唐茄子屋《とうなすや》
「おっとっと、待ちな、おい、待ちな」
「死ななければならんものでございます。どうかお見逃しなすって……」
「これさ待ちなったら、待ちな、おい、欄干から手をはなさねえか」
「どうぞ、助けるとおもっておはなしください」
「なにを言いやがるんだ、助けたり殺したり、そんな器用なことができるかい、ばかっ」
「痛いっ、痛いじゃございませんか。怪我《けが》でもしたらどうなさる」
「ばかなことを言え、怪我ぐらいですめば結構だ、死んでしまったらどうする、まあ待ちね……やっ、てめえは徳じゃねえか」
「おや、おじさんでございますか」
「なんだ、おめえか、おめえなら助けるんじゃねえんだ。身を投げねえ、まあ死んじまえ」
「助けてください」
「なにを言いやがるんだい、いま死ぬ、死ぬと言いやがったじゃねえか」
「もう三日間もなんにも食べない、きょう一日こうやってれば、じりじり死んじまいます。そのくらいならひとおもいに死んじまおうとおもったんですが、ほんとうは死にたくないので助けてください」
「袖につかまるんじゃねえ、目がさめたか」
「へえ、面目次第もございません」
「なんだ、だらしがねえ……親類じゅう寄ってたかって意見したときなんと言った。たいそうな啖呵《たんか》を切って出て行ったな。米のめしとお天道様はついてまわりますと言った。どうだ、ついてまわったか?」
「へえ、お天道様はついてまわりますが、米のめしははなれました」
「あたりめえだ。おめえみたいな怠け者にだれが米のめしがつくもんか、男のくせに、だらしのねえやつだ……親のありがたいのがわかったか。うん? 貴様のようなきいたふうなやつはない。親父のすねをかじってる時分には、生意気なことも言ってられるが、親の手をはなれてしまえば、だれもかまやあしない。果ては身でも投げて死ぬようなことになる。あきれかえったやつだ、後悔したか」
「へえ」
「そうか、じゃ助けてはやろう、助けてはやるが、しかし徳、いまおれがここを通らなけりゃあ、貴様はこの橋から飛びこんで死んじまったんだ」
「へえ」
「そうすりゃあ貴様は土左衛門と名前が変わるんだ、それをおれが助けてやる代わりにゃあ石町《こくちよう》の山崎屋の若旦那じゃあ置かねえよ、いいか」
「へえ」
「してみれば、いままでのような意気地なしじゃ世間は渡れねえ、いいか。世の中の人というものはな、金のあるうちはちやほやするが、金がなくなればそっぽをむく、それが人情だ、だが、人のすることはどうでもかまわねえ、これからはほんとうに死んだ気になって、了見を入れかえるならば、世話もしてやるが、それができるか」
「へえ、おじさんのおっしゃることなら、どんなことでもいたします、へえ、どうか、助けてください、お願いします」
「よし、まあまあいい、おれといっしょに来ねえ」
「婆さん、いま帰った」
「おや、お爺さん、お帰りかい。たいへんおそかったじゃないかい、どっかへまわってたのかい?」
「うん、吾妻橋のところまでくると、拾いものをしちゃったんだ」
「おや、なにを拾ったんだい?」
「人間一匹拾っちまった」
「おや、だれが落っことしたんだろう?」
「だれも落っことすもんか。どうしようもねえ人間を拾っちまったんだ」
「人間を……おやまあ、女か男かえ」
「まあ見たところは男だが、了見は女の腐ったような野郎で、役に立つやつじゃねえよ」
「せっかく助けてやったのに、そんな悪く言うもんじゃないよ」
「悪く言ったっていいんだよ、おめえの知ってるやつだよ……おい、こっちへ入《へえ》れ。おばさんにあいさつしろい」
「おばさん、どうも、ごぶさたをいたしまして……」
「おやまあ、徳じゃあないか。どうしたんだね。おまえは? おまえ、おとっつぁんがああいう堅い人で、おまえを勘当したというが、それっきり姿を見せず、あたしも陰でどれほど心配していたか……あきれましたね」
「なにを言ってやがんでえ、婆さん、おめえはいまごろあきれてんのか。よけいなことを言うなよ。おめえは、それがいけねえんだ。さあ、まあ、いいや、話は明日にして、徳は、腹がへってるんだ。三日も食わずに歩いてたんだから、早くめしを食わしてやんな」
「あいよ。なにもおかずがないんだが、鰻《うなぎ》でもとってやろうか」
「なにをばかなこと言ってるんだ。こんなやつに、鰻なんぞ食わせることがあるもんか。こいつぁな、吾妻橋から身を投げて、鰻に食われようとしたやつなんだ。土左衛門が鰻を食うか。沢庵《たくあん》のしっぽでも切ってやれ。腹のへったときにまずいものなし、てんだ。さあさあ、早く向こうへ行ってめしを食え」
「へえ、ありがとうございます」
「おめえ、お鉢をあてがってなあ、お給仕なんぞするこたあねえ。うっちゃっておけ、うっちゃっておけ」
「……どうもごちそうさまでした」
「食ったのか……いやあ、いくら腹がへっているたあ言いながら、よく食やがったな。……この野郎なんだい、いままで死ぬの、生きるのと情けねえこと言いやがって、ははあ、腹の皮が突っぱりゃア、安心して、こんどは目の皮がたるんで、こっくり、こっくり居眠りをしやがって……よしよし、眠かったら、早く二階へ上がって寝ろ、布団のあるところはわかるだろう」
「へえ」
「あしたの朝早えんだ、いいか?」
「じゃあ、おやすみなさいまし」
「……おい、お婆さんちょっと来な、おまえは子供に甘くていけない。あいつをここで嬌《た》め直さなきゃあ、人間を直すときゃあねえんだから、余計な、いたわったりなんかすると、かえって当人のためにならねえから、おれのすることァけっして口出しをしちゃあならねえ、いいか」
「あいよ」
翌朝になると、おじさんは早起きして、どこかへ出かけて行き、若いものに、天秤《てんびん》に唐茄子《とうなす》を籠いっぱい担がせて帰ってきた。
「お婆さん、いま、帰った」
「お帰りかい」
「暑いな、片陰《かたかげ》のうちとおもったんだが、汗びっしょりになっちゃった。お婆さん、冷《つめ》てえ水をくれないか、体をふくんだから、どうした、徳は起きてるのか」
「まあくたびれたとみえてよく寝てますよ」
「なんだ、よく寝てるって、よろこんでるやつがあるか、赤ん坊じゃあねえんだ。今日からは働かせるんだ。もう起こさなくちゃいけねえ……おい、徳や、徳、起きろゥ、起きるんだ。早く起きてこいッ」
「へっ、ただいま……へ、お早うございます」
「なに言ってんだ。ちっとも早くなんぞあるもんか。おれはもう買い出しから帰《けえ》ってきてるじゃねえか。他人《ひと》のうちへ厄介になって、起こされなきゃあ起きねえようなこっちゃしょうがねえ。なにをまごまごしてるんだ。早く顔を洗っちまえ。なにをぐずぐずしてるんだ。そんなところで顔を洗うんじゃねえよ。手桶をもったら井戸端へ行くんだ。面《つら》を洗ったら手桶へ新しい水を一杯汲みこんでもってくるんだ。居候《いそうろう》になれないやつはしょうがないよ、おれなんか自慢じゃねえが、若《わけ》えうちに居候しても、あしたからはほかへ移って行くと言ったら、もう少しうちにいてくれと頼まれたもんでえ、そのくらい気を利かさなきゃあ居候はだめだ。なにをくるくるまわってるんだ」
「あのう、おばさん、楊子《ようじ》がございませんが……」
「楊子? どうするんだ?」
「いえ、楊子で歯をみがくんで……」
「この野郎まだ寝ぼけてやがる。ばか野郎、そこに笊《ざる》が吊《つ》るしてある。そのなかに塩が入《へえ》ってるから、そいつをひとつまみつまんで、指へつけてぐいぐいとやりゃあ、それでいいんだ」
「へえ、うちの小僧がよくそういうことをしていました」
「なにを言やあがる。小僧でなくったってそれで十分だ。『親の臑《すね》かじる息子の歯の白さ』という川柳がある。まったくだ。てめえは土左衛門だ。吾妻橋の上から飛びこんで、もういったん死んじまったんじゃあねえか」
「へえ、わかりました。わかりました」
「……ああ、顔を洗ったか。おい、婆さん、めしを食わしてやんな、それから支度してくんな。あのう、婆さん、なにか着るものを出してやんな。え?印半纏《しるしばんてん》? ああ、なんでもいいや。それからな、股引があったな。どんなんだってかまやぁしねえや」
「あの、膝《ひざ》が抜けてますよ」
「そのほうが風通しがよくっていいや。あとは足袋《たび》だが、古いやつがあるかい?」
「ありますよ、白足袋と紺足袋と片っぽずつ……」
