしは、お薬をいただいてもむだでございますから……」
「おまえそんな、自棄《やけ》なことを言っちゃいけないよ。病人が薬を飲んでむだてえことはないよ。病《やまい》は気からというんだから、気持ちをしっかり持って、岩へかじりついても治ろうという気にならなくちゃあいけない。おまえは若いんだから、その気になりさえすりゃあ……」
「そんなことをおっしゃっても、わたしは存じております」
「存じてる? なにを?」
「あなた隠していらっしゃいます」
「おまえになにを隠したんだ。どんなことでも相談をするでしょう、なにごとによらず。食べるものだって、一つきゃあないものは、二人で半分ずつ仲よく食べる。半分のものは四半分ずつ食べて、無いものは食わないが……なんでもおまえに打ち明けているじゃあないか」
「このあいだ、お医者さまがお帰りになると、あなたを屏風《びようぶ》の陰へ呼んで、なにかひそひそ話をなすっていらっしゃいました。わたしが寝たふりをして耳をすましておりますと、『この病人はもう、とても見込みがないが、ほかに医者がいるならば見せてもよろしいが、薬だけは置いて帰る』と、おっしゃいましたが、あの先生で、もう六人目、あれだけたくさんのお医者さまに見はなされるようでは、しょせん助からない命とおもいます。でございますから、一日も早くあなたのご苦労を除き、わたしも早く楽になりたいとおもっておりますが、ただ一つ気にかかって臨終できないことがございます」
「そんな、なんという、死ぬなんて縁起でもないことを言うもんじゃあないよ。まあ、おまえが聞いてしまったのなら、隠すわけにはいかないが、あれは、病人の耳になるべく入れないほうがいいと言うから、それで黙っていたんだ。しかし、あの方ばかりが医者というわけではないし、ほかにいくらでもいい名医はいるから、どんな手をつくしてでもおまえの病気をかならず治すよ……ところで、なんだ、いまおまえ、気になることを言ったねえ。臨終ができない?……なにかおもうことがあるんだろう。それを話してごらん。おまえの言うことなら、あたしはなんでも、できることならしますから、え? おまえのは、気病みというやつなんだから、それをおっしゃいよ」
「でもきまりが悪いから……」
「冗談言っちゃいけない。夫婦のなかできまりの悪いてえことはない。だれもほかに聞いているものはいないから、さあ、遠慮なく、おっしゃい」
「だめでございますよ」
「そんなことはないよ。なんでもそうお言いよ、かなえてあげるから……」
「じゃあ、ほんとうに?」
「ああ、きっとかなえてあげますよ……だから、その気がかりなことてえのを言いなさい、なんだい?」
「ほかではありませんけれども、気がかりというのは……おほほほ、あなた、お笑いになるから……」
「なにを言ってるんだ。笑ってるのはおまえのほうじゃあないか」
「それでは、おもいきって申します。わたくしがご当家へまいりまして、まだ二年|経《た》つか経たないうちに、この病気でございます」
「うん」
「わたしのようなふつつかな者でも、あなたは、ふだんからかわいがって、やさしくしてくださいます。病気になってからは、片時もはなれず、こうして看病をしていただき、もったいないとおもっております」
「うん、それがどうした?」
「で、わたしにもしものことがございましたとき、あなたもお若いことでございますから、あとへまたお嫁さんをおもらい遊ばして、その方を、わたしのようにこうして大事にしてあげるだろうとおもうと、それが気になって、どうしても死ねません」
「変なことを考えるもんだな。わたしのほうでは、いっこうおもいもよらないことだ。なにを言うかとおもったら、そんなことか? それならば、おまえ、安心なさい。そんなことはけっしてないよ。おまえにもしものことがあった場合には、あたしは後妻《のちぞえ》を持たない、生涯独身で通すから、それならよかろう」
「いいえ、いまはそんなことをおっしゃっていらっしゃいますが、それはだめでございます」
「いくらどんなことがあっても、わたしは後妻を持たないよ」
「あなたがそうおっしゃっても、ご両親やご親戚がかならずおすすめになります」
「いいじゃあないか、いくらすすめても、あたしが嫌《いや》だてえものを無理にてえわけにいかない、大丈夫だよ。おまえが死ねば、あたしは女なんてえものはもう振りむいても見ないから……」
「そんなことをおっしゃっても、半年や一年はともかく、だんだん日が経てば……それでなくとも、なかなかお一人で、ご辛抱のできない方なんですもの……」
「変なことを言っちゃあいけませんよ。じゃあ、こうしようじゃあないか。ま、そんなことはないが、万一おまえにまちがいがあったときに、両親や親戚がいろいろすすめて嫁をとれと言っても、わたしは、どうしても持たないつもりだが、断わりきれなければ、一応承知をする……」
「まあ、ご承知なさるので?」
「まあ、お聞きなさい。おまえがそれほどにあたしのことをおもってくれるんなら、いよいよ婚礼という晩に、幽霊になって出ておいで。いいえ、おそろしいことなんぞあるもんか。わたしは、おまえが出てくれればうれしいくらいなんだから……たいていの嫁なら、それを見てきっと目をまわすよ。目をまわさないまでも、翌《あく》る日は、実家へ逃げて帰る。そういうことが度重なれば、あそこの家には、先妻の幽霊が出るという噂が立って、だれも嫁のきてがなくなる。そうすれば、わたしは生涯ひとり身でいなければならなくなる。だから、もしもまちがいがあったときには、幽霊になっておまえ、出ておいで」
「それでは、わたしが幽霊になって……」
「ああ、ああ、かならず出ておいで。八つの鐘を合図に……」
「あなた、きっとですよ」
夫婦で約束をかわした。それで安心したものとみえて、おかみさんは急に容態が変わって、とうとう亡くなってしまった。
泣く泣く野辺の送りもすませ、初七日を過ぎ、三十五日、四十九日と経ち、まだ百か日も経たないうちに、若い者をいつまでも抜き身で置いてはあぶないから、いい鞘《さや》があったら納めたらよかろうと、そろそろ親戚の者が言い出したが、はじめは、わけあって、わたしは後妻《のちぞえ》はもう持たないと断わったが、そうそうは断わりきれない。そのうち、町内でも、あそこのおかみさんが死んでいい塩梅《あんばい》だ、あたしが後妻に入《はい》ってひと苦労してみたいという、内々|岡惚《おかぼ》れをしていた娘もあって、これならばという話がまとまった。
いよいよ婚礼の当日、三三九度の盃、お床盃もすんで、仲人は宵の口、早くおひらきになって、寝間へ入り、布団の上に座ったが、亭主は寝るどころではない。嫁さんのほうも、ご亭主が寝ないのに、先へ寝るわけにはいかない、もじもじしている。嫁に行った晩というぐらいで、遠慮がある。
「さ、早くおやすみなさい」
「あなた、おやすみに……」
「いや、あたしはあとでいいから、おまえさん早くおやすみ……」
「でも、あなたがおやすみなさらないでは……」
「いま、何刻《なんどき》だ?」
「ただいま四つでございます」
「四つか……九つ、八つと……まだだいぶ間《ま》があるな」
「なんでございます?」
「なに、よろしいから、わたしにかまわずおやすみなさい」
「でも、わたしだけが……」
「いいんだから……何刻だい?」
「ただいま四つ半でございます」
「四つ半? 寝ておくれ、あたしはだめなんだから……」
「なにがだめで……?」
「いや、なんでもいいから……いま何刻だ?」
「あなた、時刻《とき》ばかり聞いていらっしゃいます、ただいま九つでございます」
「九つか……そろそろおいでなさるな」
「なにがまいりますの?」
「いや、まだ来やあしないが、つまらない約束があるから……」
「えっ、なにかお約束を」
「いやべつに……こっちのことだから……いま何刻になる?」
時刻ばかり聞いている。しかし、そうそう起きていては嫁がかわいそうだとおもい、横になって枕についたが、目はぱっちりと開《あ》いている。いまか、いまかと待っているうちに、とうとう夜が明けてしまった。
「とうとう出なかったなあ。約束を忘れたわけじゃああるまいが、もっとも幽霊も十万億土から来るんだから、初日には、間にあわなかったのかもしれない」
では二日目には出るだろうと待ったが、やはり、幽霊は出ない。
「なんだい二晩もすっぽかして、ずいぶんいいかげんだなあ」
いくらなんでも三日目には出るだろうとおもっていたが、三日待っても、七日待ってもとうとう出ない。
「ばかにしている。これじゃあ、うらめしいの、取り殺すのというが、息のあるうちで、死んでみればそんなばかなことはない」
と、亭主は悟って、二度目に来た嫁もまんざらいやで一緒になったわけではないから、しだいに仲もむつまじくなって、間もなく、妊娠をして、月満ちて男の子が生まれた。