「まあいいや、色どりがよくって、そいつを出しといてやんな。それから、紐《ひも》のついた財布があったな、あれを出して……それから草鞋《わらじ》と、おれが大山詣りに行ったときの笠があったな。浅いのと深いのと。そうだなあ、浅《あせ》えほうがいいだろう。……それだ、それだ。うん、青っ葉を二、三枚入れといてやんなよ。炎天歩いて、暑さにやられるといけねえからな。あ、それから、弁当を詰めて、おかずなんざぁ入れなくてもいい。弁当が腐るといけねえから、なかへ梅干を入れりゃあいい……さあ、徳や、めしはすんだか?」
「いただきました」
「じゃこっちへ来な、いいか、そのぞろぞろした着物は脱いで、その印半纏を着るんだ。そんな帯はとってしまえ、猫のしゃくひろ[#「しゃくひろ」に傍点]みてえじゃねえか、おれの算盤《そろばん》玉の三尺があるだろう、それを締めるんだ。なんだ、気取って尻のほうへ締めてやがら。それからその財布は、紐を首に掛けて、そこに出ている草鞋を履け」
「へえ、どこかへ旅に行くんで?」
「旅をするんじゃあねえ、今日から商《あきな》いをするんだ。おめえに売らせようとおもって、いま唐茄子を仕入れておいたんだ」
「えっ、唐茄子を?」
「そうだ、あれを担いで売って歩くんだ」
「えっ、あの荷を担いで……おじさん、それはよしてください、勘弁してくださいよ。……どうせ売るんなら、もっと気のきいたものを売らしてくださいな。外聞が悪いじゃありませんか、いい若いものが……」
「じゃあ、いやだってえのかッ、いやならよせ。おれが頼んでやってもらうんじゃねえ、よせ、そのかわり、いま着たものを脱いで、もとの着物を着て、とっとと出ていけッ、吾妻橋からでもどっからでも飛びこんじまえッ」
「おじさん、やります、やりますから、勘弁してください」
「この野郎、まだ目がさめねえのか。唐茄子売るのは外聞が悪《わり》いたあ、なんてえことをぬかしゃがるんだ。肩へ天秤あてて、汗水たらして売り歩くのが、どこが外聞が悪《わり》いんだ。りっぱな商人《あきんど》じゃあねえか。ばかッ、貴様こそ、昨夜《ゆうべ》吾妻橋から身を投げようとしたんじゃあねえか。そのほうがよっぽど外聞が悪《わり》いや。てめえは死んだ気になって、なんでもすると言ったじゃあねえか。てめえに唐茄子売らして、なにもおれが、いくらもうけをしようとか、楽をしようてえんじゃねえや。おめえのために売らしてやるんだ、いいかい。おめえがその姿で、唐茄子を売って歩くてめえの姿が世間の人の目にとまって、どっかからか、きっとおめえの親父の耳に入る。そうすりゃあ、あ、徳も、そんな了見になったのかと、我《が》の折れたところを抱きこんで、詫びをいれてやろうてえもんだ。ひとの心も知りゃあがらねえで……なにも永代《えいたい》唐茄子屋をするんじゃあねえや。よしんばまた、するにしても、おらあ、おめえの親父みてえなわからねえこたあ言わねえ。遊ぶのもいい……てめえで稼いで、てめえで遣《つか》え。てめえのように、親の銭を盗み出して遣おうなんて、そんなしみったれた了見だから親父に文句言われるんだ。自分の腕からもみ出して、おじさん、今日はこれだけ稼ぎました、遊んでまいります、と言やぁ、りっぱに遊びに出してやる、どうもこれじゃあ金が足りませんから、おじさん、今日は足してくださいまし、いいとも。たまには、一人で遊びに行くのもさびしいから、おじさんつき合ってくれませんか、ううん、いいとも、ひと晩やふた晩なら、おれァまたつき合ってやる」
「おじさんはほんとうに苦労していらっしゃいますから、そういうわかったことを言ってくださいますから、ありがたいとおもうんですが、うちの親父は、ただ頑固一点ばりで、遊びだの、遣えということは、これっぽっちも言いません」
「あたりめえだよ、親が伜《せがれ》にそんなことを言うやつがあるか」
「いいえ、ほめるわけじゃありませんが、花魁《おいらん》がよく言うんです。『こんなに遊んで若旦那、お宅の首尾は悪くァないの』って言いますから、『また、しくじったら、本所の達磨《だるま》横町のおじさんに詫びをしてもらえばいい、おじさんは親戚じゅうで、若いうちにずいぶん道楽もした人だけあって、粋なおじさんだ』って、そう言いましたら、『そういう人にあたしいっぺん会いたいわ』と言うんですよ。『じゃあこんどいっしょにおじさんも連れてこよう』って、それっきりになっているんですが……今晩いっしょに行ってくれますか?」
「ばか野郎っ、てめえと今晩、女郎買いに行ってみろ、こんどはおれのほうが、うちの婆さんに追い出されちまわ。ひとが、ちょいと白い歯をみせりゃあ、すぐにそれだ。それは稼いだあとの話だよ」
「おやおや」
「なにがおやおやだ……唐茄子を売るんだ、唐茄子を……早く支度をしろ。いいか、担いでみろ、土間へ下りて。で、売るのは表通りはいけねえ、裏通りを売って歩くんだ。いくらでもいいからみんな売って来い、おめえだって商人《あきんど》の伜だ。元はわかってるだろう、いくらかでも上見て売れよ。いくらか残ってもさ、元は上がったとおもったらタダでもいいから置いてこい。それから弁当は、茶店に入って食えば、いくらかでも茶代を置かなくちゃあならねえ。だからな、商いをした家の台所かなんかで、水でも湯でももらって、そこで使うんだぞ……さあ、肩を天秤にあてて、荷を担いでみな、荷を……」
「へえ……」
「へえじゃあねえ、担ぐんだよ」
「まだ、担いだことがございません」
「担いだことがねえったって、生きてるんじゃあねえか。意気地のねえやつだな……天秤は、肩で担ぐんじゃあねえ。腰で担ぐんだ。……あれっ、腰へ天秤をあててやがる。天秤を腰にあててどうなるものか。不器用な男だなあ。どきな、どきな、おれがやって見せてやる。こうやって天秤を肩に担いだら、こうやって腰を切るんだ。腰を切って、ううん……笑ってやがらあ、おれだって、年をとってらあ、そう短兵急に行くか、見な、じわりじわり上がるんだ。どうだ……うしろだけ上がったろう?」
「うしろは、おばさんが持ちあげてるんで……」
「ばばあ、余計なことをするな。うーん、よせ、しかたがねえ、二つ三つ下ろせ。ああ、年はとりたくねえな、二、三年前までは、こんなものはなんでもなかったが、どうもいけねえ。……うん、もうそのくらいでいいだろう。さ、担いでみろ。うめえ、うめえ。そうだ、そうだ。横っぷりをするとひと足も歩けないよ、天秤がしなうようにいったら、その調子で歩けるもんさ。そのまんま……すぐに、婆さん、手桶をどかしてやんな、どぶ板を踏むと向こうがぽォーんと上がるよ、よけて歩けよ。……あ、ちょっと、おかみさん、その張物板をこっちへどかしてやってくれ、ぶっ倒すといけねえから、おいおい、納豆屋さん、いま、入《へえ》ってきちゃいけねえ、いま、野郎が出ていくから。……大丈夫かい、怪我《けが》するなよ。ほらほら、もう少し右へ寄れ、右へ……あーあ、どうもあぶなっかしいなあ、しっかり売ってこいよ」
「へいっ」
若旦那、身から出た銹《さび》とはいえ、箸《はし》より重いものを持ったことのない人、重い荷を我慢して担ぎ出したが、路地の出口のところで看板に頭をぶっつけ、笠があみだ[#「あみだ」に傍点]になってしまったが、これを自分で直すこともできない。そのまんまの格好で、ひょろひょろひょろひょろ……本所の達磨横町を出て、吾妻橋を渡って、浅草の広小路へ来た時分には、もうま昼の、カンカン照り、汗はだらだら出る、肩は腫《は》れあがり、暑さは暑し、目はぐらぐらくらんでくる……そのうちにつるッと、足がすべった、腰が浮いてるから、とっとっとっとっ、のめってくる、往来へ唐茄子をほうり出して、どたりっと倒れこんだ。
「うー、痛てっ。……人殺しッ」
「おやっ、たいへんだ、人殺し?」
「へえ……」
「おっ、どうかしたのか、どうした?」
「人殺しッ……あれでございます」
「あれ? あれは唐茄子じゃあないか……ああ、荷をおっ放《ぽ》り出しちまったなあ。おめえ、新米だな。うーん、こりゃあ、おまえさんにゃあ、ちょいと無理だ。え? はじめてかい? そうだろうなあ。かわいそうに、いいところの息子だな……それにちげえねえ。道楽かなんかして、こらしめ[#「こらしめ」に傍点]のために、こんなものを売らされてるんだろう。しかたがねえ。若《わけ》えうちはありがちのことだ。あーあ、肩ァこんなに腫れあがっちゃって、よしよし、じゃあ、荷が軽くなるように、おれが買ってやる、いくらだい?」
「へえ、ありがとうございます。どうか、タダでよろしゅうございますから、みんな持ってってください」
「冗談言っちゃあいけねえ。タダってわけにはいかねえや。じゃあ、唐茄子の値段なんて、まあ、こんなもんだろう。これでいいかい、銭は? 遠慮せずにいいなよ。足りなきゃあ出すから……おあしはここへ置くよ。じゃ三つもらうよ」
「へえ、ありがとうございます」