その年は過ぎ、翌年も過ぎて三年目、先妻の三回忌の法事をしようと、当日は後妻も、死の跡を承知で来たので、気兼ねすることもなく夫婦で近所へ配り物をして、子供を連れて墓詣りをすませ、昼間の疲れでぐっすり寝こんだが、真夜中に、亭主がひょいと目をさまして、
「おいおい、坊やが這《は》い出してるよ……しょうがないなあ、女も子供ができちゃあ。おやおや、子供のほうがしっかりしてるよ。もぐりこんでいって、おふくろの乳をくわえてる……またすやすやと眠って、まあ……あーあ、きょう墓詣りをして、墓の前で手を合わして拝んでいたときに、妙なことを考えたなあ、この女には聞かされないが、あれがいままで達者でいて、こんな子供ができたらどんなによろこぶことだろう。あの時分には、まだ親父も案じて、ここへ店を出したからといってものになれないで、ずいぶん苦労させた。それで早死にをさせて、よく死ぬ者貧乏というが、おもえばかわいそうなことをした」
と、どこで打ちだすか、八つの鐘が、ボォーン。
枕もとの行灯《あんどん》がぼんやり暗くなると、縁側《えんがわ》の戸を開け放して寝たとみえ、生《なま》ぐさいような風が、すーっと吹きこんでくる。障子へ髪の毛がサラサラサラサラとあたるような音がする。襟《えり》もとから水を浴びせられたように、ぞォッとして、
「おや、今夜はなんだか変だぞ」
腹ばいになって、煙管《きせる》の雁首を枕屏風のふちへかけてずっと引き寄せてみると、先妻の幽霊が、緑の黒髪をおどろ[#「おどろ」に傍点]に乱して、さもうらめしそうに、枕もとへぴたっと座って……、
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……きょうの法事の礼になんぞ来るにはおよばない。なんだっていま時分出てきたんだ……幽霊のもの堅いのは困るよ。早く引っこんどくれ。南無阿弥陀仏……」
「(手を七三に構えて)あなたはまあ、うらめしいお方です。わたしが死んでまだ百か日経たないうちに、こんなにうつくしい後妻をお持ちになって、赤さんまでもこしらえて、仲よくお暮らしなさるとは……それではあなたお約束がちがいます」
「おいおい、おかしな言いがかりをつけちゃあいけないよ、おまえは、生きていたころは、たいへんもののわかった女だったが、死んでしまうと、そうもものわかりが悪くなるのかねえ。なるほど、そりゃあ、おまえの言うとおり約束はしたよ。約束はしたけれども、ほどなく親戚からすすめられ、どうにも断わりきれないので、この女を後妻に持つということにしたんだ。ところが、おまえが婚礼の晩に出るてえから待っていたが、出やあしないじゃないか。十万億土という遠いところじゃ、初日は間にあわないだろう、じゃあ、二日目は出るか、三日目はと、あたしゃ、蝙蝠《こうもり》じゃあないが、昼間寝ちゃあ夜起きて待っていたんだ。それで、いく日経っても出てこないで、おまえ、それがいま時分、子供までできたあとで、いきなり出てきて、そういう恨みを言われては困るじゃあないか。気のきいた化け物は引っこむ時分だ。なにしてんだ、いくら幽霊だって、いつ後妻を持ったとか、子供ができたぐらいのことは知ってそうなもんじゃあないか」
「ええ、そりゃあ、死んでも気は残っておりますから、この世のことがわからないということではございません。どなたのお世話で後妻をもらい、いつ子供ができたぐらいは存じております」
「そんなにわかっているなら、なぜもっと早く出ない」
「それは、あなた、無理でございます」
「無理? なにが無理なんだ?」
「だって、あなた、わたしが死んだときに、ご親戚はじめみなさんで、わたしを坊主になすったでしょう?」
「そりゃあ、おまえ、葬式の習慣《ならわし》だからね。親戚じゅうの連中が、ひと剃刀《かみそり》ずつ当てて、おまえを棺に納めた」
「それだから、坊主あたまで出たら、愛想をつかされるとおもいまして、毛の伸びるまで待っておりました」
「おい、おまえ、加減はどうだい? 薬を持ってきたよ」
「はい、ありがとう存じます」
「おあがりよ。先生がね、飲みいいように調合したとおっしゃったから……ああ、それから、口直しも枕もとにあるからね……もう少しさすろうか?」
「いいえ、もったいない」
「なにも、もったいないなんて言うことはない。なんでも遠慮なくお言い。そんなに遠慮をすると、病気にさわるよ。それよりは、薬をどんどん飲んで、一日も早くよくなっておくれよ」
「恐れ入ります。あとでいただきます」
「あとでと言わずに、わたしの見ている前でおあがり……いいえ、いけない。わたしが見ていないと、飲んだふりをして捨ててしまうじゃあないか。薬を飲まなくては治らないよ」
「わたしは、お薬をいただいてもむだでございますから……」
「おまえそんな、自棄《やけ》なことを言っちゃいけないよ。病人が薬を飲んでむだてえことはないよ。病《やまい》は気からというんだから、気持ちをしっかり持って、岩へかじりついても治ろうという気にならなくちゃあいけない。おまえは若いんだから、その気になりさえすりゃあ……」
「そんなことをおっしゃっても、わたしは存じております」
「存じてる? なにを?」
「あなた隠していらっしゃいます」
「おまえになにを隠したんだ。どんなことでも相談をするでしょう、なにごとによらず。食べるものだって、一つきゃあないものは、二人で半分ずつ仲よく食べる。半分のものは四半分ずつ食べて、無いものは食わないが……なんでもおまえに打ち明けているじゃあないか」
「このあいだ、お医者さまがお帰りになると、あなたを屏風《びようぶ》の陰へ呼んで、なにかひそひそ話をなすっていらっしゃいました。わたしが寝たふりをして耳をすましておりますと、『この病人はもう、とても見込みがないが、ほかに医者がいるならば見せてもよろしいが、薬だけは置いて帰る』と、おっしゃいましたが、あの先生で、もう六人目、あれだけたくさんのお医者さまに見はなされるようでは、しょせん助からない命とおもいます。でございますから、一日も早くあなたのご苦労を除き、わたしも早く楽になりたいとおもっておりますが、ただ一つ気にかかって臨終できないことがございます」
「そんな、なんという、死ぬなんて縁起でもないことを言うもんじゃあないよ。まあ、おまえが聞いてしまったのなら、隠すわけにはいかないが、あれは、病人の耳になるべく入れないほうがいいと言うから、それで黙っていたんだ。しかし、あの方ばかりが医者というわけではないし、ほかにいくらでもいい名医はいるから、どんな手をつくしてでもおまえの病気をかならず治すよ……ところで、なんだ、いまおまえ、気になることを言ったねえ。臨終ができない?……なにかおもうことがあるんだろう。それを話してごらん。おまえの言うことなら、あたしはなんでも、できることならしますから、え? おまえのは、気病みというやつなんだから、それをおっしゃいよ」
「でもきまりが悪いから……」
「冗談言っちゃいけない。夫婦のなかできまりの悪いてえことはない。だれもほかに聞いているものはいないから、さあ、遠慮なく、おっしゃい」
「だめでございますよ」
「そんなことはないよ。なんでもそうお言いよ、かなえてあげるから……」
「じゃあ、ほんとうに?」
「ああ、きっとかなえてあげますよ……だから、その気がかりなことてえのを言いなさい、なんだい?」
「ほかではありませんけれども、気がかりというのは……おほほほ、あなた、お笑いになるから……」
「なにを言ってるんだ。笑ってるのはおまえのほうじゃあないか」
「それでは、おもいきって申します。わたくしがご当家へまいりまして、まだ二年|経《た》つか経たないうちに、この病気でございます」
「うん」
「わたしのようなふつつかな者でも、あなたは、ふだんからかわいがって、やさしくしてくださいます。病気になってからは、片時もはなれず、こうして看病をしていただき、もったいないとおもっております」
「うん、それがどうした?」
「で、わたしにもしものことがございましたとき、あなたもお若いことでございますから、あとへまたお嫁さんをおもらい遊ばして、その方を、わたしのようにこうして大事にしてあげるだろうとおもうと、それが気になって、どうしても死ねません」
「変なことを考えるもんだな。わたしのほうでは、いっこうおもいもよらないことだ。なにを言うかとおもったら、そんなことか? それならば、おまえ、安心なさい。そんなことはけっしてないよ。おまえにもしものことがあった場合には、あたしは後妻《のちぞえ》を持たない、生涯独身で通すから、それならよかろう」
「いいえ、いまはそんなことをおっしゃっていらっしゃいますが、それはだめでございます」