「おれはこの町内で顔が広いんだ。いまね、ここへ知ってるやつが通ったら、売りつけてやるから、待ってろよ……おい、金ちゃん」
「なんだい?」
「ちょいと頼みてえことがあるんだ」
「なんだい、頼みてえなあ?」
「唐茄子買っとくれよ」
「おめえ、八百屋はじめたのか?」
「おれじゃねえんだよ、この若《わけ》えのがよ。はじめて唐茄子売るんだとよ。道楽のせいってやつさ。若え時分にゃあ、よくあるやつだ。お互いにばかをしたおぼえがあるじゃねえか。銭はいくらでもいいんだ。荷が軽くなるように。……そうか、二つ買ってくれる? そいつぁ、ありがてえ。じゃあ、銭をここへ置いてってくれ……お竹さん、唐茄子買っとくれよ、なに? きのう買ったっていいじゃないか。おめえんとこは子供が大勢いるんだ。唐茄子の安倍川にして食わしてやんな、子供がよろこぶからさ。いくらでもいいからどっさり持って行ってやっとくれよ。銭の足《た》らねえところはおれがあとで足してやるからさ。そうかい、五つも? ありがとうよ……すまねえ、すまねえ……おう、半ちゃん」
「おッ?」
「ちょっと、唐茄子一つ買ってやってくれ」
「おら、唐茄子|嫌《きれ》えだよ」
「おっそろしくはっきり断わりゃがったな、嫌えだろうけれども買ってってやってくんねえか、この若い人が気の毒なんだ」
「やだよ、ばかにするない。いい若《わけ》えもんが、日中《ひなか》、唐茄子なんぞ持って歩けやしねえや」
「そんなこと言わないで、せっかく頼んでいるんじゃあねえか、おれがよ。義理にでも一つぐれえ買っていけよ」
「おりゃ、唐茄子に義理なんぞねえや……おらあ、唐茄子|大嫌《でえきれ》えなんだから……」
「ふーん、嫌えか?」
「ああ、嫌えだ」
「この野郎、よくてめえ、そんなことが言えたもんだなあ、三年前、おれのところの二階に居候したことを忘れたか?」
「おいおい、なにも三年前のことを……」
「言ったっていいじゃあねえか……うちのかかあが唐茄子を煮たときに『半さん、どう? ご宗旨ちがいだけども、食べる?』って言ったら、てめえ、二階から駆け降りてきて、『うめえ、うめえッ』って、安倍川を三十八切れくらったろ、よだれたらして……」
「いいよ、わかった、わかった。買うよ、買うよ」
「こん畜生っ、とっとと買ってけッ」
「ふん、まぬけな唐茄子屋じゃあねえか。てめえが、こんなところにぶっ倒れているから、三年前の居候のときのことまで言われちまったじゃあねえか。ほらっ、銭はやるよ。唐茄子はいらねえや」
「おうおう、なんでえ。この人はな、銭がほしくってやってんじゃねえんだぞ。荷が軽くなるように、一つでも買ってやってくれってんだ。銭だけ置くやつがあるか。持ってけッ」
「持ってくよ、持ってきゃいいんだろう」
「あれっ、この野郎、いざ持ってくとなったら、大きいのを選《よ》ってやがらあ……おまけに三つも抱えやがって、この泥棒は……ざまあみやがれっ……さ、銭はこれだけ集まった。大丈夫かい? 財布に入れてな、盗られなさんなよ、いいかい、もう二つ残ってるが……」
「へえ、二つぐらい担げます」
「あたりまえだ。このくれえならもういいだろう。よくわけを話して、もう、家へ帰《けえ》んな」
「へ、ありがとうございます。おかげで助かりました。へえ、どちらのお方さまでございましょう、お名前をどうぞうかがいとうございます」
「冗談じゃあねえやな。唐茄子を買ったぐらいで、なにも名前を名乗るほどのこたあねえやな。おらあ、この町内のもんだ。こっちへ来たときにゃあ、また買ってやるからな」
「へえ、ありがとうございます。これをご縁に、あしたのいま時分も、ここに倒れてます」
「そう毎日倒れちゃあいけねえや……気をつけて行きなよ」
「へえ、ありがとうございます……ああ、渡る世間に鬼はないてえことをいうが、いい気っぷだなあ、あの人は……ほんとうの江戸っ子だあ、お友だちと喧嘩《けんか》してまで売ってくださった。ありがてえなあ。もう二っつしきゃあ残ってない。残して帰るより、二つくらい自分で売りたいな、みんな売って帰りゃあ、おじさんもよろこんでくれるだろう……でも、黙って歩いていたんじゃあ、売れやしねえや。なんとか言わなくっちゃあいけねえんだ……唐茄子……唐茄子……売り声てえものは、むずかしいな」
「(売り声)ところてんやァ……てんや……」
「うまいもんだ。『ところてんやァ、てんやァ』ってやがる。ああいう声を出さなきゃ売れねえんだな。慣れだねえ……唐茄……唐茄子や……あ、や[#「や」に傍点]をつけるといいんだなあ。唐茄子や唐茄子……唐茄子や唐茄子……うん、これならいいや……唐茄子や唐茄子……なんだい、子供が大勢ついてきやがった、なにがおもしろいんだい。見世物じゃあねえんだから、あっちへおいで。……唐茄子や唐茄子……唐茄子やッ」
「うわッ、びっくりした。おい、よせやい、いきなり大きな声出しゃあがって……」
「どうもすみません……すぐに人が来るなあ。どうも人がぎょろぎょろ見てしょうがないから、どこかあまり人の通らないところへ行って稽古しよう。……エエ、唐茄子や唐茄子……はあ、さびしいとおもったら田んぼへ出ちゃった、ここは吉原田んぼだ。は、はあ、向こうに見えるのは、吉原だなあ。『菜の花や、むこうに廓《ちよう》の屋根が見え』花魁《おいらん》はさぞ案じているだろうなあ。あれっきり行かねえんだから。ことしの正月まで、あの二階の部屋で、芸者、幇間に取り巻かれて、『あら、若旦那、よくってよ』なんか言われたのが、こんな身装《なり》をして唐茄子売りになっちゃった。『玉の輿《こし》、乗りそこのうてもくよくよするな、まさか味噌こしゃさげさせぬ』って都々逸を唄ったが……味噌こしじゃねえ、こんな大きな籠を担いじゃって……碁石の足袋を履いちゃって、情けねえ姿になっちゃったな。忘れもしない正月の、三日の日だったな、ちらちら粉雪が降り出した日だ。帰ろうとおもうと花魁が出てきて、『若旦那、七草まで流して行くと言ったじゃないの』『急に帰りたくなったから帰るんだよ』『お正月から縁起でもない、ふた言目には帰る、帰る、と言って、そんなにいやなら帰りゃがれ』『帰らなくってよ』ぷうい、と飛び出すと、隣の部屋の花山《かざん》という女だ、粋な女だった。年増《としま》だったけど『あら、若旦那、いいかげんにしておくれよ、また痴話喧嘩かい、隣には独りものがいるんだよ、あたしが仲人《ちゆうにん》になるから、仲直りをしとくれよ』『おめえが仲人になるんなら仲直りしようか』『じゃあ、うちへ来ておくんな』自分の部屋へ連れてきゃがって、『なにか取ろうじゃないか』『寄せ鍋?』『あら、寒いからうれしいわね』『若旦那、シラタキが舌の先で結べたわよ』チュウチュウチュウなんて、鼠《ねずみ》泣きをしやがった。『一杯、飲みなよ』あんまりお酒の飲めない女だったな、猪口《ちよこ》に二、三杯飲むと、真っ赤になって、『あら若旦那、あたし酔ったわ』『おれも酔ったよ、三味線持ってこいよ』『ああら、なにか聴かしてくれるの、うれしいわね、なにを聴かしてくれるの』『小簾《こす》の戸《と》を唄《や》ろうか』『あら上方唄、まあいいこと、ぜひ聴かしてくださいまし』三味線に合わせて※[#歌記号、unicode303d]浮草や……と唄い出して、※[#歌記号、unicode303d]癪《しやく》にうれしき男の力、じっと手に手を、なんにも言わず、二人して吊《つ》る蚊帳の紐《ひも》……までくると、花魁がおれの顔を、孔《あな》のあくほどじいッと見ていたが、くわえていた黒もじ[#「黒もじ」に傍点]をばりっと奥歯でかみつぶして『若旦那、ほんとうに粋ねえ、わちきは命も要《い》りませんわ』……えへっ、花魁がおれの頬っぺたに食いつきゃがった……えへん、エェー、唐茄子や唐茄子……」
「おや、お爺さん、お帰りかい。たいへんおそかったじゃないかい、どっかへまわってたのかい?」
「うん、吾妻橋のところまでくると、拾いものをしちゃったんだ」
「おや、なにを拾ったんだい?」
「人間一匹拾っちまった」
「おや、だれが落っことしたんだろう?」
「だれも落っことすもんか。どうしようもねえ人間を拾っちまったんだ」
「人間を……おやまあ、女か男かえ」
「まあ見たところは男だが、了見は女の腐ったような野郎で、役に立つやつじゃねえよ」
「せっかく助けてやったのに、そんな悪く言うもんじゃないよ」
「悪く言ったっていいんだよ、おめえの知ってるやつだよ……おい、こっちへ入《へえ》れ。おばさんにあいさつしろい」
「おばさん、どうも、ごぶさたをいたしまして……」
「おやまあ、徳じゃあないか。どうしたんだね。おまえは? おまえ、おとっつぁんがああいう堅い人で、おまえを勘当したというが、それっきり姿を見せず、あたしも陰でどれほど心配していたか……あきれましたね」
「なにを言ってやがんでえ、婆さん、おめえはいまごろあきれてんのか。よけいなことを言うなよ。おめえは、それがいけねえんだ。さあ、まあ、いいや、話は明日にして、徳は、腹がへってるんだ。三日も食わずに歩いてたんだから、早くめしを食わしてやんな」
「あいよ。なにもおかずがないんだが、鰻《うなぎ》でもとってやろうか」
「なにをばかなこと言ってるんだ。こんなやつに、鰻なんぞ食わせることがあるもんか。こいつぁな、吾妻橋から身を投げて、鰻に食われようとしたやつなんだ。土左衛門が鰻を食うか。沢庵《たくあん》のしっぽでも切ってやれ。腹のへったときにまずいものなし、てんだ。さあさあ、早く向こうへ行ってめしを食え」
「へえ、ありがとうございます」
「おめえ、お鉢をあてがってなあ、お給仕なんぞするこたあねえ。うっちゃっておけ、うっちゃっておけ」
「……どうもごちそうさまでした」
「食ったのか……いやあ、いくら腹がへっているたあ言いながら、よく食やがったな。……この野郎なんだい、いままで死ぬの、生きるのと情けねえこと言いやがって、ははあ、腹の皮が突っぱりゃア、安心して、こんどは目の皮がたるんで、こっくり、こっくり居眠りをしやがって……よしよし、眠かったら、早く二階へ上がって寝ろ、布団のあるところはわかるだろう」
「へえ」
「あしたの朝早えんだ、いいか?」
「じゃあ、おやすみなさいまし」
「……おい、お婆さんちょっと来な、おまえは子供に甘くていけない。あいつをここで嬌《た》め直さなきゃあ、人間を直すときゃあねえんだから、余計な、いたわったりなんかすると、かえって当人のためにならねえから、おれのすることァけっして口出しをしちゃあならねえ、いいか」
「あいよ」
翌朝になると、おじさんは早起きして、どこかへ出かけて行き、若いものに、天秤《てんびん》に唐茄子《とうなす》を籠いっぱい担がせて帰ってきた。
「お婆さん、いま、帰った」
「お帰りかい」
「暑いな、片陰《かたかげ》のうちとおもったんだが、汗びっしょりになっちゃった。お婆さん、冷《つめ》てえ水をくれないか、体をふくんだから、どうした、徳は起きてるのか」
「まあくたびれたとみえてよく寝てますよ」
「なんだ、よく寝てるって、よろこんでるやつがあるか、赤ん坊じゃあねえんだ。今日からは働かせるんだ。もう起こさなくちゃいけねえ……おい、徳や、徳、起きろゥ、起きるんだ。早く起きてこいッ」
「へっ、ただいま……へ、お早うございます」
「なに言ってんだ。ちっとも早くなんぞあるもんか。おれはもう買い出しから帰《けえ》ってきてるじゃねえか。他人《ひと》のうちへ厄介になって、起こされなきゃあ起きねえようなこっちゃしょうがねえ。なにをまごまごしてるんだ。早く顔を洗っちまえ。なにをぐずぐずしてるんだ。そんなところで顔を洗うんじゃねえよ。手桶をもったら井戸端へ行くんだ。面《つら》を洗ったら手桶へ新しい水を一杯汲みこんでもってくるんだ。居候《いそうろう》になれないやつはしょうがないよ、おれなんか自慢じゃねえが、若《わけ》えうちに居候しても、あしたからはほかへ移って行くと言ったら、もう少しうちにいてくれと頼まれたもんでえ、そのくらい気を利かさなきゃあ居候はだめだ。なにをくるくるまわってるんだ」
「あのう、おばさん、楊子《ようじ》がございませんが……」
「楊子? どうするんだ?」
「いえ、楊子で歯をみがくんで……」
「この野郎まだ寝ぼけてやがる。ばか野郎、そこに笊《ざる》が吊《つ》るしてある。そのなかに塩が入《へえ》ってるから、そいつをひとつまみつまんで、指へつけてぐいぐいとやりゃあ、それでいいんだ」
「へえ、うちの小僧がよくそういうことをしていました」
「なにを言やあがる。小僧でなくったってそれで十分だ。『親の臑《すね》かじる息子の歯の白さ』という川柳がある。まったくだ。てめえは土左衛門だ。吾妻橋の上から飛びこんで、もういったん死んじまったんじゃあねえか」
「へえ、わかりました。わかりました」
「……ああ、顔を洗ったか。おい、婆さん、めしを食わしてやんな、それから支度してくんな。あのう、婆さん、なにか着るものを出してやんな。え?印半纏《しるしばんてん》? ああ、なんでもいいや。それからな、股引があったな。どんなんだってかまやぁしねえや」
「あの、膝《ひざ》が抜けてますよ」
「そのほうが風通しがよくっていいや。あとは足袋《たび》だが、古いやつがあるかい?」
「ありますよ、白足袋と紺足袋と片っぽずつ……」
「まあいいや、色どりがよくって、そいつを出しといてやんな。それから、紐《ひも》のついた財布があったな、あれを出して……それから草鞋《わらじ》と、おれが大山詣りに行ったときの笠があったな。浅いのと深いのと。そうだなあ、浅《あせ》えほうがいいだろう。……それだ、それだ。うん、青っ葉を二、三枚入れといてやんなよ。炎天歩いて、暑さにやられるといけねえからな。あ、それから、弁当を詰めて、おかずなんざぁ入れなくてもいい。弁当が腐るといけねえから、なかへ梅干を入れりゃあいい……さあ、徳や、めしはすんだか?」
「いただきました」
「じゃこっちへ来な、いいか、そのぞろぞろした着物は脱いで、その印半纏を着るんだ。そんな帯はとってしまえ、猫のしゃくひろ[#「しゃくひろ」に傍点]みてえじゃねえか、おれの算盤《そろばん》玉の三尺があるだろう、それを締めるんだ。なんだ、気取って尻のほうへ締めてやがら。それからその財布は、紐を首に掛けて、そこに出ている草鞋を履け」
「へえ、どこかへ旅に行くんで?」
「旅をするんじゃあねえ、今日から商《あきな》いをするんだ。おめえに売らせようとおもって、いま唐茄子を仕入れておいたんだ」
「えっ、唐茄子を?」
「そうだ、あれを担いで売って歩くんだ」
「えっ、あの荷を担いで……おじさん、それはよしてください、勘弁してくださいよ。……どうせ売るんなら、もっと気のきいたものを売らしてくださいな。外聞が悪いじゃありませんか、いい若いものが……」
「じゃあ、いやだってえのかッ、いやならよせ。おれが頼んでやってもらうんじゃねえ、よせ、そのかわり、いま着たものを脱いで、もとの着物を着て、とっとと出ていけッ、吾妻橋からでもどっからでも飛びこんじまえッ」
「おじさん、やります、やりますから、勘弁してください」
「この野郎、まだ目がさめねえのか。唐茄子売るのは外聞が悪《わり》いたあ、なんてえことをぬかしゃがるんだ。肩へ天秤あてて、汗水たらして売り歩くのが、どこが外聞が悪《わり》いんだ。りっぱな商人《あきんど》じゃあねえか。ばかッ、貴様こそ、昨夜《ゆうべ》吾妻橋から身を投げようとしたんじゃあねえか。そのほうがよっぽど外聞が悪《わり》いや。てめえは死んだ気になって、なんでもすると言ったじゃあねえか。てめえに唐茄子売らして、なにもおれが、いくらもうけをしようとか、楽をしようてえんじゃねえや。おめえのために売らしてやるんだ、いいかい。おめえがその姿で、唐茄子を売って歩くてめえの姿が世間の人の目にとまって、どっかからか、きっとおめえの親父の耳に入る。そうすりゃあ、あ、徳も、そんな了見になったのかと、我《が》の折れたところを抱きこんで、詫びをいれてやろうてえもんだ。ひとの心も知りゃあがらねえで……なにも永代《えいたい》唐茄子屋をするんじゃあねえや。よしんばまた、するにしても、おらあ、おめえの親父みてえなわからねえこたあ言わねえ。遊ぶのもいい……てめえで稼いで、てめえで遣《つか》え。てめえのように、親の銭を盗み出して遣おうなんて、そんなしみったれた了見だから親父に文句言われるんだ。自分の腕からもみ出して、おじさん、今日はこれだけ稼ぎました、遊んでまいります、と言やぁ、りっぱに遊びに出してやる、どうもこれじゃあ金が足りませんから、おじさん、今日は足してくださいまし、いいとも。たまには、一人で遊びに行くのもさびしいから、おじさんつき合ってくれませんか、ううん、いいとも、ひと晩やふた晩なら、おれァまたつき合ってやる」
「おじさんはほんとうに苦労していらっしゃいますから、そういうわかったことを言ってくださいますから、ありがたいとおもうんですが、うちの親父は、ただ頑固一点ばりで、遊びだの、遣えということは、これっぽっちも言いません」
「あたりめえだよ、親が伜《せがれ》にそんなことを言うやつがあるか」