「いくらどんなことがあっても、わたしは後妻を持たないよ」
「あなたがそうおっしゃっても、ご両親やご親戚がかならずおすすめになります」
「いいじゃあないか、いくらすすめても、あたしが嫌《いや》だてえものを無理にてえわけにいかない、大丈夫だよ。おまえが死ねば、あたしは女なんてえものはもう振りむいても見ないから……」
「そんなことをおっしゃっても、半年や一年はともかく、だんだん日が経てば……それでなくとも、なかなかお一人で、ご辛抱のできない方なんですもの……」
「変なことを言っちゃあいけませんよ。じゃあ、こうしようじゃあないか。ま、そんなことはないが、万一おまえにまちがいがあったときに、両親や親戚がいろいろすすめて嫁をとれと言っても、わたしは、どうしても持たないつもりだが、断わりきれなければ、一応承知をする……」
「まあ、ご承知なさるので?」
「まあ、お聞きなさい。おまえがそれほどにあたしのことをおもってくれるんなら、いよいよ婚礼という晩に、幽霊になって出ておいで。いいえ、おそろしいことなんぞあるもんか。わたしは、おまえが出てくれればうれしいくらいなんだから……たいていの嫁なら、それを見てきっと目をまわすよ。目をまわさないまでも、翌《あく》る日は、実家へ逃げて帰る。そういうことが度重なれば、あそこの家には、先妻の幽霊が出るという噂が立って、だれも嫁のきてがなくなる。そうすれば、わたしは生涯ひとり身でいなければならなくなる。だから、もしもまちがいがあったときには、幽霊になっておまえ、出ておいで」
「それでは、わたしが幽霊になって……」
「ああ、ああ、かならず出ておいで。八つの鐘を合図に……」
「あなた、きっとですよ」
夫婦で約束をかわした。それで安心したものとみえて、おかみさんは急に容態が変わって、とうとう亡くなってしまった。
泣く泣く野辺の送りもすませ、初七日を過ぎ、三十五日、四十九日と経ち、まだ百か日も経たないうちに、若い者をいつまでも抜き身で置いてはあぶないから、いい鞘《さや》があったら納めたらよかろうと、そろそろ親戚の者が言い出したが、はじめは、わけあって、わたしは後妻《のちぞえ》はもう持たないと断わったが、そうそうは断わりきれない。そのうち、町内でも、あそこのおかみさんが死んでいい塩梅《あんばい》だ、あたしが後妻に入《はい》ってひと苦労してみたいという、内々|岡惚《おかぼ》れをしていた娘もあって、これならばという話がまとまった。
いよいよ婚礼の当日、三三九度の盃、お床盃もすんで、仲人は宵の口、早くおひらきになって、寝間へ入り、布団の上に座ったが、亭主は寝るどころではない。嫁さんのほうも、ご亭主が寝ないのに、先へ寝るわけにはいかない、もじもじしている。嫁に行った晩というぐらいで、遠慮がある。
「さ、早くおやすみなさい」
「あなた、おやすみに……」
「いや、あたしはあとでいいから、おまえさん早くおやすみ……」
「でも、あなたがおやすみなさらないでは……」
「いま、何刻《なんどき》だ?」
「ただいま四つでございます」
「四つか……九つ、八つと……まだだいぶ間《ま》があるな」
「なんでございます?」
「なに、よろしいから、わたしにかまわずおやすみなさい」
「でも、わたしだけが……」
「いいんだから……何刻だい?」
「ただいま四つ半でございます」
「四つ半? 寝ておくれ、あたしはだめなんだから……」
「なにがだめで……?」
「いや、なんでもいいから……いま何刻だ?」
「あなた、時刻《とき》ばかり聞いていらっしゃいます、ただいま九つでございます」
「九つか……そろそろおいでなさるな」
「なにがまいりますの?」
「いや、まだ来やあしないが、つまらない約束があるから……」
「えっ、なにかお約束を」
「いやべつに……こっちのことだから……いま何刻になる?」
時刻ばかり聞いている。しかし、そうそう起きていては嫁がかわいそうだとおもい、横になって枕についたが、目はぱっちりと開《あ》いている。いまか、いまかと待っているうちに、とうとう夜が明けてしまった。
「とうとう出なかったなあ。約束を忘れたわけじゃああるまいが、もっとも幽霊も十万億土から来るんだから、初日には、間にあわなかったのかもしれない」
では二日目には出るだろうと待ったが、やはり、幽霊は出ない。
「なんだい二晩もすっぽかして、ずいぶんいいかげんだなあ」