「いいえ、ほめるわけじゃありませんが、花魁《おいらん》がよく言うんです。『こんなに遊んで若旦那、お宅の首尾は悪くァないの』って言いますから、『また、しくじったら、本所の達磨《だるま》横町のおじさんに詫びをしてもらえばいい、おじさんは親戚じゅうで、若いうちにずいぶん道楽もした人だけあって、粋なおじさんだ』って、そう言いましたら、『そういう人にあたしいっぺん会いたいわ』と言うんですよ。『じゃあこんどいっしょにおじさんも連れてこよう』って、それっきりになっているんですが……今晩いっしょに行ってくれますか?」
「ばか野郎っ、てめえと今晩、女郎買いに行ってみろ、こんどはおれのほうが、うちの婆さんに追い出されちまわ。ひとが、ちょいと白い歯をみせりゃあ、すぐにそれだ。それは稼いだあとの話だよ」
「おやおや」
「なにがおやおやだ……唐茄子を売るんだ、唐茄子を……早く支度をしろ。いいか、担いでみろ、土間へ下りて。で、売るのは表通りはいけねえ、裏通りを売って歩くんだ。いくらでもいいからみんな売って来い、おめえだって商人《あきんど》の伜だ。元はわかってるだろう、いくらかでも上見て売れよ。いくらか残ってもさ、元は上がったとおもったらタダでもいいから置いてこい。それから弁当は、茶店に入って食えば、いくらかでも茶代を置かなくちゃあならねえ。だからな、商いをした家の台所かなんかで、水でも湯でももらって、そこで使うんだぞ……さあ、肩を天秤にあてて、荷を担いでみな、荷を……」
「へえ……」
「へえじゃあねえ、担ぐんだよ」
「まだ、担いだことがございません」
「担いだことがねえったって、生きてるんじゃあねえか。意気地のねえやつだな……天秤は、肩で担ぐんじゃあねえ。腰で担ぐんだ。……あれっ、腰へ天秤をあててやがる。天秤を腰にあててどうなるものか。不器用な男だなあ。どきな、どきな、おれがやって見せてやる。こうやって天秤を肩に担いだら、こうやって腰を切るんだ。腰を切って、ううん……笑ってやがらあ、おれだって、年をとってらあ、そう短兵急に行くか、見な、じわりじわり上がるんだ。どうだ……うしろだけ上がったろう?」
「うしろは、おばさんが持ちあげてるんで……」
「ばばあ、余計なことをするな。うーん、よせ、しかたがねえ、二つ三つ下ろせ。ああ、年はとりたくねえな、二、三年前までは、こんなものはなんでもなかったが、どうもいけねえ。……うん、もうそのくらいでいいだろう。さ、担いでみろ。うめえ、うめえ。そうだ、そうだ。横っぷりをするとひと足も歩けないよ、天秤がしなうようにいったら、その調子で歩けるもんさ。そのまんま……すぐに、婆さん、手桶をどかしてやんな、どぶ板を踏むと向こうがぽォーんと上がるよ、よけて歩けよ。……あ、ちょっと、おかみさん、その張物板をこっちへどかしてやってくれ、ぶっ倒すといけねえから、おいおい、納豆屋さん、いま、入《へえ》ってきちゃいけねえ、いま、野郎が出ていくから。……大丈夫かい、怪我《けが》するなよ。ほらほら、もう少し右へ寄れ、右へ……あーあ、どうもあぶなっかしいなあ、しっかり売ってこいよ」
「へいっ」
若旦那、身から出た銹《さび》とはいえ、箸《はし》より重いものを持ったことのない人、重い荷を我慢して担ぎ出したが、路地の出口のところで看板に頭をぶっつけ、笠があみだ[#「あみだ」に傍点]になってしまったが、これを自分で直すこともできない。そのまんまの格好で、ひょろひょろひょろひょろ……本所の達磨横町を出て、吾妻橋を渡って、浅草の広小路へ来た時分には、もうま昼の、カンカン照り、汗はだらだら出る、肩は腫《は》れあがり、暑さは暑し、目はぐらぐらくらんでくる……そのうちにつるッと、足がすべった、腰が浮いてるから、とっとっとっとっ、のめってくる、往来へ唐茄子をほうり出して、どたりっと倒れこんだ。
「うー、痛てっ。……人殺しッ」
「おやっ、たいへんだ、人殺し?」
「へえ……」
「おっ、どうかしたのか、どうした?」
「人殺しッ……あれでございます」
「あれ? あれは唐茄子じゃあないか……ああ、荷をおっ放《ぽ》り出しちまったなあ。おめえ、新米だな。うーん、こりゃあ、おまえさんにゃあ、ちょいと無理だ。え? はじめてかい? そうだろうなあ。かわいそうに、いいところの息子だな……それにちげえねえ。道楽かなんかして、こらしめ[#「こらしめ」に傍点]のために、こんなものを売らされてるんだろう。しかたがねえ。若《わけ》えうちはありがちのことだ。あーあ、肩ァこんなに腫れあがっちゃって、よしよし、じゃあ、荷が軽くなるように、おれが買ってやる、いくらだい?」
「へえ、ありがとうございます。どうか、タダでよろしゅうございますから、みんな持ってってください」
「冗談言っちゃあいけねえ。タダってわけにはいかねえや。じゃあ、唐茄子の値段なんて、まあ、こんなもんだろう。これでいいかい、銭は? 遠慮せずにいいなよ。足りなきゃあ出すから……おあしはここへ置くよ。じゃ三つもらうよ」
「へえ、ありがとうございます」
「おれはこの町内で顔が広いんだ。いまね、ここへ知ってるやつが通ったら、売りつけてやるから、待ってろよ……おい、金ちゃん」
「なんだい?」
「ちょいと頼みてえことがあるんだ」
「なんだい、頼みてえなあ?」
「唐茄子買っとくれよ」
「おめえ、八百屋はじめたのか?」
「おれじゃねえんだよ、この若《わけ》えのがよ。はじめて唐茄子売るんだとよ。道楽のせいってやつさ。若え時分にゃあ、よくあるやつだ。お互いにばかをしたおぼえがあるじゃねえか。銭はいくらでもいいんだ。荷が軽くなるように。……そうか、二つ買ってくれる? そいつぁ、ありがてえ。じゃあ、銭をここへ置いてってくれ……お竹さん、唐茄子買っとくれよ、なに? きのう買ったっていいじゃないか。おめえんとこは子供が大勢いるんだ。唐茄子の安倍川にして食わしてやんな、子供がよろこぶからさ。いくらでもいいからどっさり持って行ってやっとくれよ。銭の足《た》らねえところはおれがあとで足してやるからさ。そうかい、五つも? ありがとうよ……すまねえ、すまねえ……おう、半ちゃん」
「おッ?」
「ちょっと、唐茄子一つ買ってやってくれ」
「おら、唐茄子|嫌《きれ》えだよ」
「おっそろしくはっきり断わりゃがったな、嫌えだろうけれども買ってってやってくんねえか、この若い人が気の毒なんだ」
「やだよ、ばかにするない。いい若《わけ》えもんが、日中《ひなか》、唐茄子なんぞ持って歩けやしねえや」
「そんなこと言わないで、せっかく頼んでいるんじゃあねえか、おれがよ。義理にでも一つぐれえ買っていけよ」
「おりゃ、唐茄子に義理なんぞねえや……おらあ、唐茄子|大嫌《でえきれ》えなんだから……」
「ふーん、嫌えか?」
「ああ、嫌えだ」
「この野郎、よくてめえ、そんなことが言えたもんだなあ、三年前、おれのところの二階に居候したことを忘れたか?」
「おいおい、なにも三年前のことを……」
「言ったっていいじゃあねえか……うちのかかあが唐茄子を煮たときに『半さん、どう? ご宗旨ちがいだけども、食べる?』って言ったら、てめえ、二階から駆け降りてきて、『うめえ、うめえッ』って、安倍川を三十八切れくらったろ、よだれたらして……」
「いいよ、わかった、わかった。買うよ、買うよ」
「こん畜生っ、とっとと買ってけッ」
「ふん、まぬけな唐茄子屋じゃあねえか。てめえが、こんなところにぶっ倒れているから、三年前の居候のときのことまで言われちまったじゃあねえか。ほらっ、銭はやるよ。唐茄子はいらねえや」
「おうおう、なんでえ。この人はな、銭がほしくってやってんじゃねえんだぞ。荷が軽くなるように、一つでも買ってやってくれってんだ。銭だけ置くやつがあるか。持ってけッ」
「持ってくよ、持ってきゃいいんだろう」
「あれっ、この野郎、いざ持ってくとなったら、大きいのを選《よ》ってやがらあ……おまけに三つも抱えやがって、この泥棒は……ざまあみやがれっ……さ、銭はこれだけ集まった。大丈夫かい? 財布に入れてな、盗られなさんなよ、いいかい、もう二つ残ってるが……」
「へえ、二つぐらい担げます」
「あたりまえだ。このくれえならもういいだろう。よくわけを話して、もう、家へ帰《けえ》んな」
「へ、ありがとうございます。おかげで助かりました。へえ、どちらのお方さまでございましょう、お名前をどうぞうかがいとうございます」
「冗談じゃあねえやな。唐茄子を買ったぐらいで、なにも名前を名乗るほどのこたあねえやな。おらあ、この町内のもんだ。こっちへ来たときにゃあ、また買ってやるからな」
「へえ、ありがとうございます。これをご縁に、あしたのいま時分も、ここに倒れてます」
「そう毎日倒れちゃあいけねえや……気をつけて行きなよ」
「へえ、ありがとうございます……ああ、渡る世間に鬼はないてえことをいうが、いい気っぷだなあ、あの人は……ほんとうの江戸っ子だあ、お友だちと喧嘩《けんか》してまで売ってくださった。ありがてえなあ。もう二っつしきゃあ残ってない。残して帰るより、二つくらい自分で売りたいな、みんな売って帰りゃあ、おじさんもよろこんでくれるだろう……でも、黙って歩いていたんじゃあ、売れやしねえや。なんとか言わなくっちゃあいけねえんだ……唐茄子……唐茄子……売り声てえものは、むずかしいな」
「(売り声)ところてんやァ……てんや……」
「うまいもんだ。『ところてんやァ、てんやァ』ってやがる。ああいう声を出さなきゃ売れねえんだな。慣れだねえ……唐茄……唐茄子や……あ、や[#「や」に傍点]をつけるといいんだなあ。唐茄子や唐茄子……唐茄子や唐茄子……うん、これならいいや……唐茄子や唐茄子……なんだい、子供が大勢ついてきやがった、なにがおもしろいんだい。見世物じゃあねえんだから、あっちへおいで。……唐茄子や唐茄子……唐茄子やッ」
「うわッ、びっくりした。おい、よせやい、いきなり大きな声出しゃあがって……」
「どうもすみません……すぐに人が来るなあ。どうも人がぎょろぎょろ見てしょうがないから、どこかあまり人の通らないところへ行って稽古しよう。……エエ、唐茄子や唐茄子……はあ、さびしいとおもったら田んぼへ出ちゃった、ここは吉原田んぼだ。は、はあ、向こうに見えるのは、吉原だなあ。『菜の花や、むこうに廓《ちよう》の屋根が見え』花魁《おいらん》はさぞ案じているだろうなあ。あれっきり行かねえんだから。ことしの正月まで、あの二階の部屋で、芸者、幇間に取り巻かれて、『あら、若旦那、よくってよ』なんか言われたのが、こんな身装《なり》をして唐茄子売りになっちゃった。『玉の輿《こし》、乗りそこのうてもくよくよするな、まさか味噌こしゃさげさせぬ』って都々逸を唄ったが……味噌こしじゃねえ、こんな大きな籠を担いじゃって……碁石の足袋を履いちゃって、情けねえ姿になっちゃったな。忘れもしない正月の、三日の日だったな、ちらちら粉雪が降り出した日だ。帰ろうとおもうと花魁が出てきて、『若旦那、七草まで流して行くと言ったじゃないの』『急に帰りたくなったから帰るんだよ』『お正月から縁起でもない、ふた言目には帰る、帰る、と言って、そんなにいやなら帰りゃがれ』『帰らなくってよ』ぷうい、と飛び出すと、隣の部屋の花山《かざん》という女だ、粋な女だった。年増《としま》だったけど『あら、若旦那、いいかげんにしておくれよ、また痴話喧嘩かい、隣には独りものがいるんだよ、あたしが仲人《ちゆうにん》になるから、仲直りをしとくれよ』『おめえが仲人になるんなら仲直りしようか』『じゃあ、うちへ来ておくんな』自分の部屋へ連れてきゃがって、『なにか取ろうじゃないか』『寄せ鍋?』『あら、寒いからうれしいわね』『若旦那、シラタキが舌の先で結べたわよ』チュウチュウチュウなんて、鼠《ねずみ》泣きをしやがった。『一杯、飲みなよ』あんまりお酒の飲めない女だったな、猪口《ちよこ》に二、三杯飲むと、真っ赤になって、『あら若旦那、あたし酔ったわ』『おれも酔ったよ、三味線持ってこいよ』『ああら、なにか聴かしてくれるの、うれしいわね、なにを聴かしてくれるの』『小簾《こす》の戸《と》を唄《や》ろうか』『あら上方唄、まあいいこと、ぜひ聴かしてくださいまし』三味線に合わせて※[#歌記号、unicode303d]浮草や……と唄い出して、※[#歌記号、unicode303d]癪《しやく》にうれしき男の力、じっと手に手を、なんにも言わず、二人して吊《つ》る蚊帳の紐《ひも》……までくると、花魁がおれの顔を、孔《あな》のあくほどじいッと見ていたが、くわえていた黒もじ[#「黒もじ」に傍点]をばりっと奥歯でかみつぶして『若旦那、ほんとうに粋ねえ、わちきは命も要《い》りませんわ』……えへっ、花魁がおれの頬っぺたに食いつきゃがった……えへん、エェー、唐茄子や唐茄子……」
それから誓願寺店《せいがんじだな》までくると、路地の奥から、身装《なり》は粗末だが、三十二、三の品のいいおかみさんが、子供をおぶって、一所懸命手まねきをしている。そのあとをついて、裏へ行くと、
「あのう、お唐茄子を一ついただきたいのですが……」
「もう二つしきゃあございませんで、どうぞこれも……」
「いいえ、お鳥目《ちようもく》(銭)が、これだけしかございませんので、一つでよろしゅうございます」
「いいえ、よろしゅうございます。一つはおまけしておきますから……」
「それでは、まことに恐れ入ります」
「いいえ、かまやあしません。そのかわり、すみませんが、弁当を食《つか》いたいのですが、ちょっと、お白湯《さゆ》でも結構ですから一杯いただきたいので……」
「はあ、なんにもございませんが、お茶もなまぬるいのですが、よろしかったら、じゃあこっちへ来て……」
「腰をかけさせていただきます」
「さあどうぞ。こちらへ……」
おかみさんは、奥から薬|土瓶《どびん》のようなものへお茶を入れて持ってきてくれた。
「へえ、ありがとう存じます」
弁当箱の蓋《ふた》をあけ、箸をとって食べようとすると、二枚折りの屏風の陰から、がさがさと這《は》い出してきた、年ごろは四、五歳の男の子が、若旦那の食べている弁当を指をくわえてじーっと見ている。
「これっ、なんです、そんなことをして……あっちへ行ってらっしゃい」
「おっかさん、おまんま、おまんま……」
「なんだね、この子は……いま、唐茄子を煮てあげますよ」
「唐茄子なんかいやだい、おまんまが食べたい」
「そんなことを言うもんじゃあありません……あのう、あなた、すみませんが、その土瓶を持って、お隣へ行って食《つか》ってくださいまし」
「ええ、ご新造さん、この坊やがおいた[#「おいた」に傍点]でもなすったんで、お仕置きなすってるんですか? いくらなんでも、おいたぐらいで、そんなことをなさらないで、食べるものだけは、おあげなすったほうがよろしいんじゃあございませんか?」
「いいえ、お恥ずかしい話でございますが、亭主《やど》が永《なが》の浪人で、暮らし向きに困りますので、ひと月ばかり前、知り合いへ金の工面に行くと、出てまいりましたが、それぎり帰りませんで、もう売るものも売りつくしてしまい、子供二人抱えて、すすぎ、洗濯をしておりましたが、体を悪くしまして、その内職もできませんので、お恥ずかしい話ですが、三日ばかりは、食事もろくにさしておりませんので、こんな意地のきたないことを申しまして……」
「へえーそりゃどうもお気の毒でございますな。お腹のへったのはつらいもので、わたしも腹がへって身を投げようと……いえ、なに……こんな弁当でよかったら、どうぞ坊やに差しあげますから、どうぞあげてくださいまし」
「それをいただいてはすみません」
「あたくしは、まだお腹もすきませんので、そんなことはかまいませんから、さあ、坊っちゃん、これをおあがんなさい」
弁当を出すと、子供は、もう夢中で、弁当にむしゃぶりつく……。
「これっ、行儀の悪い……まことに面目次第もございません」
「とんでもないことで……これは、唐茄子を売った、きょうの売り溜《だ》めでございますが、これだけしかありませんが、これでなにか坊っちゃんに買って差しあげて……あたしの心ばかりですから……」
「いえまあ、そんなものをいただきましては……これは、お返し申します」
「いいえ、どうぞ取っておいてください……へえ、ごめんください」
辞退するのを、無理に押しつけると、若旦那は空《から》っ籠《かご》を担いで、路地から飛び出して行く……。
「もし、八百屋さーん」
後からおかみさんが、前掛けに財布を包んで追っかけて、路地から出ようとすると、出会い頭に、この長屋の家主が、
「どうしたってんだよ、やあ、おかみさん、どこへ行くんだ?」
「あの、ただいま、ちょっと……」
「なんだい。どこへ行くんだか知らねえが、きのうも言ったとおりね、家賃をこう溜《た》められちゃあ、置いとくわけにいかねえから、きょう限り、家を空けてくれなくちゃあ困るよ。それとも家賃をおさめるか?……あっ、なんだい、そりゃあ、おまえ、その前掛けに包んだものは? 財布じゃあないか……」
「いいえ、これはいま八百屋さんが置いていきましたもので、これから返しに……」
「ばかなこと言いなさんな、いいじゃあねえか、なにも置いていったものなら、もらっておくがいい。そんな了見だから貧乏すんだ。まあ、とにかく店賃の内金に、その財布をこっちへよこしな」
「あれっ、これはお返しするもので、これだけは……」
「返《けえ》すぐれえなら、あたしがもらっておく、こっちへ出せ」