いくらなんでも三日目には出るだろうとおもっていたが、三日待っても、七日待ってもとうとう出ない。
「ばかにしている。これじゃあ、うらめしいの、取り殺すのというが、息のあるうちで、死んでみればそんなばかなことはない」
と、亭主は悟って、二度目に来た嫁もまんざらいやで一緒になったわけではないから、しだいに仲もむつまじくなって、間もなく、妊娠をして、月満ちて男の子が生まれた。
その年は過ぎ、翌年も過ぎて三年目、先妻の三回忌の法事をしようと、当日は後妻も、死の跡を承知で来たので、気兼ねすることもなく夫婦で近所へ配り物をして、子供を連れて墓詣りをすませ、昼間の疲れでぐっすり寝こんだが、真夜中に、亭主がひょいと目をさまして、
「おいおい、坊やが這《は》い出してるよ……しょうがないなあ、女も子供ができちゃあ。おやおや、子供のほうがしっかりしてるよ。もぐりこんでいって、おふくろの乳をくわえてる……またすやすやと眠って、まあ……あーあ、きょう墓詣りをして、墓の前で手を合わして拝んでいたときに、妙なことを考えたなあ、この女には聞かされないが、あれがいままで達者でいて、こんな子供ができたらどんなによろこぶことだろう。あの時分には、まだ親父も案じて、ここへ店を出したからといってものになれないで、ずいぶん苦労させた。それで早死にをさせて、よく死ぬ者貧乏というが、おもえばかわいそうなことをした」
と、どこで打ちだすか、八つの鐘が、ボォーン。
枕もとの行灯《あんどん》がぼんやり暗くなると、縁側《えんがわ》の戸を開け放して寝たとみえ、生《なま》ぐさいような風が、すーっと吹きこんでくる。障子へ髪の毛がサラサラサラサラとあたるような音がする。襟《えり》もとから水を浴びせられたように、ぞォッとして、
「おや、今夜はなんだか変だぞ」
腹ばいになって、煙管《きせる》の雁首を枕屏風のふちへかけてずっと引き寄せてみると、先妻の幽霊が、緑の黒髪をおどろ[#「おどろ」に傍点]に乱して、さもうらめしそうに、枕もとへぴたっと座って……、
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……きょうの法事の礼になんぞ来るにはおよばない。なんだっていま時分出てきたんだ……幽霊のもの堅いのは困るよ。早く引っこんどくれ。南無阿弥陀仏……」
「(手を七三に構えて)あなたはまあ、うらめしいお方です。わたしが死んでまだ百か日経たないうちに、こんなにうつくしい後妻をお持ちになって、赤さんまでもこしらえて、仲よくお暮らしなさるとは……それではあなたお約束がちがいます」
「おいおい、おかしな言いがかりをつけちゃあいけないよ、おまえは、生きていたころは、たいへんもののわかった女だったが、死んでしまうと、そうもものわかりが悪くなるのかねえ。なるほど、そりゃあ、おまえの言うとおり約束はしたよ。約束はしたけれども、ほどなく親戚からすすめられ、どうにも断わりきれないので、この女を後妻に持つということにしたんだ。ところが、おまえが婚礼の晩に出るてえから待っていたが、出やあしないじゃないか。十万億土という遠いところじゃ、初日は間にあわないだろう、じゃあ、二日目は出るか、三日目はと、あたしゃ、蝙蝠《こうもり》じゃあないが、昼間寝ちゃあ夜起きて待っていたんだ。それで、いく日経っても出てこないで、おまえ、それがいま時分、子供までできたあとで、いきなり出てきて、そういう恨みを言われては困るじゃあないか。気のきいた化け物は引っこむ時分だ。なにしてんだ、いくら幽霊だって、いつ後妻を持ったとか、子供ができたぐらいのことは知ってそうなもんじゃあないか」
「ええ、そりゃあ、死んでも気は残っておりますから、この世のことがわからないということではございません。どなたのお世話で後妻をもらい、いつ子供ができたぐらいは存じております」
「そんなにわかっているなら、なぜもっと早く出ない」
「それは、あなた、無理でございます」
「無理? なにが無理なんだ?」
「だって、あなた、わたしが死んだときに、ご親戚はじめみなさんで、わたしを坊主になすったでしょう?」
「そりゃあ、おまえ、葬式の習慣《ならわし》だからね。親戚じゅうの連中が、ひと剃刀《かみそり》ずつ当てて、おまえを棺に納めた」
「それだから、坊主あたまで出たら、愛想をつかされるとおもいまして、毛の伸びるまで待っておりました」