手をかけて無理やり、前掛けごとびりびりッと破いて持って行ってしまった。おぶっている背中の子供が、火のつくように、ぎゃっと泣き出し、おかみさんは、ただもう、うろうろするばかり、どうすることもできない。
「あのう、お唐茄子を一ついただきたいのですが……」
「もう二つしきゃあございませんで、どうぞこれも……」
「いいえ、お鳥目《ちようもく》(銭)が、これだけしかございませんので、一つでよろしゅうございます」
「いいえ、よろしゅうございます。一つはおまけしておきますから……」
「それでは、まことに恐れ入ります」
「いいえ、かまやあしません。そのかわり、すみませんが、弁当を食《つか》いたいのですが、ちょっと、お白湯《さゆ》でも結構ですから一杯いただきたいので……」
「はあ、なんにもございませんが、お茶もなまぬるいのですが、よろしかったら、じゃあこっちへ来て……」
「腰をかけさせていただきます」
「さあどうぞ。こちらへ……」
おかみさんは、奥から薬|土瓶《どびん》のようなものへお茶を入れて持ってきてくれた。
「へえ、ありがとう存じます」
弁当箱の蓋《ふた》をあけ、箸をとって食べようとすると、二枚折りの屏風の陰から、がさがさと這《は》い出してきた、年ごろは四、五歳の男の子が、若旦那の食べている弁当を指をくわえてじーっと見ている。
「これっ、なんです、そんなことをして……あっちへ行ってらっしゃい」
「おっかさん、おまんま、おまんま……」
「なんだね、この子は……いま、唐茄子を煮てあげますよ」
「唐茄子なんかいやだい、おまんまが食べたい」
「そんなことを言うもんじゃあありません……あのう、あなた、すみませんが、その土瓶を持って、お隣へ行って食《つか》ってくださいまし」
「ええ、ご新造さん、この坊やがおいた[#「おいた」に傍点]でもなすったんで、お仕置きなすってるんですか? いくらなんでも、おいたぐらいで、そんなことをなさらないで、食べるものだけは、おあげなすったほうがよろしいんじゃあございませんか?」
「いいえ、お恥ずかしい話でございますが、亭主《やど》が永《なが》の浪人で、暮らし向きに困りますので、ひと月ばかり前、知り合いへ金の工面に行くと、出てまいりましたが、それぎり帰りませんで、もう売るものも売りつくしてしまい、子供二人抱えて、すすぎ、洗濯をしておりましたが、体を悪くしまして、その内職もできませんので、お恥ずかしい話ですが、三日ばかりは、食事もろくにさしておりませんので、こんな意地のきたないことを申しまして……」
「へえーそりゃどうもお気の毒でございますな。お腹のへったのはつらいもので、わたしも腹がへって身を投げようと……いえ、なに……こんな弁当でよかったら、どうぞ坊やに差しあげますから、どうぞあげてくださいまし」
「それをいただいてはすみません」
「あたくしは、まだお腹もすきませんので、そんなことはかまいませんから、さあ、坊っちゃん、これをおあがんなさい」
弁当を出すと、子供は、もう夢中で、弁当にむしゃぶりつく……。
「これっ、行儀の悪い……まことに面目次第もございません」
「とんでもないことで……これは、唐茄子を売った、きょうの売り溜《だ》めでございますが、これだけしかありませんが、これでなにか坊っちゃんに買って差しあげて……あたしの心ばかりですから……」
「いえまあ、そんなものをいただきましては……これは、お返し申します」
「いいえ、どうぞ取っておいてください……へえ、ごめんください」
辞退するのを、無理に押しつけると、若旦那は空《から》っ籠《かご》を担いで、路地から飛び出して行く……。
「もし、八百屋さーん」
後からおかみさんが、前掛けに財布を包んで追っかけて、路地から出ようとすると、出会い頭に、この長屋の家主が、
「どうしたってんだよ、やあ、おかみさん、どこへ行くんだ?」
「あの、ただいま、ちょっと……」
「なんだい。どこへ行くんだか知らねえが、きのうも言ったとおりね、家賃をこう溜《た》められちゃあ、置いとくわけにいかねえから、きょう限り、家を空けてくれなくちゃあ困るよ。それとも家賃をおさめるか?……あっ、なんだい、そりゃあ、おまえ、その前掛けに包んだものは? 財布じゃあないか……」
「いいえ、これはいま八百屋さんが置いていきましたもので、これから返しに……」
「ばかなこと言いなさんな、いいじゃあねえか、なにも置いていったものなら、もらっておくがいい。そんな了見だから貧乏すんだ。まあ、とにかく店賃の内金に、その財布をこっちへよこしな」
「あれっ、これはお返しするもので、これだけは……」
「返《けえ》すぐれえなら、あたしがもらっておく、こっちへ出せ」
手をかけて無理やり、前掛けごとびりびりッと破いて持って行ってしまった。おぶっている背中の子供が、火のつくように、ぎゃっと泣き出し、おかみさんは、ただもう、うろうろするばかり、どうすることもできない。
「おじさん、ただいま」
「おお帰ってきたか、ごくろう、ごくろう。お婆さん、徳が帰ってきたよ。見なよ、あれでも感心なものだ。はじめて天秤を肩にあてるのだから、三、四町も行ったら、担げねえといって帰ってくるだろうとおもったら、それでも、一所懸命というものはおそろしいものだ。みんな売ったとみえて、空籠《からかご》を担いで帰ってきた。あはははは、よくやった、よくやった。暑かったろう? うん、広小路のところで倒れちまったら……うん、そうか、まあまあ、よしよし……うん、渡る世間に鬼はねえとはよく言ったもんだ。どうだ、風呂へ行くか? なに? 腹がへった? そうか、婆さんや、腹がへったというから、鰺《あじ》があったろう? 二匹ある? 大きいほうを焼いてやれ、小《ちい》せえほうは、おれが食うから……じゃあ、おまんま食いな。とにかく、先へ売り溜めを見せな、もうかるもうからねえはどうでもいい、売ればいいんだ、いくら……出しな、なにをしてんだ」
「は、売り溜めは……ないんです」
「なにっ?」
「まるっきりないんです」
「なんだい、まるっきりねえ?……婆さん、鰺は焼かなくてもいい、おろしな、おろしな。なに? 片っ側《かわ》焼いた? 片っ側《かわ》焼いたら、焼いちまいなよ……どうしたんだ、おれはなあ、てめえの親父たァわけがちがう、ごまかそうたってごまかされやしねえ。商いをして銭がねえてえわけはねえ、どうしたんだ?」
「誓願寺店で、弁当を食《つか》おうとしますと、四つ五つの男の子が、三日前からおまんまを食べていないというので、あまりかわいそうなので、弁当を食わしてやり、家が困っているらしいので、売り溜めも、みんなあげてしまいました」
「徳、そりゃあほんとうだろうな?」
「嘘じゃあありません」
「そうか……じゃあ、おれといっしょに行け、これから、そこへ行ってたしかめるから……」
「腹がへって……ちょっとご飯を……」
「なに、めしなんどあとでいいんだ。腹がへったもなにもねえ。さあ、早く、来いっ」
言いだしたらきかないおじさんで、これから、提灯《ちようちん》をつけてやってくる。
「どこだ?」
「へえ、たしかにこの裏なんですけど、灯《あか》りが消えているので、隣で聞いてみますから……あの、こんばんは」
「はい……」
「お隣は戸がしまってるようですが、どちらかへお出かけでございますか」
「はい、どなた?」
「へえ、あたしは、昼間来た八百屋なんですが」
「そりゃあいいところへ来てくれた。おまえさんのために、この長屋はひっくり返るような騒ぎなんだよ」
「それはまた、どういうことで……」
「ああ、吉兵衛さん、吉兵衛さん、ちょいと来ておくれ、いいあんばいに昼間の八百屋さんが来たから、おまえさん話しておくれ」
「え、おまえさんかい、そうかい、じつはいいことをしてくれたけれどもね、おめえさんの財布を、おかみさんが返そうというので路地口まで出るってえと、因業《いんごう》家主が現われやがって、溜まった店賃の代わりとその財布をふんだくられてしまってね。面目ねえというので、おまえさん、赤ん坊をおぶったまま、おかみさんが梁《はり》へ首をくくって死のうとしたんだ。そのまあ首をくくった下で、男の子がおまんまを欲しいから、おっかさんそこからおりてくれと泣いてるんだよ、びっくりして長屋の者が飛びこんで縄を切って、すぐ医者へ子供二人を連れて運びこんだところだ。おまえさんがどこの人だかわからねえので、いま捜そうと相談していたんだ。よく来てくれたよ」
「はい、こんばんは、ええ、わたしは、この男のおじでございまして……いえ、なにもこれに唐茄子なんぞ売らせなくてもいいんですが、道楽がすぎたもんですから、こらしめ[#「こらしめ」に傍点]のためにな……しかし、なあ、その家主さんもあまりひどい……家主の家はどこですか?」
「表へ出ると三軒目で荒格子のはまった家だから……」
話を半分聞くと若旦那、若いだけにカッとして、顔色を変えて駆け出していく。家主はいま、お膳を出して、沢庵にお茶漬で夕飯を食おうとして、やかんの湯をついで、箸と茶碗を持ったところ……いきなり格子がガラッと開《あ》くと、若旦那が草鞋《わらじ》のまんまで上がってきた。
「なんだ、なんだ? てめえは……ひとの家へ土足のままでずかずか上がってきやあがって……」
「かまうもんか」
「なんだとッ、やいっ、いったい、てめえはなにものだ?」
「や、や、八百屋だっ」
「八百屋がどうした?」
「こん畜生めっ、落ち着いてやがる……やいっ、太《ふて》え家主だ。おれがあのおかみさんにやった売り溜めを、てめえが取りあげてしまったじゃねえか。そのためにな、おかみさんは、面目ねえってんで……首を、首をく……」
そばにあるやかんを取って、家主の頭めがけてたたきつけた。やかんとやかんと鉢合わせしたから大変で……。
「この野郎っ……」
長屋じゅうのものがこれを見ていて、
「おいおい、見たかい、見たか?」
「ああー、いい心持ちだなあ。ふだんからあの家主はしゃくにさわってたんだ。相手が家主だからしょうがねえから我慢していたんだが、若いだけにどうも、威勢がいいや。やかんでもって、やかんをぽかッときたんで、えへッ、おりゃ、溜飲がさがったぜ」
「さあ、こういうときだ、だれか家主の頭をなぐってやれ」
「うん、おれも三つ四つぽかぽかとなぐってやりてえが、店賃が五つ溜まってるから……」
「よせやい……おうおう、ちょいと見ろよ。裏口から源六のやつが入《へえ》ってきて、家主の頭のこぶに薬かなんかぬってやがる。いやな野郎だね、あんな畜生っ、おべっか[#「おべっか」に傍点]野郎め、店賃の借りをふみ倒すつもりだな、ああいうやつたあ、生涯《しようげえ》つきあわねえや」
「へへ、どうも、みなさん……」
「なに言ってやんでえ。てめえ、いやにおべっか[#「おべっか」に傍点]しやがって、家主の頭へ薬なんぞぬってやるんだ」
「ふふふ、ありゃあ薬じゃあないよ。いまいましい家主だから、傷口へ七色唐辛子をぶっかけてやったんだ」
「そりゃあ、いいことをした」
そのうちに、役人が来て取り調べ、家主は不届きというのでお叱りをうけ、若旦那は、人を助けたというので、ときの奉行からごほうびをいただき、めでたく勘当が許された……。
「おお帰ってきたか、ごくろう、ごくろう。お婆さん、徳が帰ってきたよ。見なよ、あれでも感心なものだ。はじめて天秤を肩にあてるのだから、三、四町も行ったら、担げねえといって帰ってくるだろうとおもったら、それでも、一所懸命というものはおそろしいものだ。みんな売ったとみえて、空籠《からかご》を担いで帰ってきた。あはははは、よくやった、よくやった。暑かったろう? うん、広小路のところで倒れちまったら……うん、そうか、まあまあ、よしよし……うん、渡る世間に鬼はねえとはよく言ったもんだ。どうだ、風呂へ行くか? なに? 腹がへった? そうか、婆さんや、腹がへったというから、鰺《あじ》があったろう? 二匹ある? 大きいほうを焼いてやれ、小《ちい》せえほうは、おれが食うから……じゃあ、おまんま食いな。とにかく、先へ売り溜めを見せな、もうかるもうからねえはどうでもいい、売ればいいんだ、いくら……出しな、なにをしてんだ」
「は、売り溜めは……ないんです」
「なにっ?」
「まるっきりないんです」
「なんだい、まるっきりねえ?……婆さん、鰺は焼かなくてもいい、おろしな、おろしな。なに? 片っ側《かわ》焼いた? 片っ側《かわ》焼いたら、焼いちまいなよ……どうしたんだ、おれはなあ、てめえの親父たァわけがちがう、ごまかそうたってごまかされやしねえ。商いをして銭がねえてえわけはねえ、どうしたんだ?」
「誓願寺店で、弁当を食《つか》おうとしますと、四つ五つの男の子が、三日前からおまんまを食べていないというので、あまりかわいそうなので、弁当を食わしてやり、家が困っているらしいので、売り溜めも、みんなあげてしまいました」
「徳、そりゃあほんとうだろうな?」
「嘘じゃあありません」
「そうか……じゃあ、おれといっしょに行け、これから、そこへ行ってたしかめるから……」
「腹がへって……ちょっとご飯を……」
「なに、めしなんどあとでいいんだ。腹がへったもなにもねえ。さあ、早く、来いっ」
言いだしたらきかないおじさんで、これから、提灯《ちようちん》をつけてやってくる。
「どこだ?」
「へえ、たしかにこの裏なんですけど、灯《あか》りが消えているので、隣で聞いてみますから……あの、こんばんは」
「はい……」
「お隣は戸がしまってるようですが、どちらかへお出かけでございますか」
「はい、どなた?」
「へえ、あたしは、昼間来た八百屋なんですが」
「そりゃあいいところへ来てくれた。おまえさんのために、この長屋はひっくり返るような騒ぎなんだよ」
「それはまた、どういうことで……」
「ああ、吉兵衛さん、吉兵衛さん、ちょいと来ておくれ、いいあんばいに昼間の八百屋さんが来たから、おまえさん話しておくれ」
「え、おまえさんかい、そうかい、じつはいいことをしてくれたけれどもね、おめえさんの財布を、おかみさんが返そうというので路地口まで出るってえと、因業《いんごう》家主が現われやがって、溜まった店賃の代わりとその財布をふんだくられてしまってね。面目ねえというので、おまえさん、赤ん坊をおぶったまま、おかみさんが梁《はり》へ首をくくって死のうとしたんだ。そのまあ首をくくった下で、男の子がおまんまを欲しいから、おっかさんそこからおりてくれと泣いてるんだよ、びっくりして長屋の者が飛びこんで縄を切って、すぐ医者へ子供二人を連れて運びこんだところだ。おまえさんがどこの人だかわからねえので、いま捜そうと相談していたんだ。よく来てくれたよ」
「はい、こんばんは、ええ、わたしは、この男のおじでございまして……いえ、なにもこれに唐茄子なんぞ売らせなくてもいいんですが、道楽がすぎたもんですから、こらしめ[#「こらしめ」に傍点]のためにな……しかし、なあ、その家主さんもあまりひどい……家主の家はどこですか?」
「表へ出ると三軒目で荒格子のはまった家だから……」
話を半分聞くと若旦那、若いだけにカッとして、顔色を変えて駆け出していく。家主はいま、お膳を出して、沢庵にお茶漬で夕飯を食おうとして、やかんの湯をついで、箸と茶碗を持ったところ……いきなり格子がガラッと開《あ》くと、若旦那が草鞋《わらじ》のまんまで上がってきた。
「なんだ、なんだ? てめえは……ひとの家へ土足のままでずかずか上がってきやあがって……」
「かまうもんか」
「なんだとッ、やいっ、いったい、てめえはなにものだ?」
「や、や、八百屋だっ」
「八百屋がどうした?」
「こん畜生めっ、落ち着いてやがる……やいっ、太《ふて》え家主だ。おれがあのおかみさんにやった売り溜めを、てめえが取りあげてしまったじゃねえか。そのためにな、おかみさんは、面目ねえってんで……首を、首をく……」
そばにあるやかんを取って、家主の頭めがけてたたきつけた。やかんとやかんと鉢合わせしたから大変で……。
「この野郎っ……」
長屋じゅうのものがこれを見ていて、
「おいおい、見たかい、見たか?」
「ああー、いい心持ちだなあ。ふだんからあの家主はしゃくにさわってたんだ。相手が家主だからしょうがねえから我慢していたんだが、若いだけにどうも、威勢がいいや。やかんでもって、やかんをぽかッときたんで、えへッ、おりゃ、溜飲がさがったぜ」
「さあ、こういうときだ、だれか家主の頭をなぐってやれ」
「うん、おれも三つ四つぽかぽかとなぐってやりてえが、店賃が五つ溜まってるから……」
「よせやい……おうおう、ちょいと見ろよ。裏口から源六のやつが入《へえ》ってきて、家主の頭のこぶに薬かなんかぬってやがる。いやな野郎だね、あんな畜生っ、おべっか[#「おべっか」に傍点]野郎め、店賃の借りをふみ倒すつもりだな、ああいうやつたあ、生涯《しようげえ》つきあわねえや」
「へへ、どうも、みなさん……」
「なに言ってやんでえ。てめえ、いやにおべっか[#「おべっか」に傍点]しやがって、家主の頭へ薬なんぞぬってやるんだ」
「ふふふ、ありゃあ薬じゃあないよ。いまいましい家主だから、傷口へ七色唐辛子をぶっかけてやったんだ」
「そりゃあ、いいことをした」
そのうちに、役人が来て取り調べ、家主は不届きというのでお叱りをうけ、若旦那は、人を助けたというので、ときの奉行からごほうびをいただき、めでたく勘当が許された……。